【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月07日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-07 05:10:42 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 後に世界の感情の中心の座をスペインより奪ったブラジルがポルトガルの胎内から、燦々と輝く光の中誕生した日(1822年)。 ◆ 後に世界のインターネットの中心の座をYahooより奪ったGoogleが、2人の大学院生の妄想から誕生した日(1998年)。 ◆ 後にオリンピック開催の座をスペインより奪った日本のお・も・て・な・しが、滝川クリステルから誕生した日(2013年)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 04/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=04/9= | 2015/10/23 =

The Killers – Be Still (To Mallory & Irvine) : https://youtu.be/SASZZ8BEK4w

 

エベレストへの挑戦 ☆

  -1999年- マロリーを捜索するプロジェクトが発足し、その登山隊が、エベレストの標高8160メートル付近で真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見した。 マロリーの遺体は低温によって保たれ、遺体はそれほど損傷してなかったものの、足や助骨には骨折が見られ、また額の頭蓋骨が大きく破損していた。

  この頭部の損傷が、致命傷であったようすだ。 マロリーは日没後に下山を開始し、その最中に足を踏み外して滑落死したものと推測されてる。 マロリーの遺体からは高度計・イニシャルを縫いこんだスカーフ・手紙数通・ポケットナイフ等が出てきたものの、残されていた遺留品の中に、マロリーが頂上に置いてくると言った妻の写真や、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見できなかった。 また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見する事ができなかった。 =上記リンクにて動画記録の閲覧可能=

  マロリーとアーヴィンの登頂は果たしたものの、下山中に遭難をしたという説がある。 しかし、イタリアの著名な登山家、メスナー=前章記載・参照=は、エベレストにはセカンドステップと呼ばれる難所があり、それを当時の装備で越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。 例えマロリーが登頂に失敗していたとしても、その勇気と意志は称賛に値するものだろう。

  まだ、誰しもが足を踏み入れていない、そして、どこよりも高い山、エベレストに挑戦するのは並大抵の人間には出来ない事ではない。 私個人は、マロリーは登頂を果たしていたと思っている。 エベレストの山麓を彷徨い、また ベースキャンプまで登り行 実感した。 貧弱な装備であっても、彼の意志と能力、そして、友人であるアーヴィンとの絆があれば、不可能も可能にしたのではないかと。

  はたして? その答えはヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている・・・・・・

 1922年のエベレスト第2次遠征隊は、3度の頂上アタックを行った。7 ,620mの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。  薄い空気に苦しみながら、一同は8,225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。

  次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは、酸素ボンベを担いで5月27日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。 

  ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。 しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コルを目指して斜面を歩いている時に雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。

  マロリーは帰国後、第2次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息という思いは他の隊員と変わらなかった。

  英国山岳会と王立地理学協会が組織したエベレスト委員会 (Mount Everest Committee)は、 1924年の第三次遠征隊に 1922年同様 隊長をブルース将軍ににんめいした。 副隊長にはノートン大佐がえらばれ、隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれた。 さらにベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) 、E・シェビア (E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール (Noel Odel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン (Andrew Irvine) らが選ばれた。

  一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。

  4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。 彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。

  マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。 しかし、2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。

  そして、エベレストへの挑戦は、第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。

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  ※ ;ノエル・ユワート・オデール(Noel Ewart Odell、1890年12月25日 – 1987年2月21日)はイギリスの登山家、地質学者。 1924年のエベレスト遠征隊の一員として、頂上へ向かうジョージ・マロリー、アンドリュー・アーヴィンの最後の姿を目撃したことであまりに有名。 このとき、オデールは高度7000m以上の場所で酸素なしで二週間過ごすという驚異的な記録を残している。

1924年6月8日、ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンがノース・コルをへて頂上を目指した。 オデールはたまたま霧が晴れた12:50ごろ、二人が北東稜から「ステップ」を越えて頂上への最後の登りへと力強く進んでいる姿を見た。 しかし、頂上へ到達した証拠は何もない。 二人はそのまま行方不明になり、山頂付近で命を落としたと考えられている。 オデールは生きている二人の最後の姿を見た唯一の目撃者になった。

1924年6月から11月に書かれた二つの報告の中で、オデールはマロリーとアーヴィンを見たのは間違いなくセカンド・ステップの上であったと断言している。 1925年に発行された遠征隊報告書では、(他のメンバーたちの悲観的な見方に影響されて)オデールの言葉にぶれが生じ、「セカンド・ステップあるいはより低い部分」という言い方に変わっている。 その後、オデールはひょっとすると「ファースト・ステップ」だったもしれないと意見を変えているが。

事実は、二人が行方を絶ったあと、オデールは自らの身の危険を顧みず、一人ノース・コルから8500m付近まで上がって捜索を続けたのだ。

彼は、1936年 ビル・ティルマンとともにナンダ・デヴィに挑み、登頂に成功した。 この記録は1950年まで人類の最高到達高度の記録であり続けた。 1938年には隊長に選ばれたビル・ティルマンに誘われ再びエベレスト遠征隊に加わっている。

オデールは登山家としてだけでなく、幅広い分野で活躍、たとえば二度の世界大戦に王立工兵隊の一員として従軍し、地質学者としては石油や鉱山関係のさまざまな企業で相談役をつとめ、ハーバード大学やケンブリッジ大学など多くの大学で教壇に立った。

登山家としては、1919年にスノードニア山系にあるイドワル・スラブの「テニス・シュー」に初単独登頂の記録があり、ニューハンプシャー州にあるワシントン山のオデール・ガリーは彼が冬季初登頂に成功したことからオデールの名がつけられている。

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アンドリュー・アーヴィン(英Andrew “Sandy” Comyn Irvine、1902年4月28日-1924年6月8日もしくは9日)はイギリスの登山家、イギリスによる第3次エベレスト遠征隊(1924年)に参加した。エベレスト初登頂を目指し、アーヴィンとジョージ・マロリーはエベレスト北壁に挑戦したが、そこで姿を消した。 彼らが最後に目撃されたのは、山頂からわずか数百メートル手前であった。

 アーヴィンはイングランド、チェシャー州(現在はマージーサイド)のバーケンヘッドで、スコットランド、ウェールズに起原を持つ家族に元に生まれた。 名門一族である。 アーヴィンはバーケンヘッド校(en:Birkenhead School)とシュローズベリー校(en:Shrewsbury School)で学んだ後、オックスフォード大学のマートンカレッジ(en:Merton College, Oxford)で技術者になるために学ぶ。

彼は熱心なスポーツマンであり、ボート競技に長けていた。 そのため、1922年、23年とザ・ボート・レースのオックスフォード大学のメンバーに選出されている。

  1923年、アーヴィンは、オックスフォード大学のスピッツベルゲン遠征隊=ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島=に選出され、アーヴィンはあらゆる局面で優れた能力を見せている。 この時、アーヴィンと遠征隊のリーダー、ノエル・オデール=上記=はフォエルグラッチェ(en:Foel Grach、ウェールズ)山頂で出会ったことがあったことをお互いに思い出し、相互に信頼を増した。

 その後、オデールがイギリスによる第3次エベレスト遠征隊に選ばれた時、アーヴィンの高い能力を認める彼は、遠征にアーヴィンが必要だと考え、推薦、アーヴィンは遠征隊の一員となった。 この時、アーヴィンはまだ21歳の学生であった。

インドへ向かう船の中で、アーヴィンと親しくなったジョージ・マロリーは妻に「アーヴィンはどんな時でも頼りになる、おしゃべり以外は」と書き送っている。この遠征で、アーヴィンは山岳用酸素ボンベの機能性、重量、強度などの確認を行ってその問題点を洗い出し、遠征後に酸素ボンベを再設計して、改良する予定となっていた。

そして、さらには、遠征中使用するカメラ、キャンプ用寝具、プリマス・ストーブなどの多くの機器の維持管理を担当した。 アーヴィンは遠征隊で人気があり、気さくで発明の才能があり、激務にも耐えたため、年上の同僚たちも敬意を払っている。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 09月05日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-05 05:10:56 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 地震で伏見城が崩壊し太閤秀吉が命拾い、前の年に血祭りに挙げた甥っ子の一族郎党の呪いと思われる(1596年)。即ち、京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される(1595年)。 ◆ アメリカのポーツマスで日露戦争の講和条約が締結され戦争が終結(1905年)。 ◆ ロバート・キャパが近くの兵士に何の注意もせずに、ベストショットのために見殺しにする(1936年=「崩れ落ちる兵士」)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 02/9 】  ◎ ◎

=【 閑仁耕筆 】 冒険記譜・挑戦者達 | シリーズ・登山家の横顔=004-② | 2014-03-21 =

☆  ポロローグ ☆ 

 ジョージ・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 - 1924年6月8日?)は、チェシャーのモバリ(Mobberley )で牧師ハーバート・リー・マロリー(Herbert Leigh Mallory 、1856年 - 1943年)の第2子として生まれた。 ジョージは4人兄弟で、姉と妹、弟がいた。 

 1896年、ウェスト・キルビー(West Kirby )の寄宿学校からドーバー海峡沿岸のイーストボーンにある寄宿学校グレンゴース(Glengorse )に転校し、13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。 ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グレアム・アーヴィング(Robert Lock Graham Irving )の影響で登山を始めることになる。 

 1904年、アーヴィング率いるパーティーにマロリーは学友と共に加わり、アルプスのモン・ヴェラン(Mont Velan )の山頂を目指したが、登頂寸前にマロリーが高山病にかかって断念した。 クレア・エンゲルによれば「アーヴィングが17歳のジョージ・マロリーを山にいざなった。マロリーたちは簡単な山から難しい山までさまざまな山に挑んだ。彼らが初めて挑んだモン・ヴェランでは学生たちが高山病にかかったために登頂できなかったが、さまざまな登山の経験を通して学生たちは優秀なクライマーに育っていった」という。 

 1905年10月、マロリーは史学を学ぶべくケンブリッジ大学のモードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(James Strachey )、リットン・ストレイチー、ジョン・メイナード・ケインズ、ダンカン・グラント(Duncan Grant )らのいわゆるブルームズベリー・グループと親交を深めた。マロリーはケンブリッジ大学在学中にボート漕手として知られたが、8人乗りボートのオックスフォード大学との対抗戦には出場していない。 

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※;ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。 1910年のドレッドノートを舞台とした「偽エチオピア皇帝事件」=1910年に起こった悪名高い担ぎ屋ホーレス・デ・ヴェレ・コールによる悪戯で、偽者のエチオピア皇帝とその随行団がイギリス海軍の戦艦に乗り込んできた詐欺事件=にはメンバーの多くが参加したが非国民という悪名を負う羽目となり、また 彼らのストレートな平和主義・左派自由主義の信念は戦時中において非難を引き起こすことがあった。 しかし、第一次世界大戦後その組織統一は弱まり、意見や信念もばらばらなものとなってしまった。

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 学位取得後もマロリーは1年間ケンブリッジに残り、小論『伝記作家ボズウェル』(Boswell the Biographer )を執筆。 その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(Simon Bussy )がマロリーの肖像画を描いている。 =この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められている。= 

 教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州ゴダルミング(Godalming )にあるチャーターハウス校で教鞭を執った。 この時の生徒の中に、後に詩人になるロバート・グレーブス(Robert Graves )がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付き添い人を務めているのです。 

