
(今回散策した地元コースと同じマップをネットで見つけたので借用)
そんな中、最近比較的家の近所(車で10分くらい)の早野(川崎市麻生区)というエリアを散策しているのだが、ここはきなこの散歩にはちょうと良い場所だ。横浜市鉄町(くろがねちょう)という、実家にも近く、広大な敷地の桐蔭学園のすぐ隣にある小さなローカルタウンなのだが、ちょうど横浜市と川崎市の境目にあるこのエリアは、まだ手付かずの自然がかなり残っている貴重なエリアでもある。

ここに早野聖地公園という大きな墓地があるのだが、墓地と言っても公園のように整備されており、一般の人も自由に公園として利用することが可能。木々も多く自然環境が豊かであり、入り口には大きな池などの水辺もあるのが良い。またトイレや休憩所、ベンチなども完備されていて、犬の散歩にもってこいの場所なのだ。ワンちゃんを散歩させている人も結構見かけるが、そんなに混雑するような場所では無いので、最近のお気に入り散歩エリアとなっている。

そしてこの早野聖地公園のすぐそばには、2つの古いお寺がある。僕は大の城好きだが、特に仏閣マニアというわけでは無い。しかし、お城とお寺はその歴史的な価値という意味で共通している魅力もあり、また全国各地、お城、城下町のあるところには必ず要となる重要なお寺や神社が付きもので、人々の暮らしに密接な関係があるのだ。近所の城跡も大体主要なところは周ってしまったこともあり、最近はついに近所のお寺にも興味を持つまでになってしまった(笑)。そういう目で探すと、家の近所にも結構大小様々なお寺や神社が存在するものだ。もちろん、奈良、京都、鎌倉のような観光スャbトとしての華々しい仏閣が近所にあるわけでは無いのだが、どんな地味な仏閣でも、今も残って整備されているものにはそれなりの歴史が刻まれており、少しその歴史に着目してみるのも意外に面白いものだ。
前置きがかなり長くなったが、早野にある2つのお寺とは、戒翁寺 (かいおうじ)と宋英寺(そうえいじ)。戒翁寺から宋英寺に抜ける散歩コースの間で見つけた、幾つかの注目スャbトを今回御紹介したい。

1) 戒翁寺と殿様の墓
戒翁寺は、早野聖地公園から徒歩10分ほどの立地。曹洞宗のお寺で、当地の地頭であった富永主膳正源光吉という者が1647年に建立した歴史のあるお寺らしい。入り口には六地蔵さま馬頭観音が祀られており、小さいながらとても雰囲気のある良いお寺だ。



そしてこのお寺の魅力の一つに、“殿様の墓”という地元民には有名らしい観光スャbトがすぐ近くにあるというので行ってみた。ここは戒翁寺から1-2分離れた場所で、貞Mの中に少しこんもりとしたい丘の上に、石造五輪塔が4基建っている。どうやらこのお墓は、戦国時代に北条氏に仕えた富永重吉とその一族の墓らしく、地元の“殿様”のお墓として祀られている。まさに戒翁寺建立の富永一族のことであろう。




戒翁寺の裏手には、広大な広場が突然出没する。この手つかずの原っぱは一瞬まるでどこかの草原に来たかのようで、草むらから小さな草食恐竜でも出てきそうな雰囲気だ。ここから奥には“尊氏道・鎌倉古道”と呼ばれる古い古道があり、今でも自然の状態で残されているのが凄い。


2) 秋田犬ャ`の墓
戒翁寺を後にして、細いあぜ道を南に進んで宋英寺方面に向かう。途中、戒翁寺の裏手に“秋田犬ャ`の墓”という立派なお墓が道端に建っていた。このャ`の墓は昭和31年4月14日建立と書かれていたが、なんとこの墓を訪れたのがちょうど4月14日!この偶然は何か不思議なご縁を感じてしまった。

