【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 10月25日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-25 05:32:23 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 明治神宮外苑に国立競技場が竣工(1924年)。この時、揉めに揉めて森林を大量に伐採し酷暑でも寒風でも吹き曝しという代物が計画建設中。 ☆ 和田アキ子が芸能界に実戦配備、「星空の孤独作戦」が開始される(1968年)。 ☆ 台湾に捨てられた中華人民共和国が世論の同情をかって国連に入れてもらえる(1971年)。尚、中華民国(台湾)は国連を脱退。新参の中国は常任理事国に・・・・・

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 17回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 »  1/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月8日 / (Web編集部)

 ロシアの文豪 / チベット仏教の最高指導者 / アメリカの地理の月刊誌。  一見すると「何つながり?」という感じですが、これが実はさほどおかしな組み合わせではありません。

まず、ダライ・ラマは『ナショナル ジオグラフィック』にたびたび登場しています。  新しいところでは2002年4月号の特集「チベット 新時代の息吹と仏教」 =古都ラサやチベット高原各地を訪れる6500キロの旅。1965年に中国の自治区となったチベットではいま、大きな変革が進んでいる。サングラスをかけ袈裟姿でオートバイに乗る若い仏教僧。伝統を守りつつ、人々は新たな時代の波に乗ろうとしている。文/ルイス・M・サイモンズ 写真/スティーブ・マッカリー=。

さらに2004年1月号の特集「チベット仏教の聖地、インド・ラダック地方」 =インド北部ラダック地方は中印国境紛争のせいで、外部の人間の立ち入りは認められていない。写真家マティアス・クルムは、この地方の中心地レーから四輪駆動車で12時間かかってハンレという集落にたどり着いた。17世紀に建造されたハンレのゴンパ(寺院)を訪れたが、あれこれ許可を得るのに2年もかかったのだ。/ナショナル ジオグラフィック誌の写真家がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの協力を得て、外部の人間の立ち入りが厳しく制限されているインド・ラダック地方のハンレ・バレーの寺院を訪れる。=

では、中国との国境紛争のもとになりかねないため、現地の人間以外の立ち入りをインド政府が厳しく制限していた「ハンレ」という谷に取材陣が入る許可をとりつけてくれました。この地方にジャーナリストが入ったのは世界ではじめてのことでした。

 また、例の「アフガンの少女」を撮影した写真家のスティーブ・マッカリーがダライ・ラマの講演に行ったときのこと。マッカリーを見つけるとダライ・ラマは自ら近寄り、「もしかして、ナショナル ジオグラフィックの番組に出られていませんでしたか? アフガニスタンの難民の少女の写真を撮った方なのでは?」と聞きました。マッカリーが「そうです」と答えると、その場で俳優のリチャード・ギアを紹介してくれた、なんてエピソードもあったりします。

 それから、トルストイ。

 文豪として有名なレフ・トルストイですが、歳をとるにつれて次第に道徳的、宗教的な傾向が強まります。晩年はインドのマハトマ・ガンジーと手紙をやりとりしたこともあり、魯迅などの思想家にも影響を与えましたから、平和を重んじるダライ・ラマと通じるところはあるでしょう。

 ただし、ナショジオと関係があるのは文豪のトルストイではありません。孫のイリヤ・トルストイです。『父トルストイの思い出』を書いた三男をはじめ、ロシア革命や第一次世界大戦の時期に子孫の多くがアメリカに亡命していました。

「なんだ孫か!」  とか思いました?

 でも、トルストイの孫であることに意味はあった、と中の人は思います。  なぜなら、イリヤ・トルストイこそアメリカ人としてはじめてチベットに入ることを許され、ダライ・ラマに謁見できた人物だからです。

 当時、トルストイはアメリカ自然史博物館の大きな遠征にも参加したこともある軍人、つまり適任者でしたが、特使でもありましたから、ダライ・ラマのような平和を重んじる指導者にとって「トルストイ」という名前にも意味がないとは中の人には思えないのです。だから選ばれたともいいませんけどね。

 前置きが長くなりましたけれど、トルストイがダライ・ラマに会った紀行文「チベットを越えてインドから中国へ(Across Tibet from India to China)」が掲載されたのは1946年8月号でした。“トルストイの紀行文”と聞けば、ほら、孫でもちょっとはありがたみがあると思いませんか?(笑)

トルストイがチベットに行ったのは1942年から43年。まだ戦争中でした。

 目的は中国を支援する補給路の開拓です。1942年5月までに日本がビルマルートを制圧して中国への補給路が断たれ、アメリカは代わりのルートを探していました。そのひとつがチベット越えだったのです。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 後節 » “ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 10月24日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-24 05:10:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 神憑りにかかったチョンマゲつけたおっさんたちが熊本県で大暴れ(1876年=神風連の乱)、近代兵器に敵う訳もなく翌日には全滅。 ☆ 集団的な熱狂状態に陥ったウォール街が、突然の大暴落で一挙に現実に目覚めさせられる(1929年)。その後28日・29日と3連続のウルトラショックで一挙に世界大恐慌へ= 暗黒の木曜日=。 ☆ 日本国有鉄道が通勤ラッシュへの手っ取り早い対応策として、乗客を無理やり押し込む要員に学生アルバイト=押し屋=を投入(1955年)。

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1921-1956期 追考 « ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け »  2/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月1日 / (Web編集部)

  46年7月号にビキニ環礁で暮らしていた住民の引っ越しのレポートを掲載しています。 タイトルは「さよならビキニ(Farewell to Bikini)」。最初と最後の段落を引用してみましょう。 「1946年2月の中頃のこと。マーシャル諸島のラリック列島にあるビキニ環礁の住民が、突然、現代文明に襲撃された」

「『さよなら』という言葉が交わされた。『また明日来るからね』と以前のように言えたらどんなにいいだろう、と私は願っていた。私は『さよなら』を繰り返した。だって、私だけでなく、おそらく彼らにとっても、もう二度とここに戻ることはないだろうから。文明と原子力時代がビキニにやってきた。そして、彼らは邪魔だったのだ」

レポートが発表された46年7月は、核実験が行われたまさにその月でした。

 その後、ソ連に先を越されることを恐れた米国は1952年11月に初の水爆実験に成功。  さらに7カ月後の53年6月号には「原子力に耐え忍ぶことをネバダは学ぶ(Nevada Learns to Live with the Atom)」というショッキングな体験レポート(!)が掲載されます。

 この公開核実験では、核兵器の開発と同時に、爆心地の近くの人や民間の建物などがどの程度被害を受けるかも試されました。ナショジオが支援したスタッフによる有名な動画もあるので、マネキンが置かれた車や家が吹き飛ぶ資料映像を見たことがある人もいるのではないでしょうか。

 筆者はサミュエル・W・マシューズです。幸か不幸か、彼はマスコミを代表する20人に選ばれ、なんと爆心地から約3kmしか離れていない塹壕のなかに隠れます。ネバダで以前に行われた実験のときの半分ほどしか距離がなく(6kmでも全然近いですけど)、報道陣は「ふるえる20人」とか「壊滅部隊」と呼ばれました。

「『認めたくねえけどよ』隣の人影が言った。『俺は怖いんだ……』  真うしろでサイレンがうなった。頭を下にして埃のなかにひざまずき、体をこわばらせると、 『爆発20秒前!』  深呼吸する。カウントダウンが始まった。

『10……9……8……7……6……5……4……3……2……1――』

 夜のように暗かった塹壕は一瞬のうちに目もくらむ真っ白い光に包まれた。まばたきすらできない。砂が飛んでいって、光の中に消えてしまった。頭のうしろから巨大なサーチライトで照らされたようだった」

「『立ち上がって見てもよろしい』  その声は耳鳴りの向こうからかすかに聞えてきた。  茶色い埃が濃霧のように砂漠を覆っていた。巨大な原子の火の玉が空に上がり、オレンジ色と黒の球体となって、黒い煤のなかで炎の舌が渦巻いていた」

爆心地から1kmしか離れていなかった家はこっぱみじんに砕けて砂に埋まり、爆発に面した部分が黒焦げの残骸だけがかろうじて確認できました。ソ連がシベリアで水爆の実験に成功したのは、それから2カ月ほどあとのことでした。

 その一方で、ネバダの核実験のレポートから半年後の54年1月号には特集「人類の新たなるしもべ、原子力はみんなの友だち(Man’s New Servant, the Friendly Atom)」が掲載されます。サブタイトルは「“飼いならされた”原子力は病と闘い、工場と農場を助け、産業にとって重要な新エネルギー源となるかもしれない(”Tamed” Atomic Energy Fight Disease, Help Factories and Farmers, and May Become an Important New Source of Industrial Power)」

