【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月25日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-25 05:10:54 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ワルツの親父が死去し、大変な悲しみを訴えるあまり倅がいつも明るく元気な歌ばかり作ることになる(1849年)。 ◆ 染料工場の爆発で何故か赤痢が蔓延、真相は検閲により削除(1937年=大牟田爆発赤痢事件)。 ◆ 某国の親日感情への配慮から、ア〜ン♥♥風呂をこの日からソープランドと呼ぶことに(1984年)。全日本特殊浴場協会連合会が高度な政治的配慮を断行したのだそうだ。

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1921-1956期 « ナショジオが見た大正の日本 (後節) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2月15日 / (Web編集部)

しかしながら、自然のもたらす災害や予期せぬ不幸から逃れられないという意識があるせいだろうか、日本人はどちらかというと運命論者なのではなかろうか」  という具合に、災害が多い一方で、自然が豊かな地理的条件が日本人の気質や文化の根っこのところにある、とウエストンは掘り下げています。

 彼の2回目の記事は翌年9月号の「日本の農村こんなとこ(Some Aspects of Rural Japan)」で、ここでは「この国の本質や国民性は、地方の農村を訪れて、農民の暮らしを見ないことには理解できない」と文字通り日本の奥深くまで踏み込みました。

日本成功の秘密をとりあげた極めつけは1923(大正12)年10月号の「日出づる帝国(The Empire of the Rising Sun)」でした。かっこいいなあ。このタイトル。

著者は日本学のさきがけとなった元お雇い外国人のウィリアム・エリオット・グリフィスです。 「人口が倍増し、国富も20倍に膨れ上がった日本。世界の片隅にいて忘れ去られていたようなこの国が、たかだか50年ほどの間に大国と肩を並べ、世界の工業や貿易をリードするまでに成長できたのはなぜか」と、真っ正面からストレートに日本を分析しました。

 ただし、日本の勢いはこのときを境に陰りを見せはじめます。  大正12年といえば、関東大震災が起きた年。「日出づる帝国」が掲載された10月のひと月前のことでした。

1914年の1月12日には追い討ちをかけるように桜島が大噴火します。 『ナショナル ジオグラフィック』では、例によって迫力の写真とともに、1924(大正13)年4月号で関東大震災と桜島大噴火の詳しいレポートを掲載しました。そして、この特集が大正時代における日本の最後の記事となったのです。

大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。

何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立、マルクス主義、アジア主義など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。

――背景

1905年(明治38年)、日露戦争はポーツマス条約により賠償金無しの終戦となったため、戦費獲得のための増税に苦しんでいた都市雑業層(当時の選挙制度では納税額が少ないために選挙権が無かった層)がこれに反発、日比谷焼き討ち事件を起こした。この動きは新聞記者や弁護士を通じて広まり、社会運動が広まる時代背景ができ上がっていった。

同じく1905年には東京で孫文率いる中国同盟会が結成されている。1911年(明治44年)に清朝の四川省で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして辛亥革命が勃発し、中国革命同盟会が中核となった革命軍は、翌1912年(民国元年、大正元年)に清朝を倒して中華民国を樹立した。

この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した陸軍大臣の上原勇作は、第2次西園寺内閣に対し朝鮮半島に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は日露戦争を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を内閣総辞職へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。

こうした背景の中、長州藩閥出身で陸軍の影響力が強い第3次桂内閣が組閣されたが、薩長藩閥政治への不満が高まっており、この桂内閣に対し国民世論の批判が高まった。また衆議院でも衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治であるとして桂内閣を批判し、1912年(大正元年)、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開され、桂内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた(大正政変)。

続いて設立された立憲政友会を与党とする第1次山本内閣は軍部大臣現役武官制の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件(シーメンス事件)の影響により再び国民の批判を招き、1914年(大正3年)に内閣総辞職を余儀なくされた。

次回は “ 「ツタンカーメンの墓で」 “ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 09月24日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-24 05:10:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ お掃除のおじさんやおばさんが掃除大臣として尊敬される日。もしかして今日は…清掃の日。そして、この日から10月1日までの1週間が環境衛生週間と暇を持て余す環境省が…!!? ◆ 西郷隆盛が、もう、この辺でよか・・・と自分で起こした戦争を集団自決で幕引きさせる(1877年=西南戦争: 城山の戦い)。 ◆ 藤沢市でグライダーが使ってたりしていた飛行場に米軍機がハプニングゲストとして着陸、現場は大騒ぎとなったがマスコミの報道はお察し下さい(1959年=TAI307便墜落事故)。

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1921-1956期 « ナショジオが見た大正の日本 (前節) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2月15日 / (Web編集部)

1921年は日本の年号でいえば大正10年です。わずか15年しかない大正時代もすでに終盤ですが、このタイミングでちょっと寄り道をしたいと思います。  明治維新を経て、日清、日露戦争に勝利し、世界のひのき舞台に躍り出た“かけだし”の日本がどんな国かを紹介したのが明治時代の記事。だとすれば、大正時代はもっと踏み込んでいました。まずはその背景を振りかえりましょう。

当時の日本はどんな状況にあったのか。

大正元年は1912年。日露戦争後の好景気が終わりをつげ、長い不況にあえいでいるさなかでした。莫大な戦費をつぎこんだにもかかわらず、戦争の賠償金をとれませんでしたしね。  ところが、その2年後に第一次世界大戦がはじまると、やがて景気が持ちなおします。しまいにはなかばタナボタ的に戦勝国となり、“大正デモクラシー”や“大正ロマン”、“今日は帝劇、明日は三越”といわれる自由で開放的なムードに包まれました。

おそらく明治維新から第二次世界大戦までの間で、日本がもっとも勢いのあった時期なのでしょう。

「世界の列強と肩を並べるまでに成長した」国。このときの日本を世界もそんなふうに見ていました。  ナショジオの記事が踏み込んだ内容になっていったのは、日本がなぜ急速にそこまで成長したのか。それを知りたい、という背景があったからです。

 その節目が第一次世界大戦だったことはナショジオの記事からうかがえます。  たとえば、第一次世界大戦参戦前の1914(大正3)年7月号を見ると、明治三陸津波https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110719/278100/ の記事を書いたエライザ・シドモア(記載済み“ワシントンの桜”参照)が「日本の子どもら(Young Japan)」という記事を書いています。子どものスナップ写真が中心で、とってもウブな感じでした。

 ところが、大戦後になると、がらりと雰囲気が変わります(この間に日本の記事がない主な理由は大戦の舞台となった国の特集が多かったせいでした)。  

  大戦後はじめての特集は1920年10月号の「日本のとある新聞ができるまで(The Making of a Japanese Newspaper)」。  テーマからして全然違いますよね。福沢諭吉が創刊した日本初の近代的新聞『時事新報』の作り方をレポートしているだけですが、こんな書きだしを読めば、「日本の子どもら」とのトーンの違いは歴然です。

「新聞を作るということは、そのモノ自体がもっとも原始的な形態であることを除けば、完全に現代の、つまりは比較的最近の文明に属している。まだ近代化して間もないにもかかわらず、日本の定期刊行物の急速な発展ぶりは、”印刷術”が東洋で生まれ、中国が世界最古の新聞発祥の地だったことを思えばさほど不思議ではない」  カタい記事ですねえ。

  あ、翻訳のせいじゃありませんよ。新聞づくりのレポートだからこんなものなのです。  注目すべき次の記事は1921(大正10)年7月号のウエストンによる「日本の地理(The Geography of Japan)」。

   もしかしてあのウエストン?   そうです。  日本アルプスを世界に知らしめ、いまや日本各地に「ウエストン祭り」を増殖させたあのウォルター・ウエストンです。なんと奥さんのお祭りまであるんですよ!