 この間に登山の腕も磨き、1911年にはモンブランに挑み、モン・モディ(Mont Maudit )の前壁を征服している。 1913年までにマロリーはイギリスの湖水地方にあるピラー・ロック(Pillar Rock )の登頂に成功する。 このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されており、イギリスの山では最も難しいコースの1つである。 

 ジョージ・マロリーがチャーターハウス校在任中、マロリーはゴダルミングに住むルース・ターナーという女性と出会い、1914年に結婚した。 2人の間には1915年に長女クレア、1917年に次女ベリッジ、1920年に長男ジョンの3人が生まれた。 

 しかし、第一次世界大戦の勃発に伴い、1915年12月王立砲兵連隊(Royal Garrison Artillery )に入隊し、悲惨なソンムの戦いに従軍した。 戦争が終わると、マロリーはチャーターハウス校に戻ったが、1921年にエベレスト遠征隊に参加するため、学校を離れる。 離職後著述と講義によって生計を立てようと考えたが、あまりうまく行かなかったようで、 結局 1923年ケンブリッジ大学の校外公開講座局(Extramural Studies Department )に職を得た。 

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※; エベレスト委員会(The Mount Everest Committee)は1920年にイギリスで王立地理学会と英国山岳会がエベレスト遠征隊の組織と資金援助を目的に共同で設立した委員会。 1947年まで活動した後「ヒマラヤ委員会」(Joint Himalayan Committee)に形を変えて活動を継続し、1953年のイギリス隊によるエベレスト初登頂を成し遂げるにいたった。 

英国でエベレストへの登頂が初めて具体的に語られたのはいつか? クリントン・トマス・デント(Clinton Thomas Dent)は1885年に著作の中でエベレスト登頂の可能性に言及している。 具体的な計画ということでは1916年にアレキサンダー・ケラス博士(Alexander Mitchell Kellas)が著した『ヒマラヤ雄峰への登頂の可能性に関する考察』をあげることができる。 

さらに実際に遠征隊派遣の機運が高まった直接のきっかけは、1919年にジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)が王立地理学協会で行った講演である。 ノエルは外国人が入ることが許されなかったエベレスト周辺地域を秘密裏に探索し、その報告を王立地理学協会で行ったのだ。 

講演後のディスカッションの中でエベレスト登頂に関する議論が盛り上がったが、この考えを積極的に支持した人の中にはフランシス・ヤングハズバンド卿(Francis Younghusband)=極東や中央アジア探検で知られ、わけても1904年のチベット行ではチベット人の虐殺事件を起こした。アジア情勢や外交政策に関する著作がある。チベット行政長官や王立地理学会長を歴任。軍での最終階級は中佐。インドの星勲章 (KCSI) 、インド帝国勲章 (KCIE) 受章=やダグラス・フレッシュフィールド(Douglas Freshfield)など英国山岳会の大物たちがいた。 

1920年、ヤングハズバンド卿は、チャールズ・ハワード=ベリ大佐に遠征隊長就任を要請し、チャールズ・ベル(Charles Alfred Bell)に入山交渉の許可を得る為のチベット当局との交渉を依頼した。(当時はチベットの北側からしかエベレストに接近できなかった。エベレスト南側のルートを領するネパールが外国人に対して国を閉ざしていたためである。) チベットから入山許可が得られたのは1921年のことであった。 ここで、遠征隊をバックアップするために英国山岳会と王立地理学協会がメンバーを出し合って特設委員会である「エベレスト委員会」を発足させ、ヤングハズバントが委員長になった。 

過日の事、1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンドとグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville Bruce) がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。 

1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。 この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。 

第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会 (Mount Everest Committee) を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めたのだ。 

1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。 隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ (Charles Howard-Bury) 中佐が選ばれた。 

隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手として有名なジョージ・マロリー  とジョージ・イングル・フィンチ (George Ingle Finch) が選ばれた。 フィンチは後に健康状態を理由に交代させられ、代わってマロリーの推したガイ・ブロック (Guy Bullock) が選ばれた。 

この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。

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 19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。 この頃の人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げていた事から、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。 新たなる発見は、国威発揚と、経済的な利益にも繋がっていたから、各国は熱心に探検隊を送り出していった。 

 その中でも、軍事力、経済力のあった欧米諸国は地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。 欧米諸国は、この残された人類未踏地に自らの国旗を打ち立て、国家の威信を指し示すべく、一番乗り競争にやっきとなった。  

 -1920年4月6日- には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し=これには異論もあるが= -1911年2月14日- には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。 いずれも、世界史に残る偉業であった。 

 当時の世界大国イギリスも、負けじと北極、南極=スコット隊=に遠征隊を送り込んでいたのだが、いずれにおいても遅れをとった。 残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848m)のみとなる。 イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの前人未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示そうと試みた。 

 そして、 -1921年- イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。 エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。 

 マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。 そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。 今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。 マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」

 

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gR0aWPQZa_0#t=0

《Tribute/Homenaje George Mallory & Andrew Irvine; YouTubu動画 ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦》 

 《下線部のクリップにてウイキペディアの説明表示》

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月04日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-04 05:10:32 | 浪漫紀行・漫遊之譜
★忘備忘却録/きょう(狂)の過去帳
◆ 兄弟をぶっ殺した李世民(太宗)が、唐の第2代皇帝として史上稀にみる名君振りを発揮し始める(626年)。 ◆ 無断で線路に進入してエクストリーム・下山に成功したガキのせいで、全国の蒸気機関車ファンが迷惑を被る(1976年)。 ◆ 1998年 - Google社設立、ビッグ・テックの一つに成りあがるとは……。 &so、浦安にもうひとつの鼠園がオープンする(2001年)。
 
シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 01/9 】
=【 閑仁耕筆 】 冒険記譜・挑戦者達 | シリーズ・登山家の横顔=004-① | 2014-03-21 =
 
《YouTubu動画; 1924 British Mount Everest Expedition 》

http://www.youtube.com/watch?v=kIs7JzoJpmw

【Words x Messageswritten by Ishikawa Takuya, photographer based in Tokyo, Japan】より転載・・・・・・・・・・

強い写真には、どこで出会うかわからない。

当たり前だが、これほどの量の写真に日々晒される生活は、ここ十年ほどの時代を生きた人間以外に前例がないだろう。

横丁の、角を曲がればお店の壁に広告の写真が貼ってあって、といったことは昭和の初期からあったのだろうが、ネットに繋いだ瞬間に、望みもしない多くの写真を見せられる、なんていう経験は、この頃以前の人間は持つ必要がなかったはずである。

ユビサキだけでクリックすれば、今日の晩ご飯やセクシーなお姉さんや新発売のスポーツカーなんかが我も我もとこちらの目に脳に飛び込んで来る。 その副作用は一体どういうことになるのか、なんていうことは全く想像もつかないが、なんの縁だか写真というものを生業にしている身としては、おもろい時代になったなあ、と思わずにはいられない。

そんな時代なのに、というよりも、そんな時代だからこそ、目にした瞬間に内臓をわしづかみにされてしまうような写真に出会うことが割合としては少なくなってきている気がするのだが、反対に、意図していない瞬間に、とんでもなく強い写真に出会ってしまい、心の準備もないままに五臓六腑を引きずり出されてしまうような、快とも不快とも言えないような経験をすることがまれにある。

ヒマラヤやチョモランマ関係の調べものをしている最中に、久しぶりにそんな経験をした。

登山家であるジョージ・マロリー(George Mallory)を撮影した写真である。まだチョモランマの頂上に人類が到達していなかった頃、1920年代に活躍したイギリス人で、マロリー自身、21年、22年、24年と3度の挑戦を行った。 

結果を先に言ってしまうと、その3度とも頂上の踏破は叶わず、人類初の登頂は1953年のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイまで待つことになる。

マロリーは24年に行われた3度目の挑戦で、サポート役のアンドリュー・アーヴィンと共に行方不明になり、帰らぬ人となってしまった。 頂上に最も近い第6キャンプから、二人が頂上に向け登って行く様子を見つめていた遠征隊員のひとりであるオデールの目撃証言を最期に、ふたりはこの世からいなくなってしまったのである。

ふたりの生存に関しては、キャンプに戻って来ないことからも絶望的と思われたが、そこでひとつの謎が残された。

ふたりが行方不明になったのは、登頂を果たした後なのか?それとも頂きに達する前なのか?

 

※; ジョージ・ハーバート・リー・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory1886年6月18日 - 1924年6月8日?)は、イギリス登山家

1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。 1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドルー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。

マロリーの最期は死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。 マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。

マロリーが「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there. )」と答えたという逸話は有名だが、本当にマロリーがこのような発言をしたかどうかについては疑義が投げかけられている。

果たして、ふたりは頂上を踏んだのか?

今となっては確認をとる術もなく、謎は謎としてヒマラヤの氷の中に永遠に凍結されることになる。「頂上を踏んだら妻と娘の写真をそこへ置いて来る」と言い残していたその写真も、後の登頂者に発見されることはなかった。

そしてそれから75年という歳月が流れた1999年、アメリカ隊によって頂上付近でうつぶせになったマロリーの遺体が発見される。 遺体や遺品の状況等が調べられたあと、マロリーは隊員たちの手によって葬儀、埋葬されるのだが、発見時の大きな記録として撮影された写真が、今回僕が偶然目にしたものだ。

8000m級の山の頂上付近という特異な気候条件の下、75年が経ちながらも遺体は白骨化していなかった。うつぶせになって瓦礫に頭部を埋めている遺体は、破れた服から背中をむき出しにして晒している。

何故だか色素が抜け落ちてその肉は真っ白になっている。垣間見える服装や装備は現代からは信じられない素朴なもので、鋲を埋め込んだ靴底なんかも、山には素人の僕でさえ多分に心細くなるほどの古めかしさだ。

予期しない形でこの写真に出会ってしまった僕は、前人未到の頂きに挑戦し、命を落としてしまったマロリーの無念さや勇気や強さや、ベースキャンプで待ち続けたオデールたちの歯噛みするような悔しさや、戻って来ると信じて疑わなかったマロリーの妻や子供たちの言いようもない哀しさや、そういう言葉にできもしないたくさんの人々の想いをふいに眼前に提出されたような気になって、ぐっと息を吐いたまま、しばらくの間、目を離せなくなってしまった。

写真家が写真家として撮った写真を論ずる以前の、根本的な写真の強さがそこにあったように感じたのだ。

「写真とは主要な芸術の中でただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者に対して絶対的な優位に立つことのない芸術である。」

そんなことをある思想家が書いていたのを読んだことがあるのだが、マロリーの写真を撮ったのが経験を積んだ写真家か否かはさておいて、現実に対する視点や解釈を根こそぎ圧倒してしまう、そんな巨大な事実の前では、訓練や経験なんかは毛ほどの意味もなく、だからこそこのような事実の前に立ち向かうためには写真という手段は飛び抜けて強力なものなのだ。

言葉を換えれば、写真というものは、撮影者の訓練や経験や技術といった、本来は媒介になるための重要な要素をことごとくいとも簡単に飛び越えて、目の前の現実と直結してしまう。写真はときにウソをつく、といった問題はまた別にあるにしても、目の前に広がる現実は、それが圧倒的なものであれ些末なものであれ、カメラの前では腹を見せた子犬のように素直で素朴なものになってしまう。