 これは原子力発電所や原子力潜水艦をはじめ、放射線治療、放射性同位体による年代測定、しまいにはペットの犬の病気を治す治癒力があるという写真も載せて、平和利用のみに的を絞り、原子力の明るい未来を紹介する楽天的な記事でした。

 恐ろしい核実験をレポートしたかと思えば、ペットの犬の病気を治す記事もある。戦後10年間に掲載された主な原子力の記事はオッペンハイマーの言葉を見事に象徴しているようです。去年の福島の事故を見ても、広島、長崎から60年以上たったいまだに原子力をめぐる混迷は解決していません。同じくオッペンハイマーがいうように「世界はもう二度と元には戻れない」のだとしたら、私たちが原子力を飼いならす日はいつのことになるのでしょう。

次回は “ « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 » “ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 10月23日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-23 05:10:10 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 年号を明治に改めることにすると共に、年号が天皇の私有物となることに(1868年=慶応から明治に)。 ☆ ドイツの総統がスペインの総統に第二次世界大戦への参戦をせっつくものの、昼寝時だったため実現せず(1940年=西仏国境アンダイで会談)。 ☆ 平成天皇に初孫が生まれる(1991年)が、惜しくも女の子だった。待望の男の子が生まれるには、更に15年の時を待たねばならなかった。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 16 回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け »  1/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月1日 / (Web編集部)

 長く激しかった戦争の終わりはそのまま新しい時代の到来を意味しました。国境や地名は大きく変わり、そのおかげでナショジオの地図製作部は大忙しでしたが、何も新しくなったのはそれだけではありません。

 飛行機やレーダーなど、皮肉にも戦争はテクノロジーを大きく発展させました。  なかでも人々の関心を集めたのが原子力でした。

 原子力の扉を開いたのはもちろん広島と長崎に投下された原子爆弾です。その威力を見れば、以前とは次元の異なるチカラを人類がもってしまったことは明らかです。また、ソ連をはじめ、いずれはほかの国も原爆を完成させるといわれていました。もしもたくさんの国が原爆をもって、核戦争にでもなったりしたら……という恐怖は当初からありました。

「大いなる災厄であると同時に、大いなる希望でもある」そして「世界はもう二度と元には戻れない」といったのは、原爆を完成させた物理学者ロバート・オッペンハイマーです。この恐るべきチカラをどう扱ったらいいのかという問題は、戦後、いや、原爆が投下された直後から米国の国民的関心事でした。

 1945年10月号の「あしたの新世界(Your New World of Tomorrow)」はそんな状況をよくあらわしています。

 第二次世界大戦が完全に終わったのは1945年9月でしたから、10月号は戦後最初の号です。その巻頭特集がこれ。新しいテクノロジーによって、これからどんなふうに暮らしが変わっていくかを予測する、まさに新時代の幕開けを告げる内容です。

「ラジオの驚異」「テレビの未来」「“電気の時代”が始まった」「明日の航空路線」、なかには「テレビコマーシャル」とか「冷凍食品」なんて項目もあったりして、見出しを眺めているだけでも楽しめます。

 その筆頭が「原子力の時代(The Age of Atomic Power)」でした。こんな書き出しです。 「それ(ロケット)以上にセンセーショナルなのは、原爆によって幕が開いた原子力の新時代だ。  原爆のすさまじいパワーは、想像も及ばない宇宙の営みの力、太陽をはじめとする恒星が膨大な熱を出しながら何百万年も輝き続ける力とほぼ同じである」

 簡単に原子力の原理を解説したあとで、こう続きます。 「新しい世界では、少なくともある程度は原子力が石炭、石油、水力と置き換わるだろう。

 巨大な産業プラントや光やシステム、あるいは戦艦や大型船舶などを動かすために、数トンのウラニウムが何千トンもの石炭や石油と同じだけの仕事をこなせるだろう。

『だが、まずは』と、ある科学者が私に言った。『我々は原子力をコントロールするすべを学ばなければならない。原爆ではこの力を解放する方法を学んだだけさ。それは樽のなかとエンジンのなかのガソリンのように違うんだ。樽のガソリンをマッチ1本で爆発させることなら誰にでもできる。でも、自動車のエンジンのなかでガソリンを自分たちの役に立つようにコントロールすることは、もっとずっと複雑だ』」

 平和利用の構想があったとはいえ、まだ原子力発電の実験すら始まっていませんでした。

 1946年には戦後はじめての核実験である「クロスロード作戦」がビキニ環礁で行われます。『ナショナル ジオグラフィック』はその状況を1947年の4月に写真とキャプションだけで伝えているのですが、その前の46年7月号にビキニ環礁で暮らしていた住民の引っ越しのレポートを掲載しています。

 タイトルは「さよならビキニ(Farewell to Bikini)」。最初と最後の段落を引用してみましょう。 「1946年2月の中頃のこと。マーシャル諸島のラリック列島にあるビキニ環礁の住民が、突然、現代文明に襲撃された」

「『さよなら』という言葉が交わされた。『また明日来るからね』と以前のように言えたらどんなにいいだろう、と私は願っていた。私は『さよなら』を繰り返した。だって、私だけでなく、おそらく彼らにとっても、もう二度とここに戻ることはないだろうから。文明と原子力時代がビキニにやってきた。そして、彼らは邪魔だったのだ」

 レポートが発表された46年7月は、核実験が行われたまさにその月でした。  その後、ソ連に先を越されることを恐れた米国は1952年11月に初の水爆実験に成功(。

さらに7カ月後の53年6月号には「原子力に耐え忍ぶことをネバダは学ぶ(Nevada Learns to Live with the Atom)」というショッキングな体験レポート(!)が掲載されます。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ «ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け» 2/2“ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 10月22日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-22 05:10:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ ピアノの魔術師とまで渾名された毒キノコ・リストが誕生(1811年)。未だに産地をめぐってドイツとオーストリアとハンガリーで言い争っている。 ☆ ソ連がキューバにミサイルを持ち込んでいたと知るや、アメリカが第三次世界大戦の準備に入る。これ以降13日間にわたってJ・F・ケネディとフルシチョフが、発射ボタンに手をかけて睨み合う(1962年=キューバ危機)。 ☆ 野球の神様・イチロー降誕(1973年)への細やかなる反逆からか、この日が全世界各国共通の祝日「鉄人誕生日」に制定される(1987年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 15 回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « ナショジオが見た戦中の日本 »  2/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年7月25日 / (Web編集部)

日本が戦争にいたる歴史的経緯をなぞる記事が続きました。掲載は1942年11月号で、同じくウィラード・プライス(実はスパイ/前節参照)の「満州で日本はロシアと対峙する(Japan Faces Russia in Manchuria)」です。タイトルは現在形ですが、大日本帝国陸軍の「関東軍」が暴走をはじめた1931年の満州事変までさかのぼり、満州国の建国、日中戦争、さらには39年のノモンハン事件でソ連に敗れて南太平洋に目を向けた流れをざっとおさらいしています。

 ご存じのとおり、1941年12月の真珠湾攻撃で始まった日本とアメリカの戦争は、1945年8月に終わります。当初は勢いのあった日本でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦を境に、『ナショナル ジオグラフィック』にアメリカ勝利の記事がたびたび載りはじめます。

 米軍が勝利を重ねるにともない、日本に対する視線には、すでに勝ち誇ったような雰囲気がでてきました。余裕しゃくしゃくといった感じです。

 日本人の精神構造の根っこを江戸時代にもとめた1944年4月号の「日本と太平洋(Japan and the Pacific)」は、そんなレポートの典型でしょう。著者は日米開戦時に駐日大使を務めたジョセフ・C・グルー。ウィラード・プライス(実はスパイ/前節参照)と比べると、トーンはだいぶ落ち着いています。

「日本には一般的に、政府に逆らってまで自分の権利を守る教育や伝統がない。政治体制が国民を食いものにし始めた頃、日本人は自らの権利のために立ち上がって『抵抗』したり、『自由』を主張する伝統をもっていなかった」

「その一方、日本は、独自の文化を築いているのだ。その文化は深遠で、美しいものだが、そこに根ざす精神性には残忍で盲従的な面もある。そのため日本の理想は、米国や、中国などの近隣諸国とは異なっている」

「米国の揺籃期、まだニューヨークが小さな貿易港で、ワシントンがポトマック川流域の草地に広がる村だった頃、日本の江戸(東京)はすでに整然とした大都市を形成していた。当時、フランスのナポレオンは、世界最大の都市を征服したいと願ったが、世界一の江戸を見ることはなかった。おそらく存在すら知らなかっただろう。江戸では巨大な独裁政権による絶対的で厳しい支配の下、優れた都市文化が確立されていた。この古く、大規模で、豊かな都市国家から、近代日本のパワーと残忍性が生まれたのである」