  そんなことはさておき、彼はナショジオに日本の記事を書いていたのでした。それも2度。そしてこれが1回目です。

タイトルこそ「日本の地理」というものの、実際の内容は日本の地理と日本人の気質についての考察です。  ちょっと長いですが、「ナショジオが見た明治の日本」の回https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20111115/290571/ にも使った『ナショナル ジオグラフィックが見た日本の100年』から引用してみましょう。

「夏や秋に日本を襲う台風は水害を伴い、河川の氾濫だけでなく土砂崩れによる大きな被害をも招く。津波の心配もある……しかし、日本はこうした自然災害や危険だらけということではもちろんない……豊富な野菜や果物、野山を彩る様々な草木や花々、見事な風景、すがすがしい空気、春夏秋冬がはっきりした四季の移り変わり……こうした様々な自然環境が日本の国土に暮らす人々の精神構造を形づくっているのだ」

「家屋の構造も日本人の精神構造とは切り離せない。木と紙とでできた日本の家屋は水害や火事などの災害にもろい。だからといって日本人は決して始終深刻そうな顔をしているというわけでもなく、楽天的だし創造的でもある。芸術家肌と言えなくもない。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ ナショジオが見た大正の日本=後節= “ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 09月23日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-23 05:10:03 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 京都市下京区にて花札屋が店開き(1889年)、100年経つと何故かファミコンの会社になっていた次第。創業者は山内房治郎。 ◆ VIP満載の特急列車が、集中豪雨で宙吊りとなった線路に突入して脱線転覆(1926年)。山陽本線特急列車脱線事故。 ◆ 頭の固い百科事典によると、秋はこの日から始まるそうだ。即ち、秋分。なぜか、国民の祝日の一つ。

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1921-1956期 « 世界初の水中カラー写真は命がけ »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

なんだか過剰なタイトルですみません(笑)。

ホントは「世界初の水中カラー写真」だけにしたかったんですけどね。それで十分でしょう? でも、当時のカラー写真の撮影は何しろすごく大変だったので、「カラー写真の撮影は命がけ」とくっつけて短縮しちゃいました。だから、このタイトルには2つの要素がこめられています。

 とはいえ、実際に世界初の水中カラー写真の撮影も命がけでしたから、ウソではありませんよ。念のため。

 さて、第一次世界大戦のせいで、しばらくの間掲載を見送っていたカラー写真が復活した記事は1921年3月号の「ロンドンからオーストラリアへ飛行機で行ってみた(From London to Australia by Aeroplane)」でした。このなかにのったスリランカとインドのスナップです。  グロブナーにとっては満を持しての復活です。

 前回ご紹介した飛行機同様、この時期グロブナーはカラー写真に入れ込んでいました。先を読んでいたのはもちろんですが、彼は相当な新しいモノ好きでもあったようです。

 他にカラー写真を使う雑誌はほとんどなく、また、大多数のカメラマンがカラー写真なんて撮ってもムダな苦労と思っていたにもかかわらず、カラーの時代が来ることを確信し、グロブナーは1920年にカラー写真研究所を設立します。出版界ではもちろんはじめての試みです。    同時に、アメリカとヨーロッパを探し回って、カラー写真を撮れるカメラマンをぜんぶで10人集めました。

 第3章の第10回 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20111227/295022/?P=3 でお見せしたように、この時代のカラー写真は「オートクローム」と呼ばれるもので、連続して撮影できるフィルムではなく、1枚ずつ交換するガラスの乾板を使いました。

 機材は一式そろえると100kgを超えたそうです。ガラスの乾板が何枚もいるんだから、当然でしょうね。重かっただろうなあ。おまけに、感材がきわめてデリケートだったり、乾板にほこりがつかないように細心の注意を払う必要があったりして、撮影から現像まで高度なテクニックがいる。

 基本的にすべてカメラマンまかせのため、撮影したらすぐにカメラマンが現像をして編集部へ原板を送っていました。家財道具を持ち運ぶような荷物の量で、カメラマンはとても大変でした。  実際のところ、アメリカ西部の風景写真を専門にしていたフレッド・ペイン・クラットワーシー一行は、デスバレーで身動きがとれずに砂嵐に巻き込まれ、「ぼくのすぐ後ろにいた人が窒息死した」なんていうコワい話が1928年の6月号にしれっと出てきます。

 今のナショジオのカメラマンも相当な冒険野郎たちですが、当時からの伝統だったんですね。それにしても、砂嵐で窒息死するとは知らなかった……。砂漠に行ったら気をつけよう。行かないけど。

1921年から1930年にかけて『ナショナル ジオグラフィック』に掲載された1818枚のカラー写真の約95パーセントがこの10人が撮影した写真でした。つまり、カラー写真を撮れるカメラマンはそれだけ貴重でした。  そのカラー写真のなかでも、偉業のひとつが世界ではじめてのカラーの水中写真です。

 カメラマンはカラー写真研究所の主任チャールズ・マーティンと魚類学者のW・H・ロングリー博士です。場所はフロリダ州ドライ・トルトゥーガス諸島の沖に広がるサンゴ礁。  で、実はこのときも負傷者が出ました(笑)。いや笑っちゃいけません。

 オートクロームはモノクロと比べて感度が低く、当時としては超高感度の乾板を用意したにもかかわらず、水深わずか4.5メートルでも暗すぎて撮影できなくなってしまいました。  予想外の事態です。

 そこで、マーティンがマグネシウムの粉を用意してストロボにしたところ、これが暴発してしまったのです。記事にはこう書かれています。 「約28グラムのマグネシウムが暴発したせいで、ロングリー博士は6日間も寝込むほどの大やけどをしてしまった。もし1回分がぜんぶ爆発していたら、命にかかわる大事故になったか、少なくとも失明はしていただろう」

 1回分は約450グラム(1ポンド)。28グラム(1オンス)のおよそ16倍ですから、全部爆発したらそりゃヤバかったでしょう……。  でも、身の危険をおかしてまで撮影した8枚のカラフルな熱帯魚の写真は、1927年1月号に掲載されると一大センセーションを巻き起こしました。

 ロングリー博士のこの成功は学術論文にもたびたび引用されていますから、やけどした甲斐はあったというものですね。

次回は “ ナショジオが見た大正の日本 “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月22日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-22 05:10:32 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ うまいこと大金ゲットしたはずなのに、パクられちまったZE!!! Oh!!Mistake...(1950年)。=少年が給料を強奪し、愛人と逃走するも2日後に逮捕(日大・オー・ミステーク事件)= ◆ 日光猿軍団の夢と東照大権現の御利益を載せた特急列車「けごん」が運行開始(1951年)。 ◆ 天皇陛下におかせられましては本日手術に臨まれましたものの、本当の御病状を申し上げるには畏れ多く膵臓の病気であると陛下に申し上げ奉りました(1987年)。

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1921-1956期 « 山本五十六はナショジオの読者だった(後節) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2月1日 / (Web編集部)

1921年3月号にはロンドン~オーストラリア間を飛行したレポートが掲載されるとともに、飛行機の明るい未来をきっぱりと予言。

 1924年7月号では3本の特集「アメリカ横断無着陸飛行(The Non-stop Flight Across America)」「空から見る祖国(Our Country Through the Airman’s Camera)」「空にはばたいた人類の進歩について(Man’s Progress in Conquering the Air)」だけで1冊を構成し、例によって「これでもか!」と飛行機ネタでたたみかけました。

 山本五十六が『ナショナル ジオグラフィック』を購読していたのはちょうどこの時期です。  それがわかったのは、1999年4月号の特集「ミッドウェー海戦」のために、筆者のトム・アレンが資料をあたっていたときでした。

 五十六が購読していたのは1918年から1930年まで。  1918年といえば、駐在補佐官として渡米する前年です。

 山本五十六は翌19年から21年までボストンに滞在し、ハーバード大学にも留学。また、26年から28年まで駐米大使館付きの武官として2度目の渡米をはたし、日本に戻ってから30年まで鎌倉に暮らしました。

「鎌倉の自宅には、ナショナル ジオグラフィックが米国から毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出してよく見たものです」とは山本五十六の長男である山本義正さんです。

「本棚の半分は米国の歴史に関する本で、ほかに黄色い背表紙のナショナル ジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースのなかに大切にとってありました。父は米国を知るためにあらゆる勉強をしていました」(1999年4月号より)

 そもそも軍人である山本五十六にとって、米国だけでなく、世界の地理がわかるナショジオはおそらくたいへん興味深い雑誌だったに違いありません。また、第二次世界大戦前にこれからは飛行機の時代になると読んでいたのは、飛行機ネタが好きなナショジオと無関係ではないかもしれませんね。

 山本五十六が購読を始めた1918年の『ナショナル ジオグラフィック』4月号には、「海の至宝:わたしたちの海軍(The Gems of the Ocean : Our American Navy)」という特集があります。そのなかには、真珠湾で攻撃、撃沈された戦艦アリゾナやペンシルベニアも紹介されていました。

 アメリカとの開戦に最後まで反対しながらも、真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の総指揮をとった山本五十六。『ナショナル ジオグラフィック』で見たこれらの戦艦を、はたしてどんな想いで攻撃したのでしょうか。

因みに、山本五十六の米国留学 1919年(大正8年)4月5日、アメリカ合衆国への駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。アメリカに駐在する前の1918年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。

長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に帰国した1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。

当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った。

アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている。日本では専売指定されていた砂糖と塩でさえ、アメリカではともにプラントで大量生産され、市場で大量消費されていることをワシントンD.C.の喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。

後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている。

このアメリカ滞在時に駐米海軍武官の上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)より受けた指導と視察、研究の影響が、航空機の活用に着目するきっかけになった可能性がある。

次回は “ 世界初の水中カラー写真は命がけ“ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月21日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-21 05:10:11 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 1897年 - 『ニューヨーク・サン』に社説「サンタクロースっているんでしょうか?」が掲載される。 ◆ 国技館の土俵の屋根を支える柱が無くなり、空中浮揚し始める(1952年)。 ◆ こち亀=連載開始(1976年)。連載初期から現実の警察官とは乖離していた。どっちが警察官としてふさわしいかはお察しください。

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1921-1956期 « 山本五十六はナショジオの読者だった(前節) »

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2012年2月1日 / (Web編集部)

1921年から56年まで35年間の出来事を紹介いたします。  この間には、世界大恐慌があり、(いまのところ)史上最大の世界大戦が起こり、続いて冷戦と、世界は大きく様変わりしました。  それにしてはずいぶん長い区切り方だって?