行方不明になったとき、マロリーは一台のカメラを持っていた。 当時としては最新鋭の、コダック社製のブローニーフィルム用のポケットカメラだ。 そのカメラと、もしかしたら撮影済みのフィルムが見つかれば、永遠と思われていた謎が解けるのではないか、つまり、マロリーとアーヴィンが頂上で写真を撮っていれば、登頂の確たる証拠になるだろうと思われていたのだが、幸か不幸かマロリーの遺品の中にはカメラもフィルムも含まれてはいなかった。

「カメラが発明されて以来、写真はいつも死と連れ立っていた。」 さきの思想家はそういえばこんな言葉も残していた。

ヴェストポケット コダック(Vest Pocket Kodak)という名のそのカメラは、未だに発見されていないアーヴィンとともに、今もヒマラヤの氷の中に眠っているのだろうか。

YouTubu動画;ジョージ・マロリーが遺体で発見されたときの動画・写真=

Death Zone: bodies left behind on Mt. Everest

 【注意!!!!悲惨な写真】

http://www.liveleak.com/view?i=427_1https://youtu.be/Vet0B6B1Z_A354461539

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月03日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-03 05:10:15 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ベッドの日であると同時にホームラン記念日。この並びからして明らかにぴーのことである。 因みに、前日: 9月2日 翌日: 9月4日 - 前月: 8月3日 翌月: 10月3日。 ◆ イギリスがアメリカ大陸にあった植民地の独立を認めざるを得なくなり、以後200年間で地位が逆転することに(1783年=アメリカ独立戦争の講和条約であるパリ条約が調印)。 ◆ 下田のお寺・玉泉寺に星条旗が掲揚され、美しい国による日本の蹂躙が始まる(1856年)。タウンゼント・ハリスが初代駐日アメリカ領事。

◎ ◎ 世界初 、K2山頂からのスキー滑降に成功した男、挑戦の物語 =後節=◎ ◎

- - - Webナショジオ Webナショジオ /  Photo Stories / / 文=Aaron Teasdale/訳=ルーバー荒井ハンナ- - -

 空気は薄く、バルギエル氏はカーブを曲がるたびに立ち止まって息を整えながら、標高7689メートルまで順調に下ってきた。ここから先は、キャンプや固定されたロープがあるメインの登山ルートを外れ、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域へ分け入る。既存の一本道を行くのではなく、4本の登山道を結ぶ独自のルートを事前に描いてあったのだ。危険な道のりだった。(参考記事:「【動画】恐怖の断崖、バイクでヒマラヤに挑戦」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/040600168/ 

 初めのうち、山をすっぽりと包む深い霧が、行く手を阻んだ。視界が効かない状態では、数ある崖やセラック、氷河を避けて通るのは不可能だった。より安全なアブルッチルートを行くという選択肢もあったが、そちらはブラックピラミッドと呼ばれる高さ600メートルの岩場をロープで懸垂下降しなければならず、全行程をスキーで降りるという目的が果たせない。緊張の1時間半が過ぎると霧が晴れ、前人未到の南側斜面へ向かって、歴史的挑戦の一歩を踏み出した。

その晩7時ごろ、バルギエル氏はK2のふもとのゴドウィン・オースティン氷河へたどり着いた。所要時間7時間、垂直距離にして3597メートル。命をかけた歴史的なスキー滑降は、こうして成し遂げられた。心も体も疲れ果てたバルギエル氏は、そのまま1時間半雪の上に横たわっていた。

「到着したときは、子どものようにうれしかったです。深い安堵感と幸福感を覚えました。一度もコントロールを失うことのなかった自分を、うれしく誇りに思います。初めのうちは自信をなくしかけたこともありましたが、終わってみると全て納得がいき、思っていたことがすべて正しかったのだとわかりました」

 ポーランドは、草分け的な登山家を数多く輩出している。そのポーランド人でさえ理解に苦しむK2のスキー滑降という偉業に、国中が沸いた。国会議員や著名なジャーナリスト、元オリンピック選手から祝いの言葉が寄せられた。

 この功績を最も深く理解しているであろうワトソン氏は、大局的な視点から、次のように語った。「宇宙の底ともいうべき成層圏まで、酸素ボンベも持たずにたったひとりで登り、スキーで滑降する。ロープなしでエルキャピタンへ登頂したアレックス・ホノルド氏と並ぶ、人類の偉業です」(参考記事:「ロープなしで900mの絶壁を初登攀、米ヨセミテ」 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/060700213/ 

 ダベンポート氏も言う。「これほどの規模で、これほどの強い意志を必要とする難題を乗り越えた者はいません。K2は、スキーで制覇されたのです」

=====K2 Photo Stories====

K2 SUMMIT VIDEO! 

Experience the world's first ski descent of K2 with Andrzej Bargiel

・・・・・明日( 寄稿した“シリーズ・登山家の横顔=ジョージ・マロリー(イギリス)/2014/03/21~より ) に続く・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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今日(狂)の狂言 : 09月02日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-02 05:10:24 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ かつての千円札の顔だった日本初代の総理大臣が誕生(1841年)、奇しくも38年後には安重根義士も生を享け68年後に二人は刺客と標的として邂逅する皮肉なことに。 ◆ 大日本帝国が美しい国に屈服して解体され、北方領土がロシア領になってしまい、朝鮮半島は南北に分割され、台湾は国民党中国に譲渡。更に、ドサクサ紛れでフランス領だったベトナムが勝手に独立を宣言するカオスな一日。 ◆ モルドバの東側を流れる川沿いの地域ボス住民が、自分たちの富を搾取されるのを嫌がって民族自治を主張して独立(1990年=沿ドニエストル・モルドバ共和国)。

◎ ◎ 世界初 、K2山頂からのスキー滑降に成功した男、挑戦の物語 =前節= ◎ ◎

- - - Webナショジオ Webナショジオ /  Photo Stories / / 文=Aaron Teasdale/訳=ルーバー荒井ハンナ- - -

パキスタンと中国の国境線が走る凍てついたカラコルム山脈。その山奥深くにそそり立つ花崗岩のピラミッドが、標高8611メートル、世界第2位の高峰K2だ。エベレストに237メートル及ばないものの、K2のほうが険しく、寒さも厳しく、到達が難しい。登頂に成功した人間の4人に1人が命を落としているという数字が、その危険を物語っている。

1953年に登頂を断念した米国人のジョージ・ベルいわく、「あれは人を殺したがっている。非情の山だ」。以来、K2は「非情の山」として登山家の間で知られるようになった。(参考記事:「インタビュー:K2も制覇、女性登山家ゲルリンデ・カルテンブルンナー」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/011700001/013100001/

 氷に覆われた崖、突如として発生する雪崩、意識を奪う低酸素状態、殺人的な寒さ、ひっきりなしに起こる嵐。これ以上危険な“スキー場”が他にあるだろうか。過去25年間、スキーの達人が何人も山頂からの完全滑降に挑戦しては失敗を繰り返している。エベレスト山頂から初めてスキーで滑降したハンス・カラマンダー氏は、2004年に目の前で滑落する登山者を見てK2挑戦をあきらめた。

2009年、K2の下の斜面でトレーニングをしていたミケレ・ファイト氏は命を落とし、それを目の前で目撃していたパートナーのフレデリック・エリクソン氏もまた、翌年の再挑戦で、頂上からわずか400メートルの地点で転落死した。

「今まで達成されなかったのには、わけがあります」と語るクリス・ダベンポート氏は、ナショナル ジオグラフィックの元アドベンチャラー・オブ・ザ・イヤーで、世界エクストリームスキー選手権で2度の優勝経験を持つ。「世界でも有数のスキー登山家が、K2で命を落としているんです」

 一方、ポーランド人の冒険スキーヤー、アンジェイ・バルギエル氏(30歳)は、2013年から標高8000メートルを超える山をスキーで降りるという挑戦を始めた。その年には世界第14位のシシャパンマ山、翌2014年には世界第8位のマナスル山を制覇した。2015年、ゴドウィン・オースティン氷河を隔ててK2の向かいにある標高8047メートルのブロードピークを下りようとしたとき、巨大なK2の姿を初めて目にした。

「標高8000メートルのあの場所ほど、K2を望むのにふさわしい場所はありません。あそこで勇気をもらいました。よし、やれる、と思ったんです」

 2017年、バルギエル氏はK2でのスキー滑降に挑むことを公表した。同じ頃、スロベニア人でベテランのエクストリームスキーヤーであるダボ・カルニカ氏も、同様の計画を立てていることを明かした。カルニカ氏は2000年に、世界で初めてエベレスト山頂からふもとまでの完全滑降に成功した。

1993年にはK2に初挑戦していたが、標高7894メートルの地点でスキー板が風で飛ばされてしまい、断念せざるを得なかった。スキー板を失っただけで済んだのは運がよかったのかもしれない。この時の激しい風のせいで、登山中のパーティーはすべて撤退していた。

 2017年の夏は、ふたりともK2への挑戦を果たすことができなかった。これは驚くことではない。状況が危険すぎて、何年もK2の頂上へ到達できないこともある。バルギエル氏は、弟のバルテク氏の操縦するドローンに助けられ、事前調査を実施し、予定しているルートを半分まで登り、高山の嵐に備えて避難用の穴を掘った。

1日の気温変動に雪や氷河がどう反応するかを研究し、障害物を回避するために必要なタイミングやポジショニングを頭に叩き込んだ。雪山には、いまにも崩れそうなセラック(クレバスで断ち切れた氷塔)がいたるところに潜んでいる。2008年には、このセラックが1本崩落したために11人の登山者が命を落としている。(参考記事:「雪崩事故、悲しみのエベレスト」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20141022/421119/

「K2への登山経験がある登山家やガイドと話をすると、『絶対に無理だ』と言われます」と、ダベンポート氏は言う。  バルギエル氏は、「私の成功を信じる人はほとんどいませんでした。一度目の失敗の後は特に信じてもらえませんでしたね」と明かした。

 それでもあきらめることなく、2018年に再びK2へ戻った。最寄りの村からベースキャンプまで110キロの道のりを歩き、そこで天候の回復を待った。幸い、この年はK2へ登るには適した年だった。7月19日、バルギエル氏は酸素ボンベも持たずに頂上を目指して出発。7月22日午前11時28分、彼はスキーを持って単独で世界第2の山の頂上に立った。

 風に飛ばされないように注意しながら、スキー板を荷物からほどいた。板の表面には、両親、3人の姉妹、7人の兄弟のイニシャルが書かれている。しかし、感慨にふけっている暇はない。スキー板を装着し、傾斜50~55度の急な氷の斜面を慎重に滑り降りた。準備中は不安に襲われることもあったが、実際に滑っている間は「すべての恐れが消えていました。心の中は落ち着いて、完全に集中できました」と後に語っている。

 極限状態でスキーをするには、それだけ強靭な集中力が必要とされる。「転倒は、死を意味します。遺体すら発見されません」。2009年にK2で2度目のスキー滑降に挑戦した米国人のデイブ・ワトソン氏は言う。このとき、ワトソン氏は標高8352メートルの地点で胸まで届く深い不安定な雪に阻まれて滑降を断念した。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月01日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-01 05:10:07 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 日本全国で地震の怖さを伝える政府主導のイベントが開催されるが、1月17日や3月11日を経験した今では、寧ろ火遊びの楽しさ。誰が言ったか“二百十日”、誰が決めたか“防災の日”でおじゃる丸。 ◆ 70年以上も自分の国を玩具にするばかりか矢鱈喧嘩を吹っ掛けていた、フランスのクソ爺ぃ=ルイ14世=様がお逝きになる(1715年)。 ◆ 長らく鍔迫り合いを続けていた名古屋の2つの新聞が国策の線に沿い合併(1942年)、因みに、大阪朝日新聞と東京朝日新聞が題字を「朝日新聞」に統一したのは二年前の本日夕刊紙。