「日本の労働者といえば、ユニフォーム姿を思い出す。その背中に記された会社名は、彼等労働者たちが奴隷と変わらぬ状態にあり、管理された機械のような存在であることを象徴している。日本人労働者は、賃金について不満を言わない。戦前の賃金は、どうにか生活できる程度のものであり、それは今も同じだろう。万が一、組合があっても、彼らが声を上げることはないだろう」

「人命軽視」「良心の欠如」「致命的な弱点」と一方的に断じることなく、長所と短所を併記していますよね。日本が敵国ということを踏まえれば、まなざしは同情的とさえいえるかもしれません。

 なかでも印象深いエピソードがこれ。

「開戦当時、まだ私たちが東京の米国大使館に拘禁されていた時に目にした光景は、日本人がもつ小ヒツジさながらの、周囲の動向に引きずられやすい性質を物語る一例だった…憲兵隊は通行人や商店の従業員など数百人を集め、米大使館前の広場でデモをさせた。一行は、私たちが軟禁されている大使館の柵の近くへ迫り、日本の国旗を振り、怒ったオオカミの群れのように叫んだりした。『打倒、米国!』、実に恐ろしい光景だった」

「このデモの真っ最中に、米国大使館員の1人が、暴徒たちを見下ろすバルコニーに立ち、ポケットからハンカチを取り出して、彼らに向かって陽気に振った。日本人は彼の予期せぬ行動に驚いた。彼らは口を開け、少しの間叫ぶのをやめた。大使館員がそのまま楽しげにハンカチを振り続けると、その後、驚いたことに、デモの一行は声を上げて笑い、ハンカチを取り出し、友好的な雰囲気でそれを振り返したのだった」

 ほほ笑ましいというか、他愛ないというか……でも、わかる気がしませんか? 同じ日本人として。ドイツじゃまずありえないでしょう。

1945年になると、4月号にサイパン陥落とB-29による日本爆撃開始の記事が載りました。なんとB-29から撮影した皇居周辺の鮮明な写真もあります。一般誌にこんな写真が掲載されるんだから、もう勝負アリって感じです。8月号にはレイテ沖海戦で沈没した空母プリンストンの追悼記事も出る始末。これも余裕の表れですね。沈んだ空母の特集など日本では考えられませんでしたから。そしてほどなく、日米は終戦を迎えました。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ xxx削除xxxxx

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今日(狂)の狂言 : 10月21日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-21 05:10:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 関ヶ原で石田三成が狸親父に挑むも、段取りも根回しも後手後手に回り狸親父の腹黒さに敵わなかった(1600年)。 ☆ 戦況の悪化に追い込まれた大日本帝国が自ら神風を起こす挙に出る(1944年=神風特別攻撃隊)。 ☆ 北側の隣国が気になった韓国、対抗して国産の飛翔体をぶっ放す。流石に周辺諸国に迷惑はかけなかった模様(2021年)。

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1921-1956期 追考 « ナショジオが見た戦中の日本 »  1/2 

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2012年7月25日 / (Web編集部)

 再三度、「ナショジオが見た日本」シリーズです。こんどは「戦中」。第二次世界大戦中の「ナショナル ジオグラフィック協会の日常」でしたから、これでやっと追いつきましたネ。ふぅ。  戦前までの記事は、過去2回で紹介した通りです。1930年代は元大統領から貧乏旅行を楽しむ若者まで、みんな日本を好意的に描きました。

 ところが、日米開戦後は手のひらを返したように変わります。

日米が開戦をして最初の記事は1942年8月号に登場。戦前の日本で5年間ほど暮らしたウィラード・プライスによる「知られざる日本(Unknown Japan)」でした。サブタイトルは「世界でもっとも狂信的なふたつの国のひとつを作った人々の素顔(A Portrait of the People Who Make Up One of the Two Most Fanatical Nations in the World)」。ふたつの国のもう一方? もちろんドイツです。

 記事の中身はこんなふう。 「日本人の強みのひとつは人命軽視である。米国人は生きることを重視するが、日本人は国のために死ぬことに価値を見いだす。彼らは子供の頃から、個人の存在はさほど重要でないと教えられ、キリスト教徒がもつ人間の価値や尊厳といった概念はもたない」

「日本は個人主義ではなく、厳しい集団主義を尊ぶ。確かに日本人は集団行動を好み、チームワークに優れている。日本には支配者などいず、集団のルールがすべてだ。天皇といえど象徴的な存在でしかない」

「日本人は、仲間に遅れをとるくらいなら死んだ方がましと考える。そのため、自殺も多い。ある時私たちは8人の学生グループと一緒に浅間山に登ったが、下山時、グループは7人になっていた。1人は噴火口に飛び込んだのだ。試験失敗の屈辱に耐えられないというメモが残っていた」

「日本人のもうひとつの強みは良心の欠如である。彼らは『日本を発展させるものは何でも正しい』という道徳律に縛られている。これは、国家と天皇は神聖であり、あらゆる一般的な善悪の基準を超越するという考え方だ」

「日本人の致命的な弱点は、確たる宗教がないことである。日本の仏教は、形式や儀式を重視するばかりで、神道も、天皇と祖先を崇拝するものであり、服従以外、何の教えもない。キリスト教やユダヤ教、イスラム教や儒教、アジアの仏教などにみる、信仰における道徳的教訓は、日本ではあまり重視されない」

 宗教については、宗教戦争てのもありますから、それがはたして「致命的な弱点」なのか中の人にははなはだギモンですけれど、これでもか! というぐらい批判的ですね。前回紹介した「日本人は変化を受け入れる一方で、自然や地理的条件がもたらす困難に毅然と立ち向かう、活発で優しい人々である」とはエライ違いです。

 このように、戦中は「ドイツと並ぶ狂信的国家、日本」の精神性を探る記事がしばしばお目見えします。

 同じ「狂信的」といっても、強烈な旗振り役のヒトラーがいたドイツと比べると、ほとんどのアメリカ人にとって、日本が戦争にいたった経緯はおそらく相当に謎めいていたのでは。そもそも国力の差は圧倒的。あの東条英機ですら日本が勝つとは思わず、開戦した夜に公邸でひとり泣いたといいます。まして、多くのアメリカ人にしたら日本がアメリカに戦争を仕掛けたのはどう考えても無謀、いや、理不尽に思えたのではないでしょうか。アメリカがそう仕向けた、という話はあるにしても。

 というわけで、3カ月後には日本が戦争にいたる歴史的経緯をなぞる記事が続きました。掲載は1942年11月号で、同じくウィラード・プライスの「満州で日本はロシアと対峙する(Japan Faces Russia in Manchuria)」です。タイトルは現在形ですが、大日本帝国陸軍の「関東軍」が暴走をはじめた1931年の満州事変までさかのぼり、満州国の建国、日中戦争、さらには39年のノモンハン事件でソ連に敗れて南太平洋に目を向けた流れをざっとおさらいしています。

 ご存じのとおり、1941年12月の真珠湾攻撃で始まった日本とアメリカの戦争は、1945年8月に終わります。当初は勢いのあった日本でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦を境に、『ナショナル ジオグラフィック』にアメリカ勝利の記事がたびたび載りはじめます。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « ナショジオが見た戦中の日本» “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月20日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-20 05:10:04 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 日本生命が、劇団四季のための劇場を日比谷にオープン(1963年=日生劇場開場)。その前座としてベルリン・ドイツ・オペラの招待興行が開かれる。 ☆ 皇后陛下が過労で倒れられ失声症となる(1993年)。憂国に名を借りた週刊誌の不敬に心を痛められた模様。 ☆ カダフィが第二のチャウシェスクになる(2011年)。42年間続いたリビアの独裁政権に幕を下ろす。

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1921-1956期 追考 « ナショジオが見た戦前の日本 »  2/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年7月11日 / (Web編集部)

 前回に続いて、1930年代に『ナショナル ジオグラフィック』に載った日本の記事をピックアップしてみます。

「ナショジオが見た大正の日本」の回で紹介したように、1923年10月号の「日出づる帝国(The Empire of the Rising Sun)」で日本が成功した秘密を考察した日本学のさきがけ、ウィリアム・エリオット・グリフィスは1933年3月号で日本と中国を比較しています。西洋人にとって両国は「ほとんど双子のようなものとして」一般的に受け止められていました。

「中国の自然にはあまり大きな変化は見られないが、日本は激しく変動する大地と海に囲まれ、大気が乱れやすい。こうした地球規模の力は、長きにわたり、日本人の体型や、習慣、そして精神に深く影響を及ぼしてきた。どちらかと言えば保守的で冷淡、無神経な中国人と比較して、日本人は変化を受け入れる一方で、自然や地理的条件がもたらす困難に毅然と立ち向かう、活発で優しい人々である」