中の人もそう思います(笑)  でも、これでいいんです。『ナショナル ジオグラフィック』としては。  なぜなら、ずっとグロブナーの体制でしたから。  この間、ナショジオは第一期ともいえる黄金時代を迎えました。

 厳密に言えば、グロブナーが編集長を辞めたのは1954年です。任期は51年間。世界中のどこを見ても、こんなに長い間、ひとつの雑誌の編集長をつとめた人はいません。

 だって、大学を卒業して間もなくから78歳までですよ! 雑誌自体が50年以上続くだけでも珍しいのに、こんなに若くして編集長になるうえ、78歳まで現役でいられる人なんているわけがありません。  と思ったら、もっと長い人がいました。それも日本に!!

 去年の11月のこと。驚愕のニュースが飛び込みました。1958年から2011年までの53年間、「明治図書」の月刊誌「現代教育科学」の編集長を務めた江部満さんが「教育雑誌の編集長の世界最長在籍記録」としてギネスブックに登録されたのです。

 中の人はイスから飛び上がらんばかりに驚きましたよ(そんなに驚くのは中の人ぐらいでしょうけど)。それまで雑誌編集長の最長就任記録はてっきりギルバート・グロブナーだと思っていたのですが、まさか日本人がそれを上回っていたとは。  で、いちばん気になったのは退任時の年齢。きっと相当ご高齢のはず。

何歳だと思います?  81歳! やっぱりそのぐらいいっちゃいますよね。

ギルバート・グロブナーの51年という記録には、編集局長時代も含めた55年説もあるのですが、いずれにしろ、お2人ともさすがです。素直に尊敬します。長生きしようかな。  話がだいぶそれてしまいました。1921年に戻りましょう。  第一次世界大戦が終わってしばらくすると、アメリカはふたたびヨーロッパと距離をおきはじめます。

 世界大恐慌が起きる1929年まで、「狂乱の20年代」と呼ばれたように、20年代のアメリカは“華やかなりし時代”でした。日本にもありましたね。なつかしいな。“華やかなりし時代”。  大量生産、大量消費型社会をもたらす産業の近代化が急速に進み、ラジオ、映画、スポーツなどの新しい娯楽も登場します。  なかでも国民が夢中になったのは自動車でした。

 タイムライフ社が発行した『このすばらしき世紀 1920-1930』という本にはこんなふうに書かれています。

「1920年代に、自動車はアメリカ人の生活に大変革を巻き起こした……都市は分散し、大きな郊外がどんどん広がって、日曜日には家族で遊びに出かけて教会に行かなくなってしまった。勤勉なアメリカ人にあらたな風景と喜びをもたらし、自立心と同時に、借金も増えた(1925年までに販売された車のうち、4台中3台が分割払いで購入されていた)」

 こうした熱狂ぶりは『ナショナル ジオグラフィック』にも反映されました。また、自動車は地理学の雑誌にとって、たいへん重要な道具でもありました。1920年代以降、世界中を自動車で旅したり、あるいは、アフリカやアジアを探検したりしたレポートが定期的に掲載されます。  しかし、協会にとっては自動車よりもさらに重要なモノがありました。

飛行機です。  さすがに飛行機は大衆の乗り物ではなかったけれど、冒険・探検という意味では、最強の探査ツールでした。それはそうですよね。大陸の上だろうと極地の上だろうと、どこでも飛んでしまえるんですから。

 空撮をしてしまえば、陸上を行くよりはるかに広範囲の情報が得られます。空撮は特にギルバート・グロブナーのお気に入りで、20年代だけでも30本の飛行レポートが掲載されました。 ・・・・・・・・明日に続く・・・・・

明日 “ 山本五十六はナショジオの読者だった (後節)“ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月20日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-20 05:10:47 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆の重みで永代橋が崩落、永遠にもつどころかボロ橋であったことが露呈(1807年)。 ◆ 京都市バスが運行開始。運転士の月給は300円であり、当初より知事より裕福な利権エリート専門職として認知されていた(1903年)。 ◆ 野蛮な鬼畜米英の圧制によりわが国の美徳は言論弾圧を受け、墨塗り教科書として闇へ葬られた(1945年)。=生徒に墨で塗りつぶさせる「墨塗り教科書」=

◎ ◎ = 猛暑・極暑が・・・・弁解せぬが・・・・本日も 是れ亦 ずる休み = ◎ ◎

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今日(狂)の狂言 : 09月19日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-19 05:10:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

◆ やんごとなき方々には関係ないことだが、ここを見ているあなたの名字は、この日から使われだした可能性が極めて高い。1870年に閣議決定した「平民苗字許可令」より。 ◆ 故郷に戻っていたチャールズ・チャップリンが、“赤狩り”にあい仕事場から叩き出される(1952年)。『ライムライト』がアメリカ法務長官の…… ◆ 昭和天皇が大量吐血して病臥(1988年)。これによって「お元気ですか?」も検閲される自粛ムードが吹き荒れ、「Xデー」の到来を予感させた。。

◎ ◎ = 猛暑・極暑が・・・・弁解せぬが・・・・本日はずる休み = ◎ ◎

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今日(狂)の狂言 : 09月18日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-18 05:10:45 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ アフリカ大陸縦断に挑んでいたイギリスの前をフランスが横断し、単なる事故を超える大事に(1898年=ファショダ事件)。 ◆ 「コンゴの今後」をどうするかで東奔西走中だった国連の事務総長ダグ・ハマーショルドが、乗ってた飛行機のパイロットがあれだったが故に現世に政治課題を残したまんま冥土へ飛び立つ(1961年)。 ◆ かいわれ大根の日。某百科事典によると数字の8を横にして、その下に1を付けるとかいわれの形に似ている事から設定されたらしい。

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1901-1920期 « なぜマチュピチュは「大発見」だったのか  »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年1月4日 / (Web編集部)

エール大学の講師だったハイラム・ビンガムによるマチュピチュの発掘調査を協会が支援しました。1913年にセンセーショナルな報告会を開催した。  マチュピチュの標高はおよそ2400メートル。アンデス山脈の東側の斜面にあり、アマゾンのほうから流れてくる湿った空気がぶつかってよく霧に包まれます。

険しい崖の上で、霧のなかに浮かび上がるインカ帝国最大の遺跡は、“天空の都”あるいは“空中都市”などといわれるように、実にロマンチックです。ユネスコの世界遺産にいち早く登録され、いまや連日2000人近い見学者が訪れるという人気もうなずけますね。

 ハイラム・ビンガムのマチュピチュ発掘については、すでにたくさんの書籍がありますし、2011年4月号の「ハイラム・ビンガム マチュピチュにたどり着いた男」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1104/feature01/side1.shtml や協会が選んだ「地球の理解を深めた支援探検・調査トップ10」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20111207/292962/ でも読めるので、ここでは書きません。

 それよりも、ちょっと目先を変えて、極地の探検でないにもかかわらず、なぜ『ナショナル ジオグラフィック』がまるごと1冊を使ってマチュピチュを紹介したのか。当時の状況を振り返って考えてみたいと思います。

 よく知られているように、インカ帝国はスペインによって16世紀に滅ぼされます。鉄と文字がなかったせいもあり、かつてのアンデス文明と混同されて古代文明と思われることがあるようですが、インカが勢力を拡大しはじめたのは15世紀のこと。日本では室町時代ですから、ほぼ中世です。

 だとすると、そんなに古くはありませんよね。そうなんです。それなのに大々的に紹介したのはなぜでしょう。

カギはインカ帝国特有のイメージでした。  文字がなかったので、スペインに滅ぼされたあと、インカ帝国の歴史は主にスペイン語で書かれた資料によってヨーロッパに伝わります。  このときに、事実とは異なる「インカ帝国像」が付け加わります。

 スペイン人がスペイン語で書き、ヨーロッパで読まれるものですから、基本的にはスペインによる征服を正当化するものが広まりました。

 当初は「インディオは獣同然」だから「征服されて当然」という見方が流布します。しかし、スペインによる征服に反対する宣教師が「インディオはちゃんと理性的だった」と大著で主張。すると、今度は征服者サイドが「インカ暴君説」を持ち出しました。

