【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 10月10日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-10 05:10:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆辛亥革命が起こった日(1911年)だからか沖縄県が空から攻撃された日(1944年=十・十空襲)ゆえか東京オリンピックが始まった日(1964年)からなのかよく判らないが、この日は全国の銭湯(1010)で戦闘(1010)が繰り広げられるらしい。 ◆『8時だョ!全員集合』の裏番組として『オレたちひょうきん族』がレギュラー放送として放送開始(1981年)、ドリフターズの独壇場にタケちゃんマンが暴れ始める展開に。 ◆寒露・世界郵便デー・体育の日・トラックの日・道具の日・東急の日・金券の日・塾の日・熟睡の日・熟成烏龍茶の日・熟成ウインナー TheGRANDアルトバイエルンの日・アメリカンドッグの日、まだまだありますが、 話のネタに、でっかい船がイスカンダル目指して出発(2199年)す。

◎ ◎ 二匹のボクサー犬に引き摺られて、早朝一刻 90分の散歩が日課なのだが・・・・ ◎ ◎

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今日(狂)の狂言 : 10月09日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-09 05:10:09 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆太平洋戦争に負けたので大日本帝国による検閲が無くなったと思ったが束の間、今度は米軍が検閲を始める(1945年=GHQが事前検閲を開始)。 ◆ターリバーンをdisった女子校生マララ・ユサフザイが聖戦と称したリンチに遭う(2012年)。 ◆寒露・世界郵便デー・体育の日・トラックの日・道具の日・東急の日・金券の日・塾の日・熟睡の日・熟成烏龍茶の日・熟成ウインナー TheGRANDアルトバイエルンの日・アメリカンドッグの日、まだまだありますが、 話のネタに、でっかい船がイスカンダル目指して出発(2199年)す。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 11回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « 世界初の有人深海調査を支援 (3/3) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

20mn年04月04日 / (Web編集部)

 ところが、スティーブンスらしいというかなんというか、事態が突然悪化します。水素を入れるエアバッグの下側に裂け目ができ、徐々に広がっていきました。 「成層圏探査(Exploring the Stratosphere)」と題し、『ナショナル ジオグラフィック』1934年10月号にスティーブンスが詳しいレポートを書いているので、ちょっと引用してみましょう。

「ゴンドラのてっぺんによじ登ってエアバッグを見上げるとひどいものだった。裂け目が増えているうえ、切れはしまでヒラヒラしてる。問題は気球がいつまでもつか……突然、エアバッグの底がすっぽりと抜けてしまった。バッグの内側がまる見えだ。底の抜けた気球はパラシュートのような働きをしていた。丸く張りつめた左右対称のその様子はたいそうな光景だった。が、安全というには少々張りつめすぎている!」

 気球がこれ以上もたないことは明らかでした。すぐに落下し始め、3人は脱出の準備をします。しかし、すでに貴重なデータを記録した計器類をなるべく壊さないようにと、スティーブンスはゴンドラの中に戻り、ぎりぎりまで粘ります。

高度3000メートル……2500……2000。1800メートルになったとき、これ以上は危険と判断し、3人は脱出を決めてパラシュートを装着。  高度計は1500メートルを指していました。海抜600メートルの地点だったので、地上まであと900メートル。

 このとき、ゴンドラの外にいた1人のパラシュートに問題が起きます。何かに引っかかったせいで、パラシュートの包みが半ば開いてしまったのです。  普通に飛び降りるのは不可能。もはや方法はひとつしかありません。パラシュートの布を抱えながら飛び降りるのです。

 事態は急を要します。刻々と迫る地面。もう全員が脱出しなければ危険でしたが、彼がその準備でもたつく間、足でゴンドラのハッチをふさいでしまいました。

 焦ったのはゴンドラの中にいたスティーブンスです。 「おい、その大足をどけろ! 俺は飛び出したいんだ!」   スティーブンスは叫びました。おそらく相手には聞こえなかったでしょう。この際、聞こえるかどうかはどうでもいいことでした。

 ほどなく邪魔な足が見えなくなりました。彼がパラシュートの布を抱えて飛び降りたのです。  よしこれで大丈夫。俺も飛び出せる。と思ったら、なんと水素で膨らんだ気球が爆発! パラシュートの役割をはたしていた気球の布が一気にはじけ飛び、ゴンドラが石のように落下し始めました! 早くゴンドラから脱出しなければ!!

 スティーブンスは2度、ハッチから出ようとトライしましたが、風圧に押し戻されて出られません。そこで、いったんうしろに下がり、頭から飛び込むようにジャンプしたら上半身が出たものの、途中で体がつかえてしまいます。それをゴンドラの上部に残っていたもう1人が蹴るようにして外に押し出し、なんとか脱出に成功。パラシュートも開いて、無事、トウモロコシ畑に着地して九死に一生を得ました。

 いや、「墜落した飛行機からしばしば歩いて帰ってくる」彼にとって、これは「九死に一生」ではなく、いつものことだったのかもしれませんね。

 こんなトラブルでスティーブンスがめげるはずがなく、翌年、彼らは新しい気球「エクスプローラー2」を完成させてふたたび成層圏に挑みます。今度は水素のかわりに安全なヘリウムを使い、気球も裂けたり爆発したりせず、高度2万2066メートルまで上昇して見事に探検を終えました。

 2度目の探検は『ナショナル ジオグラフィック』1936年1月号で「人類の最高高度(Man’s Farthest Aloft)」として詳しく報告されました。なお、高度2万2066メートルという記録はその後21年間にわたり破られませんでした。

 この成功は新聞各紙の1面を大きく飾り、スティーブンスは全米で有名になります。フランクリン・ルーズベルト大統領からも祝辞を受け、勲章をたくさんもらいました。さらに、成層圏での宇宙線、電波、オゾン、胞子などの調査が進むと同時に、キャビンの居住性や耐熱スーツ、通信環境など、人間が宇宙へ行くために必要な基礎データも得られました。

 ナショナル ジオグラフィック協会が支援したスティーブンスのこの探検は、のちにNASAの発足につながる事業となり、有人宇宙開発の貴重な足がかりとなりました。

 ちなみに、スティーブンスが記録を打ち立てた「エクスプローラー2」のゴンドラは米国のスミソニアン博物館に展示されています。 ・・・・・・・・おわり

・・・・・・・・xxx削除xxxxx 明日に続く・・・・・

次回は “   «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック »  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月08日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-08 05:10:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆暴れん坊将軍が、世に蔓延る悪党どもを成敗しようと御庭番を設置(1716年)。
◆白虎隊が腐女子の妄想の種にされた末に、二番士中隊員20人が飯盛山で自刃滅亡(1868年)。 ◆7年前に死者まで出る事態に至った学生による暴動事件の元凶を作った佐藤栄作が、何の因果かノーベル平和賞を受賞(1974年)。その前年のヘンリー・キッシンジャーの受賞に引き続いて、平和賞の怪しさ存在意義が問われることに。

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1921-1956期 追考 « 世界初の有人深海調査を支援 (2/3) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

20mn年04月04日 / (Web編集部)

―まずは気球にした理由から。

「どんなタイプの乗りものを使うべきか? 3種類の可能性がある。気球、飛行機、ロケットだ。まだどれも10マイル上空まで到達したことはない。ロケットは近いうちに行くかもしれない。いつかはもっとずっと高くまで行くだろう。だが、ロケットが現実的な手段となるまでには、地球は太陽の周りをたくさん回らなければなるまい。飛行機は数年のうちに到達するだろうが、まだその高度には適していない」

 記事の主な内容は、飛行に使った気球の紹介と専門の宇宙線の話でした。それでも、低気圧も高気圧もない穏やかな成層圏の印象があまりに強く、ラストはニューヨークのビジネスマンが急きょパリへ飛ぶ、なんていうSFチックなバーチャル体験記で締めくくっています。

 ニューヨークの自宅で朝食を食べていたら、パリの友人から電話がかかってきて、その日のうちに飛んでディナーを一緒に食べるというストーリー。所要時間は6~8時間と予測。時差はさておき、いま読むとごくフツーの日記みたいです。そのへんのリアリティはさすがです。

「天気は常に良好。雪も、雨も、霧も、霜も、そして機体への氷の付着もない……成層圏は未来の大陸間横断のスーパーハイウェイである」という予言を残してピカールは筆をおきました。いまの国際線の状況をみれば大当たりですね。

 気球による高度記録レースで歴史に名を残したもう1人、アルバート・W・スティーブンス大尉はその名のとおりアメリカの軍人でした。しかし、ただの軍人ではありません。陸軍航空隊写真研究所の所長であり、何より実に破天荒で魅力的な人間でした。航空写真家だったこともあり、ナショジオはスティーブンスを支援して、彼が宇宙への扉を開けることになるわけですが、・・・・・・

