【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

軽敏廉価な高速移動器具=ローラースケート史= 1/3; 歴史深層(054)

2022-10-13 05:35:09 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月13日<ⰧⰊⰧ

☆★  政府の懐が厳しいので、皇族の大規模リストラが実施される(1947年=11宮家51人の皇族離脱)。☆★  アンデス山中にウルグアイ空軍機571便が墜落(1972年)し、人間同士のぴー≪12月23日に生存者16名を救出≫が行われた。他方、アエロフロートIl-62型機がシェレメーチエヴォ国際空港への着陸に失敗して墜落、乗員乗客174名全員が死亡も起きる。☆★  そして、1977年 ルマ・デ・マヨルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ航空615便ボーイング737型機がPFLPによってハイジャック。10月13日は航空業界の厄日ある。

本日記載附録(ブログ)

発明には失敗がつきものです。失敗を重ねて成功が生み出される。ローラースケートの発明者であるジョンは、まさかの失敗をしてしまう。軽快なる移動器具である車輪靴の発表会でのこと、演出を派手にしようとバイオリンを弾きながら登場したジョン。ここで彼はあることに気がつきます。

ブレーキがない!!?。どうすることもできない彼は、そのまま壁に衝突して止まる。色々な意味で「滑った」発表会になってしまったというお話。史実は、在英ベルギー人のジョン・ジョセフ・マーリンが、1760年にパーティで自身が使用したとされるが、これらが広まる事はなかった。

1863年の米国にて最初のクワッドスケートが発売される。安全で簡単に楽しめる遊具として広まり、ニューヨークシティやロードアイランドのニューポートに専用のリンクが開設された。そして、1979年の米国にてローランドプレード社のインラインスケートが発売される。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

コロナで再燃、健康的なローラースケートの意外と長い300年の歴史……

◇◆ 最初のブームは19世紀後半、革命的なあるモデルが火付け役に =1/3= ◆◇

   2020年、新型コロナウイルス感染症が大流行する中で、隔離期間中も安全に楽しめる娯楽として、米国でローラースケートの人気が大きく復活した。ローラースケートと言えば20世紀のもののように思えるかもしれないが、車輪付きの靴が最初に登場したのは1700年代だ。デザインの変更と改善が繰り返され、欧州および米国では19世紀を通じてスケートが流行していた。

 ローラースケートの前身であるアイススケートの歴史は遥かに古く、紀元前1800年までさかのぼる。スカンジナビアの人々が動物の骨からアイススケートを作っていた考古学的証拠があり、人力の移動手段の先駆けだった。

アイススケートをヒントにインライン型が登場

 靴に車輪を取り付けようとした最初期の記録のひとつは1700年代はじめのものだ。無名のオランダ人が、木製の糸巻きをあしらった木片を靴に縛り付けた。「スキーラーズ(Skeelers)」として知られるものだが、これはすぐに壊れてしまった。

 もう一つ、初期の有名な試みが、奇抜なベルギー人発明家ジョン・ジョセフ・マーリンによるものだ。彼の場合は、木製の靴底に金属製の車輪をアイススケートの刃のように一列に取り付けた。1760年に行われた仮面舞踏会で、マーリンはバイオリンを弾きながらローラースケートで滑ろうとしたと言われる。しかし、速度や方向をコントロールできず、大きな鏡に衝突。鏡は粉々になり、バイオリンは壊れ、彼自身も負傷した。

 もう一人、1790年頃にローラースケートの発明に挑戦したベルギー人がいた。パリに住んでいたマキシミリアン・ローデワイク・ファン・レーデだ。彼は鉄の底板に木製の車輪を取り付け、「陸上のスケート(patin à terre)」と名付けたが、あまり注目されることはなかった。と言うのも彼がフランス革命の最中にパリを脱出し、発明品を残して行かざるを得なかったからかもしれない。

 世界で初めてローラースケートの特許を取得した人物は、フランスの発明家シャルル・ルイ・マリ・プティブレだ。3つの車輪が一列に取り付けられた木製の靴底を、ストラップで固定する形式だった。

 その4年後、ロバート・ジョン・タイアーズが英国初となるローラースケートの特許を取得した。彼のスケート「ボリート(Volito、ラテン語で「飛び回る」の意)」には5つの車輪が付いており、体重を前後に移動させて操縦できるよう、中央の車輪が少しだけ大きくなっていた。1828年には、フランス人のジャン・ギャルサンが、3輪のスケートを作る際に同じ方法を採用する。

これらの初期のスケートはデザインの改良がなされていたとは言え、決して操縦しやすいとは言えず、まっすぐに進むかせいぜい緩いカーブを描くぐらいしかできなかった。

 一列に車輪を並べるやり方を考え直したのは、パリの発明家ルイ・ルグランだった。かかとと、指の付け根のふくらみのあたりに、2個ずつ2列の車輪が付いた、いわゆるクワッドスケートを設計したのは彼だ。

ルグランのスケートは、1849年にパリのオペラ座で上演されたジャコモ・マイアベーアのオペラ、『預言者』で使用されて大きな反響を呼ぶ。その後、同オペラがロンドンのコヴェントガーデンで上演されたことで、ローラースケート人気はさらに高まった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ローラースケート慨史 ⨂⨁

ローラースケート(roller skates)とは、車輪を靴底に取り付けて地面を滑走する運動用具。ローラースケートで滑走する事はローラースケーティング(roller skating)と呼ばれる。靴と一体型のもの以外にも、通常の靴にベルトで装着するものがある。

一般には自動車の様に車輪を四隅に配置するクワッドスケート (Quad skates) を指す場合が多いが、広義では車輪を縦一列に並べたインラインスケート (Inline skates) もローラースケートに含まれる。インラインスケートは商標であるローラーブレード (Rollerblade) とも呼ばれることがある。

公園や専用の施設で滑走する他、警察官や店員の移動手段としても使われ、国によっては車道をスケーターに開放するイベントも開催されている。

歴史
ローラースケートの起源については諸説あり、18世紀初頭のオランダで夏用のスケートとして作られていた、1743年のロンドンで演劇に使われていたとも言われる。

記録として残る発明者は在イギリス・ベルギー人のジョン・ジョセフ・マーリンで、1760年にパーティで自身が使用したとされるが、これらが広まる事はなかった。

1863年のアメリカ合衆国にて最初のクワッドスケートが発売される。安全で簡単に楽しめる遊具として広まり、ニューヨークシティやロードアイランドのニューポートに専用のリンクが開設された。
1979年のアメリカにてローラーブレード社のインラインスケートが発売される。

日本での歴史

1877年頃に日本にローラースケートが紹介され、1895年頃から普及し始め、1903年に日本体育会がスポーツとして導入した。1910年に浅草ルナパークのローラースケート場が成功した。1913年に子供達の間でローラースケートが大流行し、これをきっかけに広く一般にも広まり第二次世界大戦まで全国で次々とローラースケート場ができた。

1948年、倉敷の紡績工場にて、女工がローラースケートを履いて作業を効率化する試みが行われる。1952年に関東、関西、中部、四国、九州各地区にローラースケート同好会が発足している。

1953年に第1回全日本スピード・フィギュア選手権大会が、1960年に第1回全日本ローラーホッケー選手権大会が、それぞれ岐阜県大垣市で開催されている。1968年からテレビで「ローラーゲーム」が放映されると、子供達の間で一躍ブームとなり、靴の上から装着する安価なローラースケートが広まった。

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= High on Life': San Francisco’s Skaters Get Groovy =

https://youtu.be/mo4D2uKN4g8 

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/10/12(水曜日)

2022-10-12 05:35:02 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年10月12日 ⰧⰂⰧ

☆   C.・コロンブスが大西洋を横断してインドへ上陸(1492年)、しかし実はアメリカ大陸の沖合いってことは言うまでもないが、インデアンが欧州人に苦難をしいられる歴史が始まる。

☆   東京は下町を荒川がぶち抜き、集落やら街道やら路面電車やらが寸断されてしまう(1924年)。

☆  浅沼稲次郎の長ったらしい演説に飽き飽きしていた少年Yが、壇上に駆け上がって強制的に演説を終わらせる(1960年)。他方、国連総会で、ソ連が提出した「植民地主義非難決議」に反対するフィリピン政府の演説をフルシチョフ首相が靴で机を叩いて妨害。

Wagner: Siegfried Idyll, WWV 103
 

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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍追撃_(5/5); 歴史深層(053)

2022-10-11 05:35:01 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月11日<ⰧⰊⰧ

☆★ マッカーサー司令官が幣原喜重郎首相に労働組合の結成奨励を指令。曰く、「五大改革」の指示。なれど、21世紀まで持ち越されるも未だ実現できない懸案事項となる(1945年)。☆★ 配給食糧だけでは到底生きていけないことを、一裁判官が身を以て証明する(1947年=山口良忠判事が栄養失調で死亡)。☆★ 延暦寺に賽銭泥棒しに来た不届き者が、下手を打って織田信長以来の焼き討ちをやらかす(1956年)。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

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ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =5/5= ◆◇

== 分断と対立を生んだロシアとの根深い歴史  ==

ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ / 古来の儀式を守るウクライナ正教会

 ロシア正教会から、ウクライナ正教会が独立する見通しだ。ロシア正教会は、2億6000万人強の信者を擁するキリスト教東方正教会のなかの最大派閥。先日、東方正教会幹部によって明らかにされたこの決定は、300年以上前に確立された教会の基盤を揺るがすほど大きな意味を持っている。

 コンスタンチノープル総主教のバルトロメオ1世(正教会高位聖職者の位階制において「平等の中の首位者」とされる)が招集したシノド(主教会議)は、1686年以来モスクワの宗教当局者の管轄下にあったウクライナ正教会に対し、独立する権利を承認した。

