
以前ご紹介したものとしては、僕がきなこの散歩で頻繁に訪れる生田緑地にあった枡形山城址、港北にある小机城址、茅ヶ崎城址、恩田川沿いの成瀬城址、つい先日紹介した荏田城址、そして王禅寺エリアにあった亀井城。これらの城は全て自宅から10-20分圏内にある城跡ばかりである。つまり、ひと駅毎に城があったのではないかという距離感に城が多く存在していたということである。この武蔵の国の城は、天守閣が残っているものは無く、神奈川全体まで広げてみても、立派な天守が残る、又は再建されているものは小田原城くらいのものだ。その意味では、立派な城跡が多く残る関西に比べると、武蔵の国の城跡は遺構が僅かに確認出来る程度の城も多く、かなり地味である。しかし、城好きも僕のレベルに来ると、むしろこう言った地味な城跡を散策する方がむしろ楽しめるような気がしてきたから、既に病気の域に入ってきた(笑)。

前置きが長くなってしまったが、今回紹介したいのは『沢山城』、叉の名を三輪城。この城跡も、自宅から車で10分程度で、田園都市線青葉台駅と小田急線柿生駅の間にある、三輪町にあったお城だ。沢山城と書いて“さわやまじょう”かと思えば、これは“たくさんじょう“と読むらしいから面白い。


沢山城の詳細は謎が多いが、北条氏からの朱印状に記載があったようなので、小田原城の支城としての役割を担っていたものと思われる。
沢山城は、現在の緑山近くにある、沢谷戸自然公園という公園の裏の小高い丘に存在した城。このエリアはちょうど鶴見川が流れており、支流との合流するャCントでもある。戦国時代には、恐らく鶴見川も今よりは幅の広い川だったような気もするので、大きな川の近くに城を建てるのは王道のやり方である。防御という観点と生活用水を確保するという意味でも川のそばに城を構えるのは理に叶っているのだ。

鶴見川を挟んで北側に位置するのが、亀井城跡。柿生から市ヶ尾を抜ける横浜上麻生道路の亀井橋前という交差点にもその名を残しているが、亀井城は以前ブログでも取り上げたように、こちらも多くは無いものの、一部土塁や堀切などの遺構を残す城跡だ。戦国当時はちょうとお互いに向かい合うように城を構えていたのではないかと思われる。


沢山城は現在私有地となっており、この土地の地主さんである荻原さんの所有となっているが、ご厚意により、一部沢山城の遺構を観賞することが出来る。




沢谷戸自然公園の西側入り口の左脇にある狭い階段を上がっていき、公園の北側を進んで行くと、土塁や堀切と思われる遺構を見ることが出来る。そしてこの公園裏のエリアは七面山と言われているが、小高い丘の上に七面神社が建っている。沢山城の頃は、ここに櫓か小天守が建っていたのではないかと妄想する。






沢山城には少し開けたエリアもあり、今は畑になったりしているが、ここも戦国時代当時は二の丸、三の丸的な居住スペースだったものと想像される。




沢山城の北側には、横穴式古墳などを見ることが出来る。

また北側には高蔵寺というお寺がある。

また西側には熊野神社がある。

やはり城のそばにお寺はつきものである。どのお寺も大きくは無いが、それぞれに味があってよい。熊野神社には巨大な切り株が祀られていた。

そして沢山城の南側には、廣慶寺(こうけいじ)というお寺もあって、ここには干支にまつわる碑がたくさん飾られたちょっとした参道があって、なかなかユニークで面白い。




社の飾り彫は結構古そうで味わい深い。また、境内入り口には可愛い眠り猫が飾られていた。


そして廣慶寺の隣には、東京都指定史跡となっている“西谷戸横穴墓群”がある。

このように、このエリアは城跡あり、たくさんのお寺あり、横穴古墳ありと、地味ながら密かに歴史の息吹を感じることが出来るエリアで、深堀していくとかなり楽しい。今回はまず表面を舐める程度だったが、またこれから何度か足を運び、更に地元の歴史を勉強してみたい。