 今回は1930年代、有人宇宙開発の第一歩を歴史に刻んだ2人のうちのもう1人、アルバート・ウィリアム・スティーブンス大尉のお話です。
(すみません、2週前になってしまいましたが)前回の終わりに紹介したように、スティーブンスは米国陸軍に所属する軍人で、1930年代のはじめには、陸軍航空隊・写真研究所の所長をつとめる航空写真家でした。

 1930年には、世界ではじめて地球が丸いことがわかる写真を撮影。『ニューヨーク・タイムズ』の1面に掲載され、注目を集めます。地球が丸いことはみなアタマではわかっていても、それまで誰1人として見たことがなかったわけで、インパクトは絶大でした。

 また1932年、日食のときに地球に落ちた月の影の撮影に成功。『ナショナル ジオグラフィック』の1932年11月号に掲載されました。これも世界初の写真です。

 そんなこんなで当時彼は「世界でもっとも偉大な航空写真家」とも言われていましたが、これも前に書いたように、人間的にも魅力的というか、相当なトンパチ野郎だったみたいです。
 空を飛ぶのが大好きで、しょっちゅう航空写真を撮りに行き、墜落した飛行機から無事戻ったことも一度や二度ではありません。

 あるときは上空でゴーグルをはずしたせいで、顔を霜だらけにしたまま帰還する。また、単に気分がいいからというだけで、高度7200メートルから飛び降り、非公式ながら新記録を打ち立てたり。なんというか……空飛ぶ豪傑ですね。フライング・ジャンキー!?(笑)

 かくも型破りなスティーブンスは、いっとき飛行機による最高高度記録をもっていましたが、当然ながら人類史上はじめて成層圏に到達したオーギュスト・ピカールの1万6201メートルには及びません。またスティーブンスは上空の科学的な観測にも興味を持っていました。そこで、気球による成層圏の調査を計画。陸軍航空隊に提出すると、すんなりと受理されます。

ただし、問題がひとつありました。「金は自分で何とかしろ」という条件です。
 そう、ナショジオの出番です!(笑)

 フロンティアへの挑戦、そして、科学的な研究を支援するのは協会の使命。スティーブンスの支援をもちろん引き受けます。ビービの深海調査が1933年から34年でしたから、ぴったり同じ時期ですね。

成層圏へのスティーブンスの初挑戦は1934年7月28日に行われました。

目標はピカールの記録をはるかに上回る高度2万4000メートル。高さが26階建てのビルほどもある史上最大の巨大な気球「エクスプローラー1」に、ほかの2人のスタッフと乗り込み、順調に高度をあげていきます。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “   «有人宇宙開発のはじめの一歩も支援(2/3) »  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月07日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-07 05:38:22 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆チェ・ゲバラがライフワークであった『ゲバラ日記』を書き上げる。「我が生涯に一片の悔いなし」として翌日ボリビア軍の捕虜となり、翌々日に処刑される(1967年)。 ◆巨人軍とその親会社となる新聞社が結託し、パ・リーグ切っての強豪の八百長をスクープ(1969年=黒い霧事件)。パ・リーグの人気を失墜させることに成功し、巨人軍によるプロ野球支配を盤石のものとする。 ◆クイズ番組や歌番組の司会者だった久米宏がニュースステーションでアンカーマンに(1985年)。日本の報道番組の価値下落の第一歩。

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1921-1956期 追考 « 世界初の有人深海調査を支援 (1/3) »

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20mn年04月04日 / (Web編集部)

 1930年代に行われた世界初の深海調査について紹介しました。話の流れとして、空にしましょう。空といってもここでは宇宙まで含めたSpaceという意味です。あるいは「宇宙」と書いて「そら」と読んでもらってもいいのかな。

 またまた、前述のジェームズ・キャメロンの話題で恐縮ですが、映画『タイタニック3D』の記者会見でも「もし火星に行くロケットを作れるならもちろん作りますよ」と監督は言ってました。ただ、「ちょっと予算的に足りない」みたいですけれど(笑)。深海と宇宙は似たもの同士。ともに最後のフロンティアといわれるように、共通の魅力がありますよね。

 1930年代はその有人宇宙開発のスタート地点でした。  乗りものは飛行機でもロケットでもありません。

何だと思いますか?  正解は……、

気球です!(最近このパターン多いな……)。

 ひとくちに空といっても、地球の大気圏は低いところから「対流圏」「成層圏」「中間圏」「熱圏」にわかれています。それぞれの環境は大きく異なり、1930年代にはまだ成層圏から上の状況はほとんどわかっていませんでした。

 すでに飛行機はたくさん飛んでいたものの、成層圏といえばざっくり言って1万メートル以上。そこまで到達できる推進力はない。また、ロバート・ゴダートが液体燃料ロケットの打ち上げに成功していましたが、とうてい人を乗せられるシロモノではありません。ロケットが生物(人以外も含めて)を乗せて宇宙を目指すようになるのは戦後だいぶたってからの話です。

 というわけで、当時は気球に乗って上昇していました。

 あ、気球といってももちろんカゴみたいなものではありません。人間が乗るところは圧力や酸素もちゃんと調整できる密閉式のゴンドラです。形はほぼ球形。そうやってさまざまな計器を積み込みデータをとりました。まさにヨーヨー方式だった当時の深海調査の正反対ですね。

 やり方はとても単純でしたから、当時は気球で到達した高さをめぐる競争が繰り広げられていました。

 話は戻りますが、前回紹介したとおり、深海に挑戦したのがビービとバートンだけだったのに、気球で高いところへ行こうとした人が複数いたのはそれだけラクだったからです。

 海に1000メートル潜れば100気圧の差があるのに対し、空の場合は、どんなに高くまでのぼっても差は1気圧しかありません。たとえ宇宙空間に行っても気圧は0になるだけ。ゴンドラのつくりでいえば、空のほうがよっぽど簡単でした。

 当時の高度記録レースに挑戦した人々のなかで、歴史に名を残した人物といえば次の2人でしょう。

 1人は史上はじめて成層圏に到達した物理学者のオーギュスト・ピカール。もう1人はその後21年間破られなかった2万2066メートルという大記録をうちたてたアルバート・W・スティーブンス大尉です。

「ピカール」と聞いて「おや?」と思った人もいるのではないでしょうか。そう、かの有名な金属みがき……ではありません! 「たしか、最初に深海最深部のマリアナ海溝まで潜った人も『ピカール』だったのでは?」。そうそう、そのピカールです。彼、ジャック・ピカールはオーギュストの息子です。

 ついでに言うと、孫のベルトランも冒険家。ピカール家といえば超有名なスイスの冒険野郎一家です。息子のジャックもマリアナ海溝に潜ったレポートを『ナショナル ジオグラフィック』で書いています。それはまたいつか紹介したしましょう。それにしても深海と宇宙はつくづく縁が深いですねえ。

 オーギュスト・ピカールはスイス人の物理学者で、主に宇宙線(cosmic ray)の研究をするために、1931年5月27日には1万5781メートル、1932年8月18日に1万6201メートルまで上昇に成功。史上はじめて成層圏まで到達し、そこが飛行に適した場所であることを発見します。

「気球に乗って成層圏へ――高度10マイルへの2度の飛行は新しい空の旅行のはじめの一歩(Ballooning in the Stratosphere ―― Two Balloon Ascents to Ten-Mile Altitudes Presage New Mode of Aerial Travel)」と題し、ピカールは『ナショナル ジオグラフィック』1933年3月号に寄稿しました。

・xxxxx 明日に続く・・・・・

次回は “   «有人宇宙開発のはじめの一歩も支援(2/3) »  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月06日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-06 05:10:34 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆スクリーンに映っていた黒塗りのオッサンが声を出したもんだから、観客がビックリ(1927年=トーキー映画『ジャズ・シンガー』が初公開)。 ◆海の向こうの資本主義国のギャングに感化されたアカが、大森で銀行強盗をやらかす思想的かつ戦術的な過ちを犯した(1932年=赤色ギャング事件)。 ◆直ぐはやらないのは当たり前のお役所仕事に業を煮やしたマツモトキヨシが、地元に「すぐやる課」を設置(1969年=千葉県松戸市役所)。

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1921-1956期 追考 « 世界初の有人深海調査を支援 (3/3) »

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2012年4月04日 / (Web編集部)

 世界恐慌はますます悪くなる。しかも、パートナーのバートンが深海探検映画の制作で大コケし(なんともお粗末なデキなのです)、ビービは以前にもまして苦境に立たされます。出資者を探しても1年以上見つからない。

 もうこれ以上バチスフィアで潜るのは無理なのか……(困り果てるビービ)。でも、……まだあきらめちゃだめだ。がんばれビービ!  さあここでナショジオの登場です! ヒーローはいつも遅れてやってくるのです!