ネットで調べていると、やはりこのャ`の墓を紹介しているものが幾つかあり、そして秋田犬にまつわる悲しいエピソードが書かれていた。秋田犬の寿命は10-15年くらいが平均的らしいが、このお墓が建てられた1952年にャ`が亡くなったのだとすると、まさに1940年代第二次世界大戦の真っただ中に産まれ育った秋田犬ということになる。しかし、秋田犬をウィキペディアで調べると、戦中は受難の時代だったようだ。食糧不足の当時、大型犬を飼って餌を与えるだけで国賊呼ばわりされてしまう時代。犬を手放し、野良犬となって死んでいった大型犬が多かったようだ。また生き延びたとしても子供が産まれず、栄養失調で上手く育たず、育ってもジステンバーなどの病気にかかって死んで行き、血統の正しい秋田犬は絶滅寸前まで行っていたのだ。


そんな過酷な時代に生き抜いたャ`は、当時数少ない秋田犬の一頭であった可能性は高い。そして、こんな立派なお墓まで建てて貰ったャ`は、飼い主にとても愛されていたに違いないのだ。富永一族がもしかしたら飼っていたのかもしれないが、詳細は不明である。そんなエピソードに思いを馳せながら、この墓が建てられた命日とも呼べる4月4日にたまたまお墓を訪れたことが更に特別なことのように思えてしまい、きなこと二人でャ`にお参りして、平和の祈りをあげた。

3) 鉄火松の石碑
梨園などの横をすり抜けながら更に進んで行くと、宋英寺の裏手に出る。


そしてこの途中に、なんとも地味にひっそりと建っていたのが、“鉄火松伝説の石碑”。これは昔、地元早野村と鉄村が土地争いでもめて、決着を付ける為お役人の前で真っ赤に熱した鉄棒を長い間握れる方が勝ちとすることになり、結果、早野の村民が長く握り勝利したというのだ。境界線の目印に当時植えられていた大きな松が、いつの頃からか“鉄火松”と呼ばれるようになったらしいのだが、昭和22年にこの松が枯れてしまい、言い伝えを残す為に、この場所に石碑が建てられたとのこと。梨園の外側ににひっそり建つその石碑は、見逃してしまうほど地味なのだが、ここにも地元の歴史がしっかり刻まれていると思うと、なんとも感慨深い。

4) 宋英寺と萬助力石
そしてついに宋英寺へ。このお寺の正式名称は一抽山宋英寺で、戒翁寺と同じく曹洞宗のお寺で、当時地頭であった加藤権右衛門景正が1617年に建立したお寺のようだ。早野にある戒翁寺と、鉄町にある宋英寺は距離がとても近いが、ちょうど両寺院の間にあった先程の鉄火松のエピソードによると、この2つのお寺も対立していた時代があったのかもしれず、また、今ではお互いに横浜と川崎という形で市が別れている境目となっているのも、歴史的な観点で興味深い。
宋英寺にも戒翁寺と同じように入り口に六地蔵とくろがね地蔵尊があった。境内の一角には石造庚申憧(せきぞうこうしんどう)という有形文化財もあり、また庭には十六羅漢さまの石像なども飾られていたが、境内全体がとても美しく整備されていた。





宋英寺には少し離れた別棟として鎮守堂があり、その前に“萬助力石”という大きな石が祀られている。昔、地元に力持ちで力萬助と称された村谷萬助なる人物がおり、江戸往還の途に、多摩川河畔から五里の道中を一人肩にこの大きな石を背負って鎮守堂に奉納したらしく、これを称え、萬助の祖先が建てた碑であることが書かれていた。実に興味深いエピソードである。



最後に宋英寺から歩くこと10分、旧道に出たところにいつもきなこと立ち寄るプロローグプレジールというパン屋さんがある。自宅のたまプラーザに本店のある有名なパン屋さんの姉妹店なのだが、こちらのお店の方が店内にカフェスペースもあり、外のデッキテラスも広く、きなことゆっくり寛ぐには最適なのだ。散策のシメは、このプロローグのテラスできなことまったりティータイムを楽しむのが最高に幸せなひと時なのである。

地元の歴史散策に付き合ってくれる(ある意味強制的だが(笑))、きなこという最高の相棒がいて、僕は本当に幸せである。