 ところが、スペイン人征服者とインカの王女の間に生まれた人物がこれをまたひっくり返します。  その人物はインカ・ガルシラソといい、愛国心から『インカ皇統記』(岩波文庫)をあらわして、歴代の皇帝によるインカの支配をたたえ、とても幸せな国家像を描いたのでした(ちなみにスペインによる征服は宗教面から正当化しています)。

 こうして西洋社会では、インカ帝国はまるで黄金に彩られたユートピアのごとく「どこにも存在しない理想的な国家」といったファンタジックなイメージが定着してしまうのです。

それはハイラム・ビンガムがマチュピチュを発見したときも同じでした。すなわち、1913年当時、インカ帝国はほとんどおとぎ話レベルの国だと思われていたのです。4月号の特集のタイトルに使われた「Wonderland(不思議の国)」という言葉が何よりも象徴的でしょう。

ここで紹介したようなインカ帝国のイメージは、日本ではあまりなじみがありませんが、欧米では一般なものでした。しかも、ビンガムはマチュピチュをインカ帝国最後の都と信じていました。

 ほぼ「存在しない」と思われていた「黄金の」「インカ帝国最後の都」。だから、マチュピチュの発見が『ナショナル ジオグラフィック』を1冊まるごと使ってレポートするぐらいのインパクトがあったのでしょうね。

明日 “ 901-1920期 なぜマチュピチュは「大発見」だったのか 後編 “に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月17日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-09-17 05:10:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 半月前にナチスが攻め込んできたポーランドが蹂躙されるのを見て、当初の約束通りソ連も侵攻(1939年)。ナチスにやられ放しだったポーランドの人々は一瞬安堵したが、その後の展開はお察し下さい。 ◆ 異端児・英雄がアメリカに乗り込み、竜巻を起こし、対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成(1996年)。 ◆ 日本から純ちゃんがやって来たのに嬉しくなった将軍様が、調子に乗って「自分が日本人を攫っちゃった、てへっ♥️」と言っちゃう(2002年)。

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1901-1920期 « こんなところにも日本人 »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2011年12月21日 / (Web編集部S) 

――白黒写真からカラーへ、銀塩フイルムからデジタル写真への移行も迅速に行った。

2006年、ナショナル ジオグラフィックは国際的な写真コンテストを開催し、18カ国から写真が集まった。雑誌に掲載された写真は、写真集として出版されることもある。

1910年の注目すべきもうひとつの出来事は“カラー写真”の登場でした。  掲載は1910年11月号で、撮影者は創業当初からコダックに投資して大金持ちになったウィリアム・ウィズナー・チェイピンです。

 タイトルは「韓中チラ見(Glimpses of Korea and China)」。  韓国と中国の記事なのに、なぜ「こんなところにも日本人」なのか?   それは“カラー写真”といっても、「日本の絵師が色をつけたモノクロ写真」だからです。

モノクロ写真の色着けは、写真が発明された当初からさかんに行われていました。そのなかで、日本画の技術を活かした日本人絵師のレベルは世界でもトップクラスでした。外国で知られるようになったのは、特に幕末から明治の中ごろにかけてたくさん制作された「横浜写真」の影響が大きいのですが、それについてはここではふれません。興味がある人はぜひ検索してみてください。

“色をつけたモノクロ写真”と聞くと、たいしたことないんじゃない? と思われるかもしれません。けれど、『ナショナル ジオグラフィック』におけるこの“カラー写真”はナショジオにとって記念すべきものでした。のちにグロブナーは強調しています。

「1910年11月号は雑誌の一大転機だった。東洋から戻ると、チェイピン氏は私にモノクロ写真をそっくり提供してくれたのだが、そのほとんどは日本の絵師が色をつけたものだった。『ナショナル ジオグラフィック』に新しい風を吹き込むために、私は24ページに39枚の写真を並べて一挙に掲載した。そんなことをする編集者は過去に一人もいなかったよ。結果、11月号はセンセーションを巻き起こして、何百人という新会員をもたらしてくれたんだ」

 1910年11月号こそ、カラーグラフィックページの原点でした。

『ナショナル ジオグラフィック』にとってだけではありません。今は当たり前すぎて、そんなことを誰が始めたのかなど考えもしないと思いますが、本格的なカラーグラフィックを手がけたのはナショジオが最初でした(とはいえ『ナショナル ジオグラフィック』のように“これでもか!”という見せ方の雑誌は少ないですが(笑))。

 11月号の成功をみて、グロブナーは翌年に続編を掲載します。その記事が1911年11月号「にっぽんチラ見(Glimpse of Japan)」。そう、前回の「ナショジオが見た明治の日本」で紹介した記事です。これも大いに評判を呼びました。

 話はちょっと戻りますが、第3回「編集長、原稿が足りません!」で紹介したように、『ナショナル ジオグラフィック』が「写真をたくさん掲載する一風変わった独自の道を歩き始め」た発端となったのは1905年1月号のラサの写真でした。

 そして、「世界で最も多くカラー写真を掲載する雑誌となる」ように、カラーグラフィックというスタイルの火付け役となったのが1910年11月号でした。  すなわち、「写真を多用」し、「カラー写真を(これでもか!と)グラフィックに見せる」『ナショナル ジオグラフィック』のスタイルの確立に貢献した2つの号のうちの1つがこの記事だった、というわけです。

――カラー写真

カラー写真は1800年代にアレクサンドル・エドモン・ベクレルらにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルによって撮影された。

マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。

1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。

1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開け、1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。

1930年、アメリカ合衆国のジョージ・イーストマンは100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家のレオポルド・D・マンネスとレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募してコダックに入社、同社の研究陣と協力して1935年、最初の近代的なカラーフィルムである「コダクローム」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。

明日 “ 1901-1920期 なぜマチュピチュは「大発見」だったのかに続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月16日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-16 05:09:24 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 海のかなたに夜逃げするためメイフラワー号がイギリスを後にする(1620年)。 ◆ メートル法強制一辺倒だった日本政府が、渋々ながら尺貫法の使用を認めざるを得なくなる(1977年)。即ち、曲尺・鯨尺の製造販売を許可。 ◆ 日本国有鉄道がようやく日本一のお荷物路線=美幸線=をスクラップ(1985年)。

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1901-1920期 « 北極点を制覇せよ!(2/2) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

・・・2011年12月7日 / (Web編集部S)

  ロバート・エドウィン・ピアリー (Robert Edwin Peary, 1856年5月6日 - 1920年2月20日)は、アメリカの探検家。ペンシルベニア州クレソン出身。 西洋人として最初に北極点に到達したとされているが、探検の後援者には当時のナショナルジオグラフィック社などの実力者が多く、当時のマスコミを押さえての喧伝といわれる。

  経歴 • 1891年から1897年にかけて、4度にわたるグリーンランド探検を行う。その間、現地のイヌイット女性との間に2児をもうけた。1898年には、このグリーンランド探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた。 • 1898年に初めて北極点到達に挑戦するが失敗し、凍傷で足指8本を失う。 • 1906年に4度目の挑戦で北極点まで280kmの地点まで到達。 • 1909年4月6日、ピアリーら6名が北極点に到達。

  北極点到達の疑問 1909年の探検から帰還後、元の仲間であるフレデリック・クックが「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張した。調査委員会が設けられたが、結局クックの訴えは退けられ、詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定された。現在では、ピアリーが証人を買収したことがわかっているが、実際にクックは北極点の数百km手前までしか到達していなかったようである。

また、後の詳しい測量により、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北緯89度57分(北極点から約6kmの地点)であったことが分かっている。また、ナビゲーションの技術を持つ者がいなかったにもかかわらず、旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もある。 もし初の北極点到達がピアリーでない場合、1926年のリチャード・バードによる北極点往復飛行か同年のアムンセン、ノビレ、エルズワースによる飛行船ノルゲ号での北極海横断飛行が最初の北極点「到達」となる。

  100年間、無視されてきた黒人探検家の偉業 ロバート・ピアリが「彼なしではやっていけない」と称えた男 19世紀から20世紀にわたる探検の黄金時代に活躍した探検家の1人に、米国の貧しい孤児として育った男がいた。彼は数々の偉業を成し遂げたが、人種が理由でその大半が無視されてきた。

   男の名はマシュー・ヘンソン。同時代には珍しいアフリカ系米国人の探検家だった。そして彼こそ、北極点に到達した初めての人類だった可能性がある。米国海軍のエンジニアだったロバート・E・ピアリとの壮絶な冒険が、印象的な写真に残されている。  ヘンソンは1866年生まれ。孤児だった13歳のとき、船上の給仕係になった。その船で、彼は船長に読み書きを教わる。その後、ワシントンD.C.の衣料品店で働いていたヘンソンは、1877年にピアリと出会う。ピアリはヘンソンを従者として雇った。その後2人は20年にわたり、仕事仲間として数々の壮大な旅を成し遂げる。