 すみません……ちょっと悪ふざけがすぎました。別にナショジオがエラいわけではありません。偉いのはビービです。

 これは少しあとで詳しく書こうと思っているのですが、会員制のナショナル ジオグラフィック協会は比較的不況のあおりを受けず、ほかよりはまだ余裕があったようです。人類未踏の冒険を志すビービを支援するのはナショジオにとってごく当たり前のことでした。

 1934年8月、ビービはみたび潜水調査に向かいます。バートンにも参加を呼びかけたあたりはビービの人徳でしょう。

 8月7日、920メートルの無人テストに成功したのち、ビービとバートンはバチスフィアに乗り込みます。このときは765メートルまででしたが、11日にもう一度チャレンジをして、ついにケーブルの長さぎりぎりの923メートルまで潜りました。926メートルには3メートル足りなかったものの、バチスフィアでは精一杯の記録でした。

 ところで、なぜ926メートルなのか。実はこれ、ちょうど半マイル(海里)なのです。1海里は1852メートルですからね。「ひとっぱしり5分」と覚えましょう。なんの役にも立たないけど。

「ハーフマイルダウン(A Half Mile Down)」と題し、1934年12月号の『ナショナル ジオグラフィック』でビービはこのときの様子をレポートしています。

 この記事が面白いんですよ。潜行していくごとにいろんな生きものが代わる代わる現れて、カラフルな深海生物のイラストも上手。まるで最近の深海生物図鑑を見ているようです。いま掲載してもウケるだろうなあ。

 実際のところ、発見の多い潜水でした。

「バチスフィアで潜っていると、感情が高まる瞬間が3回あると前に書いた。最初は、生物が放つ光をはじめて見た瞬間。2回目は漆黒の闇に包まれたとき。そして3回目は、新種の魚を発見した瞬間だ。

 今回の深海探査では4つめの瞬間があった。水深500メートルで、それまでまったく謎だった現象を解明できたのだ。

 長さ10センチほどの生きものがのぞき窓に突進してきて、体を横倒しにすると、なんと閃光とともに爆発。じっと見つめていると、閃光は私の顔とのぞき窓の内側の窓枠を照らすほど明るかった。実は私が見たものは、大きな赤いエビと、そのエビが吐き出す炎のように明るい液体だった。浅い海でイカがスミを吐くように、深海のエビはこうして身を守っている」

 映画『ディープ・ブルー』にこんなふうに身を守る生きものが出てきてすごく驚いたけれど、すでにビービが報告していたとは! そっちのほうがオドロキかも。

 さらにビービは新種の魚を3種類発見しています。アマダイのような顔をした「青白セイルフィン」、頭のちょうちんが3つある「三ツ星アンコウ」、光る5本線が体に並んだチョウチョウオ型の「五線セイザウオ」です。  ギョギョ!!

 イラストもなんだかさかなクンっぽくて味わい深いんですよね。昔の生物学者は絵がうまい人が多かったのです。

 そんなこんなで大成功を収めたビービでしたが、資金ぐりが厳しく、このあとは二度と深海に潜れませんでした。

 その後、15年間破られなかった記録も、いまとなってはたいしたものではありません。しかし、深海調査という新たな世界を切り拓いたビービの第一歩は、人間の歴史のなかにはっきりと刻み込まれ、いまにつながっているのです。

・・・・・・・・おわり

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次回は “   «有人宇宙開発のはじめの一歩も支援 »  “ に続く・・・・・

・・・・ Dive into the Deep Dark Ocean in a High-Tech Submersible! ・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月05日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-05 05:10:30 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ フランスでオバタリアンがヴェルサイユ宮殿に乗り込んで、ルイ16世やらマリー・アントワネットやらをパリに引き摺り出す(1789年=フランス革命: ヴェルサイユ行進)。 ◆ 自分とこの大陸のこと以外は表向き無関心を決め込んでいたフランクリン・ルーズヴェルト、枢軸国を隔離せねばと公言(1937年=隔離演説)。 ◆ 愛と平和を説くカルト教団「ビートルズ」が結成される(1962年=『ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー』)。&so、ジェームズ・ボンドの第1作『007 ドクター・ノオ』がイギリスで公開。

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2012年4月04日 / (Web編集部)

 調査の話に戻りましょう。

 午後1時。母船のクレーンに吊り下げられて、ビービとバートンが乗ったバチスフィアが進水。銅製のヘルメットで限界だった18メートルはあっという間に通過します。20……40……60……120……150……180メートル。このあたりからサーチライトが本領を発揮する暗さになりました。「ここまで沈んだことのある人間は死人ぐらいだろう」とビービ。

 そのあたりまでは順調でした。ところが、240メートルまできたときにビービは水圧への恐怖から潜行を停止します。「生涯に何度か、明らかに予感がすることがある。このときもそうだった」と直感にしたがって浮上。この日は調査を中止してしまいました。

 仕切りなおしは6月11日でした。このときは水深434メートルの場所で潜行し、見事、無事に海底まで到達します。その間に全身の発光器が燃えるように光るハダカイワシや、群れをなす巻貝、小さなイカ、ムネエソ、発光する小さな生物たちなどさまざまな生きものを目撃し、はじめての有人の深海調査は大成功に終わりました。

 翌々日の13日には「ニューヨーク・タイムズ」がリンドバーグや南極上空を飛んだリチャード・バードなどと並べて2人の成功を大々的に称賛しました。おかげで、2人は著名な探検家として知られるようになります。結果は大成功でしたが、ビービの目標はあくまで水深900メートル。彼のチャレンジはまだまだ終わりません。

 世界初の深海有人調査船「バチスフィア」で1930年6月に水深428メートルまで到達したウィリアム・ビービでしたが、まだまだ満足できませんでした。水深926メートルをめざしてすぐに活動を開始します。

 しかし、お金のかかる調査には厳しい時代でした。1929年に始まった恐慌はひどくなる一方でしたから。

 それでもビービはあきらめませんでした。  彼には秘策がありました。  なんだと思います?  それは……、

 生放送でした。バチスフィアと母船の交信をラジオで生中継しようというのです。

 このアイデアは大いに注目を集めました。そりゃあワクワクしますよね。キャメロン監督もどうせならネットで生中継してくれればよかったのに……『タイタニック3D』のロンドンプレミアとかじゃなくて。それこそキャメロン“監督”の生アビス、見たいですよね。

 NBCラジオで深海からの声を生放送する計画のおかげで資金調達に成功したビービは、1932年9月、ふたたびバミューダ沖で深海潜水調査にチャレンジします。

 ところが、結果からいうと、今回も水深900メートルには到達できませんでした。原因は天候です。バミューダ諸島を嵐が襲い、キケンを承知で海に潜ったものの、水深670メートルで潜行をあきらめます。

 とはいえ、希望の光も見えました。  まずは428メートルという前回の記録を更新したこと。

 それから、無数の発光生物や、牙の生えた体長2メートル近い魚(アンタッチャブル・バチスフィアフィッシュと命名)を目撃したこと。そして何より、この潜水の模様を世界中にラジオで中継できたことでした。

 前回の水深428メートルではまだかすかに明るかったのですが、水深510メートルを過ぎるとあたりは完全な闇に包まれました。世界に向けてビービは言いました。 「少なくとも人間の目で見る限り、太陽の光が届かないところに来た。つまり、ここから下には20億年間、昼も夜も、夏も冬も、いや、時間そのものさえなかったのだ。私たちが来るまではね」

 ロマンチックなレポートですよね。人気者になるわけです。  もちろん、ビービは水深926メートルをまだあきらめません。  この成功も『ニューヨーク・タイムズ』の1面を飾りました。おかげで次の資金調達はラクかに思えたのですが、そうは問屋がおろしません。

・・・・・・・・xxx削除xxxxx 明日に続く・・・・・

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次回は “   « 世界初の有人深海調査を支援 » (3/3)  “ に続く・・・・・

・・・・ Bathysphere Video, 99 Percent Invisible ・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 10月04日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-04 05:10:44 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 就寝前にお父さんが見る定番番組だったきょうの出来事が放映開始(1954年)、でも櫻井キャスターが登場するには更に四半世紀以上待たねばならなかった。 ◆ ローマ教皇パウロ6世がドルを求めて初訪米(1965年)。 ◆土曜8時にいかりや長介の「8時だョ!全員集合」の号令が初めて日本全国に響き渡ったり(1969年)、世にも奇妙な物語のホストが仕切るお昼の看板番組が放映開始(1982年)したりとこの日は長寿番組にとっての特異日。尚、1970年の『遠くへ行きたい』は現在も放送中。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 10回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « 世界初の有人深海調査を支援 (1/3) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年4月04日 / (Web編集部)