 もっと言って(笑)。

日本人は西洋の真似ばかりしている、という当時よく言われた批判については、 「日本人に独創性はあるのか? その問いになんと答えようと、日本が若い国であること、何世紀にもわたる鎖国が行われた国であることを忘れてはいけない。19世紀の日本には、海外の思想や発明、長い時間をかけて培われてきた西洋文明の成果が一気に流入してきた。独創性を発揮する余裕など、なかったに違いない」

「日本人は折衷主義だと言われるかもしれない。しかし、医学の分野、特に細菌学においては、北里柴三郎博士や野口英世博士の発見と業績が欧米でも認められている。化学的な発明、従来の知識の展開と応用など、日本人は科学や商業の世界で、名声を勝ち取ってきた」

 お雇い外国人だったグリフィスは相当な日本びいきだったようです。この号では、さらに日本の自動車旅行の記事もあり、全62ページで日本を取りあげています。写真も多く、30年代ではいちばんの規模でした。

 3年後の1936年4月号には、それまでと毛色の違う記事「にっぽん人情めぐり旅(Friendly Journey in Japan)」が掲載されました。若いアメリカ人のジョン・パトリックが貧乏旅行をしながら肌で日本文化を理解するというライトな紀行文で、これが面白い。興味深い描写がたくさんあります。

横浜に着いたパトリックは、美しい富士山を目にしてまっ先に登りにいきました。 「日本人にとって富士山は、イスラムのメッカと同じように、特別の意味をもつ。それにしても、山頂も登山道も、灰とゴミの山に囲まれていた。毎年訪れる多くの登山者が、たくさんのゴミを捨てていくのだそうだ」

この頃から富士山はゴミだらけだったのか……。

 続いて鎌倉から日光へ。 「日本にはホテルと宿屋がある。ホテルと違い、宿屋の部屋には鍵などはないが、それでも外国人にとっては、日本の暮らしを理解し楽しめる場所だ。景勝地の日光には、こうした宿屋がたくさんある。若い4人の女性教師を誘って旅館に泊まった。半透明の紙袋に入った歯ブラシに彼女たちはいたく感激したが、バスタオルも石鹸も部屋にはない。

風呂に入るにも私が入り口で見張り番をすることになってしまった。『なぜ、お風呂に鍵がないの』と騒ぐ彼女たちに私はこう言った。『ここは日本、鍵なんて必要ないんだよ』。アーサー・ローズ・イネスの日米会話辞典には、こう書かれている。『privacy(プライバシー);日本にはほとんど見られない。日本語に訳すのは困難』」

 日光のページには華厳の滝のカラー写真もありました。

 パトリックは日光から荷物を最小限にとどめてより身軽になり、いよいよ貧乏旅行の気配が濃くなるものの、洗濯だけはマメにして、時にはシャツにアイロンまでかけました。そのワケは、 「奇妙に聞えるかもしれないが、私は、貧しい巡礼者と旅行者が多く、しかも清潔を最も尊ぶ国にいたのだ。誰もが、私の放浪を暖かく見守ってくれた。特に貧しい人々は、私のことを「貧乏な人」と信じ、私心なく助けてくれた」

 仙台から青森へ行き、津軽海峡を渡るため青函連絡船に乗り込みます。 「連絡船には1000人もの乗客がひしめき合い、寝返りも打てないほどだった。小泉八雲の名で知られる作家ラフカディオ・ハーンは「日本人は群集も世界で最も清潔である」と書き残している」  パトリックは日本人の親切さと同時に、清潔さにとても感心したようですね。「清潔」という言葉がしばしば登場します。

 北海道では札幌やアイヌの村を訪ねたあと、また青森から船で秋田へ。さらに日本海沿いに直江津、富山、金沢、福井、天の橋立のあとは関門海峡を抜けて宮島、神戸、名古屋にいたります。

 旅のフィナーレは岐阜で鵜飼い見物です。その帰り、横浜行きの船でパトリックは東京へ向かう少女たちの一団と出会いました。彼女たちは貧しい養蚕農家から出稼ぎに行くところでした。 「不況とレーヨンなど化繊の流行で、絹の需要は落ち込み、養蚕農家は厳しい状況を迎えている。自宅から離れたことなどなかっただろう彼女たちは、故郷の村や幼い兄弟の笑顔を思い出して、悲しい夜を過ごしたことだろう」

 岐阜の農家と聞くと、中の人は『あゝ野麦峠』を思い出してしまいます。野麦峠は飛騨から長野県の諏訪方面へ行くルートにありましたが、同じように横浜へ行く女の子もいたのでしょう。楽しい紀行文のわりに、しんみりとした最後の一文はまるで旅の終わりを嘆く筆者の感傷を映し出しているようです。

次回は “ « ナショジオが見た戦中の日本 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月19日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-19 05:10:58 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ カスティーリャの女王イサベル1世とアラゴンの王太子フェルナンドが、自らの国を持参金代わりに結婚(1469年)。かくてスペイン王国が成立。 ☆ 盛況だった株価が一遍に大暴落し、ウォール街全体が憂鬱になった暗黒の月曜日(1987年=ブラックマンデー)。 ☆ 西武ライオンズが、ロッテオリオンズの協力によって近鉄バファローズを下してリーグ優勝(1988年)。

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1921-1956期 追考 « ナショジオが見た戦前の日本 »  1/2

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年7月11日 / (Web編集部)

このところ第二次世界大戦中の話をしてきましたが、少し時間を巻き戻して、今回から2回にわたり、戦争が始まる前の日本の記事を紹介します。ホントは19回でやるべきだったのに、中の人がうっかりしてました。どうもすみません。

 前に大正時代について書いたため、ここでは昭和に入ってから第二次世界大戦が始まるまでをとりあげます。しかも、1924年に関東大震災と桜島噴火のレポートが掲載されて以降、1930年まで日本がメインの記事はなかったので、すべて1930年代の記事になります。  前にも書いたように、1930年代は世界恐慌に始まり、第二次世界大戦とともに終わる散々な10年間でした。それは日本も同じことでした。

 年号は昭和5年から昭和14年。まず世界恐慌のあおりを受けて戦前ではもっとも深刻な不況だった昭和恐慌があり、そして満州事変。国際連盟の脱退、日中全面戦争、太平洋戦争……。ざっと見渡せば、暗雲は厚くなるばかり。

 その一方で、1930年代はナショジオが精力的に世界の各地へ飛び出した黄金時代でもありました。元大統領から貧乏旅行を楽しむ若者まで、日本にも多くの筆者が訪れて、さまざまなレポートを掲載しています。そんな記事のなかから年代順にばらばらとピックアップしてみましょう。

 1930年5月号では、元大統領のウィリアム・ハワード・タフトが「15万マイルの旅の断章(Some Impressions of 150,000 Miles of Travel)」と題し、1900年から5度も訪れた日本の印象を振り返りました。基本的には回想ですが、将来の日米関係について書いた部分が印象的です。

「日本は私たちが考える以上に大衆政治の国である。日本の政治家が米国との戦争を望んでいるとは考えられない。それは彼らにとって最後の手段だろう。  経済的には決して豊かとはいえない日本は、対米貿易を重視せざるをえない。日本は貿易戦争を戦いはしても、米国の領土に野心を抱くようなことはないだろう。

米日戦争、あるいは日本軍のカリフォルニアへの侵攻の可能性を口にする人がいるが、軍隊を太平洋を越えて送り込むというのは空想でしかなく、現実的ではない」 “日本が私たちが考える以上に大衆政治の国である”なんて、戦前から日本はそうだったのか! などと中の人は思ってしまうのですが、みなさんはどう思われますか?

 また、当時の米国に、日本がカリフォルニアに侵攻すると考えていた人がいたんですね。カリフォルニアという場所についてもそうですが、真珠湾攻撃の10年以上前からそういう危惧があったことにもオドロキました。

 1932年2月号では、駐日大使を務めた米国国務次官のウィリアム・R・キャッスルが、関東大震災から復興した東京の様子をレポートしています。タイトルは「東京なう(Tokyo Today)」。

「10年前の東京は、狭く曲がりくねった道と茅葺屋根の平屋が立ち並ぶ古びた町だったが……新しい東京は、旅行者が魅力を感じる街ではない。通りは幅広く真っ直ぐで、かつての姿は跡形もない。広い道が火の手の広がりを防ぐことを過去の苦い経験から学び、新しい衛生学から公衆衛生には光と風が必要なことを知ったからだ」

「人々の生活はどうだろう。豊かな人々の家は新しい洋風建築だが、必ず和室がある。畳敷きの和室には、ごたごたと並べられた家具も絵画もない」

「東京の自転車乗りは、欧米のサーカス団よりも巧みに自転車を操る。ソバ屋の出前は、人ごみを縫うように走り、しかもスープいっぱいの丼を載せた盆を3段に重ねて走る。こんな光景を東京ではよく見かける」

「大銀行の建物は立派だ。行員はすべて日本人。“日本人は信用できないから、金銭を扱うのは中国人に限る”と、米国ではよく言われるが、そんな話は取るに足らない。民族に対するはなはだしい侮辱だ」