◎ ◎ 第4回 4回 ヒマラヤ支援で大切なこと ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー ピーター・ヒラリー /

インタビュー・文=高橋盛男/写真=澤圭太- - -

=エドモンド・ヒラリーが人類初のエベレスト登頂は1953年。それから60周年を迎え、その初登頂をテーマにしたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・エッジ』が公開された。ヒラリーの子息で自身も登山家のピーター・ヒラリーさんの来日を機に、父の思い出や、今日のヒマラヤの現状などについて尋ねた。=

――エドモンド・ヒラリーさんは、1960年にヒマラヤ基金を創設して、ネパールのナムチェ・バザール地区を中心としたシェルパの村への支援活動を開始します。その基金も、ほとんどはエドモンドさんが私財を投じて設立したものだそうですね。

 もともとヒラリー家は、自分が属するコミュニティーに貢献することが大事だということを、代々伝えてきた家です。基金を創設して、ヒマラヤに学校や病院を建てたりする活動も、そこからつながっているものだと思います。

――ピーターさんも、オーストラリア・ヒマラヤ基金の責任者を務め、ヒマラヤでエベレスト登山をサポートするような仕事もされていますね。1960年からこれまでの約50年間で、シェルパの村の生活環境は、どう変わりましたか。

劇的に変化したと思います。  父が現地に最初の学校を建てたのが1960年です。以後、教育水準は格段に上がっていき、衛生面も良くなっています。それにともない観光産業も成長していったので、ロッジやゲストハウスなど宿泊施設の経営やトレッキングガイドのサービスなど、観光と関係する産業も拡大しています。

 ナムチェ・バザールをはじめとするエベレストの南麓地域は、生活環境の改善がかなり進んでいますが、それより標高の低い地域やその周辺はまだまだで、100年前を思わせるような生活を今でも続けています。  私たちは今、そのような地域にも学校や病院を建てるなど、支援する活動を展開しています。

――近年、エベレストは登山者の増加が懸念されています。「ナショナル ジオグラフィック」の特集「満員のエベレスト」(2013年6月号)https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130522/351479/ でも取り上げていますが、その前年春の入山者は500人を超えたとか。このことも含め、現在のエベレストが直面している問題はどのようなものでしょう。

 エベレストの抱える問題は、直接地元の人に聞くと、いろいろな回答が出てくるでしょう。パンポチェという村に住む知人で年配のシェルパは「チョモランマ(エベレスト)は宝、われわれにいろいろなものをもたらしてくれる」といいます。  日本の富士山もそうですね。水や動物の住む森も山の恵みですが、観光や登山で訪れる人々もその一部です。

 たしかにゴミの問題や環境汚染の問題は、エベレスト登山者の増加と対をなすものですが、それは徐々に改善されつつあると思います。たとえばゴミの問題は、山の清掃システムが整備され、以前よりはかなり良くなってきています。

むしろ、登山者の増加で一番考えなければいけないのは、死亡事故のことでしょう。今年4月にも大きな雪崩による事故がありました。あれだけ多くの登山者が押し寄せれば、次の事故が起きるのは時間の問題です。

安全を期するにはどうするか、それが今、最優先で考えなければならないことだろうと私は思います。エベレストでの死亡事故は、海外からの登山者ばかりではなく、彼らをサポートする地元の人々にも甚大な被害を及ぼすことになりますから。

――何か良いアイデアをお持ちですか。

いろいろありますよ。その方策のなかには議論を呼び起こすだろうものもあります。  大勢の人がエベレストに登るようになったこと自体に、私は反対してはいません。それは、すばらしい体験をするチャンスだし、地元の人々にとっても大切な収入源になるわけですから、益するほうが大きいと思います。

しかし、雪崩やアイスフォールなど、エベレストには命を落とす危険も待ち受けています。ですから、一部はある程度のところまでロープウェイで行けるようにするとか、登山の資材はシェルパが運搬するのではなく、ヘリコプターを利用するとか、危険や負担を減らす方策はいろいろあると思います。

それでは登山ではないという意見も出るでしょう。しかし、たとえばフランスのモンブラン山麓にある山岳リゾートのシャモニーでは、登山にかかわるサービスが整っています。一定のルールに沿って、多彩な山岳レジャーが体験できるようになっているのです。 それは、シャモニーを拠点とした長いモンブラン登山の歴史を通して培われたスタイルです。そういうヨーロッパの山岳リゾートから、ヒマラヤが学ぶこともあるのではないかと私は思います。

――ピーターさんは、ヒマラヤの自然を尊重し、バランスをとりながら、現地の人々の生活環境が良くなっていくようにと考えているわけですね。そのようなかたちの支援を続けていくことは、ピーターさん自身にとってはどんな意味を持っているのですか。

 私なりに使命感を持って取り組んでいます。コミュニティーを良好に維持するのは大切なことです。しかし、私のいうコミュニティーは、自分の住む地域ばかりではない。  自分の住むところから遠く離れた地域であっても、大切に思うコミュニティーがあり、自分に貢献できることがあれば、それをやるべきだと私は思います。

 私自身はその意味でのグローバルプレイヤーでありたいと思っています。  ただ、そのときに大事にしたいのは、現地の人々とコラボレーションしながらプロジェクトを進めることです。自分の価値観を押し付けたり、お仕着せのような援助はよくない。父もそれを嫌い、地元の人々とコラボレーションしながら、いろいろいなものを作り上げてきました。私もそうしていきたいのです。 (おわり)

・・・・・・・明日 ( 世界初、K2山頂からのスキー滑降に成功した男、挑戦の物語 ) に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月31日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-31 05:10:57 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 豊臣秀頼が寄進して建造した寺の鐘に刻まれた文字をめぐって、徳川家康がクレーマーとなって火蓋を切る切っ掛けに(1614年)。 ◆ パリでダイアナ妃に田代まさしの神罰が下る(1997年)。この事故が関係したのか!!? 翌年のこの日、原宿の歩行者天国が廃止される。 ◆ “初音ミク”がメジャーデビューを飾る(2007年)。ファーストシングル『ネギ回し』の大ヒットで一躍注目に。ところがミクの日ではない。

◎ ◎ 第3回 野心家だった父(エドモンド)のコンプレックス ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー ピーター・ヒラリー / ンタビュー・文=高橋盛男/写真=澤圭太- - -

=エドモンド・ヒラリーが人類初のエベレスト登頂は1953年。それから60周年を迎え、その初登頂をテーマにしたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・エッジ』が公開された。ヒラリーの子息で自身も登山家のピーター・ヒラリーさんの来日を機に、父の思い出や、今日のヒマラヤの現状などについて尋ねた。=

――6月28日から公開された映画『ビヨンド・ザ・エッジ~歴史を変えたエベレスト初登頂』は、エベレスト初登頂60周年を記念して制作されたドキュメンタリードラマ。ピーターさんの父親であるエドモンド・ヒラリーがエベレストに挑戦したときの様子が描かれています。ご覧になっていかがでしたか。

非常によくできた映画ですね。  何よりも、父の業績についてエベレスト初登頂にしぼったところがよかったと思います。遠征に行きつくまでの過程を描いたり、初登頂の歴史的な価値などを云々するのではなく、純粋に男たちがエベレストの山頂を目指して登っていくその行程を軸に、物語が組み上げられています。そのせいで、すごくリアリティのある映画になったと思います。

――ピーターさんもナレーションで出演し、父エドモンドさんについて語っています。息子ならではの父親観が描き出されていて、そこにもリアリティを感じました。

 監督のリアン・プーリーさん、彼女はとても質問のうまい人なんですよ。映画のナレーションに生かせるように、答えを引き出してくれる。ですから、すごくやりやすかったですね。 再現映像では、実際にエベレストで撮ったシーンが多いですし、ほかにさまざまな過去の記録映像や、1953年に一緒に登頂した人々の証言も巧みに織り込まれています。

――映画を見てびっくりしたのは、エドモンドさんを演じた主演俳優、チャド・モフィットさんが本人にとてもよく似ていたことです。

 本当にそっくり。チャドが衣装をつけた写真を見せたいからと監督に言われ、見せてもらったのですが、いやもうびっくりしました。  ただ、ちょっと不安に思ったのは、彼のほうが本物のエドモンド・ヒラリーとして、見る人に印象づけられるのではないかと。そう心配になるくらい、彼は父に似ています。そこも、この映画の見どころのひとつかもしれません。

――映画のなかでピーターさんは「父は完璧主義で複雑な側面を持った人物だ」と語っていますね。

 父は野心家でした。  そういう人の常で、精神面には複雑なところがありました。  心理的には、家族や一緒に登山するパートナーに愛される人でありたいと思っている。しかし、やろうと思ったことは絶対に成功してやるという野心もある。そのために「愛される人でありたい」という自分の気持ちを振り切ってしまおうとするところも出てくるわけです。

たとえば、仲間が自分より先に山頂を目指すチャンスを得たとする。父は、その仲間を妬むわけではありませんが、それが自分だったらどんなにいいかと考えてしまう。そこに野心家である父の強い葛藤があるのです。

 ただ、父は地に足がついているというか、気取ったところも、おごったところもない人柄。誰に対しても平等に接することのできた人でした。それが父の魅力だと思います。

――これも映画に出てくるエピソードですが、エドモンドさんの父親がとても厳格な人だったそうですね。

 祖父は、第一次大戦のガリポリの戦いで最前線に立った経験を持つ人でした。オーストラリア軍とニュージーランド軍が参戦して、多大な損失を被った戦いです。

 祖父は幸いにも生還したわけですが、そういう時代を生き抜いた世代ですからね。子どもとはある程度の距離を持ち、厳しくしつけるのが父親の役割だと思っていたでしょう。父は、多分にその影響を受けていたと思います。父自身も第二次大戦中は、ニュージーランド空軍に従軍していましたし。

――それから、エドモンドさんは子どものころ背が低くて、学校ではいじめられっ子だったと。これは、のちのエドモンドさんの意志の強さと、何らかのかたちで関係していると思われますか。

 子どものころのことについては、通っていた小学校が田舎の小さい学校だったのですが、父はそこでは天才といわれるくらい優秀だったそうです。  そこで、11歳のときに飛び級で都会の中学に入学したのですが、まわりの子は皆、体が大きいし、学業も父より優れた子はいくらでもいるとわかった。そういうことなんです。

父はそのとき、自分に少々失望したかもしれませんね。その劣等感を克服したい気持ちが、のちに大きな野心を持つにいたる背景としてあったかもしれません。

――最後に、エドモンド・ヒラリーさんが長年取り組まれたシェルパの村への支援と、現在のヒマラヤが抱える問題などについて尋ねます。

                            ・           ・・・・・・・明日 ( 第4回 ヒマラヤ支援で大切なこと ) に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月30日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-30 05:10:10 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 夏山シーズンも終わるこの時期にとある変人気象学者が富士山に登って山籠りを始めた(1895年)からか、この日は冒険家の日。体力の限界に挑戦する小中高生の健闘を祈る前夜祭的意味合いが強い。 ◆ 第二地銀の業界トップと信用組合の業界トップが揃って突然死。「阪神大震災の後始末もまだなのにどういうことやねん」「利子5%の定期預金は大丈夫やろか」と店舗に預金者が殺到し、怒号も飛び交う中で従業員はサービス残業(1995年)。 ◆アホ太郎よりはバカなド鳩の方がマシという民意が示された日(2009年)。

◎ ◎ 第2回 教えられたのは自然とのつながりの大切さ /野心家だった父(エドモンド)のコンプレックス ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー ピーター・ヒラリー / ンタビュー・文=高橋盛男/写真=澤圭太- - -

=エドモンド・ヒラリーが人類初のエベレスト登頂は1953年。それから60周年を迎え、その初登頂をテーマにしたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・エッジ』が公開された。ヒラリーの子息で自身も登山家のピーター・ヒラリーさんの来日を機に、父の思い出や、今日のヒマラヤの現状などについて尋ねた。=

――ピーターさんが生まれたのは、エドモンドさんがエベレスト初登頂を果たした翌年の1954年ですね。もの心ついたころには、父親は世界的な有名人だったわけですが、偉大な父を持った息子の感想は?