 ついこの前の3月26日、『タイタニック』や『アバター』の監督で、ナショジオの探検家でもあるジェームズ・キャメロン氏が海洋最深部のマリアナ海溝での有人潜行に成功したことはこのサイトでもお伝えいたしました。

 このニュースはテレビでも取り上げられていたから、(ナショジオのマーク入りのニュース映像を)ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 ちなみに、中の人は某国営放送の朝のニュースで見て、画面の左上にナショジオの黄色い四角形とロゴが出てきたときにはめちゃくちゃ驚きました。しかも、右上にも黄色い四角形がもうひとつ。画面の上、左右に黄色い□が仲良く並んでいたのです! ええ、あれは記念すべき瞬間でした(笑)。録画しとけばよかったなあ。

 そういえば、この4月から黄色い四角が変わっちゃいましたね。あ、変わったのはナショジオじゃありませんよ。3月中に成功してありがとう。キャメロン監督。

 というように、キャメロン監督のおかげで、ナショジオの有人深海調査プロジェクトがにわかに注目を集めましたけれど、これはなにも今回に限った話ではありません。というか、ナショジオはしょっぱなから有人の深海潜水調査に関わっていたのです。

 世界ではじめて有人深海調査が行われたのは1930年でした。調査船の名前は「バチスフィア(bathysphere)」。「bathy」の語源はギリシャ語の「深い」で「sphere」は「球」、つまり、「深海の球体」です。開発したのは生物学者のウィリアム・ビービとエンジニア兼スポンサーのオーティス・バートンでした。

 深海調査をはじめる以前から、ビービは名の通った鳥類学者でした。ニューヨークのブロンクス動物園に所属し、未開のジャングルを探検しては鳥をはじめさまざまな生きものを調べて、一般向けに記事を書いて人気を得ていました。セオドア・ルーズベルト大統領も彼のファンだったそうです。

1925年、ビービは48歳のときに海に目を向けはじめます。   当初、彼は船で海に出て、さまざまな場所の生物を採集し、観察しました。なかには水深900メートルの海底も含まれていました。深海から引き揚げた網に、これまで見たこともない生物がたくさんいるのを見て、ビービは深海への夢を一気に膨らませます。

 この目で海の中を見てみたい。太陽の光が決して届かない暗闇の世界にどんな生きものがいるのか直接確かめたい。強く願ったビービは、銅製のヘルメットに空気を送る形で調査をはじめます。いわゆる「フーカ潜水」です。でも、銅製のヘルメットでは水深18メートルが限界でした。そりゃそうでしょう。ヘルメットだけで深海は無理に決まってます。

 とはいえ、ビービが体験した水中の光景はほとんどの人が見たことのないものでした。海中という新たな世界を切りひらいたビービはさらに人気を博します。

 1928年、海に魅せられたビービはフロリダ沖のバミューダ諸島に移住し、海洋研究所を立ち上げます。深海への情熱はつのるばかり。そんな彼に資金援助を申し出たのがニューイングランドの大きな商店の跡とり息子でエンジニアだったオーティス・バートン(29歳)でした。  意気投合した2人はさっそく深海調査船の開発にとりかかります。

「バチスフィア」の完成は1929年。

 設計はオーティス・バートンで、直径1.5メートル弱、厚さ4センチの鋼鉄の球体に、のぞき窓用に厚さ7.5センチの石英ガラスがはめ込まれています。総重量は2.5トン。幅35センチの鉄の扉だけでも150キログラムもある。船内には計器類がびっしりと並び、サーチライトが1灯だけ備わっていました。

 動力はありません。なぜなら、長さ1500メートルの細いケーブルで吊り下げるだけだったからです。まるでウルトラヘビー級のヨーヨーですね。ケーブルの重さだけでも2トンもありました。  記念すべき初調査は1930年6月のこと。場所はバミューダ諸島数キロ沖合いの水深2780メートル地点でした。

 無人のテストを何度か繰り返したのちに、6月5日にビービとバートンがはじめて乗り込みます。ドキドキしたでしょうねえ。無人のテストをしたとはいえ、そんなことをしようとした人は過去にいませんでしたから。

 世界ではじめてのチャレンジです。当時は潜水艦の記録ですら120メートルでした。ビービが目指した深さは以前網を入れた900メートルです。万一、深海で浸水しようものならあっという間におだぶつです。

 ビービはその模様を『ナショナル ジオグラフィック』1931年6月号の特集「海の墓場への往復旅行(A Round Trip to Davy Jones’s Locker)」と題してレポートしています。

 余談になりますが、Davy Jones’s Lockerとは「(死んだ船乗りが横たわる)海底」という意味。デイヴィ・ジョーンズって、どこかで聞いたことありません? 『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出てきましたよね。フライング・ダッチマン号の船長として。そう、タコとカニと人間の合いの子みたいなアレです。それから、『ワンピース』の「デイビーバックファイト」の考案者だったり、「ホーディ・ジョーンズ」のモチーフにもなっています。それなりにメジャーな表現みたいですよ。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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次回は “   « 世界初の有人深海調査を支援 » (2/3)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月03日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-03 05:10:39 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 遭難のモールス信号・・・― ― ― ・・・としてせんないが おおさわぎする そうどう 略して「SOS」を制定(1906年)。これが、日本が世界に誇る涼宮ハルヒシリーズ誕生の遠因となる。 ◆ 東京オリンピック開会を前に日本武道の聖地が竣功(1964年)。しかし、半世紀以上経った今ではミュージシャンの聖地と化すことに。本年は非難轟轟の自民党の聖地と化す。 ◆ ドイツの東半分とベルリンの東半分を支配していたソビエトの犬がご臨終(1990年)。ドイツがやっと再度一つになったものの、東西を隔てた様々な格差は統一から40年近く経っても悩みの種。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第9回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? (5/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年3月07日 / (Web編集部)

マルコ・ポーロ以来の大遠征ついに完結!

 ヒマラヤとカラコルム山脈をなんとか越えたシトロエン―アールト中央アジア探検隊は、こんどは内乱に巻き込まれます。折りしもこのときの新疆(しんきょう)省は、中国最大のイスラム教民族「回族」の馬仲英による反乱の嵐が吹き荒れる最中でした。

 おまけに、再会後の出発が中国の足止めにより11月になったせいで、冬の厳しい寒さとも戦わなければなりません。

 最低気温は-20℃以下。ウィリアムズはゴビ砂漠で両手に凍傷を負い、ペンを口に入れてインクをあたためないとメモもできないときもしばしば。  ここから先はハリウッド映画さながら、スリルとサスペンスの脱出劇です。「いったん出発してからは、最後の目的地にたどりつくまでひとときも休息できなかった」とウィリアムズが書いたのは率直な心情でしょう。

 記事の最終回となった1932年11月号「地中海から黄海まで自動車で(From the Mediterranean to the Yellow Sea by Motor)」(全68ページ)からちょっと引用してみましょう。  これは再会前の“中国隊”についての記述ですが、

「許可が遅れたのは私たちの遠征の意図が十分に伝わっていなかったのも一因だった。どうやら中国の当局は遠征隊をうさんくさい一行と見ていたようだ。貴重な鉱物資源が目当ての探査ではないか、あるいは中央アジアで少数民族の反乱を扇動しようとしているのではないか……はては遠征隊の自動車がキャタピラをつけ装甲車のような格好をしていることから、中国侵略を狙ってカムフラージュした日本軍ではないかという疑いまでかけられた」

 再会後は、夜露をしのぐ場所がほかにないために、15体の凍れる死体の間で一夜を過ごしたり、馬仲英に追われる途中でみせしめにさらされる27個もの山賊の生首と出くわしたり、黄河に張った氷が割れて「銀の三日月号」が水没し、すんでのところで何百本もの貴重なフィルムが助かったり。

 挙句のはては中国政府と銃撃戦を繰り広げる場面も。

「ゴールが近くなった頃、内モンゴルを出る直前に隊は突然、中国兵から銃撃を受けた。道の両側の土塀の陰から隊列をめがけて銃弾が打ち込まれたのである。隊長の車とその後のトレーラーが集中的にねらわれ、11発もの銃弾を受けた。私たちは応戦体制をとった」