 ウクライナ正教会は、26年前のソ連崩壊後に設立されて以来、これまで正式な承認を得られずにいたが、今回のシノドにおいて、ウクライナ正教会キエフ総主教庁の正統性が正式に認められた。シノドではまた、キエフ総主教庁の創設者でリーダーのフィラレート総主教(94歳)の主教としての地位と権限も認められ、さらにはウクライナ正教会をロシア正教会の管轄下に組み込んだ1686年の決定も無効とされた。

 ロシアとウクライナの信徒を合計すると、世界のその他の正教会の信徒全員を合わせた数を超える。現在、モスクワ総主教庁が抱える1億3600万人の信徒の4分の1はウクライナ人が占め、また1万8000カ所ある教会区の3分の1はウクライナにある。ウクライナ正教会の分離は、1000年におよぶ正教会の歴史上「最悪の危機」になると見られている。

 また今回の決定により、ロシアとウクライナの対立はさらに深まるだろう。どちらも教会の危機を政争に利用しているというのが一般的な見方だ。2014年にロシアがクリミア半島を強制的に併合したこと、また現在まで続くロシアによるウクライナ東部への軍事介入により、両国の関係は近年、特に悪化している。

 ウクライナのポロシェンコ大統領は、シノドの決定を「悪に対する善の勝利」と呼び、またモスクワ総主教庁は「ウクライナの国家安全保障への直接的な脅威だった」と発言した。

 ウクライナ正教会の「自治独立」が現実味を帯びてきた9月、モスクワ総主教庁は報復措置として、モスクワ派の主教とコンスタンチノープルの主教との共同礼拝を禁止したり、会合、神学上の対話、コンスタンチノープルの代表者が主宰する業務への協力を拒んだりするようになった。

 こうした対立の激化は、暴力的な事態に発展するのではないかとの憶測を呼んだ。ロシアのインターネットでは、ウクライナ人国家主義者が有名なキエフ・ペチェールシク大修道院を襲撃したとの未確認情報が飛び交った。モスクワ総主教庁派の聖職者の中には、教会区民に「自分たちの教会を守れ」と命じた者たちもいたという。

 この緊張状態の原因が東方正教会の歴史に深く根ざしていることは確かだが、今回の分離が神学上の問題でないことは、ほぼすべての派閥が同意するところだ。

 正教会の権威を巡って対立するロシアとウクライナというふたつの国は一方で、世界でも特に世俗化が進んだ国でもある。国家教会への帰属率は非常に高いものの(ロシアでは人口の71%、ウクライナでは77%)、積極的な宗教活動を行っている人の割合は極めて低い。

 米調査機関、ピュー・リサーチ・センターが行った2016年の世論調査では、宗教が「非常に重要」だと答えたのはロシア人のわずか15%、ウクライナ人の20%だった。毎週礼拝に出席しているのはロシア人の6%、ウクライナ人の12%で、毎日祈祷を行うのはロシア人の18%、ウクライナ人の28%に過ぎない。これとは対照的に、米国では人口の52%が宗教は非常に重要だと考え、31%が毎週教会に通い、57%が日々祈祷を行っている。

 つまり正教会への帰属率が高いことは、国民であることの象徴的な意味合いが強く、宗教的な信仰心とはほとんど関係がない。

 世界的に見ても、東方正教会は信徒数の減少に悩まされてきた。1910年には、世界のキリスト教徒の20%は正教徒だったが、現在は12%だ。こうした背景の中で、モスクワの宗教当局者と、ウクライナとコンスタンチノープルの総主教庁との不和が、全面的な危機に発展したわけだ。

「教会法においては、コンスタンチノープルの総主教はウクライナに対する管轄権を有していません」と、ロシア正教会幹部であるウラジーミル・リゴイダ氏は言う。「バルトロメオは、1686年の協定は一時的なものであることを証明する歴史的な文書が存在すると言っています」。しかしそうした文書が作られたことはないとリゴイダ氏は主張し、300年以上続いた関係を終わらせるのは「とんでもないこと」だと述べている。

「それはいわば、アラスカの米国への売却ははるか昔に別の政権下で行われたのだから、アラスカは今もロシアのものだと、われわれが主張するようなものです」(アラスカ売買の交渉は1867年、当時の米国務長官ウィリアム・H・スワードによって行われた)

ロシアの教会当局者は、モスクワ総主教庁はプーチンの手先であり、常に大統領の国内政策を支えているとたびたび非難されることに苛立っている。

リゴイダ氏は言う。「われわれはロシア国の教会でも、その他どの国の教会でもありません。われわれの総主教は16カ国の人々に心を配っています。それは主教座としての、また宗教指導者としてのわれわれの責任です」

次節は“知る人ぞ知るローラスケート”に続く・・・

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= ロシア帝国とウクライナの歴史 =

https://youtu.be/mo4D2uKN4g8 

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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍追撃_(4/5); 歴史深層(052)

2022-10-10 05:35:32 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月10日<ⰧⰊⰧ

☆★ 辛亥革命が起こった日(1911年)だからか沖縄県が空から攻撃された日(1944年=十・十空襲)ゆえか東京オリンピックが始まった日(1964年)からなのかよく判らないが、この日は全国の銭湯(1010)で戦闘(1010)が繰り広げられるらしい。☆★ 『8時だョ!全員集合』の裏番組として『オレたちひょうきん族』がレギュラー放送として放送開始(1981年)、ドリフターズの独壇場にタケちゃんマンが暴れ始める展開に。☆★ 国産のトキが全滅(2003年)、取り敢えずは隣国からの借り物で何とか保護に努めるが、クローン技術も発達したことなのであんまり問題がないと考えるは・・・・・。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

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ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =4/5= ◆◇

== 分断と対立を生んだロシアとの根深い歴史  ==

元はバイキングがつくった同じ国、両国はなぜかくも対立するのか

 ロシアによるウクライナ侵攻の脅威が連日報道されているが、両国の対立は昨今に始まったわけではない。長く複雑にからみあったその歴史を振り返れば、今日の対立の舞台がどのようにできあがったかが見えてくる。

 両国の歴史は、1000年以上前にバイキングが現在のウクライナの首都キエフを中心に築いたスラブ系の大国、キエフ公国の時代に遡る。ウクライナもロシアも起源は同じ国だった。

 西暦988年、キエフ公国のノヴゴロド公ウラジーミル1世がギリシャ正教に改宗し、クリミアの都市ケルソネソス(古代ギリシャの植民都市だった)で洗礼を受けた。この洗礼以降、「ロシア人とウクライナ人はひとつの民であり、一体である」と、昨年、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は宣言している。

800年にわたり繰り返し支配されてきたウクライナ

 しかし過去800年近く、ウクライナは互いに競い合ういくつもの勢力によって、繰り返し支配されてきた。東からやってきたモンゴル軍がキエフ公国を滅ぼしたのは13世紀のことだ。この侵攻が、モスクワを中心とする地方政権がロシア帝国にまで発展する発端となった。

 16世紀にはポーランドとリトアニアの軍隊が西から侵入する。17世紀、ポーランド・リトアニア共和国と帝政ロシアとの戦争により、ドニエプル川より東側とキエフがロシア皇帝の支配下に置かれた。東側は「左岸ウクライナ」と呼ばれ、ドニエプル川より西の「右岸」はポーランドが支配した。

 それから1世紀以上たってポーランドが弱体化すると、1793年から95年にかけて右岸ウクライナ(西部)がロシア帝国に併合された。その後、「ロシア化」と呼ばれる政策により、ウクライナ語の使用と学習が禁止され、人々はロシア正教への改宗を迫られた。

ソ連時代に何百万もの人々が飢え死にに

 ウクライナは20世紀にも大きな苦難に見舞われている。1917年のロシア革命の後、多くの国と同じく、ウクライナも激しい内戦に突入したが、1922年にはソビエト連邦の構成国となった。

 1930年代初頭、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、農民を集団農場に参加させるためにあえて飢饉を引き起こし、何百万人ものウクライナ人を飢餓と死に追いやった。その後、ウクライナ東部の人口を埋め合わせるために、スターリンはロシア人をはじめ多くのソビエト市民を移住させた。その多くは、ウクライナ語を話さず、地域にほとんど縁のない者たちだった。

 こうした歴史的な経緯が、長きにわたる断絶を生み出した。ウクライナ東部は西部よりもずっと早い時期からロシア支配下にあったため、東部の人々はロシアとの結び付きが強く、ロシア寄りの指導者を支持する傾向にある。

 対してウクライナ西部は、ポーランドやオーストリアなど、欧州列強の支配下に何世紀にもわたって置かれていた事情などから、西部の人々は西欧寄りの政治家を支持する傾向にある。東部にはロシア語を話す正教会の信者が、西部各地にはウクライナ語を話すカトリック信者が多い。

東西の大きな分断の背景にあるもの

 1991年のソビエト連邦の崩壊により、ウクライナは独立国となった。しかし、国を団結させるのは容易なことではなかった。その理由のひとつは、「ウクライナ東部では、西部ほど愛国意識が強くない」ことだと、元駐ウクライナ米大使のスティーブン・パイファー氏は言う。

民主主義と資本主義への移行は、痛みと混乱を伴うものであり、東部を中心に多くのウクライナ人が、以前の比較的安定した時代のほうがよかったという気持ちを抱いていた。

「こうしたさまざまな要因を経てできた最大の分断は、ロシア帝国とソビエトによる支配を好意的にとらえている人たちと、これを悲劇として見る人たちとの間にあるものです」と、米シンクタンク大西洋評議会の元研究員で、ウクライナに詳しいエイドリアン・カラトニツキー氏は言う。この亀裂が顕在化したのが新欧米派の政権を誕生させた2004年のオレンジ革命であり、何千人ものウクライナ人がヨーロッパとの統合拡大を支持してデモ行進を行った。