 子どものころは、びっくりさせられることが多かったですよ。  たとえば、空港に行くと父のまわりに黒山の人だかりができて「サインをください」「写真を撮らせてください」とせがまれる。そんな場面はしょっちゅうでした。しかし、まあ、それが生活の一部で、私にとっても日常でした。

偉業を成し遂げた父に対する周囲の反応はポジティブなものだったし、私の受け止め方もそうでしたから、そのことで悪影響を受けるということはなかったですね。  父親が偉大だと、あえて違う道を歩く人もいると思いますが、私の場合それはなかった。むしろ、父に憧れました。

――その憧れはどのようなものだったのですか。

私が小さいころから、家にはたくさんのお客様が来ました。その多くは登山家です。アメリカ、ドイツ、イギリスなど、いろいろな国から登山家が父を訪ねてきて、我が家で食卓を囲んで、それぞれの登山体験を語り合うんです。その光景が、子ども心に鮮明な印象として残っています。私もそういうことをしたいと思うようになりました。

それから、父に連れられて山に登るようになってから思ったのですが、登山の一番良いところは一緒に登る人々、パーティとの人間関係ですね。  長い時間を一緒に過ごし、危険も喜びも一緒に体験しますから、人と人との結びつきが強いんです。そして、そこで培われた友情も長続きします。それが登山の魅力ですね。ただし、逆に登山中に人間関係にひびが入るようなことがあると、厄介ごとの種にもなるのですけれど。

――子どもに対しては、どういう父親でしたか。

 誰でも、子どもには少なからず冒険心がありますね。その意味からすれば、夢のような少年時代でした。父と一緒に、いわば冒険旅行に行けるのですからね。  父は常日頃から、自分が行きたいこと、やりたいことの企画ばかり立てていました。学校が休みのときに、いろいろなところに連れて行ってくれたと言いましたが、今度はあの山に登ろうとか、あの川でラフティングをしようとか。いつも企画につぐ企画。楽しいことばかり、次々と考え出す人でした。そのなかには、ヒマラヤに学校や病院を建てることも入っていました。

 父は、シェルパの村の生活環境を改善しようと、ヒマラヤ基金をつくり、現地に学校や病院を建てる事業に尽力しましたが、そういう施設の建設現場へ一緒に行ったこともあります。ともあれ、私たち家族、年に3回はものすごいところに連れていかれるんですよ。オーストラリア内陸部の砂漠地帯なんて、ふつう子ども連れの家族旅行で行くようなところではないでしょう。

――そういう冒険旅行を通して、ピーターさんが父親から学んだことは?

 徹底して教えられたのは「常に自然とのつながりを保っておくこと」ですね。そして「自然の中の美を見出すこと」です。それは、この年になった私がもっともだと思うことです。  父が体験を通して感じたのと同じことを、私も自身の体験を通して感じてきています。強く印象に残る登山、そこから得られる人間関係。また、登山は他者と同じ体験を共有できることにこそ、すばらしさがあると思います。それも父から教えられたことです。

 それともうひとつ。私たちは都市に住んで、ビルに囲まれた生活をしています。ものにあふれた複雑な仕組みの生活環境のなかにいるわけです。  けれど、人間が生きるうえで、そこまでのものは、本当は必要ないんです。山の上に行けば、眠るのはテントのなか、食べるのは携行食。簡易なすみかと少しばかりの食糧があれば、人間は生活できます。

 都市生活を否定するわけではありませんが、「人が生きる」とは最もシンプルにとらえれば、そういうことです。私は、そのシンプルな生き方を意識することの大切さを父に教えられましたし、今の私自身もそう考えています。

――次に、エベレスト初登頂を描いた映画『ビヨンド・ザ・エッジ』についてうかがいます。

                        ・・・・・・・・・明日 ( 第3回 野心家だった父のコンプレックス ) に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月29日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-29 05:10:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 日本で銅が初めて採れたのを記念して、海の向こうの国のを真似た銅銭を鋳造(708年=「和同開珎」を発行)。でも、多くの日本人には使用方法が解らずお察し下さいな事に。 ◆ インドでぞんざいな扱いを受けたヴァスコ・ダ・ガマが、胡椒を手土産にポルトガルへの帰途につく(1498年)。 ◆ 帝都物語の出版元の創業者の息子が自ら野性の証明をする筈が、金田一耕助によって酒井法子並みだったことが判明(1993年)。

◎ ◎ 第1回 かつて父が登った山頂への道 / 野心家だった父(エドモンド)のコンプレックス ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー ピーター・ヒラリー / ンタビュー・文=高橋盛男/写真=澤圭太- - -

=エドモンド・ヒラリーが人類初のエベレスト登頂は1953年。それから60周年を迎え、その初登頂をテーマにしたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・エッジ』が公開された。ヒラリーの子息で自身も登山家のピーター・ヒラリーさんの来日を機に、父の思い出や、今日のヒマラヤの現状などについて尋ねた。=

――エドモンド・ヒラリーさんのお話を聞く前に、ピーター・ヒラリーさんご自身のことをうかがいます。ピーターさんも登山家であり、何度かエベレストに登頂していますね。

エベレストには、これまでに5回登頂しています。最初に登ったのは1990年です。

――2002年に、ナショナル ジオグラフィック協会がエベレスト初登頂50周年に向けて結成した遠征隊にも加わっていました。

 ええ、あれが2回目の登頂でした。エベレスト登頂に成功した初期の登山家の2世を中心に編成したチームです。  メンバーは1953年に初登頂を成功させたエドモンド・ヒラリーの息子である私、10年後の1963年に米国人として初登頂に成功したバリー・ビショップの息子のブレント・ビショップなど。  父とともに初登頂を成功させたシェルパのテンジン・ノルゲイの息子、ジャムリン・ノルゲイも参加しています。彼は、ベースキャンプで通信を担当しました。

――どのような経緯で参加することになったのですか?

友人で米国人の登山家、ピーター・エイサンズから声がかかったんです。初登頂50周年に向けて、ナショナル ジオグラフィック協会が遠征隊を送り、記録映像を撮るので来ないかと。願ってもない話です。ぜひ参加させてほしいと申し出ました。

――テンジンさんの息子、ジャムリンさんとは、それまで会ったことは?

 ありますよ。ノルゲイ家とは家族ぐるみのつきあいをしていましたから、彼のことは幼いころからよく知っていましたちょくちょく一緒に登山もしていたんですよ。キリマンジャロとかね。  テンジンが住んでいたインド西ベンガル州ダージリンの家にもよく行きました。彼の二人の息子とはずっと交流があります。

――50周年記念の登頂では、父のエドモンドさんが登ったときと同じサウス・コル・ルートをとったのですね。そのときの「ナショナル ジオグラフィック」の記事がここにあります。

ブルーストライプの日よけがついた帽子をかぶっているのが私です。この帽子が父のトレードマークだったので、それを着けて登ったのです。この写真は、標高8400mあたり。稜線は細く、両側が高さ300m~400mの崖です。ここを父とテンジンは登ったのかと思いました。

――かつて父親が登った道を、どのような気持ちでたどりましたか。

 感慨深いものがありました。  足下が400mの崖と聞くと恐怖心を覚えるでしょうが、落差が10mでも、人は落ちれば死にます。そういう理性が働くので、実際には恐怖心はそれほどでもないのです。しかし、ものすごく標高が高いので、低酸素状態で意識がもうろうとしていますから、「とにかく落ちないように、滑らないよう」とだけ考える。

 そんななかでも、父やテンジンのことが思い浮かんでくるんです。私は明らかにそのとき、父の存在を感じていたと思います。

――先ほど、最初のエベレスト登頂が1990年だということでしたが、エベレストに挑戦したのは、やはり父親の影響ですか。

答えは当然、イエスです。何せ、あのエドモンド・ヒラリーが父ですからね。  父はしょっちゅう遠征で家を留守にしていましたが、学校が休みになると、いろいろなところに連れて行ってくれました。 ヒマラヤ山脈やオーストラリアのアウトバック(内陸部の砂漠地帯)、それからアラスカにも。

子どものころから、そういう環境で育ちましたからね。父を見て、登山家を志したというより、ふだんの生活を通して徐々に登山家になっていったということのように思います。  父はエベレストばかりではなく、南極や北極にも行った冒険家ですから、そんな父親を傍で見ていて、私でもエベレストに登れるのでないかという思いに至ったわけです。

――では、その偉大な冒険家である父、エドモンド・ヒラリーの人となりを次にうかがいましょう。

・・・・・・・・明日 ( 第2回 教えられたのは自然とのつながりの大切さ ) に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月28日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-28 05:10:06 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 住友が銅の生産で一帯を禿山にしたおかげで大水害が発生(1889年=別子大水害)、住友は植林だの精錬所の移転だの後始末に忙殺される破目になり田中正造から皮肉にも褒められることに。 ◆ 日本のテレビコマーシャルの誕生は、この日フィルムの裏表をひっくり返したことで始まった(1953年=NTVが本放送開始)。 ◆ 上の階のピアノのうまさに嫉妬した男が、そのピアノを持っていた一家を皆殺しに(1974年=ピアノ騒音殺人事件)。

◎ ◎ 第5回 今年始まる標高3800mの森づくり / Webナショジオ・インタビュー 野口健 ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー 野口健 / インタビュー・文=高橋盛男/写真=藤谷清美- - -

=1999年、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立した登山家であり、近年では清掃登山やシェルパ基金の設立、ネパールでの学校建設、戦没者の遺骨収集などに取り組んでいる野口健、再びカメラを手にしたことで、新たな世界が切り開かれたという。=

――最近は、年に一度はアフリカへ行っているそうですね。

 高校2年のときに、タンザニアのキリマンジャロに登ってから、ずっとアフリカにはご無沙汰していました。その後、ウガンダとコンゴ民主共和国の国境にあるルウェンゾリ山地へ行きたいと思っていたのですが、現地の治安の悪化で、1997年から2001年まで入山禁止になり、チャンスがありませんでした。

 ようやくルウェンゾリ山地に行けたのは、2010年。それから、アフリカ通いをするようになりました。

――野口さんは、ブログで「ヒマラヤへは空白をつくりに行く」と書いています。一方、写真集では「アフリカの山は楽しい」と述べています。どのような違いがあるのですか。

 ヒマラヤへ行くのは、日常から逃げ出すような感覚がありますね。日本にいると、日々忙しく動き回っているから、ゆっくりものを考える時間がなかなか持てない。  ヒマラヤの山の中は、まわりに人がいないですし、歩いていても山小屋にいても、思うにまかせてあれこれ考える時間は十分過ぎるほどあります。ある意味、その時間が僕にとっての貴重な「空白」なんです。

 アフリカは山や自然もいいですけれど、僕が訪れた国に限っていえば、興味深いのは人間です。生々しくて、ギラギラしている。

――生々しくて、ギラギラとは?