「元兵士の隊員があざやかな射撃で応戦した。まず機関銃を4発撃ち、しばらく間をおいてからもう一度4発、さらに間をおいてあと4発撃った。これで弾を無駄遣いすることなく、しかもこちらに機関銃があることが相手に分かった。このねらいは見事に当たり、中国兵はほどなく射撃を止めて白旗を掲げて、話し合いを申し入れてきた。隊長が出てきて、「敵と見誤り、ちょっと誤解があったようだ」と言ったのには怒りを通り過ぎてあきれてしまった」

 いやはやとんでもない遠征でした。中央アジアが北極、南極につぐ空白地帯とはいえ、冒険の質は極地とまったく違いますね。  それでも1932年2月12日、探検隊一行はなんとか最終目的地の北京に無事到着します。かかった日数は314日。走行距離1万2400キロ。

「地中海からアジア大陸を横断し、中国の黄海まで到達したのはマルコ・ポーロ以来の大旅行である……遠征隊の成功後間もなく、各界の専門家たちが競って中央アジアを訪れるようになり、新しい発見を続けている。シトロエン―アールト・アジア大陸横断自動車旅行の真の歴史的意義は今後にその評価を待たなければならない」とウィリアムズは筆を置いています。この冒険がそのままスウェン・ヘディンによる「さまよえる湖」発見のルートにつながったことを考えれば、その意義はおのずと明らかでしょう。

第一期黄金時代を飾った『ナショナル ジオグラフィック』の2大スター、ジョゼフ・ロックとメイナード・オーエン・ウィリアムズの回はこれで終わりです。

 呪術やシャーマンを好んだジョゼフ・ロックがジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』をはじめとするファンタジーの世界を開拓したとするならば、ツタンカーメンの墓や中央アジアのスリリングな大遠征をレポートしたメイナード・オーエン・ウィリアムズが開けたのは冒険活劇の扉でした。そして、このレポートでウィリアムズは押しも押されもせぬ『ナショナル ジオグラフィック』のスターのひとりになりました。これだけ面白いレポートを書けば当然でしょう。

 話は変わって、インディ・ジョーンズのモデルはマチュピチュを発見したハイラム・ビンガムという説がありますが、彼は危険に満ちた冒険はしていません。純粋な考古学者でしたから。

 確かに、インディ・ジョーンズは考古学者だけど、映画の冒険の世界はどちらかというとメイナード・オーエン・ウィリアムズのそれに近い感じがします。ウィリアムズの冒険の主人公にハイラム・ビンガムをあてはめたといわれると、中の人にはとてもしっくりくるのですが、そんなことはないのかな。

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次回は “   « 世界初の有人深海調査 » (4/5)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月02日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-02 05:10:48 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ かつて一世を風靡した「でつ」の誕生日。&so、ayuのお誕生日でもある。誕生花の花言葉は「乙女のはにかみ」「逆境と繁栄」「野性的な美しさ」……高須の作品であるあゆみさん? ごまかしてるでしょう? 誕生日も。 ◆ 「戦争をするくらいなら部屋にこもって瞑想すべき」と説いたマハトマ・ガンディーが生まれる(1869年)。よって、今日をこの日を“国際非暴力デー”と国連決議。 ◆ 日本における理系の優遇が決定的になる(1943年)。文科系学生の徴兵猶予を全面停止(学徒出陣)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第9回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? (4/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年3月07日 / (Web編集部)

 アレクサンドロス大王とは大きく出ましたね!(笑)。それはともかく、エキゾチックなペルシャの町に感動する心情が伝わってきませんか? “ミスター・ジオグラフィック”だけありますね。写真も見事なものです。お見せできないのが恐縮ですが……。

 このあとも、テヘランでラクダのいけにえの儀式に立ち会ったり、アフガニスタンの人々のおもてなしに感心したり、その首都カブールで国王に謁見して温かい言葉をかけてもらったり。  カブールに入る手前でバーミヤンへ向かった隊員もいました。いまはなき石窟に残るブッダ像を見るためです。破壊されてしまったのはホントに残念……。

 スリナガルに着いた一行は続いてヒマラヤ越えに挑みますが、 「どこでも自動車」はヒマラヤを越えられるか?

 カシミールのスリナガルに到着した「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」は、ここからいちばんのヤマ場であるヒマラヤとカラコルム山脈越えにチャレンジします。

 ウィリアムズはその模様を1932年3月号の「史上初、世界の屋根を車で越えてみた(First Over the Roof of the World by Motor)」(全44ページ)でレポートしました。山脈を越えたのが夏にもかかわらず、掲載が春まで遅れたのは中国国内の混乱で無線が使えなかったせいです。原稿と写真も陸路はるばる送られてきたのでした。

 なかでも最大の難所であるブルジル峠は標高約4100メートル。高山病になるほどの標高に加えて、夏でも万年雪がところどころに積もっていました。  7台で峠を越えるのは無理とアールトは判断し、スリナガルからは2台に絞ります。ウィリアムズによれば、

「やがて、難所で名高いブルジル峠にやってきた。場所によってはかなりの積雪で、半ば氷河と化した万年雪はいたるところでクレバス(裂け目)が真っ黒い不気味な口を開けている。運転を誤れば、たちまちそこにのみ込まれそうだ」

そして誌面には、なぜか雪山の斜面で人が自動車を引っ張る写真!?

「荷運び人たちは大変だった。雪に覆われた急斜面を進む車が、横滑りしないよう、車体にロープを巻きつけて、そのロープを斜面の上から力いっぱい引っ張っていなくてはならなかった。車が雪で横滑りでも始めたら、あっという間に谷底まで転落する可能性が十分にあった……全員で必死の努力をした結果、10時間ほどでようやくブルジル峠の最大の難所を越えることができた」

 自動車が人を乗せるのではなく、人が自動車を引っ張っている。もはやなぜ自動車を使っているのかわかりません(笑)

こうしてやっとのことでブルジル峠を越えたにもかかわらず、その先のギルギットまでの山道も困難を極めます。写真を見ると、こっちのほうが断然ヤバい。マジでヤバいです。傾斜が70~80度はあろうかという石だらけの崖道を横断しているのですが、ほとんど落ちる寸前。ヤギじゃあるまいし、まさしく「石が崩れれば一巻の終わり」。

 どう見ても、これでいいわけがありません。  もはやこれまで……。

 とはいえ、車を捨てていくわけにもいかず、隊長は決断します。なんと、車を分解して運んでしまったのです。アストルという場所から11キロ先の谷あいで、150人のポーターを使い、12時間で5往復。約100メートルを人力で運びました。こうなるともう根性の世界ですね。フランス魂? いや、「フランス魂」は聞かないか……革命魂?

 それはともかく、というわけで、ギルギット(現パキスタン)の町に到着した一行は車をあきらめ、“中国隊”との合流地点までのおよそ900キロを馬とラクダでゆくことに決めました。ええ、中の人もそのほうがいいと思います(笑)。探検隊としてはギルギットまで行くのも無理だと言われていたので、とりあえず大きな目標をひとつ果たしたとほっとひと息ついたそうです。

このあと、“パミール隊”はカラコルム山脈、パミール高原を経てタクラマカン砂漠の北のへりを通るシルクロードの“天山南路”でカシュガルに至ります。そして10月24日、中国政府に足止めをくらいつつも9台の自動車で北京からやってきた“中国隊”と“パミール隊”はアクスで感激の再会を果たしました。

 めでたし、めでたし。  とはいかないのです。 ・・・・・・・・・明日に続く・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月01日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-01 05:10:16 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 中国・北京は天安門にて、毛沢東が中国の支配者であることを内外に宣言(1949年)。… …翌年の1950年 - 毛沢東暗殺陰謀事件発生は公然の㊙。 ◆ 五輪目当てで東海道新幹線が開業(1964年)。&so、その丁度33年後には、五輪目当てで北陸新幹線が長野経由で開業(1997年)。二匹目のドジョウが当たると思ったのだろうか? ◆ 恐怖の消費税の税率がついに2ケタに。しかし一部の商品やサービスは税率が据え置かれて、消費者ばかりか売り手も経理担当者もフリーランスも右を左の大騒ぎ(2019年)。

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« 追考 ; 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー  »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 & ウィキペディア より……

1907年、フランスのル・マタン紙 (Le Matin) の呼びかけにより、ユーラシア大陸を東の北京から西のパリまで16,000km横断する壮大な自動車レース「北京-パリ (Peking to Paris) 」が開催された。参加5台中4台が完走し、優勝者のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵 (Scipione Borghese) らが乗るイターラ (Itala) はスタートから2カ月後にパリに到着した。

その後は2度の世界大戦と民族紛争、東西冷戦によって冒険の再現は困難になってしまったが、1980年代になると米ソ緊張緩和と中国の改革開放政策に加えて、パリ-ダカールラリー(パリダカ)の成功もあり、北京-パリを復活させようとする機運が高まった。パリダカの創始者であるティエリー・サビーヌも「次の夢」と語っていた。