「東京にはパリのカフェを模した珈琲店がいくつもあり、いつでも“モボ”や“モガ”で込み合っている。モボはモダンボーイ、モガはモダンガール。日本人は略語好きだ。洋服に身を包み、開放的な欧風の習慣を取り入れようとするモガやモボは、東京の最も現代的な一面だ」

 洋風建築には必ず和室。そして、スマホにラノベにAKB……「日本人は略語好きだ」には思わずニヤリとしてしまいました。変わらないんですね、やっぱり。あっ、「ナショジオ」も!  などなど、日本が西洋のものをたくみに吸収していることを例に挙げ、最後は日本が新境地を開いたことを指摘して締めくくっています。

「英国の作家キプリングは、西と東がまみえることはないと言ったが、それは誤りだ。東京では両者が出合い、その理想が融合し、新たな文化が発展したのだから」

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 10月18日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-18 05:10:35 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 玄洋社の一社員が大隈重信外務大臣を手投げ弾で仕留めようとするも、片足をもいだだけの被害しか与えられず自害(1889年)。 ☆ 東條英機内閣が発足する景気づけにリヒャルト・ゾルゲをスパイ容疑で逮捕する(1941年=東條内閣成立&ゾルゲ事件)。 ☆ 海の向こうで流行していたフラフープが日本でもリリース(1958年)。あっという間に全国に健康被害を齎す。

◎ ◎ 半日ドッグの健診で週間の習慣リズムが狂い 本日休刊 ◎ ◎

“徒然なるままに…”と『徒然草』の書き出した吉田兼好は

「無聊を慰める」ために綴ったのであろうか

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今日(狂)の狂言 : 10月17日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-17 05:10:40 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ ロンドンで147万リットルのビールが大盤振る舞いされ、酔いつぶれた挙句に9人がバッカスに導かれて天国に行く(1814年=ロンドンビール洪水事故)。 ☆ 日本の水は不潔!だと文句を言った外国人のために、横浜市で外国人居留地への給水を開始。上水道の供用が開始される(1887年)。 ☆ 生半可な英語力では留学生活が危ういってことを、日本国中に知らしめた日(1992年=日本人留学生射殺事件)。

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1921-1956期 追考 « ルーズベルトからチャーチルへの贈り物 »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年6月20日 / (Web編集部)

 カラー写真革命が起きたとはいえ、いまから振りかえってみれば、1930年代は散々な10年間でした。何しろ、入口は世界恐慌、出口は第二次世界大戦でしたから。

 戦争のせいでせっかくのカラー写真革命も冷や水を浴びた形になってしまいます。いろいろとお金がかかると同時に、華やかなカラー写真は時代の雰囲気に合わなかったのでしょう。カラー写真がふたたび勢いを盛り返すのは戦後のこと。このあたりは第一次世界大戦のときとよく似ています。

その代わりというわけではありませんが、戦争の気配が漂い始める1930年代の後半から、ナショジオが力を入れたものがあります。  なんだと思います?

ヒントは、ルーズベルト大統領がチャーチル首相にプレゼントしたもの。もちろんナショジオ製ですよ。  それは……

地図でした。  これも第一次世界大戦のときとよく似ています。まあ編集長が同じですから、ヒット企画を繰り返すのは当然ですけどね。

ただし、前とは規模が違いました。  第二次世界大戦までに協会が世界中から集めた地図のストックはなんと5万3000点。のちにグロブナーは書いています。

「軍部は協会の地図をすごく頼りにしていたよ。戦略上カギとなる都市や港、鉄道、空路、輸送路を含む大縮尺のたくさんの地図。地理的に重要な記述を含む膨大な未刊行のファイル。2万冊(!)におよぶ各地の旅行ガイドブック。作戦を立てるのに必要な地理の情報を得ようと、毎日に何10という政府機関が協会の調査部に相談に来ていたものさ」

 ちょっと話はそれますが、おまけにグロブナーは空撮が大好きでしたから、協会には過去10年間に撮影されたヨーロッパの航空写真がたくさんありました。それらを偵察機が撮影した写真と照合すると、カモフラージュしたり新しく建てたりした建造物がすぐに判明し、たいへん貴重な資料になったそうです。おかげで、協会が軍の情報機関に渡した写真は3万5000枚を超えました。

 これほど膨大な資料をグロブナーが放っておくわけがありません。 たとえば、1938年3月にドイツがオーストリアを併合すれば、4月に「ヨーロッパと地中海」の地図を。  1939年10月ナチスがポーランドに侵入し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告すれば、翌11月にまた最新版の「1939年9月1日現在の中央ヨーロッパと地中海」を。

 1940年5月にドイツ軍がフランス軍を崩壊させてパリを占領する直前には、またまた最新のヨーロッパの地図をつくる。  ヨーロッパの地図だけみても、戦況を見すえつつ、毎年のように会員に届けます。

 戦局がほかにも広がると、大西洋、太平洋、アジアの地図も増え、戦争が終わるまで、「これでもか!」という数の地図がつくられます。その地図のまた詳しいこと。それがタイミングばっちりでしょっちゅう送られてくるわけですから、会員には大好評でした。1943年に出版した10色刷の世界地図など1年もたたないうちに9回も増刷します。

 協会の地図が優秀だったことは、軍が実際に戦闘に利用したことからもわかります。  1944年4月には、軍のアドバイスにしたがって「日本と近隣アジアと太平洋」の地図を製作。中心は東京です。この地図を空軍は高く評価して、協会から原図を借り出して拡大版を作り、空襲に利用します。

 同年6月6日のノルマンディー上陸作戦の翌月には、「ドイツとそのアプローチ」という地図をつくりました。陸軍の工兵軍は、ヨーロッパの陸軍や空軍のためにすぐこの拡大版をつくり、連合軍がドイツに向かうルートの分岐点にこの地図を掲げました。当時の米軍工兵団長はグロブナーにこんな手紙を書いています。

「実際のところ、我々はナショナル ジオグラフィック協会の地図に頼りきっています。協会が軍の地図製作部に不可欠であることを思い知らされました」  ルーズベルト大統領がチャーチル首相に贈ったのは、そんなナショナル ジオグラフィック協会の地図一式でした。

 日本軍から真珠湾攻撃を受けたちょうど2週間後のこと。ギルバート・グロブナーのもとに大統領補佐官が訪れます。  彼は日本軍の攻撃を受けているシンガポールの町の地図を探しにきたのでした。大統領は、その小さな町の名前をニュースのタイトルで見たものの、ホワイトハウスにはそこまで詳しい地図などなかったのです。

 しかし、協会には当然その地図がありました。グロブナーは補佐官に地図を渡したあと、世界中の地図を収納する回転式の戸棚ごと大統領に贈ることを思いつきます。それは協会の地図がいつでもすぐに引きだせる、とても便利な特製の収納棚でした。

 ホワイトハウスにその戸棚が到着すると、ルーズベルト大統領はすぐさま自分の執務室に設置します。そして、チャーチルが執務室を訪れた際、その棚に興味を示したため、“WSCへ、FDRから。1943年のクリスマスに”という文字を彫り、1943年のクリスマスに大統領専用機でプレゼントしたのでした。

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今日(狂)の狂言 : 10月16日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-16 05:10:54 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 『サロメ』のオスカー・ワイルドが誕生するも誰も気にしない(1854年)。さりとて、本日は”ボスの日” 某刑事ドラマとかどっかの缶コーヒー、果ては宇宙人ジョーンズとは関係ないようである。 ☆ マリー・アントワネットの処刑が行われた日(1793年)に因んだのか、その隣の国でニュルンベルク裁判で裁かれたナチス幹部をこの日血祭りに挙げた(1946年)。 ☆ 阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝を果たすが、この日のトラキチの愚行が原因でカーネル・サンダースの呪いが以後阪神にのしかかることに(1985年)。

二匹のボクサー犬に引き摺られて、早朝一刻 90分の散歩が日課なのだが・・・・ 

 = 本日休刊 =

  八十路を超して一年、振り返える ヒマラヤ遊歩 ゴビ・タクラマカン砂漠の彷徨 厳冬のパミール高原 デナリ山の雪稜 等々 幻の如し。 

   いや、学生時代からの親友はトライアスロンの現役(協会役員)ではないか・・・・・・ 

                                                                                     杖をついても追わねばならない。   “徒然なるままに…”

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今日(狂)の狂言 : 10月15日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-15 05:10:36 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 蒋介石一派に燻り出された中国共産党が集団で夜逃げし、以後2年間・12,500kmにわたるガンパレード・マーチに出発(1934年=西方への長征を開始)。 ☆ 第二次世界大戦中さんざん日本軍に協力したインドネシア独立派が、敗戦で利用価値が無いと見るや武器を分捕るために攻撃を仕掛ける(1945年=スマラン事件)。 ☆ 長崎県平戸口発長崎行きの西肥バスが「アソレンゴウ セキグン」と名乗る覆面レスラー風の男2人組に乗っ取られる(1977年=長崎バスジャック事件)。