環境の特性を示した地図を見れば、ステップと呼ばれる肥沃な農地を有するウクライナ南部・東部地域と、森林の多い北部・西部地域との間にも隔たりがあることがわかると語るのは、米ハーバード大学の歴史学教授で、同大学ウクライナ研究所所長のセリー・プロキー氏だ。

氏によると、地図に示されたステップと森林の境界は、東部と西部の間を斜めに走るラインとなっており、これは2004年と2010年のウクライナ大統領選挙における政治状況を表す地図と「驚くほど似通って」いるという。

クリミアは2014年にロシアに占拠・併合され、その後まもなくウクライナ東部のドンバス地方で分離独立派が蜂起し、結果として、ロシアの支援を受けたルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国の建国が宣言された。現在、ロシア軍は再び、この土地の波乱に満ちた歴史を象徴する断層線であるウクライナの国境に集結している。

・・・・・・新説“ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ”に続く・・・

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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍追撃_(3/5); 歴史深層(051)

2022-10-09 05:35:32 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月09日<ⰧⰊⰧ

☆★ 太平洋戦争に負けたので大日本帝国による検閲が無くなったと思ったが束の間、今度は米軍が検閲を始める(1945年=GHQが事前検閲を開始)。☆★ ターリバーンをdisった女子校生マララ・ユサフザイが聖戦と称したリンチに遭う(2012年)。☆★ 寒露・世界郵便デー・体育の日・トラックの日・道具の日・東急の日・金券の日・塾の日・熟睡の日・熟成烏龍茶の日・熟成ウインナー TheGRANDアルトバイエルンの日・アメリカンドッグの日、まだまだありますが、 話のネタに、でっかい船がイスカンダル目指して出発(2199年)す。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

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ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =3/5= ◆◇

== ロシアによる圧力の歴史  ==

 1991年12月、ソビエト連邦崩壊後のウクライナ独立から30年。2021年からロシア軍の不穏な兵力増強が続き、2022年2月24日未明、ついにロシア軍がウクライナに侵攻を開始した。ロシア軍は、ウクライナの北のベラルーシ、東のロシア、南のロシアが実効支配するクリミア半島から、ウクライナに侵攻している。

 ウクライナは、ロシアとヨーロッパ諸国に挟まれた戦略的に重要な位置にあり、約4500万人が暮らす。ウクライナの西に位置する東欧諸国は、北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、ロシアはこのNATOの東方拡大を重大な脅威として警戒している。

 ロシアはこれまで幾度となく旧ソ連諸国への介入を繰り返してきた。その結果、ウクライナの国境周辺などには、紛争解決が棚上げされた「凍結された戦争」地帯が生まれている。近年、ウクライナはロシアの支配から脱却しようと取り組んできた。

 だがこうした取り組みは、ウクライナの人々の命と領土が奪われる結果となっている。2014年には、ウクライナ東部の広大な地域をロシアが占領し、クリミア半島はロシアに併合された。そして、2022年の現在、ウクライナ全土がロシアから攻撃を受けている。

1991
 ソビエト連邦が崩壊、ウクライナが独立を宣言する。

1994
 ウクライナがNATOの「平和のためのパートナーシップ」に加わる。ウクライナが核兵器を放棄する代わりにロシア、米国、英国がウクライナの主権を保障する内容の「ブダペスト覚書」が、交わされた。

2003~2004年
 2003年にジョージアで、また2004年にウクライナで、選挙結果への抗議運動が起き、政治の腐敗とロシアの影響力に抗議するジョージアの「バラ革命」、ウクライナの「オレンジ革命」に発展した。

2008
 ウクライナとジョージアが、NATO加盟に向けて動き出す。8月にジョージアで起きた紛争で、ロシアは、ジョージア国内のアブハジアと南オセチアの親ロシア分離独立勢力を支援。ウクライナは、EUとの関係形成に関する協議を開始した。

2014
 ウクライナのキエフにある独立広場で、政府がEUとの協議を先送りにしたことに対する抗議デモが激化し、100人以上のデモ参加者が死亡。親ロシア派のヤヌコビッチ大領領は、ロシアに亡命した。

2014年3月
 ロシアがクリミア半島を占拠、併合する。

2014年4月
 ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の一部を、親ロシア派勢力が占拠。2015年に停戦協定「ミンスク合意」が成立し、ある程度は戦闘が鎮静化したものの、現地では2021年末までに1万3000人以上が犠牲となっている。 

2019~2020年
 2019年、ウクライナはNATOとEUへの加盟を目指す憲法改正案を可決。翌年には、NATOの活動や軍事訓練に協力する「高次機会パートナー」(EOP)となった。

2021年~2022年
 ロシアが、ウクライナ国境沿いの兵力を大幅に増強する。ロシアのプーチン大統領は、ドネツクとルガンスクの親ロシア派地域に軍を派遣し、両地域を独立国として承認。2022年2月24日、ロシアはウクライナに対して、陸、空、海からの全面攻撃を開始した。

==現在==
 ジョージアや、モルドバのウクライナ国境沿いの東部地域など、ロシアの侵攻により戦争状態にて日々刻々状況は変化。他の旧ソ連諸国にも、ロシアと対峙する紛争地域が存在する。

・・・・・・新説“分断と対立を生んだロシアとの根深い歴史”に続く・・・

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍追撃_(2/5); 歴史深層(050)

2022-10-08 05:35:55 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月08日<ⰧⰊⰧ

☆★ 暴れん坊将軍が、世に蔓延る悪党どもを成敗しようと御庭番を設置(1716年)。☆★ 白虎隊が腐女子の妄想の種にされた末に、二番士中隊員20人が飯盛山で自刃滅亡(1868年)。☆★ 7年前に死者まで出る事態に至った学生による暴動事件の元凶を作った佐藤栄作が、何の因果かノーベル平和賞を受賞(1974年)。その前年のヘンリー・キッシンジャーの受賞に引き続いて、平和賞の怪しさ存在意義が問われることに。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =2/5= ◆◇

 英国政府は、民兵組織「ホームガード」を編成したとき、モロトフ・カクテルの使い方を教えた。志願者向けのビデオでは、ナチスの戦車を止めるバリケードを作り、モロトフ・カクテルを投げつける方法が説明された。

 さらに、英国は「76手りゅう弾」の大量生産も行った。これは、燃料に粘着性を持たせ、発火装置を追加してて布に火を付ける必要をなくしたモロトフ・カクテルだった。600万個ほどが作られ、現在のウクライナと同じく、市民が占領に抵抗できるように、英国中に箱が積まれた。最近では2018年に、建設現場の基礎工事の際にその箱が見つかっている。

 第二次世界大戦後、モロトフ・カクテルは、1956年にハンガリーの人々がソ連に対して蜂起した際に使われ、反乱が鎮圧されるまでに400両もの戦車が破壊された。

 その後も、世界中のさまざまな抗議活動や武力衝突にモロトフ・カクテルが使われている。プラハの春では、チェコスロバキアの人々が、介入してきたワルシャワ条約機構軍に対して使った。パリの学生たちはフランスの警官隊に、パレスチナ人たちはイスラエルの兵士に、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線の活動家は国家警備隊に投げつけた。

   イラン革命では反シャー勢力が使い、最近では、中国による香港弾圧に反対するデモ参加者や、米国での人種差別に抗議する人々によって使われた。
 モロトフ・カクテルは、不利な状況にある人々でも使える武器だ。鮮やかな炎は、圧倒的な力を持つ相手の土台を切り崩していく力を秘めている。

 今、ウクライナでも同じことが起きている。ロシア政府は、「ロシア軍はウクライナで温かく迎えられるだろう」と主張していた。だが実際には、ウクライナのオレナ・ゼレンスカ大統領夫人は、最近の声明でこう述べている。「ロシア軍はモロトフ・カクテルで足止めされている」

・・・・・・新企画 “ロシアによる圧力の歴史”に続く・・・

⨁⨂参考資料:抵抗するウクライナ市民 ⨂⨁

「写真で見るウクライナ侵攻と混乱、ライフル持つ市民」

 2月24日、ウクライナの首都キエフの市民は上空から降り注ぐミサイルの音で夜明け前に叩き起こされ、街は混乱に包まれた。北東部でロシアと国境を接するウクライナ第2の都市ハリコフでも相次いで爆発が起きた。爆撃を受けた都市から脱出しようとする人々の車で幹線道路は終日渋滞。数千人が地下鉄の駅に避難し、リュックサックを背負った人々が国外に逃れるために国境をめざした。

 ロシアが「特別軍事作戦」と呼び、米国が「計画された戦争」と呼ぶこの軍事行動を、世界の指導者たちは「ヨーロッパの平和に対する第二次世界大戦以降で最大の脅威」として非難している。

   ロシアは現在、陸・海・空からウクライナを攻撃している。ウクライナの飛行場、兵舎、弾薬庫などの軍事目標に向けて、無数のミサイルを打ち込んでいる。報道によれば、ロシア兵の隊列がロシアとベラルーシの国境を越えており、南部の沿岸にも部隊が上陸しているという。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は戒厳令を発令した。

   ロシアのプーチン大統領は、今回の軍事行動の目的はウクライナの「武装解除」にあると主張しているが、アナリストや歴史学者は、プーチン大統領はウクライナが西側と同盟を結ぶことを恐れ、ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)に加盟することをロシアに対する安全保障上の脅威と見ていると指摘する。

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍撃退_(1/5); 歴史深層(049)

2022-10-07 05:35:14 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月07日<ⰧⰊⰧ

☆★ チェ・ゲバラがライフワークであった『ゲバラ日記』を書き上げる。「我が生涯に一片の悔いなし」として翌日ボリビア軍の捕虜となり、翌々日に処刑される(1967年)。☆★ 巨人軍とその親会社となる新聞社が結託し、パ・リーグ切っての強豪の八百長をスクープ(1969年=黒い霧事件)。パ・リーグの人気を失墜させることに成功し、巨人軍によるプロ野球支配を盤石のものとする。☆★ クイズ番組や歌番組の司会者だった久米宏がニュースステーションでアンカーマンに(1985年)。日本の報道番組の価値下落の第一歩。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =1/5= ◆◇

