大戦後はじめての特集は1920年10月号の「日本のとある新聞ができるまで(The Making of a Japanese Newspaper)」。 テーマからして全然違いますよね。福沢諭吉が創刊した日本初の近代的新聞『時事新報』の作り方をレポートしているだけですが、こんな書きだしを読めば、「日本の子どもら」とのトーンの違いは歴然です。
さて、第一次世界大戦のせいで、しばらくの間掲載を見送っていたカラー写真が復活した記事は1921年3月号の「ロンドンからオーストラリアへ飛行機で行ってみた(From London to Australia by Aeroplane)」でした。このなかにのったスリランカとインドのスナップです。 グロブナーにとっては満を持しての復活です。
1924年7月号では3本の特集「アメリカ横断無着陸飛行(The Non-stop Flight Across America)」「空から見る祖国(Our Country Through the Airman’s Camera)」「空にはばたいた人類の進歩について(Man’s Progress in Conquering the Air)」だけで1冊を構成し、例によって「これでもか!」と飛行機ネタでたたみかけました。
山本五十六が購読を始めた1918年の『ナショナル ジオグラフィック』4月号には、「海の至宝:わたしたちの海軍(The Gems of the Ocean : Our American Navy)」という特集があります。そのなかには、真珠湾で攻撃、撃沈された戦艦アリゾナやペンシルベニアも紹介されていました。
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・・・2015.05.01 / 文=Brian Clark Howard/訳=堀込泰三・・・・
農林水産省の統計によれば、平成22年の日本の漁業従事者数は20万3000人でした。1905年5月号「日本の漁業(The Fisheries of Japan)」では、「漁業に従事している日本人の数はおよそ300万人。これは米国の21万5000人をはるかに上回る。日本の漁業従事者は全人口の約16分の1で、米国の場合は500分の1だ。水産業全体の売上高は年間約3000万ドルに達し、米国や英国のほぼ倍に当たる」 と記している。
ウナギの養殖は当時から盛んだったんですね。このほかに、日本ではタイが人気で、「食べ方としては生のまましょうゆをつけて食べるのが最も美味だ」なんて一文もありました。 最後に明治44年、1911年11月号「にっぽんチラ見(Glimpse of Japan)」。
なかでも、ハーバード大学を卒業し、セオドア・ルーズベルト大統領とも知り合いだった金子堅太郎の「日本人の特性(The Characteristics of the Japanese People)」という講演録は別格だったようです。 1905年3月号の巻頭に掲載されました。 厳密にいえば、本人が書いたものではありませんが、これは日本人初の寄稿です。
ジェフリー・ウィンスロップ・ヤング(Geoffrey Winthrop Young 、1920年代を代表する登山家の1人で、マロリーを尊敬してやまなかった):「マロリーの登山技術は理論とかじゃなくて彼自身が創りあげたものだった。どんな斜面に対しても片足をまず高い位置にもって行き、肩を膝に近付けて折り、体を起こしながら美しい曲線運動を描いて立ち上がる。彼と岩の間でどんなことが起こったのか見ることができないほどだ。見ていても結果しか見えない。スピーディーでパワフルな一連の動きでどんな岩でも乗り越えていく、岩としては乗り越えられるか、崩れてしまうほかないだろう。」ヤングはオデールが「マロリーたちがセカンドステップを超えていた」と主張したときもこれを信じ、「彼らなら頂上までも行っただろう」と語った。
“CLIMBING MOUNT EVEREST IS WORK FOR SUPERMEN; A Member of Former Expeditions Tells of the Difficulties Involved in Reaching the Top — Hope of Winning in 1924 by Establishment of Base Camps on a Higher Level.” と題する記事で、“Why did you want to climb Mount Everest?”との質問にマロリーは、“Because it’s there.”と答えているのです。
この“Because it’s there,”の後に、マロリーは、“Everest is the highest mountain in the world, and no man has reached its summit. Its existence is a challenge. The answer is instinctive, a part, I suppose, of man’s desire to conquer the universe.”と答えているから、itがエベレストを指すことは明らかであり、日本語で単に「山」とするのは誤訳であろう。
ホルツェルとサルケルドによる The Mystery of Mallory and Irvine(邦訳『エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝』)を翻訳した田中昌太郎は、“Because it’s there” を、「それがそこにあるから」と代名詞のまま訳出している。
登山技術ということなら、マロリーは北ウェールズでHVS(Hard Very Severe 、難易度5.8-5.9)級の山々に登って技術を磨いている。 たとえばスノウドン山系のリウェッド(Y Lliwedd )の山々などがそうだが、そのような山に基本装備で登るのに慣れた登山者は重装備である方が逆に登りにくいのではないか、という意見もある。
ヘムレブの著作「Detectives on Everest」によれば、別の中国人クライマー許競は1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第6キャンプと第7キャンプの間(8300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(8500m地点)といっている。