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1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (5/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年6月06日 / (Web編集部)

 コダック・カメラはその後も順調に売れゆきを伸ばし、キャッチフレーズの「あなたはシャッターを押すだけ。あとは私たちが引き受けます(You press the button. We do the rest.)」は、政治家の演説やお笑いの舞台で引用されたそうです。

 また、このヒットのおかげで「コダック」という言葉が「カメラ」という意味で使われるようになります。売れた商品の名称が一般名称にとって代わることは珍しくはありませんよね。それこそ「写ルンです」とか「エスカレーター」とか「ホカロン」とか「オセロ」みたいに。

 そんなわけで、コダック・カメラの発売から4年後の1892年、ジョージ・イーストマンは会社の名前を「イーストマン・コダック」に変更します。社名はその後もときどき微妙に変わったけれど、以後、「コダック」という言葉が消えたことはありません。

●ロールフィルム発売(1890年)

 同じく1888年にコダックは透明で丈夫なフィルムのベースの開発に成功。2年後の1890年に円筒状に巻いたロールフィルムを発売します。おかげで乾板を1枚1枚差し替えたり、フィルムの交換のためにカメラを返却したりする必要がなくなりました。

 また、ロールフィルムはエジソンが発明した映画にぴったりで、のちにハリウッドのほとんどの撮影所がコダックのフィルムを使うようになり、莫大な収入源になります。  かんたん便利なロールフィルムは発売と同時に世界規模で大ヒットします。1890年代のなかばには毎月約450キロメートルものフィルムがつくられ、10万台のコダック・カメラが売れるようになりました。

この間にコダックは急成長を遂げ、ほかをどんどん引き離します。

●「ブローニー」カメラ発売(1900年)

「ブローニー」という名称は開発者であるフランク・ブラウネルにちなみます。新造語ではありませんよ。念のため。  このカメラのつくりはきわめて簡単で、いまでも同じ形式の中判カメラをブローニーと呼ぶように、箱にレンズとロールフィルムを装着するシンプルな基本構造は当時からほとんど変わっていません。

  いちばん驚くのは、当時コダックがカメラ市場をほぼ独占していたにもかかわず、わずか1ドルという破格の安値で販売したことです。

 おかげで、ブローニーは1年弱で約25万台を販売。さらに、のちに発売された「フォールディング・ポケット・ブローニー」は50万台近い売り上げを記録します。フィルムの生産は月約600キロまで伸びました。この時点でコダックのリードは確定的なものとなりました。

●ピアリの北極探検で活躍(1909年)

 コンパクトで高い品質を誇るコダック社の製品は、冒険家や探検家にも支持されました。なかでも、北極点にはじめて到達したロバート・E・ピアリはコダック製品をとても気に入り、積極的にPRします。ほかにも、エジソンをはじめ、有名人の発言をイーストマンはたくみに宣伝に利用しました。プロモーションに「コダック・ガール」を起用したりもして、メディア戦略に長けていたのはコダックの特徴のひとつでした。

●「コダクローム」発売(1935年)

 すでに述べたように、カラー写真に革命をもたらした画期的なフィルムの開発に成功。カラーフィルムの決定打となり、日本のメーカーが追いつくまで、フィルムでは長らくコダックの独占状態が続きました。ちなみに、前回コダクロームの発売は1936年と書いたのは写真用だからです。映画用のフィルムはその1年前の1935年に発売されました。

 ところで、実はコダクロームを発売する前年に、(いまでは当たり前の)明るいところでも使えるカセットタイプのフィルムをコダックは発売し、同時に、それが使える「レチナ」というカメラも売り出していました。「レチナ」とは「網膜」の意味。そう、新型iPadのディスプレイと同じ名前です。「レチナ」は、ライカとコンタックスと並んでコダクロームの普及に大いに貢献します。

以上、1930年代までの重要なトピックスをざっと挙げてみましたが、コダックがこれほど成功したのは、写真の可能性を信じ、当初はごく一部のお金持ちのものだったカメラを“鉛筆のようなも 社名のエピソードからわかるように、彼はとてもユニークで魅力的な人物でした。そして、真のイノベーターでした。いまの時代でいえば、スティーブ・ジョブズか、あるいはそれ以上だと感じるのは中の人だけでしょうか。

 そんなイーストマンの話もぜひしたいところですが、さすがに長くなるので、もっとも印象深いこの話で終わりにいたしましょう。

 1930年代にはイーストマンは70代の後半を迎え、重い病気に苦しんでいたこともあり、第一線から退いていました。生涯独身をつらぬいた彼は、晩年に莫大な財産のほとんどを寄付します。そして、1932年3月14日、自宅に親しい友人を招いて遺書を書き直したのち、2階の自室で拳銃自殺を遂げました。77歳でした。

 彼が残したメモにはこう書かれていました。

「友よ。私の仕事は終わった。お先に失礼(To my fiends: my work is done. Why wait?)」 のにしよう”と写真の普及に情熱を傾け続けた創業者ジョージ・イーストマンのおかげです。

次回は “   «ルーズベルトからチャーチルへの贈り物 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月14日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-14 05:10:20 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 東海道の東の端っこで陸蒸気による1時間のデモンストレーション=新橋-横浜=始まる(1872年)と共に、鉄道教の神聖なる日。よって、鉄道に関する骨董品を集めたとこが、神田・万世橋からさいたま市の北の方へと移転(2007年)。 ☆ 一つくらい、いいじゃないかと、国鉄に急行の停車駅を自分とこの選挙区で一つ増やした運輸大臣が辞任する破目に(1966年)。 ☆ 長嶋茂雄が我が巨人軍は永久に不滅です! と言い残して引退(1974年)。確かに今に至るまで巨人軍は不滅だが、これ以降は昔の栄光は何処へやら停滞が始まっている。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 12 回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (4/5) 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年6月06日 / (Web編集部)

「世の中で一番恐ろしいのは政治にしろ研究にしろ会社にしろ、組織の中でのおっさんの嫉妬なんですね~」と「青春を深海に賭けて」の「第4話 JAMSTEC新人ポスドクびんびん物語」「その1緊急激論!“クマムシvs極限環境微生物”」で高井研さんがお書きのように、組織の中でおっさんの嫉妬ほど怖いものはない、ということなのでしょう(高井さんの名言いいね!)。

協会の写真部長にコダクロームの素晴らしさを再三説明したにもかかわらず、自分が撮影した写真が掲載されるのを、マーデンは1940年9月号の特集「エルナン・コルテスの道で(On the Cortes Trail)」まで待たなければなりませんでした。その後、マーデンはなんと64年間! にわたり『ナショナル ジオグラフィック』で大活躍します。とても魅力的で才能豊かなマーデンについては、また機会をあらためてご紹介いたしましょう。

 さて、1930年代に起きたコダクロームによるカラー写真革命の話は今回でおしまいです。が、前回の「カラー写真戦争ついに勃発!」でも書いたように、コダックが今年はじめに破産法の適用を申請しました。

 写真の歴史を語るとき、そして、『ナショナル ジオグラフィック』の歴史にとっても、コダックが果たした役割は計りしれません。そんなコダックの破産の知らせは、中の人にはとても感慨深いものがありました。そんなわけで、話は少しそれますけれど、次回は写真の歴史を塗りかえた20世紀を代表する偉大な企業コダックについて書いてみたいと思います。たぶん。

―写真をみんなのものにしたコダック

今回はナショジオからちょっと離れて、コダックの話をさせてください。

 なぜなら、コダックは写真の歴史にとってそれだけタイヘンな存在だからです。もちろん、ナショジオにも欠かせない存在だったことは、「コダクローム」がカラー写真に革命を起こしたことからみても明らかですが、コダックが果たした役割がそれだけだと思ったら大間違い。

 というよりも、コダックを抜きにして写真の歴史は語れません。そんなコダックのすべてにわたり、ここで詳しく書くのは無理というもの。なので、とくに革新的だった1930年代までの成果のなかから、重要なトピックスをいくつか紹介してみます。

●「コダック・カメラ」発売(1888年)

 まず「コダック」という社名。  どんな意味かご存じですか?  実は、まったく意味はありません。

 これは1888年に発売した画期的な小型カメラ「コダック・カメラ」のために、創業者のジョージ・イーストマンがつくった言葉です。

 彼は“力強くてシャープな”「k」という文字が大好きで、(1)短くて、(2)間違った発音をされず、(3)ほかに同じような名前がないということで、“kではじまりkで終わる”「Kodak」という名前を黄色いイメージカラーとともに商標登録しました。