「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは

ロシア軍を撃退するため、ウクライナのいたるところで、市民たちが大量のモロトフ・カクテルを作っている。

 西部の都市リビウでは学生や芸術家たちが、かつて深夜のダンスに興じた場所で製作にいそしむ。首都キエフの郊外では元経済専門家が、作り方を検索して自分で作ったと記者に説明している。東部のドニプロの街では女性たちが屋外に集まり、この一時しのぎの武器を作っている。

「今すべき唯一の重要なことだと思います」と、地元の教師は話す。

 モロトフ・カクテルとは、いわゆる火炎瓶のことだ。高度な技術を持つ敵に対抗する身近な武器として、100年近く使われ続けている。投石よりもはるかに強力だが、作るのはそう難しくない。必要なのは、ガラス瓶と可燃性の材料くらいだ。

 火炎瓶が初めて使われたのは、1930年代のスペイン内戦とされる。右派の反乱軍(ナショナリスト派)が、左派の人民戦線政府(共和国派)の戦車に対抗したときだ。ある英国の准将は、この手製の爆弾で9両の戦車が破壊されたのを目の当たりにして驚いた。やがて火炎瓶は、人民戦線軍側でも使われるようになった。

 その火炎瓶が、なぜモロトフ・カクテルと呼ばれるようになったのか。それには、フィンランドの人々が関係している。1939年にソ連軍がフィンランドを攻撃したとき、スターリン政権の外務大臣だったビャチェスラフ・ミハイロビッチ・モロトフは、軍用機がフィンランドに運んでいるのは、爆弾ではなく食料だと言い張った。

そこでフィンランド人は爆弾を「モロトフのパンかご」と呼び、それに合う飲みもの、すなわちカクテルをお返しした。ウオツカを製造していたフィンランドの工場は、すでに即席の火炎瓶を大量生産する準備を整えており、フィンランドはソ連の装甲部隊に対して大きな戦果をあげることができた。その結果、「モロトフ・カクテル」という名前は一躍世界に広まったのだ。

第二次世界大戦中、英国はこのモロトフ・カクテルを、ナチスの侵攻に対する重要な防御策とした。かつてスペイン内戦の際に国際旅団として戦闘に加わったトム・ウィントリンガムは、1940年に英国の人気雑誌「Picture Post」でモロトフ・カクテルを紹介し、「レシピ」と使い方を解説した。

「戦車が近づいてくるのを待て。十分に近くまで来たら、仲間が、ガソリンをしみこませた布の端に火をつける。燃え上がったら、すぐに瓶と布を投げるのだ(遠くには投げられない)。戦車のすぐ前に落ちるように投げよう。コツは、布が履帯に巻きこまれるか、車軸に巻き付くようにすることだ。瓶は割れるが、ガソリンが十分布にしみこんでいれば、勢いよく燃え上がる。すると、車輪のゴムが燃え、エンジンや乗員にも火が回る」

この記事は、次のように締めくくられている。「モロトフ・カクテルで遊んではいけない。非常に危険である」

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料:モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail) ⨂⨁

火炎瓶(かえんびん)は、瓶(主に硝子製)にガソリン・灯油などの可燃性の液体を充填した、簡易な焼夷弾の一種である。冬戦争における故事から、「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とも呼ばれる。本格的に使用された初の戦争は1936年からのスペイン内戦とされる。

1938年のノモンハン事件の際には日本軍によって即席の対戦車兵器として使用され、サイダー瓶を使った急造火炎瓶を肉薄して戦車に投げつけ対抗した。ソ連赤軍の主力であったBT戦車はガソリンエンジンだった上、車体の塗装に使われたペンキに引火性があり、火炎瓶で攻撃すると容易に動力部まで引火し炎上した。しかし肉薄攻撃を強いられるために日本側の損害も大きく、赤軍が戦車を無塗装にするなどの対策を取り始めると戦果は落ちていった。

そもそもソ連側の損害は主に九四式三十七粍砲によるものであり、火炎瓶は擱座した戦車に止めを差す形で使用されることが多かった。日本軍の使用する地雷や手榴弾、火炎瓶は梯形隊形で攻撃するソ連戦車には大きな脅威とはならなかったとされる。ノモンハンの戦訓から、以後赤軍の開発する戦車は軽油で動くディーゼルエンジン化され、のちの第二次世界大戦に役立つことになる。

同年末のフィンランド冬戦争の際にもフィンランド国防軍が対戦車兵器として使用した。当時のソ連外相モロトフは、国際連盟でソ連の無差別爆撃について追及された際に「資本主義に搾取されるフィンランド人民のためにソ連赤軍はパンを投下している」と強弁したことがあった。このため、ソ連軍のRRAB-3収束焼夷弾が「モロトフのパン籠」と揶揄された。そして、火炎瓶は「パン籠」に対するフィンランド人民からのお礼のカクテル(ウォッカの蒸留所で生産された)という意味で「モロトフ・カクテル」と名づけられ、以降火炎瓶の代名詞となった。

第二次世界大戦におけるドイツ国防軍では、ガラス容器を2重(卵型の容器の中に試験管型の容器が入っている)にして、割れると2種類の液体が混合して発火する化学反応型の火炎瓶兵器を制式使用していた。イギリスでは民兵組織のホーム・ガード専用装備として通常の火炎瓶の他、「76号SIP手榴弾(No. 76 SIP Grenade) 」を600万個ほど製造していた。

手榴弾という名目であるが、白リンとガソリンが封入されており、瓶が割れて白リンが空気に触れると自然発火し、ガソリンが燃える火炎瓶であった。ホーム・ガードでは志願者向けの教育ビデオで火炎瓶の効果的な投擲方法を解説していた。

ハンガリー動乱では抵抗側の火炎瓶によってソ連軍の戦車が400両ほど破壊された。

国家が戦争状態にあるときは、国民に火炎瓶を作り、抵抗するよう呼びかけることがある。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ウクライナのメディアが番組で火炎瓶の作り方と火炎瓶で抵抗するよう呼びかける放送がされた。ビールの蒸留所では火炎瓶製造に乗り出し、軍や警察も装備する他、市民が投擲の訓練を行うなどしている。

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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◎_今日の足跡が記録帖_◎ 2022/10/06(木曜日)

2022-10-06 05:35:40 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事= 平成4年10月06日 ⰧⰂⰧ

  スクリーンに映っていた黒塗りのオッサンが声を出したもんだから、観客がビックリ(1927年=トーキー映画『ジャズ・シンガー』が初公開)。

  海の向こうの資本主義国のギャングに感化されたアカが、大森で銀行強盗をやらかす思想的かつ戦術的な過ちを犯した(1932年=赤色ギャング事件)。

☆   直ぐはやらないのは当たり前のお役所仕事に業を煮やしたマツモトキヨシが、地元に「すぐやる課」を設置(1969年=千葉県松戸市役所)。

Wagner: Tristan und Isolde, WWV 90 / Act 3
 

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(9/9); 歴史深層(048)

2022-10-05 05:35:40 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月05日<ⰧⰊⰧ

☆★ フランスでオバタリアンがヴェルサイユ宮殿に乗り込んで、ルイ16世やらマリー・アントワネットやらをパリに引き摺り出す(1789年=フランス革命: ヴェルサイユ行進)。☆★ 自分とこの大陸のこと以外は表向き無関心を決め込んでいたフランクリン・ルーズヴェルト、枢軸国を隔離せねばと公言(1937年=隔離演説)。☆★ 愛と平和を説くカルト教団「ビートルズ」が結成される(1962年=『ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー』)。&so、ジェームズ・ボンドの第1作『007 ドクター・ノオ』がイギリスで公開。豊国では」磯野家の団らん風景がブラウン管に初めて映し出される(1969年)」。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =9/9= ◆◇

== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==

 さらにトンプソン氏によると、この構造物は、長い歳月の間に少なくとも3つの段階を経て造られたという。放射性炭素年代測定の結果、最も古い段階ができたのは西暦1000年頃で、この建物に住んでいた家系がスペイン人の到着より500年以上前から栄えていたことを示唆している。

ありえない王国
 米ウェストフロリダ大学の考古学者で、長年カルーサ族について研究してきたジョン・ワース氏によると、マウンド1は以前からカルーサ族の族長の住居があったのではないかと考えられていたという。

 「スペイン人はカルーサ族の首都の様子についてリアルに描写しています。トンプソン氏らは、この構造物がスペイン人の記録にある王の住居と同じものであることを、しっかりした証拠によって示したのです」

 米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学教授リン・ギャンブル氏によると、スペイン人はカルーサ族について説明する際に「王国」という言葉を用いていたが、人類学者たちは長い間、主として漁労によって食料を得ていた狩猟採集民の社会が王国の定義に当てはまるはずがないと考えていたという。

    学者たちは最近になってようやく、複雑な社会に関する自分たちの考え方が時代遅れになっている可能性に気づきはじめた。「カルーサ族に関する今回の研究は、私たちをそうした思い込みから解き放ってくれるものです」とギャンブル氏は言う。

 「研究チームは巨大な住居を丹念に調べ、長い年月にわたって使用されていたことを示しました。この場所で王国が形成されたことについて、説得力ある証拠を示したのです」

 トンプソン氏はほかにも、スペイン人とカルーサ族との関係についてより詳しく教えてくれそうな場所を発掘している。メネンデスらが築いた砦はその1つだ。砦は短期間しか使用されなかったが、かなり大規模で、イエズス会が今日の米国にあたる地域で最初に展開した布教活動「サン・アントン・デ・カルロス」の拠点となった。