   1900年、2人は過去の誰よりも北に到達した。その後2人は、自らの記録を塗り替える。1909年、4人のイヌイットとともにグリーンランドを探検し、北極点に到達していた可能性がある。実際に到達していたかどうかについては異論もあり、今となっては確認が難しいが、ヘンソンは自身が世界で初めて北極点に到達した人類であると信じていた。(参考記事:「北極点を制覇せよ!」)

   ピアリはヘンソンのことを「彼なしではやっていけない」と評価していた。ヘンソンは犬ぞりや狩猟、工芸、ナビゲーションに習熟しており、イヌイットの言葉も流暢に話すようになった。探検の日々を終えたヘンソンは、ニューヨーク市の米国税関で公務員として働き、1955年に生涯を閉じた。

   約100年にわたり、ピアリばかりが取りざたされ、ヘンソンの極地探検への貢献は軽視されてきた。しかしヘンソンは2000年、ナショナル ジオグラフィック協会が探検家に贈る最高の栄誉であるハバード賞を死後受賞した。  1988年、ヘンソンと妻の墓は、バージニア州のアーリントン国立墓地にあるピアリの墓の隣に移された。1996年には、彼の功績をたたえ、海洋調査船にU.S.N.Sヘンソンの名がつけられた。 文=Brian Clark Howard/訳=堀込泰三

 
  マシュー・ヘンソンの軌跡 
余談だが・・・・・・・・

明日 “1901-1920期 こんなところにも日本人に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月15日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-15 05:10:45 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ イギリスで世界最初の鉄道が開業すると共に、世界最初のグモッチュイーーンに成功する(1830年)。即ち、開通式典で世界初の鉄道死亡事故が発生。 ◆ マクドナルド御用達の全国紙「USAトゥデイ」が創刊する(1982年)。 ◆ 星野仙一が関西圏を沸かせる18年ぶりの偉業(駄目虎→猛虎)達成(2003年)。しかし、五年後には関西圏のみならずリーマン・ショックで日本全体が青息吐息。

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1901-1920期 « 北極点を制覇せよ!(1/2) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

・・・2011年12月7日 / (Web編集部S)

 1906年7月号の野生動物写真の大ヒットなどのおかげで、1906年12月号の『ナショナル ジオグラフィック』の発行部数はおよそ2万部まで伸びました。  前年より約8500部の増加。  1908年にはページの半分以上を写真が占めるようになり、その後も部数は順調に増え、1910年末には約7万5000部になりました。

 4年間で5万5000部増。1年あたり1万部以上のペースです。いいなあ(笑)。  雑誌が売れた分だけ、おのずと探検・調査への支援も増えました。なぜなら、ナショナル ジオグラフィック協会はNPO、非営利組織だから。儲かったといって、利益を仲間うちで分配することはありません。すべて次の活動に使っているのです。

 えっ、そうなの? 全然知らなかった! という人は『ナショナル ジオグラフィック日本版』をいちどご覧になってみてください。スタッフ名とかが並んでいるうしろのほうのページ(奥付)には毎号こんなふうに書かれています。

「ナショナル ジオグラフィック協会は米国ワシントンD.C.に本部を置く、非営利の科学・教育団体です。1888年以来、9000件を超える研究・調査プロジェクトを支援し、陸、海、空の世界に関する知識の向上に貢献しています。」(2011年12月号167ページより)

 協会が非営利組織である理由は、初代会長であるガーディナー・グリーン・ハバードの会長就任演説が象徴しているでしょう。次の会長のグラハム・ベルと、さらに初代専任編集長のギルバート・グロブナーがその意志を受けつぎました。

 協会による探検支援の第1号は、アラスカとカナダの国境近くにそびえるセント・エライアス山の探検調査でした。 黒字になった1906年以降は、初代会長の名前をとって、偉大な探検や発見をした人物に贈る「ハバード賞」を創設し、“ハバード・メダル”を贈呈。 同時に助成金の制度を整えて、より精力的に探検や研究を支援します。

 最初にハバード賞を授与したのは1906年12月15日。受賞者は、同年に北極点まであと282kmの場所に到達したロバート・ピアリです。 これは当時の最北地点記録でした。 式典で金メダルを授与したのはセオドア・ルーズベルト大統領です。

 さらに、協会はピアリに1000ドルの助成金を支給。 その受賞から1年半後、ピアリは「ルーズベルト号」に乗ってニューヨークを出発し、ついに世界ではじめて北極点に到達します。 1909年4月6日のことでした。

 ピアリの北極点探検については、さまざまな書籍が出ているので、ここでは書きません。 また実は、ホントにはじめてだったのか、あるいは、北極点に到達したのかを疑問視する向きもあります。

 結局、真相はいまだにわかりません。100年以上も前ですから、きっとずっとわからないのでしょう。 「北極点到達は藪の中」というところですが、すぐ近くまで行ったことは明らかですし、その後、外部から補給を受けずに犬橇で北極点に達した探検隊が77年後のウィル・スティーガーまで現れなかったことを考えると、偉業であることは確実です。 ちなみに、世界ではじめて犬橇を使って単独で北極点に到達したのは植村直己でした(協会はウィル・スティーガーも植村直己も支援しています)。

 ピアリが北極点に到達したというニュースを聞いて、同じく世界初の北極点到達を目指していたロアール・アムンセンはすぐ、そして、秘密のうちに目的地を南極に変更します。秘密にしたのは南極点に一番乗りするためでした。

 20世紀のはじめは、北極点と南極点はまだ想像上の場所といった感じで、世界地図では空白になっていました。 誰も行ったことも見たこともなかったのだから、それはそうでしょう。今の感覚でいえば、月とか火星ぐらいだったのかもしれません。 であれば、ピアリやアムンセンはさしずめアポロで月に行った宇宙飛行士なみのヒーローですね。 ピアリは

 と、書いている最中に、協会が支援する研究・調査プロジェクトが10000件を超えたというニュースが飛び込んできました。グッドタイミング!

『ナショナル ジオグラフィック日本版』の奥付でも、どうやら2012年2月号から「9000件」から「10000件」に変わる予定です。2月号が発売されたら、ちょっとのぞいてみてください。そして、ナショナル ジオグラフィック協会の研究・調査支援はまだまだ続きます。 (Web編集部S) 

アムンセン -1905年の北西航路横断航海、R.F.スコットの悲痛な遭難で幕を閉じた南極点到達競争(1911年) ・ 1926年の北極点到達 等々は別冊にて記載済み。ご参照 ⇒ https://thubokou.wordpress.com/2013/08/20/探検家・冒険家%E3%80%80=12-①=/ 

明日 “ 901-1920期 北極点を制覇せよ! “ に続く・・・・・

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 09月14日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-14 05:10:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ セプテンバーバレンタイン/メンズバレンタインデーなので好きなあの子にパンツを贈ったら、紫色の服を着て白いマニキュアを塗った彼女から緑のインクで書かれた手紙を受け取ったでござる。 ◆ モスクワへはるばるやって来たナポレオンの御一行に、ロシアがファイヤーストームで文字通りの熱烈歓迎を行う(1812年)。 ◆ 北朝鮮が、あと一歩の所で反共反日で凝り固まった頑固爺を海へと突き落せるところまで行く(1950年)が、翌日仁川でダグラス・マッカーサーに不意打ちを喰らうことに。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第1回= ◎ ◎

1901-1920期 « 明治の日本(2/2) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

・・・2015.05.01 / 文=Brian Clark Howard/訳=堀込泰三・・・・

 農林水産省の統計によれば、平成22年の日本の漁業従事者数は20万3000人でした。1905年5月号「日本の漁業(The Fisheries of Japan)」では、「漁業に従事している日本人の数はおよそ300万人。これは米国の21万5000人をはるかに上回る。日本の漁業従事者は全人口の約16分の1で、米国の場合は500分の1だ。水産業全体の売上高は年間約3000万ドルに達し、米国や英国のほぼ倍に当たる」 と記している。

ウナギの養殖は当時から盛んだったんですね。このほかに、日本ではタイが人気で、「食べ方としては生のまましょうゆをつけて食べるのが最も美味だ」なんて一文もありました。  最後に明治44年、1911年11月号「にっぽんチラ見(Glimpse of Japan)」。

「箱根では米国ではまず経験できないような、というより恐怖の体験をした……ほどなくホテルの一方の壁が大きく揺れ出し、たちまちホテル全体が揺れ始めたのである。いったい何事かとわれわれは一同総立ちとなり、パニックに陥った。ところが、われわれ以外の日本人やホテルの従業員は、特にあわてた風もなく、平然としているではないか。あとで分かったことだが、これが地震というものだった」

 地震のない土地から来たら、この世の終わりと思ったのでは。 「日本の子供たちは米国の子供たちと違って、まだ年端のいかないうちからよく家事手伝いをする。4歳から6歳になると、幼い弟や妹の面倒は彼らの仕事となる。いつも一心同体で暮らすといってもよい」