パリ-モスクワ-北京ラリーの実現にこぎつけたのは、日本の三菱商事であった。1986年の新経営方針「K-PLAN」の一環として発足した首都圏事業部が立案し、自動車事業本部へと企画が持ち込まれた。三菱商事にはパリダカで活躍していた三菱自動車工業のようなモータースポーツの実績はなかったが、大手総合商社ならではの海外ネットワークを活用した。

1989年12月には運営母体としてフランスに子会社「MAPS」を設立し、国際自動車スポーツ連盟 (FISA) やフランスモータースポーツ連盟 (FFSA) 、ソ連国家体育スポーツ委員会、中国モータースポーツ協会と交渉しながら、競技公認や通行許可、安全確保、物資補給などの課題を煮詰めていった。

また、パリダカ四輪部門3勝を達成したルネ・メッジ (René Metge) をコースディレクターとして招聘し、現地試走を重ねてルートを選定した。

このプロジェクトの準備期間には1989年6月の天安門事件、1989年11月のベルリンの壁崩壊、1989年12月の冷戦終結宣言(マルタ会談)、1990年10月の東西ドイツ統一、1991年1月の湾岸戦争といった世界情勢を変える出来事が続いた。

本来ラリーは1991年9月1日にパリを出発する予定だったが、2週間前の8月19日にソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が保守派によって軟禁される政変劇(8月クーデター)が発生したため、8月28日にMAPSが開催延期を表明した。

3カ月後の1991年12月にはソ連が崩壊し、独立国家共同体 (CIS) へ移行。計画当初は7カ国を通過する予定だったルートが、1992年9月に改めてラリーが決行された時には11カ国を通過するかたちに変わっていた。

1年延期のトラブルに加え、テレビ放映権収入の見込みも外れて興行的には失敗に終わり、三菱商事はこの1回のみで撤退した。第2回大会は1995年8月5日から26日にかけて「マスターラリー パリ-モスクワ-ウランバートル-北京」として開催された。総合優勝は、三菱パジェロに乗るジャン=ピーエル・フォントネであった。

日程・ルート

総距離は16,082km[13]。地球一周(赤道の全周長)40,075kmの約40%にあたる距離を27日間で走破した。行程は9月1日から4日までがパリ-モスクワの移動区間(リエゾン)、9月5日から16日までがCIS域内の前半戦、9月17日から27日までが中国国内の後半戦というパートに分かれる。

1992年8月30日にパリ近郊のアランソンでプロローグ[14]1回目を行い、9月1日にパリ市内のエッフェル塔の向かいにあるトロカデロ広場を出発。パリ-モスクワ間3,000kmのリエゾンは、一般車両に交じってベルギーのブリュッセル、ドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、ベラルーシのミンスクを通過。途中、ワルシャワでプロローグ2回目を行い、1回目との合計タイムでSS1のスタート順を決めた。モスクワの赤の広場で催されたセレモニーには20万人の群衆が詰めかけ、花火が打ち上がるお祭りムードの中で本格的な競技がスタートした。

CISルートは先ずロシア国内の黒土の穀倉地帯を東進し、ヴォルガ川を渡り、東ヨーロッパから中央アジアへ。カザフスタン領内では広大なカザフステップからカスピ海東岸へと南下。トルクメニスタン領内では気温40度以上のカラクム砂漠を横断する。ウズベキスタン領内を経て、9月16日にキルギスタンの首都ビシュケクで休息日を迎え、ここで中国への入国手続きを済ませる。9月17日は天山山脈越えのリエゾン区間となり、標高3,750mのトルガルト峠にある国境の通関から中国領内へ入る。

中国ルートは新疆ウイグル自治区に始まり、天山山脈南麗のシルクロードの天山南路(西域北道)のオアシス都市に沿って東進する。9月18日のカシュガル-アクスは、タクラマカン砂漠では珍しい大雨によりスタックする車両が続出し、走行が途中で打ち切られた。甘粛省、寧夏回族自治区、内モンゴル自治区にかけては万里の長城の北よりゴビ砂漠とモンゴル高原を通過。9月26日に行われるフフホト-バーターリンのSSを終えた時点で最終順位が確定した。

最終日9月27日は車列を組んで北京市までビクトリーランを行い、天安門広場前を通って市内のチャイナ・ワールド・ホテル (China World Hotel, Beijing) で到着式典を行った。

・・・・・・・・・追考 完・・・・・・・

 
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1992 パリーモスクワー北京 マラソンレイド NHKスペシャル バージョン

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次回は “   « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? » (4/5)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月30日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-30 05:10:32 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ くるみの日。頭の固い百科事典によると「く(9)るみ(3)まるい(0)」の語呂合わせだそうだが、0にはかなりのこじつけ臭が・・・。クレーンの日にしてHAPPY FM93の日とくればどうでもいい。 ◆ 『フジ三太郎』がこの日を限りに定年退職(1991年)。翌日からいしいひさいちが朝日新聞朝刊の4コマ漫画を担当し始めるが、既に30年近くもの長期連載になるとは・・・。 ◆ 日本版ニョンビョンのとある核施設で、放射性物質をバケツリレーして大量被曝(1999年=東海村JCO臨界事。

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1921-1956期 « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? (3/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年3月07日 / (Web編集部)

シトロエン―アールト中央アジア探検隊出発!

前輪はタイヤ、後輪はキャタピラの「どこでも自動車」をシトロエンが開発し、世界ではじめて遠征隊が自動車でアフリカを縦断したことを前回は書きました(動画は見られましたか?)。  今回はその最後を飾る「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」を紹介します。

 ルートは地中海沿岸のベイルートから中国の北京、黄海まで。つまり、ユーラシア大陸の横断です。

距離こそアフリカより短いものの、ヨーロッパの植民地だったアフリカに対し、当時の中央アジアは西洋にとってナゾの空白地帯。また、ルートの真ん中には世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈やチベット高原が横たわっています。

情報が少ないうえ、ルートは過酷。  それだけじゃありません。この時代の中央アジアは内乱続きでほぼ戦争状態でした。そんなキケン地帯に果敢に挑む大冒険というわけです。

 もちろん、学術的な調査・研究も大きな目的のひとつでした。隊員のなかには、北京原人の発掘で有名な古生物学者テイヤール・ド・シャルダン神父の名前もあります。『愛について』とか、学生時代に読んだなあ。なつかしいですね。あ、スガシカオじゃありませんよ。念のため。好きですけどね。スガシカオも。

 そこで、ナショナル ジオグラフィック協会は「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」を支援することにします。これにより探検隊は正式な国際調査隊とされ、そのレポーターとして送り込まれた人物こそ“ミスター・ジオグラフィック”ことメイナード・オーウェン・ウィリアムズだったのです。

 アフリカの遠征隊は「黒の巡洋艦隊」でしたが、アジアは「黄の巡洋艦隊(La Croisière jaune)」と呼ばれました。隊長が乗る“旗艦”はその名も「黄金のスカラベ号(Golden Scarab)」。ウィリアムズが乗りこんだのは「銀の三日月号(Silver Crescent)」。カッコいいなあ、もう。さすがフランス人。

 と、準備万端な感じで、実際のところ2年がかりで準備を整えたのですが、この探検は出だしからつまずきます。当初、国内の通行を許可していたソ連が3カ月前になって取り消してしまったのです。さすがソ連!?

 隊長のアールトはあせりました。2年前から方々に許可をとりつけたり、食料やガソリンをデポしておいたのに、この期におよんで取り消すなんて!