 トンプソン氏のチームはつい最近も、マウンドキーで2番目に高い場所で、スペイン人が建設した構造物の場所をいくつか確認することができた。今後の発掘調査が待ち遠しい。

次回は“「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは”に続く・・・

参考資料:先住民と入植者の協力示す壁画を発見、カリブの島 =後節=

    先住民の絵と十字架やラテン語が共存、出会った16世紀頃の様子物語る

    見つかったモチーフは、人間、動物、幾何学模様など既に分類が済んでいるものだけでも数千種類に上り、その多様さはカリブ海の島々の中でも類を見ない。幅が数メートルに及ぶものもあり、多くが別の絵の上に重なるようにして描かれている。これは、人々が何度も洞窟へやってきたことを示している。

 絵のスタイル、関連する陶器、そして暗い洞窟内を照らすために用いられたたいまつの放射性炭素年代測定の結果を総合すると、これらの壁画がスペイン人到来前に描かれたものであることが分かっている。中には12世紀にさかのぼるものもあった。

スペイン人到来で新たな壁画が
 先住民は、岩の多いこの辺境の地に5000年以上暮らしてきたが、スペイン人たちがやってきてから1世紀で姿を消した。1494年に島を訪れたクリストファー・コロンブスは、カリブ海の地図を作成し、その中にモナ島を書き加えた。地図にはヨーロッパと新大陸を結ぶ海路が記され、後に多くの船がここを行き交うことになる。モナ島の洞窟壁画にも、この頃に興味深い変化が起きている。

 ある洞窟から、先住民の壁画とともに初期のヨーロッパからの移住者が書き残したと思われるしるしも発見されたのだ。当時、プエルトリコとイスパニョーラ島に置かれていたスペインの要塞からこの島を訪れた人々である。

   スペイン人の名前、ラテン語やスペイン語で書かれた文、イエスの名の略記、キリスト教の十字架が数多く、先の尖った道具で岩肌に刻まれていた。

洞窟に「生きた証」残す
 歴史的観点から最も価値があるのは、驚くほど現代的な落書きである。人の名前や日付など、多くは16世紀半ばごろのものだ。自分たちの存在を後世に残そうとして、洞窟の壁に刻み付けたのだろう。

 中でも「フランシスコ・アレグレ」という名は、明らかにヨーロッパ人のものであると分かる。歴史的文献から、この人物は1530年代に西インド諸島へやってきたスペイン人であることが判明した。プエルトリコのサン・フアンに拠点を置き、モナ島を含む王室所有の土地を管理する職務に任じられた人物だ。

 彼の署名と洞窟で見つかった文字がよく似ていることから、アレグレ自身がこの洞窟を訪れて文字を刻んだものと思われる。自分の生きた証を残したいという欲求は、はるか昔から人間が抱いてきたものだ。彼も、洞窟の壁を前に同じような衝動に駆られたに違いない。

「ここに見られるのは、ふたつの全く異なる芸術の共存です」と、クーパー氏は語る。「後から描かれたものは、明らかにヨーロッパ人によるものです。先住民たちの芸術を見て、応答するように自分たちも文字や絵を刻み付けたのでしょう」

 ヨーロッパ人と先住民の壁画が同じ場所に並んでいること、戦いの場面を描いた壁画がないこと、そしてヨーロッパ人が先住民の案内なしにこの洞窟を見つけることはできなかったであろうことを考え合わせると、スペイン人による新大陸征服という聞き慣れた話とは全く違ったイメージが浮かび上がってくる。

    ここにあるのは、ふたつの異なる背景を持った人々が互いを知り、アイディアを共有し、そうして生まれた新たな文化のつながりがどんな未来を意味するのかを探ろうとしていた時代の名残である。
文=A. R. Williams/訳=ルーバー荒井ハンナ

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= Lost City of Cahokia | Animated Documentary | Myth Stories =

https://youtu.be/HypZvynfVGM 

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(8/9); 歴史深層(047)

2022-10-04 05:35:21 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月04日<ⰧⰊⰧ

☆★ 就寝前にお父さんが見る定番番組だったきょうの出来事が放映開始(1954年)、でも櫻井キャスターが登場するには更に四半世紀以上待たねばならなかった。☆★ ローマ教皇パウロ6世がドルを求めて初訪米(1965年)。☆★ 土曜8時にいかりや長介の「8時だョ!全員集合」の号令が初めて日本全国に響き渡ったり(1969年)、世にも奇妙な物語のホストが仕切るお昼の看板番組が放映開始(1982年)したりとこの日は長寿番組にとっての特異日。尚、1970年の『遠くへ行きたい』は現在も放送中。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =8/9= ◆◇

== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==

カルーサ族は植民地化とキリスト教への改宗に激しく抵抗したことで知られる。1521年、ヨーロッパ人として初めてフロリダに到達したフアン・ポンセ・デ・レオンを矢で射て致命傷を負わせたのもカルーサ族の戦士だった。

メネンデスは、南フロリダを植民地化する任務を負ってこの地にやって来た。しかし、カルーサ族の敵意が高まってきたり、暗殺計画が不首尾に終わるなどした結果、着任から3年で撤退を余儀なくされた。その後スペイン人は100年以上カルーサ族に接触することはなかった。1697年にフランシスコ会士がやって来たが、すぐに追い出され、のちにフロリダキーズ諸島で、カヌーの中で、裸で死にかけているところを発見された。

その後もカルーサ族は独立を保ち続けたが、スペインの植民地政策による被害は非常に大きかった。ヨーロッパ人がフロリダに持ち込んだ病気の蔓延により、カルーサ族の人口は17世紀末には約2000人まで減少し、銃によって武装したほかの先住民による攻撃にさらされるようになった。]

18世紀末までにカルーサ族の王国は崩壊し、生き残った人々はフロリダキーズ諸島やキューバに逃れた。

大規模な労働力
 米ジョージア大学のビクター・トンプソン氏らは、カルーサ族についての謎を解くため、フロリダ州エステロ湾にある島、マウンドキーで発掘調査を進めている。

 今回の新たな研究は、カルーサ族の人々が「大きな構造物を建築したり、その指示をしたりする能力と、膨大な労働力」をもっていたことを示している。

 発掘チームは、マウンドキーに残された柱穴と基礎溝に基づいて王の住居の構造を推測した。彼らは、この住居がマウンドキーの頂上にあたる「マウンド1」と呼ばれる場所いっぱいに広がっていたと考えている。やや卵形をした構造物の奥行は約25メートル、幅は約20メートルで、約150本の木の柱によって支えられていたという。

 すり減ったハマグリの貝殻もいくつか見つかった。これは、柱が長持ちするように樹皮をはぐ道具だったと考えられる。発掘の際に見つかった小さな木片からは、この建物が、フロリダ本土から舟で運ばれてきたマツの木で造られていたことがわかる。

「彼らは大きな材料を運んできて、大きな建物を造りました。つまり大規模な労働力をもっていたことを意味しています」と、トンプソン氏は言う。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 1500年前の捕鯨の岩絵、チリのアタカマ砂漠で ⨂⨁

乾いた高地で見つかったクジラの絵、当時の生活を浮き彫りに

 いかだに乗り、銛で大きなクジラを突く。世界有数の乾燥した地域、南米チリのアタカマ砂漠で暮らしていた1500年前の狩猟採集民にとっては、歓迎すべき出来事だったろう。

 そんな古代の漁の様子が、酸化鉄で描かれた鮮やかな赤色の岩絵に残されていた。そこにはクジラだけでなく、カジキやアシカ、サメなども描かれていると、フランス、パリ第1大学の考古学者ベンジャミン・バジェステル氏は説明する。

 同氏は、当時の狩猟採集民にとって海での狩猟がいかに大切であったか、またそのことを岩絵がいかにして伝えているかを調査、考古学の専門誌「Antiquity」に発表した。

最初の発見
 チリのこの地域で学者が初めて岩絵を発見したのは、20世紀初頭のこと。海と砂漠に挟まれた「エル・メダノ」と呼ばれる谷にある岩絵が文献に記録された。それまで1000年以上もの間、この岩絵の存在を知るのは、地元パポソ村の住人だけだった。

 今回の論文が扱っている岩絵は主に、エル・メダノの数キロ北にある「イスクーニャ」という遺跡で発見されたものだが、一般に「エル・メダノ美術」と呼ばれる時代のものだ。

新たな岩絵
 イスクーニャ峡谷では、24個の岩で328点の絵が新たに発見された。多くは劣化しているが、残った絵から、これらがほかのエル・メダノ美術と同時代のものであることが確認された。
 最も多く描かれているのは、大きな海洋生物のシルエットだ。いかだと道具を使った漁の場面を表したものもある。陸の動物の絵もあるが、このような海の生物が描かれた岩絵の方が貴重だ。                     

参考資料: 先住民と入植者の協力示す壁画を発見、カリブの島 =前節=

先住民の絵と十字架やラテン語が共存、出会った16世紀頃の様子物語る

 プエルトリコの西66キロにポツンと浮かぶカリブ海の孤島。石灰岩からなる島の洞窟の懐深くで、考古学者の一団が壁一面に文字や絵が描かれた見事な地下画廊を次々に発見した。描いたのは島の先住民とヨーロッパからやってきた初期の入植者たちとみられ、全く異なるふたつの世界観が初めてこの島で出会った当時の様子もうかがわせる。この調査結果は、7月19日付で考古学専門誌「Antiquity」に発表された。

 面積わずか49.2平方キロのモナ島には、約200個の洞窟がある。調査団はそのうち70個を調査し、先住民の遺した壁画は20個以上の洞窟で発見した。

 島には現在住む人はなく、自然保護区に指定されている。島内で恒常的に淡水を得ることができる場所は、洞窟の中だけだ。専門家は、生命を支える水資源がある場所と、壁一面に描かれた壁画には明らかな関連性があるとみる。