日本人では考えらないほど、感情の起伏が激しい。喜怒哀楽の感情が、振り切れるという感じですね。動物的というか、本性むき出し。何でそこまで本性をむき出しにできるのかと思うほど。1カ月もいて帰ってくると、ヘロヘロになってしまいます。

 たとえば、アフリカの人たちは、写真を撮られるのを極端に嫌がります。いきなりレンズを向けると本気で怒る。日本にいる僕らは日々、どこか感情を抑えて生活しているでしょう。でも、彼らにはそれがない。うらやましく思うんです。でも、一方ではあの感情の爆発は恐いな。相当に危険だとも思います。

――危険というと、命にかかわるような意味での危険ですか。

 そうです。感情が異常に高まると、彼らは即座に暴力的になってしまうことがあるんです。  ケニアのナイロビに行ったとき、現地コーディネーターに「ナイロビの街では、絶対に走ってはいけない」といわれました。

 大人が走っていると、物を盗むか何か、悪いことをして逃げていると思われるんです。それは日本でもありますが、走っている人を見ると街の人たちが皆、一斉に追いかけて、捕まえたら寄ってたかって殴る蹴るの暴力を振るうというんです。リンチですよ。

 僕が直接見たわけではありませんが、泥棒をした男が広場に追い詰められ、トラックの古タイヤに入れられて、ガソリンをかけて火をつけられたという報道が、滞在中にありました。コーディネーターに、街の人は正義感から追いかけるのかと尋ねたら「日ごろの鬱憤がたまっているせいだ」と言っていました。  感情の起伏が激しいので、集団心理で怒りに火がつくと、止められないんですね。

――日本人も、日ごろの鬱憤はたまっていると思いますが、まずそういうことはないですね。感情の抑制が利いているからでしょうか。

 直接行動としては起きないけれど、本質は変わらないと思います。何かあると寄ってたかってたたくというのは、週刊誌などメディアの論調にもよく見られるでしょう。  アフリカの人たちは何ごとにつけ、感情表現が直接的なだけに、人間の本質がそこに見てとれるように思えるんです。だから、興味深くて、アフリカに行くのは楽しい。ただ、ワイワイとはしゃぐような楽しさではないですね、疲れる楽しさです。

――話は変わりますが、年頭でもありますので、今年の野口さんの抱負を教えてください。

 今年からまたひとつ、ネパールで新しいプロジェクトをスタートさせます。僕たちが学校をつくったマナスルの麓、標高3800mの高地に森をつくるんです。

 マナスルは初登頂したのが日本人で、それ以来、日本の登山者も多く、地元では「ジャパニーズ・マウンテン」と呼ばれるほどです。それが縁で、現地の村に学校をつくるプロジェクトを始めたのですが、今度はそこに森をつくるんです。 <

現地で聞いた話では、もともとその一帯は森に覆われていたそうです。しかし、ネパールの人は、木を伐れば伐りっ放し。日本のように、伐ったら植えるという文化がありません。そのため資源が枯渇して、それが生活の困窮にもつながっています。森が復活すれば、失った資源を再び獲得できるし、村に仕事もできるでしょう。

――しかし、標高3800mの高地で、木が育つのですか。

 つくばにある研究機関に相談したら、さっそく現地に調査に行ってくれました。結果は、可能だとのこと。それほどの高地に森を復元することは、世界的にも例がないので、ぜひトライしたいと言ってくれました。夢のある、楽しいプロジェクトになるだろうと期待しています。 

・・・・・・明日 ( Webナショジオ・インタビュー/ 野心家だった父・ヒラリーのコンプレックス ) に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月27日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-27 05:10:00 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 日光街道沿いに鉄道/現伊勢崎線が開通する(1889年)。その後、『らき☆すた』や『クレヨンしんちゃん』でお馴染みの路線となる。 ◆ 1階をスカスカにしてその上に規格化された建材を組み立てた上に屋上に広場を造るという安易さ極まりないモダニズム建築の巨匠として有名なル・コルビュジエが死亡する(1965年)。 ◆ 5か月前にハブに噛まれて死んだ筈の車寅次郎が、突然柴又の団子屋に現れる(1969年)。

◎ ◎ 第4回 世の中のB面にこそテーマがある / Webナショジオ・インタビュー 野口健 ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー 野口健 / インタビュー・文=高橋盛男/写真=藤谷清美- - -

=1999年、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立した登山家であり、近年では清掃登山やシェルパ基金の設立、ネパールでの学校建設、戦没者の遺骨収集などに取り組んでいる野口健、再びカメラを手にしたことで、新たな世界が切り開かれたという。=

――野口さんの写真集の中にもありますが、他の著作にも「ものごとにはA面とB面がある」というようなことをよく書かれていますね。

  ええ、写真集の構成でもそれを意識しています。「生」と「死」もそうですが、人を寄せつけない厳然としたヒマラヤの山々と、そこで暮らす人々の生活、野生動物の姿を求めて今や世界中から観光客が訪れるケニアのマサイマラ国立公園と、ゴミを漁る人々が集まる首都ナイロビのゴミ捨て場というふうに。

――それは野口さんがものを見るときの視点、心構えのようなものなのですか。  「ものごとにA面とB面がある」というのは、実は子どものころから父に聞かされていた言葉なんです。

  父は外交官でしたが、赴任した国ではいろいろなところへ僕を連れて行ってくれました。しかし、楽しいとか、うれしいとか、心地よいとか、そういう場所ばかりではなかったですね。  たとえば、小学3年か4年のころ、エジプトに住んでいたのですが、父がイスラエルへ行こうといったんです。ところが、僕の母はエジプト人で、アラブ系だから絶対に行かないと言い張る。アラブ人がイスラエルに行くのは危険ですからね。父と二人で行きました。

   イスラエルへ行くと、ユダヤ人とアラブ人の街が決定的に違うんですよ。ユダヤ人の街はきれいで、アラブ人の街はスラム。タクシーの運転手がユダヤ人で、どこから来たと聞くから、父がエジプトから来たというと「アラブ人なんか、皆ぶっ殺してやる」みたいなことを平気で言う。震えあがりました。

  小学4年のときは、ゴラン高原に連れて行かれました。イスラエルとシリアとの国境付近で、道のまわりは中東戦争時代の地雷が残っている地雷原でした。

――子どもを連れて行くようなところじゃないですね。

   そうですよね。子ども心に、どうしてこんなところに連れて来るのかと思いました。  中学生のときはベルリンにいて、まだ壁があった時代でしたが、父と地下鉄に乗って東側に出ました。何か街の色が西ベルリンと違うんですよ。車はプラモデルみたいでおもちゃっぽいし、壁の近くに衛兵がたくさんいて、彼らの「カツッ、カツッ」というブーツの音が、今も耳に残っています。空も、何となくドヨンとしているように感じる。

  「壁ひとつでこうも違うのか」と、子供ながらかなり強烈な印象を受けました。  高校生のときは、イエメンで暮らしていました。当時のイエメンは国情が不安定で、外国人が出歩くもの危険でしたが、父は自分の車を運転してスラム街を回るんです。銃を持っている人がウヨウヨいる中をですよ。

――どういう意図があったのですか。

   父はODAの担当でした。日本が途上国に援助するお金は税金ですから、有効に使われなければなりません。政府や地元の権力者のリクエストに応えれば、外交的にはそれでことは済むのですが、本当に困っている人を助けるかどうかは別の話。例えばアフリカは部族社会で、権力者は国益よりも自分が所属する部族の利益を優先します。

   何が本当に必要なのかを見なければいけない。そんな思いが父にはあって、僕を連れて街を見て歩いていたのだと思います。そういうときに、よく僕に言っていたのがA面とB面の話です。  「ものごとにはA面とB面がある。A面は、普段、何もしなくても見える世界。B面は、自分から見ようとしないと見えてこない世界。そして、世の中は往々にして、B面にこそテーマがある」。そこをよく見なさいということです。

――とにかく現場を見なさい。そうしなければ本当のことはわからない。それも今の野口さんのさまざまな活動と重なりますね。

   家に戻ってから父は僕に「どう思った?」と聞くんですね。なぜ、そんなことを聞くのかと、僕は逆に尋ねたんです。すると父は「お前のように、まだ世の中がよくわかっていない者が、先入観なく見て感じたことは意外と大事なんだよ」というのです。それでようやく、父が僕を連れまわした意味が少しわかりました。

   ただ、今となっては本人は覚えてないんです。「そんなこと言ったかな」と。父は、僕に何かを教えようと、そういう話をしていたのではなかったと思います。自分の考えを、そばにいる息子にそれとはなしに語りかけていただけではないでしょうか。

――それでは、最近通い始めたというアフリカの魅力と、今年の抱負について最後にうかがいましょう。

・・・・・・・明日 ( 第5回 今年始まる標高3800mの森づくり ) に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月26日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-26 05:10:11 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ カルカッタで貧しい人々に死に場所を与えた聖女と言う名のマザー・テレサが、アルバニアで生を享ける(1910年)。 ◆ 芥川龍之介脚本の映画『羅生門』が封切り(1950年)。これに合わせて、第1回24時間テレビ 「金はテレビを救う」が放送される(1978年)……両出来事の関係は謎である。 ◆ 芝浦埠頭とお台場の間がデカいつり橋で結ばれる(1993年)。真下をデカい船が通る上に大量の車を捌くことから、勝鬨橋のバージョンアップとはならず。

◎ ◎ 第3回 植村直己に教えられたこと / Webナショジオ・インタビュー 野口健 ◎ ◎

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==1999年、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立した登山家であり、近年では清掃登山やシェルパ基金の設立、ネパールでの学校建設、戦没者の遺骨収集などに取り組んでいる野口健、再びカメラを手にしたことで、新たな世界が切り開かれたという。==

――高校停学中に読んだ植村直己さんの著書「青春を山に賭けて」に触発されて、登山家を志したそうですね。何が野口さんを突き動かしたのですか。

 学校に馴染めず、勉強もついていけず、挙句の果てに先輩を殴って停学処分。これで完全に落ちこぼれたなと、自分では思っていました。直己さんも著書のなかで、自分は落ちこぼれだというようなことを書いているんです。  数々の冒険を成し遂げて、世界的にその名を知られる人が、そうおっしゃるのですから、ついわが身と重ねて考えてしまいますよね。

――植村直己さんのどういうところを魅力に感じられたのですか。

 彼は、当初は野心的な冒険家ではなかったと思います。世界中を放浪しながら山登りを続けていくうちに、それが結果として日本初、世界初になったということなのでしょう。  地味にコツコツ、自分のやりたいことをやっていく人だったのだと思います。その夢の実現に向けた直己さんのしつこさ、くどさに魅せられましたね。

――しつこさ、くどさ?