 けれど、もはやあともどりはできません。やむをえずヒマラヤ山脈とパミール高原を越えるルートを選ぶと同時に、地中海からスタートする“パミール隊”と北京からスタートする“中国隊”に隊をわけて、パミール高原の東側で合流する作戦に変更しました。

 ヒマラヤ越えは、アールトとしてはできれば避けたかったのですが、他に通れそうなルートがないのでどうしようもありません。苦渋の選択というやつです。

 ウィリアムズは3回にわけてその模様を報告します。原稿と写真は探検の途上からも送りました。当時としてはとびきり新鮮なレポートでした。もちろんテレビはありません。ラジオも商業放送が始まったばかり。冒険先から中継なんかできるわけがない。冒険をまとめた書籍が刊行されたのは1933年になってからのことですしね。

 最初のレポートは1931年10月号「シトロエン―アールト中央アジア探検隊カシミールに到着(The Citroen-Haardt Trans-Asiatic Expedition Reaches Kashmir)」でした。全58ページ。  1931年4月4日、パミール隊がシリア(現レバノン)のベイルートを出発。それからイラク、ペルシャ(現イラン)、アフガニスタン、カシミールのスリナガル(首都)まで、81日間、5545キロの行程です。

 危険を避けるために、ところどころで兵隊が同行したりしてちょっとものものしい雰囲気でしたが、スリナガルまでは得意な砂漠ですし、おおむね楽しい旅路だったようです。アフガニスタンで幅100メートル近いファラーフ川を渡るときがいちばん苦労した、というぐらいですから、ヒマラヤ越え以降と比べたらたいしたことはありません。

 たとえば、ウィリアムズはこんなふうに書いています。

「バグダッドを出発し、ペルシャを目指して砂漠を抜ける。大きな砂丘を越え、イラクとペルシャの国境に近い町、カナキンに向かった……はるか彼方のカシミールを目指すこんなキャラバンが町を訪れたのは、きっと紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の遠征以来の出来事だろう。ペルシャの風景は、どんなに繊細な絵画でも正確には描けないほど美しかった。岩山に囲まれた緑豊かな谷、広大な平原のそこかしこに青々と茂る草木――春のペルシャの風景はほれぼれするほど美しい」

・・・・・・・・・明日に続く・・・

次回は “  追考 ; 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー (3/5)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月29日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-29 05:52:30 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 2日前に一堂に会した昭和天皇と真っ赤っ赤元帥が並んだ写真が新聞に掲載(1945年)。天皇が小男の様に写っているのは畏れ多いと内務大臣が仰天し時の内閣が崩壊する端緒に。 ◆ 乗っ取った日航機を質に日本政府を脅して仲間9人を釈放せしめる。(1977年=ダッカ日航機ハイジャック事件)。 ◆ 下関駅にて列車に乗り遅れると焦った某氏が、自動車で7人を撥ねて改札口にエクストリーム・特攻(1999年=下関通り魔殺人事件)。

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1921-1956期 « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? (2/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年3月07日 / (Web編集部)

「(Citroen Central African Expedition)」という計画で、探検隊の通称は「黒の巡洋艦隊(The Black Cruise)」。「ブラック・クルーズ」なんて名前からしてカッコいいですよね(ホントはフランス語だから“La Croisière Noire”ですけどね)。

 ハーフトラックが8台、メンバーは16人という編成で、そのなかには医者、画家、地質調査担当、動画撮影係、写真家、料理班、散髪係、楽器班もいました。トレーラーに水と食料とガソリンを積めるだけ積み込んで、それでも足りないために途中で80トン以上もの食料、燃料を要所要所にあらかじめデポしています。

 ルートはアルジェリアのコロン・ベシャールからケープ・タウンまで。途中、ビクトリア湖からは2台ずつ4チームに分かれ、一部はなんとフェリーで海を渡ってマダガスカルのタナナリブ(現アンタナナリボ)へも。

 1924年10月から翌25年6月までの約9カ月間をかけて、砂漠、サバンナ、沼地、森林など、えんえん2万キロ。つまり、地球を約半周分。一部の砂漠や沼地以外、道なき道はそれほど困難なルートではなかったものの、アフリカ大陸を左上から右下まで最長ルートをばさっとナナメ切りです。

『ナショナル ジオグラフィック』では1926年6月号で「黒の巡洋艦隊」の活躍を特集しています。タイトルは「アフリカの砂漠とジャングルを車で走ったら(Through the Deserts and Jungles of Africa by Motor)」。

 プロを連れていっただけあって写真がいいんですね。ここでお見せできないのがホントに申し訳ないのですが、なんといっても現地の人が実にさまざまで興味深い。上下のくちびるに穴を開けて、直径20センチぐらいのお皿を入れている女性がいたり(横から見るとアヒルみたいに見えます)、髪の毛をヘンなふうにまとめていたり、奇妙な仮面をかぶっていたり。多くの民族が入り混じるアフリカの多様性がよくわかる。

 中の人がいちばん気になったのは、どうみても相撲をとっている写真が1枚あるんですよね。「はっけよい、残った」の立ち合いそっくり。“Wrestling-Boxing”と説明にありますが、どうやっても相撲にしか見えません。当時の著者が日本の相撲を知っていたらきっと“Sumo-Wrestling”と書いたに違いない!

 いや、写真をお見せできなくて、ホントに申し訳ありません。あまりに申し訳ないので、こっそり教えると、「citroen」で検索すると当時の動画がヒットするんですよ。おおっぴらにはいえませんが(いってるけど)、興味のある人は検索してみてください。あの時代に動画撮影係を連れていったシトロエンはやはり偉大ですね。ちなみに「Croisière Noire」でググるとルートマップが出てきます。フランス語のWikiですが。

 さあ、3度目はいよいよ“ミスター・ジオグラフィック“の出番です。この「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」こそ、シトロエンの遠征のなかでもとりわけ困難を極め、かつ、探検史上に残る大冒険なのですが、これまた長くなりそうなので、次回以降に乞うご期待。

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Today’s B.G.M, = La Croisière Noire - Expédition Citroën en Afrique 1924 – 1925

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Today’s B.G.M, = Citroën ! la Croisière Noire 1925

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次回は “  シトロエン―アールト中央アジア探検隊 (3/5)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月28日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-28 05:10:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ フランスの田舎者がイギリスの南側を蹂躙し始め、3ヶ月後には王位まで乗っ取ることに(1066年)。曰く、ノルマン・コンクエストが始まる。 ◆ 田中角栄の政治力で清水峠の真下のトンネルが1本から2本に(1967年)。更に総理大臣になって20年足らずで上越新幹線も通ることに。 ◆ 傘をさしてデモをしていた香港市民に香港当局が催涙弾をお見舞いし、雨傘運動の幕が切って落とされる(2014年)。

――      激暑襲来の煽りを食らって     ――

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今日(狂)の狂言 : 09月27日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-27 05:10:00 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 13日前に選出されたばかりのローマ教皇ウルバヌス7世が、重責に耐えかねて自分から天に召される(1590年)。 ◆ ナポレオン・ボナパルトのエジプト土産に何が書かれているのかが判明(1822年=ロゼッタ・ストーンの解読)。 ◆ 中国を蹂躙しまくってた日出ずる国とヨーロッパの支配者に載し上がろうとしていた卐)が共闘。翌年にも起きそうなアンクルサムとの決闘に備える(1940年=日独伊三国同盟締結)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第9回= ◎ ◎

1921-1956期 « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? (1/5) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年3月07日 / (Web編集部)

――シトロエンといえば車じゃなくて探検隊?

 ツタンカーメンの墓を世界ではじめて公開したときのレポートと並んで、“ミスター・ジオグラフィック”ことメイナード・オーエン・ウイリアムズのもうひとつの代表的な仕事は「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」への参加でした。  シトロエンって、あのフランスの自動車メーカーのシトロエン?

 そうなんです。  いまはシトロエンといえば自動車ですが、当時は探検隊が世界に名を馳せていました。  シトロエンは1919年に創業後、ヨーロッパではじめて自動車の大量生産に成功して急成長します。

 同時に、創業者のアンドレ・シトロエンは持ち前のフロンティア・スピリットを発揮して「道路じゃないところ」を走れる「ハーフトラック(半無限軌道車)」を開発。前輪が普通のタイヤ、後輪がキャタピラというこの「どこでも自動車」を使う探検隊を組織します。

  第次世界大戦終結直後の1919年、ダブルヘリカルギア(やまば歯車)の製造と大砲用の砲弾製造で財を成したアンドレ・シトロエン(André Citroën)が、ヨーロッパにおける自動車の大衆化を目指し、フランス版フォードとなるべく設立した企業がシトロエン社である。フランスの自動車メーカーの中では後発組といえる存在であった。最初の工場は軍需工場を転用したパリのセーヌ川・ジャヴェル河岸の工場で、現在その場所は「アンドレ・シトロエン公園」になっている。

 エンブレムは「ヘ」の字状のクサビ形を2つ重ねたもので「ドゥブル・シュヴロン (double chevron)」または「ダブルヘリカルギア」と呼ばれる。これはアンドレ・シトロエンが経営者としてスタートするきっかけになった歯車「シェブロン・ギア(やまば歯車)」の歯形をモチーフにしたものである。

 流れ作業方式による小型車・中型車の大量生産で成功を収め急成長したが、やがてアンドレのワンマン経営による過剰投資がたたり、1934年に経営危機に陥り、この際タイヤメーカーのミシュランの系列会社となり、同社の市販車は工場出荷タイヤにミシュラン製タイヤを指定、装着している。