先住民の霊的信仰示すモチーフ
 幻想的な曲線や直線、模様は、壁や天井の柔らかい表面を爪で削って描かれている。「指で描かれたこれらのモチーフは、先住民たちの霊的信仰を反映しています」と、ロンドンにある大英博物館の学芸員ジャゴ・クーパー氏は言う。アメリカ大陸を専門とするクーパー氏の研究の一部は、ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けている。 ・・・・・・明日に続く

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= カホキアの失われた都市|神話の物語 =

https://youtu.be/HypZvynfVGM 

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(7/9); 歴史深層(046)

2022-10-03 05:35:38 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月03日<ⰧⰊⰧ

☆★ 遭難のモールス信号・・・― ― ― ・・・としてせんないが おおさわぎする そうどう 略して「SOS」を制定(1906年)。これが、日本が世界に誇る涼宮ハルヒシリーズ誕生の遠因となる。☆★ 東京オリンピック開会を前に日本武道の聖地が竣功(1964年)。しかし、半世紀以上経った今ではミュージシャンの聖地と化すことに。本年は非難轟轟の自民党の聖地と化す。☆★ ドイツの東半分とベルリンの東半分を支配していたソビエトの犬がご臨終(1990年)。ドイツがやっと再度一つになったものの、東西を隔てた様々な格差は統一から40年近く経っても悩みの種。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =7/9= ◆◇

== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==

1566年2月、玉座に腰掛けていたアメリカ先住民カルーサ族の王カーラスは、奇妙な人々の行列が自分の住居に向かってくるのを見た。

スペイン人の提督ペドロ・メネンデス・デ・アビレスは、200人の兵士、太鼓や笛の奏者、歌い踊る道化師を集め、銃の火縄に火をつけ、聖書の文字を掲げながら、フロリダの人工島マウンドキーを登っていった。当時、南フロリダの広い範囲を統治していたカーラス王を威圧するためだ。

このほど考古学者たちは、スペイン人とカーラス王の会見が開かれた建物の痕跡を初めて発見した。王の住居の復元図は、それがスペイン人の宣教師たちが残した記録どおり、2000人を収容できる目をみはるような建物だったことを示している。

 考古学の学術誌『Journal of Anthropological Archaeology』オンライン版で6月1日に報告された王の住居の発見は、カルーサ族の暮らしについて新たな洞察をもたらすものだ。カルーサ族は、人類学の通説に反して、農業を基盤とせずに複雑な社会を形成したことで知られる。

論文の共著者で、米フロリダ自然史博物館の南フロリダ考古学・民族誌学の学芸員であるウィリアム・マーカート氏は、「カルーサ族のように漁労・採集・狩猟生活を送り、複雑な社会を形成した例は非常に珍しく、以前から魅力的な研究対象でした」と言う。

海辺の強大な王国
 かつて、複雑な社会をもつ集団は、ほとんどが農業を基礎にしていた。人口と労働力を維持できるだけの食料を生産するためだ。しかしカルーサ族を支えていたのは、沿岸、河口、マングローブでの、ボラ、サメ、ウミガメ、貝などの漁だった(つい最近も、フロリダ沿岸で7000年前のアメリカ先住民の埋葬地が発見されている)。

 彼らは主に海産物を食べ、不足分はシカや鳥などで補っていた。野生の植物も採集したが、小さな家庭菜園でチリペッパー、パパイヤ、ヒョウタンを育てる以外の畑作をすることはなかった。

 それにもかかわらず、16世紀のカルーサ族の文化は、聖職者、軍隊、網の目のように張りめぐらされた運河、広がる通商路、各地の村に住む2万人以上から貢物を集める王など、農耕社会に近い特徴を備えていた。マウンドキーはカルーサ族の人々がカキとハマグリの貝殻を積み上げて作った巨大な人工島で、いちばん高い場所には王の立派な住居があった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 北米最大の先史都市カホキアの謎に新事実 ⨂⨁

ミシシッピ川の大洪水との連動が最新の研究で明らかに

現在の米国イリノイ州でかつて栄えた先史都市カホキア。高さ30メートルにもなる謎の遺跡「モンクス・マウンド」を築くほど繁栄したものの、大集落はおよそ300年で姿を消した。早すぎる滅亡の背景には一体何があったのか、長い間研究者らの論争の的になっていた。しかし、最新の調査で行われた堆積物コア分析によって、カホキアの盛衰がミシシッピ川の大洪水と連動していたことが明らかになった。]

 考古学データによると、最初に農耕集落がこの地に現れたのは西暦400年頃のことだった。西暦1050年頃には、カホキアは隆盛期を迎え、人口数万人規模の政治的、文化的中心地となっていた。ところが、そのわずか3世紀後の1350年には、カホキアは姿を消してしまう。

 彼らがどのような運命をたどったのか。その謎を探るべく、ウィスコンシン大学マディソン校の地理学者サミュエル・ムニョス氏とジャック・ウィリアムズ氏率いる研究チームは、カホキアがあった場所に程近い三日月湖ホースシューレイクで堆積物サンプルを採集、分析した。その結果、この地域は過去2000年の間に8回の洪水に見舞われていたことが分かった。
 研究者らは、洪水の規模と頻度の変化と、考古学的な証拠から得られたカホキアの全歴史における人口、土地利用、定住集落の変遷のタイミングが一致していることを発見した。

 洪水が長いこと起こらなかった期間が西暦600年前後から始まり、その頃から、ミシシッピ川の氾濫原より外側の高い場所にあった定住集落が低い氾濫原に移動してきた。そこでは農耕が集中して行われ、人口も増加し始めた。やがて、カホキアは米国先史時代最大の都市として栄えていった。                       

では、なぜ都市は滅亡してしまったのだろうか。これまで、干ばつ、資源の過剰搾取、人間同士の争いなどが原因に挙げられてきたが、ホースシュー湖の堆積物を分析した過去の調査では、西暦1200年ごろにこの地域で大規模な洪水があったらしきことが報告されていた。

 今回、ムニョス氏の研究チームは、ホースシュー湖からさらに190キロ下流域にある別の三日月湖の堆積物も分析したところ、ここでも同時期の壊滅的な洪水の跡が確認された。ミシシッピ川の水位は10メートル以上も上昇し、それから150年以内にカホキアが完全にうち棄てられる要因となったものだ。

 この研究には、ナショナル ジオグラフィック協会のヤング・エクスプローラーズ・グラントの資金も提供されている。ムニョス氏は、こうした発見を聞いて、考古学者たちが今後、先史時代の洪水の記録を使うようになってくれればと願っている。「考古地理学を従来の考古学に取り入れることはお互いにとって望ましいことです」
文=Kristin Romey/訳=ルーバー荒井ハンナ

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= Cahokia Mounds: Ancient Metropolis (1994) Documentary =

https://youtu.be/QYZ_FfqXEI0 

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(6/9); 歴史深層(045)

2022-10-02 05:35:55 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月02日<ⰧⰊⰧ

☆★ かつて一世を風靡した「でつ」の誕生日。&so、ayuのお誕生日でもある。誕生花の花言葉は「乙女のはにかみ」「逆境と繁栄」「野性的な美しさ」……高須の作品であるあゆみさん? ごまかしてるでしょう? 誕生日も。☆★ 「戦争をするくらいなら部屋にこもってオナニーをすべき」と説いたマハトマ・ガンディーが生まれる(1869年)。よって、今日をこの日を“国際非暴力デー”と国連決議。☆★ 日本における理系の優遇が決定的になる(1943年)。文科系学生の徴兵猶予を全面停止(学徒出陣)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

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 =キャッチコピー=記載後消去……

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =6/9= ◆◇

== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==

    カホキア研究を主導し、ランキン氏の指導にもあたっているイリノイ大学のティム・ポーケタット氏も、文化による世界観の違いをもっと重く受けとめるべきだという意見に賛同する。「使いすぎたとか、失敗したというのは、西洋的な考え方です。西洋的な考え方から離れて、彼らがそれとは違う形で環境に触れていたことを尊重するのです」

 そう考えると、カホキア滅亡の裏には複雑な理由があった可能性が高い。米セントルイス・ワシントン大学の人類学者で、ランキン氏の論文を査読したトリストラム・キッダー氏は、「人間は、すべてを説明できる一つの原因を求めがちです。そのほうが、問題を簡単に解決できるように思えるからです」と言う。

 単純化とは、カホキア人が木を切ることをやめれば、すべてがうまくいっていたかもしれない、というような考え方だ。現在の例に当てはめれば、私たちが電気自動車に乗り換えさえすれば、すべてがうまくいくようになるかもしれない、ということになる。しかしキッダー氏は、現実ははるかに複雑で、その複雑さと向き合うことが必要だと言う。

 1993年に過剰伐採説を提唱した考古学者の一人で、現在はミズーリ州立大学に在籍するロピノット氏は、ランキン氏の研究を歓迎している。当時の仮説は、カホキアの謎を合理的に説明する試みの一つでしかなかったという。

 ロピノット氏はこう述べる。「カホキアは一夜にして衰退したのではなく、ゆっくりと滅びていったのです。人々が去っていった理由はわかりません。政治的な権力争いや戦争、あるいは干ばつや疫病かもしれません。まったくわからないのです」

 しかし、手がかりはある。末期のカホキア人は、町の中心部を囲うように防御柵を建てていた。つまり町の内部で争いが起こっていた可能性がある。さらに、この地域で大規模な干ばつが起き、食料生産が難しくなった可能性を示す予備的なデータもある。だが、こういった手がかりは、さらに詳しい調査が必要なものばかりだ。

 ランキン氏は、「物理学では、環境を整えて実験すれば、探していた答えを得ることができます。しかし、考古学ではそうはいきません」と話す。考古学では、現場に出かけていって発掘を行わなければ、何も見つけることはできない。