 奥さんに話を聞いたことがありますが「あの人は本当にしつこいし、くどかった」と言っていましたよ。  たとえば、直己さんのマッキンリー(北米最高峰・アラスカ州)単独登頂。1968年に初めて挑戦しますが、単独登山が許可されずに断念し、1970年に再挑戦しています。このとき直己さん、単独登山の許可を求めて、アラスカの国立公園事務所に毎日通うんですよ。来る日も来る日も。すると、何日目かに公園長が直己さんに言うんです。

 「ナオミ、君は今、登頂しているアメリカ隊のメンバーだったね?」  アメリカ隊の一員ということにして、目をつぶってくれたわけです。アメリカの公園事務所スタッフは規制に厳しいから、ふつうならそうはいかない。  しつこい、粘り強い、スマートではない、がむしゃら。世界的な冒険家というだけではなく、それ以上にその泥臭い生き方に感銘を受けました。

――植村さんをモデルとして、登山家・野口健のスタイルが形づくられたのですね。

 目標にしてきました。でも、とても直己さんのようにはなれませんね。  ただ、僕は登山家として世界各地へ行くようになってから、その先々で直己さんと出会うんです。  たとえば、ネパールへ行って、僕が日本人だというと「お前、ナオミを知っているか」と聞かれる。南米最高峰のアルゼンチンのアコンカグアに行ったときも、アラスカのイヌイットの村に行ったときも同じことを聞かれました。

 世界的に実績のある冒険家は多いのですが、地元の人々にエピソードが語り継がれる人はそうはいないと思います。

――どうして植村さんは、それほど地元の人に親しみを持たれているのですか。

  直己さんは、いつも現地のコミュニティーに、溶け込むように入っていくんです。  北極点単独行のときも、準備のためにグリーンランドのイヌイットの村に住み込んでいます。犬ぞりの扱いもそうですが、極寒の北極圏で行動するには、彼らの生活習慣や文化から学ばなければならないと、彼は考えていたのです。

直己さんは、エベレストに登るときも、半年前からシェルパの村に泊まり込みました。ふつうそういうことはしないんです。  当時の欧米隊などは、山でも生活はシェルパと別々。テントも食事もです。シェルパは使用人ですから、その上下関係は厳然としていました。でも、直己さんはそうではなかった。

――分け隔てをしなかったのですね。

一番印象に残っているのは、5~6年前に氷河湖の調査で、ネパールへ行ったときのことです。  小さな村の民家に泊まったのですが、私が日本人と知ると、一人の老人が両手を差しだしました。10本の指の第一関節から先がないんです。凍傷にかかって切断したんですね。  彼が「1981年のエベレスト登頂のときに切った」と言ったのでピンときました。その年、植村隊がエベレスト登頂に挑んでいるのですが、隊員の一人が死亡して断念している。彼はそのときのシェルパの一人だったんです。

 とっさに僕は「困ったな」と思った。「日本人登山家のせいで、俺は指を失った」と責められるのではないかと身構えました。でも、違いました。彼は言うんです。  「指を失ったあと、ナオミは何度もここに来た。病院に連れて行ってくれたし、仕事ができない間は生活費も送ってくれた」と。

 当時、シェルパは家畜のような扱いを受けていたけれど、ナオミは我々を同じ人間として扱ってくれたと言うんですね。そういう話は、この村でのことばかりではなく、行く先々で聞くんです。

――野口さんは、遭難したときの補償が不十分なシェルパのために基金を設立したり、ネパールに学校をつくるなど、さまざまな活動を続けていますが、その理由が今、わかったように思います。野口さんの後ろにはずっと植村直己さんがいるのですね。

・・・・・・明日 ( 第4回 世の中のB面にこそテーマがある ) に続く・・・・・ 

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 08月25日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-25 05:10:59 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 船代をケチったイギリス人の船乗りが、泳いでドーバー海峡を渡るのに成功(1875年)。クラゲに刺され潮流に流されもしたが21時間45分かけて泳ぎ切った。以降、後継者達がチラホラ。大和撫子・大貫映子が9時間32分(1982年)で泳いだ。 ◆ パリを4年間も我が物顔に振る舞ってきたナチスとその協力分子に、市民の不満が爆発。この日から数年間、市内全域をリンチの嵐が襲うことに(1944年=パリの解放)。 ◆ 安藤さんちがお湯をかけて3分で食える袋ラーメンをロールアウト(1958年)。故に即席ラーメン記念日ってことになってしまっているが、同業他社にとってはお察し下さい。

◎ ◎ 第2回 隣り合わせの「死」を見つめる / Webナショジオ・インタビュー 野口健 ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー 野口健 / インタビュー・文=高橋盛男/写真=藤谷清美- - -

==1999年、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立した登山家であり、近年では清掃登山やシェルパ基金の設立、ネパールでの学校建設、戦没者の遺骨収集などに取り組んでいる野口健、再びカメラを手にしたことで、新たな世界が切り開かれたという。==

――写真集『野口健が見た世界』には、ヒマラヤ、アフリカ、日本の写真が収められています。「死」がひとつの大きなテーマになっているようですが。

山登りをする僕たちにとって、死はいつも身近にあるものです。  エベレストも、1999年に僕が最初に登頂したころまでに1000人くらいの登山家が入山していますが、そのうちの300人くらいが遭難して命を落としています。  写真集の中にも、白骨化した登山家の写真があります。僕らは山で、そういうのを目にしていますし、自分自身も何度か死にかけています。

――写真集には、雪崩の中から脱出した直後の野口さん自身の写真もある。

 あれは、僕の登山歴の中でも、相当なピンチでした。 2011年のエベレストでのことです。  上の方で爆発音のような大きな音がしたかと思うと、大雪崩が真っ直ぐに僕らの隊に向かってきて、一瞬のうちに飲み込まれてしまいました。必死になって雪から這い出した瞬間に、思わず自分に向けてシャッターを押していたらしいのですが、あとで写真を見てびっくりしました。

――この写真を写真集に載せたのは?単に登山の危険を伝えようとしたわけではないですよね。

違います。そうではない。僕らはふだん、文明に支えられて何不自由ない生活をしていて「死」を意識することがあまりないでしょう。あったとしても、そうリアリティーのあるものではないと思う。  でも、僕は死を意識する機会がないと、人間は生きるという欲求を薄れさせてしまうのではないかと思っているんです。

――さまざまな「死」を、山で見てきたからですか。

そうです。僕は、自分の年の数と同じくらいの仲間を亡くしています。  最初は19歳のときです。一緒に甲斐駒ヶ岳に登った先輩が滑落しました。冬の岩壁から、600m下へ。落ちた場所は、雪崩が集中するところで、捜索できませんでした。彼の遺体が発見されたのは、ゴールデンウィークごろ。雪が解けてからです。  すさまじい姿でした。頭はつぶれているし、腐敗がひどい。

 それまで僕には、何となく「死」を美化しているところがありました。高校時代から読んでいた多くの登山家の本にも「死」が出てきます。けれど、登山は冒険ですから、死ぬこともあると思うくらいの認識。若かったから、むしろ命をかける行為に憧れを抱いていました。  しかし、実際に直面した「死」は、それよりはるかに生々しく、むごいものです。命をかけるのがかっこいいなんて、とんでもない思い違いだと、そのときに思いました。

――山で、ご自身が「死」に直面したときは、どう思いましたか。

 人間も動物ですから、本能的に生きようとするのだと思います。 写真集にあった、雪崩から這い出たあとも、気がつくと、自分の体や顔のあちこちを触っているんですよ、生きていることを確認したくて。それから「生きたい」という「生」への執着心がワッと湧き出してくる。

一時期、子供の自殺が多発したことがありましたね。今は、中高年の自殺も多い。僕はあれ、「死」に対するリアリティーがないからじゃないかと思うんですよ。  「死」は、けっしてきれいなものじゃない。残酷で、強烈に恐ろしい。そのリアリティーがあれば、人間はそうそう自分から死ねるものではないと僕は思います。  それから、生きることにも、それなりの覚悟がいるものですよ。

――どういうことでしょう。

 2007年にエベレストに登頂したときです。同じ隊ではないですが、ほぼ同時に登頂を果たした日本人登山家が、下山開始直後にうずくまって動けなくなってしまいました。  彼は「先に行け」というのだけれど、立ち去るわけにもいかない。でも、その場の選択肢は2つしかない。見捨てるか、とどまって死ぬか。あの標高では、助けるという選択肢はありえないんです。  結局、彼はその場で息を引き取り、僕はやむなく彼を残して下山しました。つまり、僕が「生きる」という選択をした瞬間に「仲間を置き去りにする」という覚悟をしなければならない。

――厳しいですね。

 僕にそういう経験がなければ、戦没者の遺骨収集はなどしていなかったと思います。  遺骨収集を始めた理由のひとつには、子供のころから祖父に聞かされていた戦場の話があります。  祖父は、ビルマ(ミャンマー)のインパール作戦に従軍した参謀の一人で、自身は捕虜になって生き延びましたが、戦地に残した多くの兵士が戦死しました。

 祖父は、そのことをずっと悔いていました。「自分は今、孫に囲まれて平穏に暮らしているが、幸せになればなるほど苦しい」とも言っていました。  山で遭難した仲間を置いてこなければならない状況に遭遇するたびに、僕は祖父の言葉を思い出すんです。僕にも「生き残って申し訳ない」という気持ちがある。  登山家が何で遺骨収集なのかと、よく言われるのですが、僕のなかではそんなふうにつながっているのです。

――高校時代に、野口さんを登山家へと導くことになった植村直己さんの話を、次にうかがいましょう。

・・・・・・・明日 ( 第3回 植村直己に教えられたこと ) に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月24日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-24 05:10:05 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 1572年のフランス(サン・バルテルミの虐殺)や1929年のエルサレム(嘆きの壁事件)などこの日は神の名の下に異教徒を幾らでも血祭りに挙げても赦される日らしい。 ◆ ソビエト連邦共産党(1991年=ミッチィが党の解散を宣言)と冥王星(2006年)がリストラされた日。 ◆ アメリカに不法占拠された松江市が、右も左もない連中によって攻撃を受ける(1945年)が、ポンペイが消えて無くなった(79年)事件に比べれば屁のような事件で1ヶ月遅れで報道された。

◎ ◎ 第1回 レンズの向こうのまだ見ぬヒマラヤ / Webナショジオ・インタビュー 野口健 ◎ ◎

- - -Webナショジオ Webナショジオ・インタビュー 野口健 /

インタビュー・文=高橋盛男/写真=藤谷清美- - -

==1999年、七大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立した登山家であり、近年では清掃登山やシェルパ基金の設立、ネパールでの学校建設、戦没者の遺骨収集などに取り組んでいる野口健、再びカメラを手にしたことで、新たな世界が切り開かれたという。==

――写真についてうかがおうと思います。ヒマラヤ、アフリカ、日本の写真が収められた写真集『野口健が見た世界』のまえがきを読むと、登山家になる前はカメラマンになるのが夢だったとか。

小学校低学年のころからですね。テレビドラマの『池中玄太80キロ』が好きでよく見ていました。西田敏行さんが演じる主人公、池中玄太が報道カメラマンでした。その影響でカメラマンに憧れたんです。  ただ、あとで思うとカメラマンという職業よりも、主人公のがむしゃらな生き方に憧れたのかもしれません。