 第二次世界大戦後も先鋭的な自動車開発で世界的に注目される存在であり続け、1960年代にはイタリアのフィアットやマセラティなどとも提携するが、1970年代には再び経営困難な状況となり、結局1976年からは同じフランスの競合自動車会社プジョーに主導されるかたちで、企業グループPSA・プジョーシトロエンの傘下となっている。それに伴いプラットフォームやエンジンをプジョー車と共通化するようになった。

 一時期のような独善的なまでの個性は抑えられるようになってきてはいるものの、依然として系列メーカーであるプジョーとは異なった個性を持つブランドとして存続し続けている。 創業者のアンドレ・シトロエンのフロンティア・スピリットを継承し、“過酷なモータースポーツ競技”をプロモートしてきた。

 20世紀初頭は自動車と飛行機が冒険に使われはじめた時代でした。ホンダやトヨタがF1で世界の頂点を目指したように、フロンティア・スピリットに満ちた自動車メーカーの創業者が、自動車による探検で「世界初」を夢見たとしても不思議ではありません。

 また、パリ・サロンが開幕する日に飛行機雲で空に社名を描いたり、25万個もの電球でエッフェル塔にデカデカと社名を灯したりするなど、派手な広告パフォーマンスでも有名だったシトロエン。 更にはシトロエンは、その探検隊は実にきらびやかでした。

 アンドレ・シトロエンは3度、遠征隊を組織します。隊長はいずれもシトロエン工場の総支配人出身のジョルジュ・マリ・アールト。 最初の遠征では、ざっくり言うと、アフリカ大陸の左上に出っ張ったあたりでサハラ砂漠を横断します。

 ルートは北アフリカのアルジェリアにあるトゥグルトから、中世に塩や金の交易拠点として栄えた西アフリカのトンブクトゥhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1101/feature04/ まで(当時はいずれもフランス領)。

 1922年12月16日、10人の探検家を乗せてトゥグルトを出発した5台のハーフトラックは翌23年の1月7日に無事トンブクトゥに到着。北アフリカから西アフリカを短時間で移動できるとともに、探検に自動車が使えることをはっきりと世界に知らしめました。  その模様は『ナショナル ジオグラフィック』1924年1月号の「自動車でサハラ砂漠を征服(The Conquest of the Sahara by the Automobile)」と題して紹介しています。

 このときはまだ距離が短く、装備も探検の内容もシンプルでした。ラクダを連れた砂漠の遊牧民との集合写真なんか、実にのどかな雰囲気です。  ところが、2回目からはがぜん派手になります。次の舞台もアフリカですが、そもそもスケールがまったく違う。

・・・・・・明日に続く・・・

次回は “  シトロエン―アールト中央アジア探検隊 (2/5)  “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月26日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-26 05:10:52 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 台風災害の厄日。どれだけ厄日かというと、日本海軍の艦隊が打撃を受けたり(1935年)、青函連絡船が転覆するばかりか北海道の漁村が丸焼けになったり(1954年)、・・・しかし近鉄にとっては名古屋線がレベルアップするチャンスとなったラッキーな日(1959年=伊勢湾台風)だったりする。 ◆ スペインの商船や植民地を略奪して周った海賊ドレークが、やりたい放題の挙句に地球を一回りしてしまった(1580年)。 ◆ 豪腕の破壊神が子分ともども民主党に下駄を脱いだり(2003年=民由合併)、後の森羅万象担当大臣(2006年=安倍内閣)やチンパンジー(2007年=福田内閣)が総理に就任したりと政界にとっての特異日。

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1921-1956期 « ツタンカーメンの墓で »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2月29日 / (Web編集部)

第一期黄金時代にナショジオが生んだ2大スターの1人、ジョセフ・ロック、今回はもうひとりのメイナード・オーエン・ウィリアムズをご紹介いたしましょう。  学究肌でときに気難しく、中国雲南省「トンパ」の病魔退散術やチベットのシャーマンなど、ミステリアスな話題で人気を博した“孤高の地理学者”ジョセフ・ロックと、“ミスター・ジオグラフィック”ことメイナード・オーエン・ウィリアムズは、実に対照的でした。

大柄で性格は明るく社交的。世界各地のどこへ行っても、誰とでもすぐに仲良くなれる。以前、シリアや中国で宣教師をしていた彼のモットーは「旅は冒険じゃない。友だちとの出会いだよ」。  そんなオープン・マインドな人柄で、現地の人々にがっつり食い込み、生き生きとしたレポートを彼は次々にものにします。

 1919年、ウィリアムズは『ナショナル ジオグラフィック』ではじめてのスタッフライターになりました。その後、長らく海外編集部のチーフを務め、100本以上の記事を寄せました。  なかでも彼の代表作というべき仕事が2つあります。

ひとつは1923年5月号に書いた「ツタンカーメンの墓で(At the Tomb of Tutankhamen)」。  ツタンカーメンといえば、黄金の仮面や発掘関係者が次々に変死をとげる“ファラオの呪い”で日本でも超有名ですが、広く知られるようになった理由は、珍しいことにほとんど盗掘されておらず、お墓がほぼ完全な形で残されていたことでした。

 1922年11月4日、カイロからナイル川を700キロほどさかのぼったルクソール西岸の「王家の谷」で、ツタンカーメンの墓を発見したのは当時まだ無名だった考古学者ハワード・カーターです。

ほどなく“世紀の大発見”の知らせを聞きつけた人々がルクソールに押し寄せます。しかし、カーターはお墓を保護するために立ち入りを禁じて完全非公開としてしまいます。  それでも、翌23年の2月19日、ごく一部の記者やカメラマンにお墓がついに公開されることになります。さすが“ミスター・ジオグラフィック”。メイナード・オーエン・ウィリアムズもその1人に選ばれたのです。

 53枚の写真と1枚の地図とともに、彼は公開時の様子をリアルにレポートしています。しかも、それはありきたりの報告ではありませんでした。昔の思い出話や、全部を見せてくれない不満などをけっこうグチっぽく?(笑)織り交ぜながら、ルクソールに入ってから出るときまでを紀行文仕立てにしているおかげで、とても読みやすく、かつ、面白く仕上げているあたりはさすが。

 まあ「この石棺のなかにツタンカーメンが眠っていると期待されている」と書いていて、つまり、このときはまだツタンカーメンのミイラがあるのかないのか教えてもらえなかった(あるいはわかっていなかった)ようですから、不満げなのは当然かもしれません。副葬品もすでにある程度運び出されていたようですし。

 とはいえ、金箔の貼られた戦車の車輪や、金銀宝石がちりばめられた「黄金のスカラベ」のバックルの写真をはじめ、お墓やさまざまな副葬品の様子は、やはり博物館で展示されているのとは違ってとても見ごたえがあります。当時、これだけのボリュームでツタンカーメンの墓のレポートを報じたメディアはありませんでした。リアルな文章とあわせて、とても貴重な記録です。

いま見れば、モノクロ写真がちょっぴり残念ですけどね……こればっかりは仕方ありません。まだモノクロが主流の時代でしたから。  さて、・・・・・・・・

――ツタンカーメンの墓は驚くほどうまく隠されていた

ツタンカーメンの墓は古代エジプトの都市テーベの西、ファラオ(王)の墓が密集する王家の谷で発見された。財宝の存在が一目でわかるピラミッドと異なり、王家の谷につくられた墓はしばしば、略奪者に発見されないよう覆い隠されていた。ツタンカーメンの墓は最終的に、15万トンを超える岩石の下から出てきたが、その中には上部の丘に掘られた別の墓のがれきも含まれていた。

――ツタンカーメンの墓が見つかると考えていた人はほとんどいなかった

 ツタンカーメンの墓の捜索はまさに、信じる人しかできない探求だった。当時の専門家は、王家の谷にある墓はすべて古代に盗掘されたか、その後、考古学者によって発見されたと断言していた。何の変哲もない遺跡で発掘調査が行われ、ツタンカーメンの墓と誤認されたこともある。また、ツタンカーメンは高名なファラオではなかったようで、現存する記録にはツタンカーメンの名を冠した遺物がわずかしかない。

――しかし、ハワード・カーターは諦めなかった

考古学者のハワード・カーターはそうした意見に耳を貸さず、ツタンカーメンの捜索を続けた。第1次世界大戦中を含めて何年も掘り続け、英国の後援者であるカーナボン卿の信頼と資金を失いかけた。そして、1922年11月、最後の年の発掘が始まってわずか数日後、墓に下りる階段の最上段を発見した。

 さて、ウィリアムズのもうひとつの代表的な仕事は……、と続けたいところですが、長くなりそうなので、すみません、次回にご期待ください。

次回は “  シトロエン―アールト中央アジア探検隊  “ に続く・・・・・

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