次回は“カルーサ王国の巨大住居跡を発見、記録と一致”に続く

⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化、カホキアは洪水で衰退(2/2) ⨂⨁

花粉の分析からわかる農耕文化の盛衰
 今回の研究では、ホースシュー湖の堆積物コアから見つかった花粉沈殿物の分析から、農耕の隆盛と、それに伴う急速な森林伐採の状況が判明した。この地の農耕は西暦450年前後に始まり、900年から1200年にかけてトウモロコシの栽培がピークに達する。

堆積物コアの分析によると、その後に問題の大洪水が発生し、そこから先はトウモロコシの栽培が衰退していくという。花粉記録によると、1350年までに、この地では農業がほぼ行われなくなっていたようだ。

 花粉記録の研究を専門とする地理学者のムニョス氏は、ミシシッピ文化が栄えた北米の南東地域について、花粉記録に関する研究が非常に少ない点に着目したという。「さらに、大きな考古学遺跡の周辺地域については、ほとんど過去の研究がない状態だった」と同氏は指摘する。

そこでカホキアに近いホースシュー湖の存在を知り、ここは調査してみる価値があると考えたとのことだ。

「こうした氾濫原にある湖は長い間、こうした花粉記録の調査箇所としては見逃されてきたが、非常に大きな価値を持つ可能性がある」とムニョス氏は述べている。同氏の研究は、ナショナル ジオグラフィック協会の助成金を受けて実施されている。

 しかし、カホキア衰退の謎に関するこれほど大きな手がかりを得られるとは、ムニョス氏にとっても予想外のことだったという。「自分たちが見ているものが洪水の痕跡で、しかもその発生時期がちょうどカホキアにとって重要な時期にぴったり合致することがわかったときには、胸が躍った」と、同氏も発見時の驚きを語っている。

 この研究は、米国時間2013年10月27~30日にコロラド州デンバーで開催されたアメリカ地質学会(GSA)の年次総会で30日に発表された。Photograph by Ira Block, National Geographic

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= Cahokia - City of the Sun =

https://youtu.be/GAXBA2Pt9wE 

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(5/9); 歴史深層(044)

2022-10-01 05:35:01 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月01日<ⰧⰊⰧ

☆★ 中国・北京は天安門にて、毛沢東が中国の支配者であることを内外に宣言(1949年)。しかし、蒋介石の一党は台湾始め沖合の島々で相変わらず悪あがきを続け、チベットは未だダライ・ラマの統治下にあるが……翌年の1950年 - 毛沢東暗殺陰謀事件発生は公然の㊙。☆★ 五輪目当てで東海道新幹線が開業(1964年)。前評判に反して結構売れたため、調子に乗って4年後に特急の大盤振る舞いをやらかす。&so、その丁度33年後には、五輪目当てで北陸新幹線が長野経由で開業(1997年)。二匹目のドジョウが当たると思ったのだろうか?☆★ 恐怖の消費税の税率がついに2ケタに。しかし一部の商品やサービスは税率が据え置かれて、消費者ばかりか売り手も経理担当者もフリーランスも右を左の大騒ぎ(2019年)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =5/9= ◆◇

    調査したマウンドがあったのは川のそばの低地で、過剰伐採説が正しければ洪水が起きていたはずの場所だ。しかし、マウンドがあった場所の土壌で洪水による堆積物は見つからず、カホキアの繁栄期を通じて安定していたことがわかった。

 その結果を受けて、ランキン氏はこの過剰伐採説だけでなく、カホキアが環境の変化によって滅亡したという前提そのものを疑うようになった。資源の枯渇と環境の悪化によって社会が滅びるという考え方は、ここ半世紀ほどで説得力のある説として頻繁に使われるようになり、ときに環境および生態系の破壊を意味する造語「エコサイド」とも呼ばれている。

 エコサイド説がよく用いられるのは、私たちは過去の文明が環境の変化で滅亡したことを目撃し、現在の文明でも起きつつあると恐れているからだ。実際にそうであったかどうかにはよらず、過去の問題をすべて環境危機によるものと見てしまう傾向があると、ランキン氏は言う。

   「ヨーロッパ人がやってくる前に北米に住んでいた人々は、放牧や集約的な耕作はしていませんでした。私たちは、彼らの農業システムを西洋的の視点で見てしまいます。しかし、考慮しなければならないのは、先住民的な視点や慣習なのです」

自然の資源をむさぼる文化だったのか?
 人類学では、カホキアはミシシッピ文化に分類される。ミシシッピ文化とは、紀元800年から1500年ごろにかけて、現在の米国の南東部に広がっていた農業文化だ。トウモロコシなどの作物を育て、土を積み上げたマウンドを作り、ある時点でカホキアに人が集まるようになった。政治、宗教、経済といった理由が考えられるものの、町が誕生した理由は明らかではない。だが、彼らが個人の利益のために自然の資源をむさぼっていたとは考えにくい。

 カホキア人がたくさんの木を切ったのは事実だろう。砦と考えられているものを建てるために、たくさんの木が使われていた。しかしヨーロッパ系の米国人たちのように、持続不可能となるような伐採をしていたとは限らない。

  「バイソンに何が起こったかを考えてみてください」とランキン氏は言う。平原で暮らしていた北米の先住民たちは、ウシ科の動物バイソンを持続可能な程度に狩っていた。しかし、「ヨーロッパ人がやってきて、すべて撃ち殺してしまいました。できる限りのものを搾取するというのが、西洋の資源に対する考え方です。先住民の文化は、それとはまったく違うのです」

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料:シシッピ文化、カホキアは洪水で衰退(1/2) ⨂⨁

    約1000年前、現在のイリノイ州セントルイス近郊にあたるミシシッピ川の氾濫原に、北アメリカ先住民の人々が住む大集落が忽然と現れた。今ではカホキアという名で知られるこの集落は、誕生から300年後には、ほぼ廃墟と化した。カホキアの突然の登場とその後の急激な衰退の理由は、北米大陸の先史時代に関する最大の謎の1つとなっている。しかし新た研究により、集落の衰退の原因について、1つの可能性が浮上してきた。それは大洪水の発生だ。

 これはウィスコンシン大学マディソン校の博士課程に在籍する学生、サミュエル・E・ムニョス(Samuel E. Munoz)氏が率いる研究チームの発表で明らかになったものだ。同チームは、カホキアの近くにある湖の堆積物コアを分析し、西暦1200年前後にこの地域で破壊的な規模の洪水が発生したことを明らかにした。これはちょうど、カホキアの集落が、人口と繁栄の両面でピークにあった時期だ。

 ムニョス氏のチームは、約1700年前にミシシッピ川の本流から切り離された三日月湖であるホースシュー湖の堆積物コアを分析した。その結果、はるか昔の大洪水によりもたらされたとみられる、厚さ19センチのシルト質粘土の層が見つかった。

 このときに発生した洪水の水位が、カホキアの中心部にある最大のマウンドを浸水させるほどの高さに達したとは考えにくい。このマウンドは今ではモンクス・マウンドと呼ばれ、現代の建物に換算すると10階相当(約30メートル)の高さを持つ。しかし、これほど大規模な洪水であれば、農地や居住エリアに壊滅的な打撃を与えたはずであり、これにより最盛期には1万5000人に達したとみられる住民が、この地に住み続けられなくなった可能性もある。

    この大洪水が、カホキアの衰退と放棄の引き金になったのか、それとも衰退を加速する一要素にすぎなかったのかという問題は、今後の研究に委ねられる。しかし、これまでにはっきりしていることがある。洪水の発生から150年以内に、メキシコより北の北米地域では最大の先史集落だったカホキアはゴーストタウンと化し、その後ヨーロッパからやってきた入植者が、無人の巨大マウンド群を見て首をひねることになるのだ。

    大洪水の発生は、カホキアの来歴に関する新たな問題提起だが、今回の研究チームが提示したその他のデータは、カホキア、そしてこの遺跡が属するミシシッピ文化の歴史に関する考古学界の既存の説とも整合性のあるものだ。  ・・・・・・明日に続く

⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡

= Illinois Adventure #1308 "Cahokia Mounds" =

https://youtu.be/fiwzbdNH_bE 

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(4/9); 歴史深層(043)

2022-09-30 05:35:28 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月30日<ⰧⰊⰧ

☆★ くるみの日。頭の固い百科事典によると「く(9)るみ(3)まるい(0)」の語呂合わせだそうだが、0にはかなりのこじつけ臭が・・・。クレーンの日にしてHAPPY FM93の日とくればどうでもいい。☆★ 『フジ三太郎』がこの日を限りに定年退職(1991年)。翌日からいしいひさいちが朝日新聞朝刊の4コマ漫画を担当し始めるが、既に30年近くもの長期連載になるとは・・・。☆★ 日本版ニョンビョンのとある核施設で、放射性物質をバケツリレーして大量被曝(1999年=東海村JCO臨界事故発生)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

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◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =4/9= ◆◇

 世界遺産にも登録されている米国の古代都市カホキア。今から1000年ほど前、現在の米国イリノイ州にあるこの町は、メキシコより北の北米大陸で最大の人口を誇るまでに急成長した。そこで暮らす人々は、町の中だけで1万5000人、周辺部も入れるとその倍ほどだったと考えられている。しかし、わずか数百年後には人口が減りはじめ、1400年ごろには誰も住まない場所になってしまった。

 ミシシッピ川の氾濫原にあったこの古代都市で多くのマウンド(墳丘)が見かってから、考古学者たちはその謎に挑み続けてきた。マウンドの中でも10階相当の高さを持つモンクス・マウンドはじつに1867年まで、米国で一番高い人工物であり続けた。しかし、カホキアがどのように誕生し、どうやって急成長を遂げたのか、そしてなぜ人がいなくなり廃墟と化したのかは、まだわかっていない。仮説はたくさんあるが、データは乏しいからだ。

 しかし今回、カホキア滅亡の仮説の一つが除外されそうだ。その仮説とは、過剰な伐採によって洪水が起き、町に住めなくなったというものだ。米イリノイ大学の地質考古学者、ケイトリン・ランキン氏は先日、学術誌「Geoarchaeology」に掲載された研究を通して、伐採説は誤りであると述べるだけでなく、カホキアが環境破壊を引き起こしたため滅亡したという前提そのものに疑問を投げかけている。