 新しいモノの名前だから、新しい言葉を使うのはわかるけれど、まったくの造語というのはいかにも大胆ですよね。

 たとえば、「SONY」は造語でも、“音『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス)』と小さいとか坊やという意味の『SONNY』から”と、由来ぐらいはあるのが普通でしょう(SONY公式ホームページより)。“簡単な名前で、どこの国の言葉でもだいたい同じように読めて、発音できることが大事”という理由はよく似ていますが、それにしても、コダックのように意味も由来もない言葉を商品名や会社名にするケースを中の人は知りません。もしご存じの人がいたらぜひ教えてください。お願いします。

 ちなみに、ポケモンに「コダック」というキャラがいますよね。かなりオトボケで、頭が痛くていつも頭を抱えている。え? ご存じない? まあ知らなくてもいいです。

 コダックはあひるポケモンに分類されています。つまり、日本語では「小さい」とか「子ども」という意味の「コ」とカモの「ダック(duck)」を組み合わせた、意味のある言葉ともいえますが、英語ではやっぱりそうはならないようで、「サイダック(Psyduck)」となっています。

 これはイーストマンがいうとおり「(3)ほかに同じような名前がない」ため、登録商標の「コダック」と重なるからでしょう(ちなみにポケモンのコダックも黄色!)。その証拠にコダックの進化形である「ゴルダック」は英語でも「ゴルダック(Golduck)」のままです。

 1888年といえば、奇しくも『ナショナル ジオグラフィック』が創刊された年。その年に発売された箱型の「コダック・カメラ」は、1880年の創業以来、はじめてのヒット商品となりました。

 それまでのカメラは数10台も売れればよかったのに対し、コダック・カメラは1年たらずで3000台の売り上げを記録。コダック・カメラは世界ではじめての量産型カメラになりました。

 ヒットの理由は圧倒的に撮影がラクだったから。以前のカメラでは、乾板のセットから現像までを自分がやらなければならなかったのに、コダック・カメラではあらかじめ100枚分のフィルムがセットされ、現像はコダック社が手がけました。いわば「写ルンです」方式。会社が違いますけどね。

 もちろん、フィルムはコダック製です。当初というか、いまでもそうですけど、コダックはカメラとフィルムの両方をつくる会社でした。実は世界ではじめてデジタルカメラをつくったのもコダックだったりします。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

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次回は “   «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック » (5/5) “ に続く・・・・・

・・・・ National Geographic: The Last Roll of Kodachrome  ・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月13日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-13 05:10:11 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆政府の懐が厳しいので、皇族の大規模リストラが実施される(1947年=11宮家51人の皇族離脱)。 ◆アンデス山中にウルグアイ空軍機571便が墜落(1972年)し、人間同士のぴー≪12月23日に生存者16名を救出≫が行われた。他方、アエロフロートIl-62型機がシェレメーチエヴォ国際空港への着陸に失敗して墜落、乗員乗客174名全員が死亡も起きる。 ◆そして、1977年 ルマ・デ・マヨルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ航空615便ボーイング737型機がPFLPによってハイジャック。10月13日は航空業界の厄日ある。

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1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (3/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年6月06日 / (Web編集部)

  1938年の『ナショナル ジオグラフィック』に掲載されたカラー写真は、フィンレーが222枚、デュフェが69枚、アグファカラーが18枚、オートクロームが3枚、そして、コダクロームが62枚。それに対して、翌年にはフィンレーが47枚、デュフェが93枚、アグファカラーが11枚、オートクロームが8枚、そしてコダクロームが317枚とあっという間に逆転します。

 すでに編集長補佐となっていたメルビル・グロブナーは回想しています。 「我々はほかのカラー写真をすべてお払い箱にして、即行コダクロームに置き換えたよ。あのときのことは決して忘れないだろう。本当にスリリングだった」

 そして、メルビルの父、ギルバート・グロブナーが「写真技法、とくにカラー写真に関しては常に我々が最先端だった」と書いたように、『ナショナル ジオグラフィック』の歴史はそのままカラー写真の歴史となり、ほどなくコダクロームの時代が訪れます。

 ところで、コダクロームの35ミリフィルムが発売されたのは1936年。『ナショナル ジオグラフィック』に掲載されたのはその2年後です。「常に最先端をいっていた」というにはちょっと遅いのですが、それにはワケがありました。

 そのワケは……、

―「ライカ? そんなオモチャに用はない!」 2012年6月6日カラー写真に革命を起こした35ミリコダクロームの発売が1936年。『ナショナル ジオグラフィック』が掲載したのは2年後の38年。いち早く新しいカラー写真を試していたナショジオにしては少し遅いタイミングでした。

 なぜか。  いちばんの理由は「サイズ」でした。

 前回も書いたように、オートクロームをはじめ、当時のカラーフィルムの標準サイズは13センチ×18センチ前後。いまではとうてい考えられませんが、ハガキより大きい。これが標準だったのは、大きくないとマトモな写真が撮れなかったから。それほどカラー写真の画質が低かったのです。

 一方、1936年に発売されたコダクロームの35mmフィルムは、1コマが24ミリ×36ミリのいわゆるフツーのサイズ。少し大きめの切手ぐらいですね。  ハガキと切手じゃ全然迫力が違います。どう見たってハガキのほうが力強い。それほど差があるのに、従来のどのカラー写真よりも圧倒的に画質がすぐれていたコダクロームは本当に画期的な発明でした。

 その変化はもはや量のレベルではなく、質のレベルです。だから革命が起きたのですが、どうやらその劇的な変化が協会の想像をはるかに超えていたようです。大きければ大きいほどいい、という固定観念が邪魔をしたんでしょうね。

 当時の協会が写真の「サイズ」についてどう思っていたかをよく示すエピソードがあります。 実は35ミリフィルムという規格はコダクロームが登場する前からあって、モノクロ写真ではプロも使える画質になっていました。

 その35ミリフィルムカメラのさきがけであり、代表格となったのが「ライカ」でした。  いまもしばしば「名機」として引き合いに出されるぐらいですから、写真をよく知らない人でも、ライカの名前ぐらいは知っているんじゃないでしょうか。35ミリフィルムはライカのおかげで普及したため、「ライカ判」と呼ばれることもあります。たまにですが。

 ところが、「これでもか!」と写真に力を入れていた『ナショナル ジオグラフィック』としては、「大きいことはいいことだ」と、モノクロ写真でもライカより大きなカメラを使っていました。同じフィルムの画質を比べたら、そりゃサイズが大きいほうが画質はいいに決まっていますから、まあ理由はあるにはあったわけです。

 そんな状況のなか、ナショナル ジオグラフィック協会で最初にコダクロームに注目した人物は、1935年に専属カメラマンとして採用されたルイス・マーデン(Luis Marden)だと言われています。 『小型カメラによるカラー写真の撮り方』という本を出版したばかりの若干21歳のマーデンは、『ナショナル ジオグラフィック』がカメラマンを募集していると聞き、さっそく売り込みにいきました。首からライカをぶら下げて面接にのぞんだ彼は、写真部長のフランクリン・L・フィッシャーに無邪気にたずねます。

「仕事でライカを使ったことはありますか?」 「ライカ? あるわけないだろう。そんなオモチャに用はない! うちはマジメに写真を撮ってるんだから」

 まさかその翌年にコダクロームが発売され、のちにライカが写真の歴史にその名を刻む名機になろうとは、写真部長は思いもしなかったでしょう(笑)。いずれにしろ、当時の『ナショナル ジオグラフィック』の「大艦巨砲主義」をよく表しているエピソードですね。大きな船が向きを変えるのはタイヘンだ、ということだったのかもしれません。

 いち早くコダクロームに注目したマーデンでしたが、前回にお伝えしたように、『ナショナル ジオグラフィック』にコダクロームの写真を提供した最初の人物とならなかったのは、あまりにも若すぎたせいだといわれています。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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次回は “   «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック » (4/5) “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月12日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-12 05:10:39 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆C・コロンブスが大西洋を横断してインドへ上陸(1492年)、しかし実はアメリカ大陸の沖合いってことは言うまでもないが、インデアンが欧州人に苦難をしいられる歴史が始まる。 ◆東京は下町を荒川がぶち抜き、集落やら街道やら路面電車やらが寸断されてしまう(1924年)。 ◆浅沼稲次郎の長ったらしい演説に飽き飽きしていた少年Yが、壇上に駆け上がって強制的に演説を終わらせる(1960年)。他方、国連総会で、ソ連が提出した「植民地主義非難決議」に反対するフィリピン政府の演説をフルシチョフ首相が靴で机を叩いて妨害。

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1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (2/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年5月16日 / (Web編集部)

 まずはこの写真をご覧ください。

 それからこれも。


どちらのカラー写真が技術的にすぐれていると思いますか?