「日本人ほど幸せで、日々の暮らしに満足している国民はないということだ。その理由は二つあると思われる。一つは日本人のシンプルライフである。米国では、なにかとシンプルライフの大切さが語られはしても、それが実現しているとは思えない。もう一つは、日本人の親切さが何よりも証明しているように、美しいものに対する素直な感動と他人に対する思いやりである」

 さて、『ナショナル ジオグラフィック』の明治時代の日本の記事、いかがだったでしょうか。

明治三陸津波

創刊9年目の1896年にようやく月刊化を果たし、より一般向けの記事をじわりじわりと載せ始めた『ナショナル ジオグラフィック』。そのなかには明治三陸津波のレポートもありました。  筆者はエライザ・シドモアという女性です。

 彼女は1890年にナショナル ジオグラフィック協会に入会し、2年後に女性ではじめて評議員に選出された、いわゆる人文地理学者にして大の親日家でした。

84年に初来日して以降、日本に長く滞在し、91年には『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫)を刊行しています。日本を愛し、隅田川の桜並木の美しさに感動して、当時お世辞にもきれいとはいえなかったポトマック河畔に桜を植えようと計画したのはほかならぬ彼女でした。

 日本に来る前から「ニューヨーク・タイムズ」などに寄稿していただけあって、シドモアの記事はとてもわかりやすく、被害の様子を的確に伝えています。  残念ながら、当時の日本版は(当然)ありませんけれど、『日本の100年』に抄訳が掲載されているので、少し引用してみましょう。

「この津波による死者は2万6975人、負傷者数は5890人。倒壊した家屋は9313戸、打ち上げられた大型船舶は約300隻、倒壊したり沖に流されたりした漁船は1万隻以上」 「助かった住民の証言によると、高波が押し寄せる直前に、突然海の水が600メートル近くも沖へ向って後退したのだそうだ。その後、波が高さ24メートルはあろうかという真っ黒い壁に変身し、打ち付けるように岸に向かって襲いかかってきた」

「かなりの数の船が陸地に打ち上げられ、中には2キロ以上も内陸へ運ばれたものもあった。海面からあまり高くない海辺の土地では、高波が引いた後、ほとんど何も残らなかった」

『ナショナル ジオグラフィック』の記事らしく、地震の原因にもふれています。

 もっとも普及している説は、「タスカロラ海淵」の壁あるいは海底の陥没である、とシドモアは書いています。 「タスカロラ海淵」は1874年に米国の測量船「タスカロラ号」による深海探査で発見された8514mの海溝で、今の知識で言えば、千島海溝のほぼ中央部にあたります。当時はピアノ線による測量のため、詳しい地形まではわかっていませんでしたが、地震の原因が深海底での「地すべり」によるという説は興味深くはないでしょうか。

 1896年9月号の明治三陸津波特集は全9ページで、被災地域を示す日本地図と、計4枚の写真が掲載されています(そのうちの2枚は『日本の100年』で見ることができます)。

シドモアの文章とともに、めちゃめちゃになった家や、建物がすべてなぎ倒されてまっさらになった場所に船が打ち上げられた写真を見ると、被害の状況が東日本大震災とそっくりなことに驚きを禁じえません。海に流された人の写真もあります。当時はテレビはありませんでしたが、これらの写真だけでも被害の甚大さはありありと伝わったことでしょう。

しかし、明治三陸津波や、前回紹介した上半身裸の男女の写真などのセンセーショナルな記事を掲載したにもかかわらず、月刊『ナショナル ジオグラフィック』の売れ行きは、残念なことに期待したほどは伸びませんでした。

明日 “ 901-1920期 北極点を制覇せよ! “ に続く・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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今日(狂)の狂言 : 09月13日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-13 05:10:48 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 乃木希典が明治天皇に殉じて、奥さんを道連れにセカンドインパクトを起こす(1912年)。 ◆ 千里の山から流れていた三波春夫の歌声がこの日を限りに千秋楽となる(1970年=大阪万博が閉幕)。 ◆ 毛沢東同志に取って代わろうとしたNo.2反革命分子の林彪が、家族・側近らとソ連に逃げようとするも途中ゴビ砂漠で墜落死、力尽きる(1971年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第1回= ◎ ◎

1901-1920期 « 明治の日本(1/2) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

・・・2015.05.01 / 文=Brian Clark Howard/訳=堀込泰三・・・・

  1905年というと、みなさんは何を思い浮かべますか?   

  そう、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した記念すべき年ですね。  なんてハナシは、すみません、まったく関係ありません。まあ、日本で初めてデパートで福引き大売出しが行われた、というよりは全然マシだとは思いますが。

 夏目漱石が月刊誌『ホトトギス』で『吾輩は猫である』の連載を始めたこと? それなら少しは関係あるかも。どうだろう……。

 サンクトペテルブルクで軍隊が民衆に発砲して皇帝がすっかり信頼を失った「血の日曜日事件」? を思い出す人は少数派でしょうけれど、これは重要です。 1905年、明治38年といえば、日本がロシアを屈服させて、日露戦争が終わった年でした。  これは世界的にみても大ニュースでした。

 そのせいでしょうか。日露戦争の前後で『ナショナル ジオグラフィック』に日本の記事がたくさん掲載されています。 列強の仲間入りをしつつあった米国で、グロブナーが協会のために必死になって奮闘していた一方で、今回は少し目先を変えて、『ナショナル ジオグラフィック』に掲載された当時の日本関連の記事をざっとながめてみましょう。

  『ナショナル ジオグラフィック』にはじめて日本に関する記事が掲載されたのは1894年。日清戦争に突入した年でした。著者は、戦争へ突き進む日本の立場を諸外国に説明するために、日本政府が米国から招いた「お雇い外国人」のひとりです。

 次は第2章第4回で紹介した「明治三陸津波」のレポート=後述=です。  以降は1901年までに計4本の記事が掲載されました。そのひとつは1898年10月にグラハム・ベルが日本を訪問したときの手記です。 

  「日本の過去25年間の目覚しい発展ぶりをみると……将来さらに成長を遂げる可能性が高い」とベルは結んでいます。 1901年までは8年間で計6本でした。 対して、1904~05年では2年間で計7本もの記事が掲載されます。 1902~03年は何もありませんでしたから、やはり日露戦争で相当注目されていたのでしょう。

  記事の内容は、和紙や漁業など日本の産業に関するものから、一等書記官だった日置益(ひおき えき)が書いた「日英同盟の目的」までさまざまでした。

  なかでも、ハーバード大学を卒業し、セオドア・ルーズベルト大統領とも知り合いだった金子堅太郎の「日本人の特性(The Characteristics of the Japanese People)」という講演録は別格だったようです。 1905年3月号の巻頭に掲載されました。 厳密にいえば、本人が書いたものではありませんが、これは日本人初の寄稿です。

 1906~12年は6年間で9本。 日本と外国との関係を扱ったものと、純粋に日本についての記事とがほぼ半々です。  ただ、数こそ減りますが、内容は高野山(“KOYASAN”という単語をはじめて見たとき誰のことかと思いました!)、 日光、捕鯨漁法、そして、日本流シンプルライフという具合に、より具体的なテーマを深く掘り下げた記事になっていきます。

  これらの記事のなかから、興味深いくだりをいくつか引用してみましょう。  まずは1904年5月号「日本から学ぶこと(Lessons from Japan)」から。1903年に日本を訪れたアメリカの農業視察団によるレポートです。 「日本の家屋は紙と木でできているといわれる。 確かにその通りで、部屋の仕切りには木の枠に紙を貼った障子が使われている。

   これに使われるのは薄い和紙で、光は通すが熱は遮断するという紙のもつ素晴らしい性質を利用したものだ」 「油紙にも注目させられた。 軽くて丈夫で、しかも安いというその特性を改めて見直したものである。 われわれが使っているタールを塗ったシートと同じくらい柔らかだし、女性用の薄手のレインコートより軽い……

  日本の人力車の車夫たちは、雨の日はみんなこの油紙でできたレインコートを着て仕事をしている……

  普通に使えば1年以上はもつと言う」  エコが求められるいまこそ油紙を使ったほうがいいかもしれません。  続いて1905年5月号「日本の漁業(The Fisheries of Japan)」。 「漁業に従事している日本人の数はおよそ300万人。 これは米国の21万5000人をはるかに上回る。

   日本の漁業従事者は全人口の約16分の1で、米国の場合は500分の1だ。 水産業全体の売上高は年間約3000万ドルに達し、米国や英国のほぼ倍に当たる」  ちなみに、農林水産省の統計によれば、平成22年の日本の漁業従事者数は20万3000人でした。 「欧米人にとっては奇妙としか思えない海産物もある。東京の下町の店先で見つけたフグを干して作ったちょうちんもその一つ」 「日本の水産物養殖産業は年々盛んになるばかりだ。養殖するのはウナギ、コイ、金魚、サケ、マスなど様々」