中学1年になって写真部に入ろうと決めて、父にねだって一眼レフカメラのニコンFM2を買ってもらい、それからは高校まで写真部に所属していました。高校卒業後は写真を撮る機会から遠ざかっていたのですが。

――今、ここへきて写真の世界に戻られたのは、何か心境の変化があったのですか。

 2~3年前、親友のミュージシャン、レミオロメンの藤巻亮太さんと八ヶ岳に登ったんです。彼は写真が趣味で、山にいる間とても楽しそうに写真を撮っているんですね。  その姿を見て、懐かしく感じました。僕にもそんな時代があったなと。 で、もう一度やってみようかと思って、カメラを持ってヒマラヤへ行きました。すると、そこに今まで僕が見たこともなかったヒマラヤがあったんです。すごい衝撃を受けました。

――もう50回以上もヒマラヤへ行っている野口さんに、まだ見ぬヒマラヤがあったのですか。

 見ているようで、実はヒマラヤの自然をちゃんと見てはいなかったんですよ。僕は、登山の目的は頂上へ登ること。だから、そこでの行動は、A点からB点への移動することだけなんです。できるだけ早く出発して、できるだけ早くキャンプ地に着いて、あとは体を横たえて休むだけ。山小屋やテントの外に出て、空を眺めるなんてことはないんですよ、ものすごく寒いから。

 ところが、写真を撮るとなると、外でじっと景色を眺めて、シャッターチャンスを待たなければならない。ときには何時間もね。そういう時間は、登山家としての僕にはありえなかったわけです。

――そうして撮った写真は、どこかで発表しなかったのですか?

ホームページやツイッター、フェイスブックなどのSNSにアップしていました。たくさんコメントがつくんですよ。それも、今までに味わったことのない楽しみでしたね。そのうちリクエストも来るようにもなりました。

――どういうリクエストですか?

 あの山を撮ってくれとか、こんな風景が見たいとか。「今度は何を撮ろうかな」なんてポロッと書き込むと、ドッとリクエストがくる。  そんななかに「風を撮ってください」というのもありました。

 風か、おもしろそうだなというので、1カ月くらいかけてトライしました。風は目に見えないから、風によって起きる現象を撮るわけですが、それまで被写体として風を意識したことがなかったんです。  で、風を見ているとおもしろい。風の動きをどう表現するかですよね。

ずっと景色を見ていると、夕方、太陽が沈む直前に気流が荒れて、雲がさまざまに形を変える。日没間際、空の色が刻々と変わっていく景色も美しいとわかってきますから、何日も同じ場所に通って、カメラを構えて。それをまたホームページやSNSにアップすると、リクエストが来るという感じですね。  その反応が、僕にとってとても新鮮でした。それまでは本を書いたり、講演会で話すなどして、自分の活動や考えについて表現してきたけれど、ネット上でそういうやりとりをしているうちに写真で伝えるという方法があると気づいたんです。

――ヒマラヤとのつきあい方も、ずいぶん変わってくるでしょうね。

 正直言うと、50回以上もヒマラヤに行っていると、慣れちゃうんです。最初のころは感動が大きかったけれど、このごろはそれもずっと薄れてしまっていて、行くのが億劫になっていたんですよ。現地でいろいろなプロジェクトを進めているので、行かなければならないのですが。

自分のなかにワクワクするものがあれば、億劫な気持ちを超えられるのですが、それがないと、肉体的な苦痛しか残らない。過酷で、行くだけでもつらい場所ですから。

――カメラを持つことでワクワクを取り戻した?

 そうなんです。写真を撮ることで、僕にとってのヒマラヤは、再び真新しいチャレンジの対象になりました。

――引き続き、写真についてうかがっていきます。

・・・・・・明日 ( 第2回 隣り合わせの「死」を見つめる ) に続く・・・・・ 

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今日(狂)の狂言 : 08月23日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-23 05:10:44 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 白虎隊が腐女子の妄想の種にされた末に、やおい穴をおっぴろげて滅亡(1868年)。&so、東京・竹橋で近衛兵が反乱したのは10年後。白虎隊の怨念が再燃したか…… ◆ 新潟の萬代橋の欄干が崩落。一万年どころか20年しか持たなかった(1948年=花火大会の見物客が殺到、死者11人)。 ◆ 伝説の名文句、『何のための前進守備だ!』が横浜スタジアムから全国に鳴り響く(2006年)。

◎ ◎ ゲルリンデ・カルテンブルンナーの記録 / K2への無酸素登頂 ◎ ◎

- - -  Webナショジオ & ja.wikipedia.org/wiki/ゲルリンデ・カルテンブルンナー - - -

=2011年、ゲルリンデはK2への無酸素登頂を成功させ、女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂者となった[3]。K2はエベレストより登頂が困難とされ、「非情の山」と呼ばれる。ここではゲルリンデらのパーティがK2無酸素登頂に成功するまでの過程を紹介する。=

イリクまで

登山隊のメンバーは6人。ゲルリンデのK2挑戦は今回が4回目だった。夫のラルフがリーダーを務めた。2011年6月19日、中国最西部のシルクロードの古都であるカシュガルを出発。ランドクルーザー3台と2t以上の装備品を満載したトラックが使用された。車列は、タクラマカン砂漠の西側に沿って南下し、崑崙山脈のチラグサルディ峠(海抜4950m)を越えた後に悪路をゆっくり進みチベット高原のマザルに到達した。

マザルはK2登山の中国側登山基地として利用されるが、一行はマザルよりさらに西に進み、キルギス人遊牧民の村であるイリク村に到着した。イリクには宿など無いので、族長が保有する建物の床に毛布を敷いて寝た。車が通行できるのはイリク村までで、ここで荷物をラクダに積み替えスルクワト川渓谷に向けて出発した。

アタックの準備

キャラバン隊は、登山家6人、ウイグル人連絡官、キルギス人のコック、道中の食料となる羊数頭、牛6頭、ロバ8頭、ラクダ40頭であった。アギール峠(4780m)を超えて、ガッシャーブルム氷河を源流とするシャクスガム川渓谷を渡る。この時期のシャクスガム川の流れは雪溶け水のために非常に早く、ラクダが流されてしまうなど、ベースキャンプに至る道のりで最大の難所となっている。

シャクスガム川渓谷を渡り、しばらく進むとやがてK2の姿が見えてくる。一行はここにベースキャンプを設営した。イリク村から徒歩で5日間の行程である。ベースキャンプからさらに15kmほど南に進んだ場所の氷河の上に前進キャンプ(4650m)を設営した。メンバーは登山ルートに沿って麓に第1キャンプ(5300m)-第3キャンプ(7250m)を開設し登頂の準備を行った。岩場に固定したロープの長さは2750mに達し、設置には6週間の時間を必要とした。

登頂開始

8月16日、アタックを開始。第1キャンプに到着すると、その夜だけで30cm以上の積雪が降り、遠方で雪崩が発生しているのが確認された。8月18日、降雪がやむのを待ってショルダー・デポキャンプ(6250m)を出発して第2キャンプ(6600m)に向かったが、新雪が多く雪が不安定であった。ラルフは雪崩の危険が高いと判断し、登頂を断念して単独で引き返した。ラルフはゲルリンデにもアタックを中止するように懇願したが、ゲルリンデは聞き入れなかった。事実、その後の登山メンバーによる小規模な雪崩が3回発生した。この雪崩によって60m後方を進んでいたトミーが飲み込まれた。トミーは自力で雪から脱出したが、雪崩によってルートが失われ引き返さざるを得ない状況となった。

アタックメンバーはラルフとトミーを欠いて4人となった。カザフスタン出身の登山家マクスト・ジェマイエフとバシリー・ピフツォフはそれぞれ6度目と7度目のK2挑戦であり、ポーランド出身の映像作家ダリウス・ザウスキは4回目の挑戦であった。8月20日、第3キャンプに到着。前進キャンプまで後退したラルフは、衛星電話で気象情報を伝えたりアドバイスをしたりして登頂をサポートした。8月21日、一行は第4キャンプ(7950m)に到達した。

デスゾーン

標高8000mからは人間の行動力や判断力が著しく鈍り、死と隣り合わせであるので「デスゾーン」と呼ばれる。第4キャンプから山頂までは標高差600mに過ぎないが、2008年に11人の死者を出した遭難事件以来ここに到達したのはゲルリンデらのメンバーが最初である。8月22日、4人は第4キャンプを出発し、「ジャパニーズ・クロワール」に到達した。「ジャパニーズ・クロワール」には胸まで沈む新雪が積もっており、6時間かかっても180mしか進むことが出来なかった。

ラルフは無線で一度第4キャンプに戻ることを勧めたが、一行は最終的に8300mの地点で2人用の小さなテントを張ることにした。氷を切り崩して平面を造りテントを固定するだけで1時間30分かかり、午後8時過ぎに4人はテントに入ることが出来た。午前1時頂上に向けて最後のアタックを始めようとしたが、指先の感覚が無く、足も氷の塊を引きずっているようで体の震えも止まらなかった。とてもアタックは無理と判断されテントに戻って暖を取り、夜明けを待って出発した。

ゲルリンデのリュックの中は手袋、トイレットペーパー、サングラス、包帯といった最低限の物品とスポンサーのオーストリアの石油会社の旗と仏像を入れた銅製の小箱が入っていた。午前7時に出発して130mの雪の斜面を目指した。午後3時に斜面の麓に到達。斜面では胸まで埋もれる雪に進路を阻まれ10歩毎に隊列の先頭を交代した。ラルフはその様子を麓から双眼鏡で観察してアドバイスを送った。やがて斜面は傾斜60度の岩場となったが積雪は浅くなり、一行は斜面を抜けて頂上に繋がる尾根に出ることに成功した。

午後4時30分には山頂ドームが見えてきた。ゲルリンデは午後6時18分に山頂に到達。15分遅れてマクストとバシリーが到着、30分後にダリウスも到着した。オーストリアのヴェルナー・ファイマン首相は「偉業に感銘を受けた」と讃えた。カザフスタン首相はマクストとバシリーへの賛辞をツイッターに書き込んだ。

下山、そして帰郷

ラルフは、山頂から4つの光の点が移動し、ジャパニーズ・クロワールに入るのを望遠鏡で確認した。K2での死亡事故の1/3以上は下山中に発生するので、ゲルリンデらの帰還を心配で見守っていたのだ。第1キャンプには、途中で下山したラルフが妻であるゲルリンデに宛てた手紙が残されていた。

2日後、第1キャンプを出発した一行をラルフが氷河の上で出迎えた。ゲルリンデはベースキャンプで2010年に一緒にK2に挑み滑落死した友人のフレデリックの父親と、息子が眠る山の山頂について衛星電話で話をした。ゲルリンデは帰国時には7kgも痩せていた。ミュンヘンの空港には家族全員が出迎えた。 ビュール(Bühl)では祝賀会が開催され、K2の山頂で両手を突き上げるゲルリンデの写真をラベルに使用した、特製の3リットル赤ワインボトルが寄贈された。

・・・・・・・・明日 ( 【インタビュー】Webナショジオ・インタビュー 野口健 ) に続く・・・・・ 

Today’s B.G.M, = K2: The World’s Most DEADLY Mountain to Climb

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