 ・・・・・・・おわかりですね。そう、2枚目はこれまで何度も紹介したオートクロームの写真。そして1枚目がカラー写真の革命児となったコダックのコダクロームです。つまり、前者がダンゼンすぐれているのです。

 デジタルにしたときに2枚目の発色がきつくなってしまったので、はじめて目にした読者にはちょっと意地悪だったかもしれませんね。でも、実際の写真はもっと色がくすみ気味で、粒子も荒っぽい感じです。  おまけにオートクロームはフィルムではなく、13センチ×18センチという超ヘビー級のガラス乾板でした。

 それと比べると、コダクロームは35ミリのいわゆる普通サイズのフィルムです。機動力の差は歴然です。

とはいえ、この2枚を見比べただけでわかる違いもあります。  なんだと思いますか?  ヒントはどっちも踊りのシーンであること。  よーく眺めてみると、  それは……、 「動き」です。

 コダクロームの写真が実際に踊っているシーンを撮影したのに対し、一見、踊っているように見えるオートクロームの写真ではダンサーがポーズをとっていました。  だまされちゃだめですよ、ダンサーに(笑)。2人もなかなかの演技派ですけどね。

 違いがはっきりわかるのはスカートです。コダクロームが踊っているところなのは明らかですが、オートクロームではほとんど動きがない。ホントに踊っていたら、もっとスカートをはじめ衣装が暴れるはず。そう言われれば、オートクロームのほうは止まってポーズしているふうに見えてきませんか?

 いやいや、少し動いて見えるだろうって? それはブレなのです。

 オートクロームではそれほどシャッタースピードが遅かった。イコール低感度です。コダクロームに比べたら、前回紹介したフィンレーも大差はありません。逆に言うと、コダクロームは実際の踊りのシーンを撮影できるぐらい、当時としては画期的に高感度で、速いシャッタースピードで撮影できました。

 というように、ほかのカラー写真とは比較にならないぐらいコンパクトで高感度だったコダクローム。1枚目の写真を撮影し、コダクロームの写真をはじめて『ナショナル ジオグラフィック』1938年4月号の特集「オーストリアの8月、そして9月(AUSTRIAN AUGUST-AND SEPTEMBER)に提供したW・ロバート・ムーアは、撮影時の状況をこう描写しています。

「ギターやマンドリンやアコーディオンのめまぐるしく変わるテンポにあわせて、男たちはパートナーの体をくるくると回転させた。中庭で立ったり腹ばいになったりしながら、私は手当たり次第に撮りまくったよ。ブーツがホコリを舞いあげ、ドレスやペチコートが音を立てる。ダンサーはすっかり楽しんでいた。もちろん私もだ。今では当たり前のことだけれど、三脚にカメラを固定せずにカラー写真を撮ったのはこれがはじめてだったんだ」

 動きのある被写体をこんなふうに撮影できたことに加えて、当時は「無限に引き伸ばせる」と言われたほど、画質もダントツでした。  その差は決定的で、コダクロームはすぐにほかを引き離します。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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次回は “   «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック » (3/5) “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月11日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-11 05:10:39 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆マッカーサー司令官が幣原喜重郎首相に労働組合の結成奨励を指令。曰く、「五大改革」の指示。なれど、21世紀まで持ち越されるも未だ実現できない懸案事項となる(1945年)。 ◆配給食糧だけでは到底生きていけないことを、一裁判官が身を以て証明する(1947年=山口良忠判事が栄養失調で死亡)。 ◆延暦寺に賽銭泥棒しに来た不届き者が、下手を打って織田信長以来の焼き討ちをやらかす(1956年)。

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1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (1/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年5月16日 / (Web編集部)

 世界恐慌にもかかわらず、ナショナル ジオグラフィック協会のおサイフにわりと余裕があった。 その余裕でもってさまざまな探検や調査を支援して、第一期黄金時代を迎えるのですが、並行して同じくナショジオが入れこんでいたもうひとつのテーマである「カラー写真」。 報道・記録・啓蒙に於いて、これほど適切な媒体はない。

 この1930年代こそ「カラー写真革命」の時代でした。 そうそう、写真の革命といえば、みなさんは今年のはじめに飛び込んだイーストマン・コダックが破産した、というニュースを覚えているでしょうか。

 コダックといったら、一時は世界最大のフィルムメーカーだった大企業。破産の原因はデジタル化の波に乗り遅れたことみたいです。厳しいという話は聞いていたものの、中の人は「破産」という文字を実際に目にしてとても驚きました。

 コダック破産の原因はいわばデジタル写真革命です。

 いまや写真といえばデジタルが当たり前。本来はカメラではない携帯やスマホですらきれいな写真が撮れて、いや、便利になったもんですネ。  でも、ちょっと前まではまだフィルムの時代でした。え、フィルムカメラを知らない? という人は中学生以下の子どもぐらいでしょう。私の世代にはおそらくいないはず……ですよね?

フィルムカメラからデジタルカメラへの移行が起きたのはごく最近のこと。それもほんの数年のうちでした。CIPA(カメラ映像機器工業会)によれば、デジカメの出荷数がフィルムカメラを上回ったのが2002年。そのわずか4年後にはフィルムカメラの時代はほぼ終わりを告げています。

 私たちはこの革命をリアルタイムで目の当たりにしたわけです。革命を体験できるなんて、ラッキーかもしれないけど、中の人が持っているハイエンドの一眼レフのフィルムカメラなんかもう骨董品レベルですよ。そんなに古くはないのになあ……。

これと同じぐらいか、あるいは、それ以上の変化が実は1930年代にも起こっていました。  新しモノ好きの編集長だったギルバート・グロブナーが1920年に出版界初の「カラー写真研究所」を設立したことは前節の「世界初の水中カラー写真は命がけ」の回で紹介したとおりです。

 その後、1924年には息子のメルビル・グロブナーをカラー写真研究所の補佐役にねじ込み(相変わらず「これでもか!」と強引です)、1927年の9月号からは毎号カラー写真を掲載してゆきます。

 20年代は世界ではじめて商業的に成功したカラー写真の「オートクローム」の全盛期でした。1921年から1930年までの10年間に、オートクロームのカラー写真は『ナショナル ジオグラフィック』に計1818枚掲載されています(代表的な作品は次回から順次記載をご覧ください)。

 当時のことをメルビルはこんなふうに振り返っています。 「父はカラー写真を信じて入れこみつづけ、ガンガン増やしていきました。周りのスタッフはみんなやりすぎだと思ってましたよ。でも、読者はカラー写真を気に入ったんです。リアルな写真、つまり、カラー写真を見たがりましたし、私たちはその期待に応えようと、あらん限りの方法を片っぱしから試したものです」

カラー写真はまだまだ発展途上でした。

オートクロームの撮影はそれこそ命がけというほどタイヘンでしたし、画質も不十分。カラー写真のスタンダードとなるにはほど遠く、世界のメーカーが新たな素材の開発にしのぎを削ります。  そして、30年代に入って新機軸が続々と登場。カラー写真は群雄割拠の戦国時代に突入します。

火ぶたを切ったのは1930年にイギリスで開発された「フィンレー」でした。  オートクロームより画質は落ちるものの、高感度がウリ。夏の晴天なら25分の1秒というシャッタースピードで撮影できたおかげで、メルビルは世界ではじめてカラー写真での空撮に成功します。

 自由の女神を撮影し、『ナショナル ジオグラフィック』の1930年の9月号に掲載しました。とはいえ、飛行機のスピードでは無理だったので、乗ったのは飛行船でしたけどね。

シャッタースピードが速ければ、動いているものや、暗いところにもより対応できます。そのメリットのおかげで、フィンレーの割合は少しずつ増えてゆき、1930年の1年間の掲載枚数は、オートクロームが366枚でフィンレーは38枚だったのに対し、1935年にはそれぞれ72枚と231枚という具合に、フィンレーがオートクロームを逆転しました。

 それでも、フィンレーは決定打ではありません。フィルムではなくガラス板だったため、オートクロームと同じように重かったですし、やはり画質があまりよくなかったのです。  その後、1936年にはフィルム形式の「アグファカラー」がドイツで開発されたり、翌37年にも同じくフィルム形式の「デュフェ」というシステムが登場したりしますが、いずれも決め手に欠けていました。

こんなふうに各社がしのぎを削るなか、しかし、ついにあるメーカーが目の覚めるような特大ホームランを放ちます。

 が、なぜか『ナショナル ジオグラフィック』はすぐにはそのカラーフィルムを採用しませんでした。  その特大ホームランとは何なのか。なぜ『ナショナル ジオグラフィック』はすぐに採用しなかったのか。そして、採用にいたる物語がカメラの開発・発展の歴史なのです。

・・・・・・・・ 明日に続く・・・・・

次回は “   «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック » (2/5) “ に続く・・・・・

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