明日 “ 901-1920期  « 明治の日本(2/2) »“ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月12日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-12 05:10:47 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ヒトラーが集会で演説をぶっていたギャラリーをたしなめ、政治活動家としてスカウトされる(1919年)。 ◆ かたや、フランスの洞窟で原始時代の人間がやらかした落書きが、1万5000年ぶりに見つかる(1940年)。 ◆ 日本と並ぶエチオピアの天皇制が廃止、社会主義者によって打倒されたことから以後左派・革新への恐怖心が日本中を覆い尽くす(1974年)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 09/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=08/9= | 2015/10/28 =

Mallory and Irvine Everest 1924 ; https://youtu.be/XmrQV4O3PXI

1924 British Mount Everest Expedition ; https://youtu.be/kIs7JzoJpmw

1 The Wildest Dream: 2 Minute Trailer ; https://youtu.be/5LBlFmtR1rA

マロリーの仲間たちの証言

  • ハリー・ティンダル(Harry Tyndale 、マロリーの山仲間):「ジョージの登り方は体力で攻めるというより、柔軟にバランスよく、どんな困難な場所もリズミカルにテンポ良く乗り切ってしまうという感じで、蛇のように滑らかだった。」
  • トム・ロングスタッフ(1922年隊のメンバー):(友人への手紙で)「登山家である以上登っていくことは運命みたいなものだ。2人が下りのことを考えたとは想像しにくい。私は彼らがやりきったと信じている。快晴だったというから、きっと2人はオデールの視界から消えた後、世界の半分ともいわれる絶景を眺めたのだろう。それが2人にふさわしい場所だと思う。2人は今や永遠の世界に生き、我々と共にいる。」
  • ジェフリー・ウィンスロップ・ヤング(Geoffrey Winthrop Young 、1920年代を代表する登山家の1人で、マロリーを尊敬してやまなかった):「マロリーの登山技術は理論とかじゃなくて彼自身が創りあげたものだった。どんな斜面に対しても片足をまず高い位置にもって行き、肩を膝に近付けて折り、体を起こしながら美しい曲線運動を描いて立ち上がる。彼と岩の間でどんなことが起こったのか見ることができないほどだ。見ていても結果しか見えない。スピーディーでパワフルな一連の動きでどんな岩でも乗り越えていく、岩としては乗り越えられるか、崩れてしまうほかないだろう。」ヤングはオデールが「マロリーたちがセカンドステップを超えていた」と主張したときもこれを信じ、「彼らなら頂上までも行っただろう」と語った。

結論として・・・・

マロリーとアーヴィンがどこまで行ったかという議論はなかなか結論が出ない。 ほとんどの説で一致しているのは、2人が2本の酸素ボンベを持っていたということ、オデールが見たようにファーストステップあるいはセカンドステップへとりついたということである。

可能性としては2つ、マロリーがアーヴィンの分の酸素も持って頂上に向かったか、あるいは2人で行ける場所まで行ったか=その場合、登頂前に酸素は切れる、そのことも覚悟の上だったかもしれない=ということである。 どちらにせよマロリーは下山中に滑落して死んだ。 オデールがテントに避難した吹雪の中だったかもしれない。

アーヴィンはマロリーとともに滑落したか、あるいは1人で稜線上に残って極度の疲労、低体温によって命を落としたかのどちらかであろう。 2008年2月にはトム・ホルツェルが「オデールは下山中の2人をファーストステップ上で目撃した」という新説を唱えたが、いずれにせよ証拠が乏しく、今後もなかなか結論は出ないだろう。

  間接的に2人の登頂を示唆する手掛かりもある。 マロリーの遺体から発見された物入れには、頂上に置いてくると言った妻ルースの写真がなかったのである。 しかし、その写真が頂上で発見された訳でもない。  

 なので、最終的にはマロリーが頂上で撮ってくると言っていたコダックのカメラが発見されなけれれば、正確な事を知る事は出来ない。 エベレストのような寒冷な場所では、何十年経ってもフィルムは現像可能な状態で保存されており、それは今でも、ヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている。 

追記; 

 たとえ1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に到達していたという証拠が見付かっても「初登頂」の栄誉はエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイに与えられるべきだという意見もある。 なぜなら、「登頂」とは生きて帰ってこそ意味がある行為だと考えられるからだ。  

 マロリーの息子ジョン・マロリーは3歳で父親を失ったが、「僕にとって登頂とは生きて帰って来ることです。もし父さんが帰ってこなければ決してやりとげたとは言えないのです」と、あまりに有名な父を伝説としてしか知らない寂しさを語っている。  

 ヒラリー卿も同じような意見を持っていて「もし山に登っても、下山中に命を落としたら何もならない。登頂とは登ってまた生きて帰ってくることまでを含むのだ」と語っている。 最後にイギリス人登山家でヒマラヤに詳しいクリス・ボニントンは「もし彼らがセカンドステップにとりついていたとしたら、彼らは頂上近くまで行っただろう。 そこまで行けばクライマーは皆同じ気持ちになる。だから、2人が頂上に行ったとしても何ら不都合は感じない。私としてはむしろ2人が頂上まで行ったと信じたい。 これは夢があるし、人々の心を突き動かす考えだと思う。事実はどうあれ、このことは永遠に不可知のままで良いのではないか」と語っている。 

10-27-1

 「そこにエベレストがあるから」(誤訳:「そこに山があるから」)

  マロリーの言葉として広く人口に膾炙している「そこに山があるから」という言葉は、「そこにエベレストがあるから」(原文はBecause it’s there. )と訳すべき言葉である。 この言葉は、1923318日付けのニューヨーク・タイムズの記事に現れる。 

CLIMBING MOUNT EVEREST IS WORK FOR SUPERMEN; A Member of Former Expeditions Tells of the Difficulties Involved in Reaching the Top — Hope of Winning in 1924 by Establishment of Base Camps on a Higher Level.” と題する記事で、“Why did you want to climb Mount Everest?”との質問にマロリーは、“Because it’s there.”と答えているのです。 

 この“Because it’s there,”の後に、マロリーは、“Everest is the highest mountain in the world, and no man has reached its summit. Its existence is a challenge. The answer is instinctive, a part, I suppose, of man’s desire to conquer the universe.”と答えているから、it がエベレストを指すことは明らかであり、日本語で単に「山」とするのは誤訳であろう。 

 ホルツェルとサルケルドによる The Mystery of Mallory and Irvine(邦訳『エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝』)を翻訳した田中昌太郎は、“Because it’s there” を、「それがそこにあるから」と代名詞のまま訳出している。 

 マロリーは、この記事とほぼ同時期に、ハーバード大学で講演しており、そのなかで、「エベレストに登る目的は?」と自問して、「山頂の一個の石を欲しがる地質学者を満足させ、人間がどの高さで生きられなくなるかを生理学者に示す以外、何の役にも立たない。」とふざけて述べている。 

 なお、この“Because it’s there”が本当にマロリー自身の口から発せられたものかどうかについては、はっきりしていない。 マロリーと共にエベレストを歩き、彼をよく知るハワード・サマーヴィルは1964年に、アルパイン・クラブへの告別の辞の中で、この言葉について「いつもわたしの背筋に冷たいものを走らせた。それは少しもジョージ・マロリーらしい匂いがしないのだ。」と書いた。 

 また、ホルツェル(Tom Holzel)は、しかし、「もし彼自身がそれを口にしなかったとしても、この言い回しは、彼という人間とエヴェレストを征服せんとの彼の情熱的な追求を完璧に要約している。「それがそこにあるから」はマロリーの墓碑銘として永遠に残るだろう。」と書いている。 

10-26-1

Tribute/Homenaje George Mallory & Andrew Irvine ; https://youtu.be/gR0aWPQZa_0

George Mallory Everest - Cold On Your Skin ; https://youtu.be/IraXaNpVKlQ

The Killers - Be Still (To Mallory & Irvine) ; https://youtu.be/SASZZ8BEK4w

・・・・・・・・明日より 新企画の記載・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月11日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-09-11 05:10:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ モハメド・アタを始めとしたアルカイダの19人のチームが、美しい国での警察の日を狙ってエクストリーム・カミカゼで世界新記録を樹立(2001年=アメリカ同時多発テロ事件)するも、1機未遂に終わって完全試合にはならず。 ◆ 小泉純一郎の郵政民営化テロによって、民主党ばかりか領袖レベルの党内不満分子を粗方葬り去ることに成功(2005年)。 ◆ ウケ狙いでやった福島第一原子力発電所絡みの報道が自爆テロだったことを、朝日新聞がエクストリーム・謝罪(2014年)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 08/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=06/9= | 2015/10/27 =

The Final Attempt | By George Mallory and Sandy Irvine | Mount Everest ; https://youtu.be/NXb3fcXOslU

エベレストに消えた謎 

北壁から登っていくコースには、「セカンドステップ」と呼ばれる難所がある。 山頂から250mほど手前に高さが30mほどで上部はほぼ垂直な岩壁になっている石灰岩の岩場である。 1960年に中国隊が初めてここを乗り越え、1975年に中国隊の手でアルミはしごが設置されている。

ラインホルト・メスナー=前章参照=に代表される現代の登山家たちの多くは、セカンドステップの困難さを理由にマロリーらの登頂を否定する。 スペインのオスカル・カディアフ(Oscar Cadiach )は1985年に素手でセカンドステップ登攀に成功しているが、彼の見積もりではセカンドステップの難易度は(マロリーの技術なら登れる)5.7から5.8であった。 ただ、カディアフが登ったとき、セカンドステップは雪に覆われており、雪のなかったマロリー登山時より容易になっていた。

また、オーストリア人テオ・フリッシュ(Theo Fritsche )は2001年にマロリー同様の条件でモンスーン到来前の状態でザイルなしでの登攀に挑み、5.7~5.8という難易度であると評価している。 フリッシュはマロリーのように軽装で酸素も用いない状態が成功し、条件がよければマロリーでもセカンドステップは超えられただろうと語っている。

2007年6月、コンラッド・アンカーとレオ・フールディング(Leo Houlding )が中国隊のアルミはしごを取り外した状態でのセカンドステップ超えに挑み、成功した。 フールディングは難易度を5.9と評価。 この登頂は、1924年の遠征隊の状況をできる限り忠実に再現するために行われた。

しかしアンカーはその8年前に行われた最初の挑戦では失敗しており、「自分は5.12クラスをこなす自信があるが、この難易度は5.9クラスの技術では厳しいだろう」と語った。 その時アンカーは中国隊の残したはしごを足場の1つとして利用していた。

2007年の登山後、アンカーは意見を変えて「おそらくマロリーにも登れたに違いない」と言った。 2人がセカンドステップを超えたかどうか、いまだに世界の登山者の間では意見が分かれている。

マロリーはスイス・アルプスにあるネストホルン(Nesthorn 、3824m)で同じような状況にあったが、これを克服している。 仲間たちは彼の高い技術に裏打ちされた積極性と楽観さを疑うことはなかった。

登山技術ということなら、マロリーは北ウェールズでHVS(Hard Very Severe 、難易度5.8-5.9)級の山々に登って技術を磨いている。 たとえばスノウドン山系のリウェッド(Y Lliwedd )の山々などがそうだが、そのような山に基本装備で登るのに慣れた登山者は重装備である方が逆に登りにくいのではないか、という意見もある。

ノエル・オデールは彼らがセカンドステップにとりつくのを見たと語った。 これに対してはまずイギリスの登山家たちの間から疑義が出たため、オデールは後に「ファーストステップだったかもしれない」と見解を変えている。 しかし人生の終わりに再び意見を戻し「やはりセカンドステップだった」と主張していた。 もし彼の目撃したことが本当だとすれば、彼の証言する地形はファーストステップではありえない。

別の説もある。 オデールがステップを登っていく人を見たとき、彼はごく自然に彼らが登っていくところだと考えた。 そのことからオデールの見たのが登頂ルートではないファーストステップだということはあり得ないという結論が導かれた。

セカンドステップなら予定よりもだいぶ遅いが、その理由は信頼性の低かった酸素器具に問題が生じたためと説明されてきた。 しかし、それにしても時間的に遅すぎる。 もしオデールが見たとき、2人が「下っている」ところだったとすれば、時間の辻褄は合う。オデールが見た時、2人は下山中にファーストステップをよじ登ってそこから眺め、セカンドステップを経由してノース・コルへ出るルートを見付けようとしていたのではないかという説である(1981年のフランス隊は登頂を断念して、全く同じ行動を取った)。

1999年の調査隊は2001年にさらなる証拠を求めて山に戻ってきた。 彼らはマロリーとアーヴィンのキャンプを発見したが、アーヴィンの遺体とカメラを発見することができなかった。 2004年には別個の調査隊がカメラを探したが、見付からなかった。

 マロリーの遺体を発見!

-1999年-、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。 そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。 その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。

両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。 右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。 両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。 目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。 絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。

遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。 だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。 そして また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。

調査隊が推測したマロリー・アーヴィンの遭難の様子 

2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。 しかし、2人は疲労困憊し、酸素も切れていた。 それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを降り終える事に成功する。 そして、ファーストステップも降り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。

しかし、マロリーはランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせず、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを降りて行かざるを得ない。 2人は水分、酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。 それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目の前にした安心感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。 垂直な岸壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。

2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃を受けてロープは切れてしまう。 その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れて、そのまま急斜面を滑落していった。 アーヴィンはピッケルをその場に置き、直ちに親友を助けようとしたが、最早、どうしようもなかった。

マロリーの体は尚も加速をつけて暗黒の谷底へと下っていったが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませ、必死に体を停止させようとした。 手袋はすぐに裂け、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。 だが、その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い上がってしまう。 そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。

滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。だが、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。

アーヴィンは暗闇の中、マロリーの名を必死に呼び続けていた。 だが、親友から、返事が返ってくる事はなかった。 アーヴィンは暗く沈んだ気持ちで、1人下山を始めるが、ほどなくして座り込んでしまう。 極限の疲労に加えて、滑落事故の際、アーヴィンも負傷したのかもしれない。

・・・・・・そして、酷寒が体を凍りつかせてゆく中、アーヴィンは短い22年の生涯を閉じた。 翌日、オデールが2人の捜索に向かった際、アーヴィンの遺体の側らを、気付かずに通り過ぎて行ったのかもしれない。

1933年、イギリスの第4次遠征隊は、標高8460メートル地点でアーヴィンのピッケルを発見している。そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。 マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であったのだろう。・・・・・・・・

結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。 しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。 特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。 一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。

マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?

オデールは「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。 調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。 その結果、サードステップ(標高8700m)が最もその光景に当てはまる事が分った。 だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。

それ故、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。 このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、上記のごとく、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。

しかし、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかなこと、まるで蛇の如しだ」と。

マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の人間も認める確かな技術があった。 そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越えて、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。 このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。だが、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎない。 その条件下では、人間の能力は極端に低下するので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。

マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルは8530メートルまで無酸素で登っている事実がある。 これは壮挙ではあったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。

経験豊かで体力もある2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。 後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。

そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。 2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。 酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。 一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは前節の如く、「おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。

マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。 最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。

そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。 この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に降る事は、不可能であっただろう。

そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。 =ただ、2人の歩みが想定よりも速く、午後13時にサードステップにまで達していた場合には、頂上到達時刻は午後17時半となる。この場合だと、また憶測が変わってくる事になる=

しかし、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを降り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。 また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)であきらめて、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。

マロリーはその最中に転落したのだろうか? しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。 エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。 これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。 酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。

マロリーは書き付けに「おそらく・だろう」という言葉を使って、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地を残している。 そして、彼らの元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。 もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。 最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。

そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。 その場合だと、まだ明るみが残る内に難所であるセカンドステップは降り終え、ファーストステップを降り終えた時点で日没を迎える事になる。

おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。 そうなれば、1953年のヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。

 アーヴィンの遺体の問題

1979年に王洪宝が「1975年の登山時に8,100m地点で西洋人の遺体を発見した」と語った。 詳細を語る前に王は雪崩で死んでしまったが、1986年トム・ホルツェルが別の中国人から正確な場所を聞き出した。位置的にマロリーか、アーヴィンだと思われるが、王が「頬に穴があいていた」というのがマロリーの遺体の状況とそぐわない。 2001年の調査隊は王が1975年に宿営した地点を特定し、周辺を調査したが、何も見つからなかった。 王が見たのは実はマロリーの遺体だったのではないかという説もある。

ヘムレブの著作「Detectives on Everest」によれば、別の中国人クライマー許競は1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第6キャンプと第7キャンプの間(8300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(8500m地点)といっている。

しかし、1933年にアイス・アックスが発見されたあと、アーヴィンに関しては一切の手掛かりが見付かっていない。 許によれば遺体は仰向けになっていたというが、そこから考えられるのは負傷し、手当てをしていて亡くなったか、あるいは休息していて亡くなったということである。

トム・ホルツェルは2009年、エベレスト航空写真解析の結果、アーヴィンの遺体である可能性のある6フィート前後の物体を発見したとし、調査隊を組織しようとしている。 なお、トム・ホルツェル自身はマロリーとアーヴィンがセカンドステップをあきらめ下山中ファーストステップから得られる眺望からルートをみつけようとしてファーストステップに上ったところをオデールに目撃されたという説を取っている。 その後彼らは吹雪に遭遇し滑落した。最初の滑落では生存したが、その後下山中に死亡したとしている。 

The Killers - Be Still (To Mallory & Irvine) ; https://youtu.be/SASZZ8BEK4w

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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