 ランキン氏はこう述べる。「ヨーロッパ人がやってくる前、カホキアは北米で一番人口密度が高い場所でした。人口が多いことは問題だと考えがちですが、必ずしもそうとは限りません。重要なのは、資源をどのように管理し利用するかなのです」

頻繁な洪水はなかった
 1993年、南イリノイ大学エドワーズ校の研究者、ニール・ロピノット氏とウィリアム・ウッズ氏が、カホキアは環境の悪化によって滅びたという仮説を提唱した。カホキア人が町の東側にあった高地で伐採を行ったため、浸食や洪水が起き、収穫が減少したり居住地が浸水したりしたという説だ。

 たくさんの木が切られたことは明らかなので、この「過剰伐採説」には説得力があった。ほとんどの考古学者たちは、それがカホキア滅亡の引き金になったか、その可能性が高いと考えた。ただ、その検証はほとんど行われなかった。

 しかし2017年、当時セントルイス・ワシントン大学の大学院生だったランキン氏がカホキアのマウンドの近くで発掘を行い、洪水に関連する環境の変化について検証すると、思わぬ事実が明らかになった。過剰伐採説から考えられるような頻繁な洪水はなかったという明確な証拠が得られたのだ。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化(4/4) ⨂⨁

知られているミシシッピ文化の首長制国家―その2―
エトワー:別の主要ミシシッピ文化の首長制国家。ジョージア州にあり、マウンドビル政体の長い敵対者であると信じる者もいる。
ジョアラ(en:Joara):ヨーロッパ人が接触したときのノースカロライナ州で最大の首長制国家。最も北東のミシシッピ文化の首長制国家群の「首都」であった可能性もある。
キンケイド・マウンズ州立歴史史跡(en:Kincaid Mounds State Historic Site):ケンタッキー州パデューカからオハイオ川を渡った所。主要なミシシッピ文化の祭祀センター
オクマルギー国立史跡(en:Ocmulgee National Monument):オクマルギーはミシシッピ文化の首長制国家であり、この場所は後の有史時代にクリーク族インディアンに使われた。
マウンドヴィル:カホキアと並び、古典的ミシシッピ文化の中核となる最も重要な2つの遺跡の一つ。アラバマ州タスカルーサ近くにある。
ノデナ遺跡(The Nodena Site):ノデナは1400年頃から1700年頃の後期ミシシッピ文化の重要な要素、ノデナ期[7]の典型的な遺跡。
パーキン遺跡(The Parkin Site)
ミズーリ州セントルイス:主要なミシシッピ文化の祭祀センター。現在はほとんど全部が破壊されているが、セントルイスの中心街にかつてマウンド群があったため、セントルイスは「マウンドの市」という渾名がある。
スパイロ・マウンド(en:Spiro Mounds):ミシシッピ文化で最も考古学的な研究が進んだ祭祀センターの一つ。オクラホマ州東部にある。
タウンクリーク・インディアンマウンド(en:Town Creek Indian Mound):ノースカロライナ州のミシシッピ文化の首長制国家。一般に歴史的ピーディー族のものとされる。
ウィクリフマウンド(en:Wickliffe mounds):ケンタッキー州西部の首長制国家
ウィンタービル遺跡(en:Winterville Site):ミシシッピ文化ウィンタービル期の典型的な遺跡

関連する現代の種族
ミシシッピ人は有史時代にこの地域に住んだ多数のインディアンの先祖である可能性が高い。広義でのミシシッピ文化の担い手であったと信じられている歴史上の、また現代のインディアンは、あまりにも多いが強いてあげると、アラバマ族、アパラチー族、カド族、チェロキー族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、グアレ族、ヒチティ族、ホウマ族、イリノイ族、カンザ族、マイアミ族、ミズーリ族、モビリアン族、ナチェズ族、オーセージ族、クオポー族、セミノール族、ショーニー族、ティムクア族、チュニカ・ビロクシー族、ヤマシー族およびユチ族である。

⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡

= Cahokia Mounds 世界遺産 北アメリカ最大遺跡 カホキア =

https://youtu.be/fiwzbdNH_bE  

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アネリカ先住民がが築いた大都市=カホキア=(3/9); 歴史深層(042)

2022-09-29 05:35:26 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月29日<ⰧⰊⰧ

☆★ 2日前に一堂に会した昭和天皇と真っ赤っ赤元帥が並んだ写真が新聞に掲載(1945年)。天皇が小男の様に写っているのは畏れ多いと内務大臣が仰天し時の内閣が崩壊する端緒に。☆★ 乗っ取った日航機を質に日本政府を脅して仲間9人を釈放せしめる。(1977年=ダッカ日航機ハイジャック事件)。☆★ 下関駅にて列車に乗り遅れると焦った某氏が、自動車で7人を撥ねて改札口にエクストリーム・特攻(1999年=下関通り魔殺人事件)。

本日記載附録(ブログ)

カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。

ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。

防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =3/9= ◆◇

高くそびえる墳丘
 カホキアにはかつて120基もの墳丘がそびえていた。現在はそのうちの80基が保存され、カホキア墳丘群州立史跡の一部となっている。この都市では、広場、家、公共の建物、墳丘、そしてそれらをつなぐインフラが、すべて太陽と月の動きに合わせた格子上に配置されていた。

 墳丘は、カホキアの文化においてさまざまな目的を持っていたことが明らかになっている。考古学者は、墳丘をその構造に基づいてフラットトップ(上部が平面)、ラウンドトップ(上部が丸みを帯びている)、リッジトップ(上部が平面でない)の3つに分類している。フラットトップの墳丘は通常、上部に何らかの建物があり、ラウンドトップの墳丘は埋葬用だった。リッジトップの墳丘は、一部には埋葬に使われているものもあるが、「方向を示す」役割を持つものと分類されている。

 最大の墳丘であるモンクス・マウンドは、広さ約5万7000平方メートル、高さは約30メートルある。いちばん高い段の上にはかつて、族長または神官の住居、あるいは儀式の場と見られる構造物があった。モンクス・マウンドの建設には約62万立方メートル分の土が必要だったと考えられている。土は近隣で石器を使って掘り出され、かごに入れて運ばれた。

謎の衰退
 最盛期には1万5000人がカホキアに住んでいたとされるが、1400年にはすでに閑散としていた。カホキアの消滅は、おそらくはその出現よりもさらに大きな謎と言えるだろう。周辺のかなりの部分からも住人がいなくなったことから、この時期の一帯は「Vacant Quarter(無人の地)」と呼ばれている。

 歴史家によると、カホキアの都市は気候がとりわけ良好な時期に繁栄を極め、縮小が始まったのは、気候が以前よりも寒冷で乾燥し、予測がしづらくなったころだという。定期的な作物の収穫に頼っていた農業コミュニティにとって、こうした状況の変化は単なるストレスにとどまらず、壊滅的な影響を与えた可能性もある。

 1175年から1275年の間に、カホキアの住人は都市を取り囲むように防御柵を築いた(数回にわたり再建もしている)。これは争いや争いの脅威が日常の一部となっていたことを示している。また、人口の密集が引き起こす公害や病気、資源の枯渇などの環境問題によって、これまで多くの社会が崩壊してきた。

 カホキア崩壊の最も有力な説のひとつは、いわゆる森林破壊仮説と呼ばれるものだ。1993年、南イリノイ大学エドワーズビル校の研究者らは、カホキアの衰退は防御柵などの建造のために大量の木を切り倒したことによるものではないかという仮説を提唱した。木が少なくなれば、浸食が進み、洪水が起こり、収穫が減る。彼らの仮説は、カホキア研究者の間で広く受け入れられた。

 2021年春、地質考古学者のケイトリン・ランキン氏がこの考えを覆した。ランキン氏は学術誌「Geoarchaeology」に研究を発表し、森林伐採や洪水が都市滅亡の原因になったとする説を否定した。ランキン氏が行った発掘調査からは、カホキアの時代に洪水が起こった痕跡は見つからなかったという。

 学者たちはさまざまな説を検討しており、異なるグループ間の争いが増えて都市の衰退を招いたのではないか、あるいは、一帯で大規模な干ばつが起こったために、カホキアの人々がより肥沃な土地を求めて都市を離れたのではないかといった意見が出されている。
文=EDITORS OF NATIONAL GEOGRAPHIC/訳=北村京子

・・・・・・“ なぜ衰退? 「過剰な伐採」説を否定 ”に続く・・・

⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化(3/4) ⨂⨁

ヨーロッパ人との接触
デ・ソト遠征隊の崩壊と逃亡の後、ミシシッピ人はほとんどヨーロッパの直接影響がないままにその生活様式を続けた。しかし間接的にヨーロッパ人がもたらしたものが、ミシシッピ文化の様相を変えた。旧大陸の疫病が多くの首長制国家の社会秩序を衰弱させ、一方ある集団ではヨーロッパの馬を採用して遊牧民に変化した。多くの場所で政治構造が崩壊した。文書による証拠が残された時までに、ミシシッピ人の生活様式は決定的に変化してしまった。

ある集団ではマウンドを造っていた時代に遡る口承を維持した(例えば19世紀遅くのチェロキー族)ものの、他のインディアン集団は何百マイルも移動し、その間に年長者が病気で死に、先祖たちが各地に点在するマウンドを築いたことを忘れてしまった。

19世紀までの間に、ヨーロッパ人たちはミシシッピ川流域各地でマウンドを発見したが、その地のインディアンたちがマウンドを築く習慣を持たず、マウンドを作った者たちについての正体も知らなかったことから、「マウンドビルダー[5]」という謎の民族がいたという仮説が生まれた。

その正体は海を渡ったヴァイキング・ギリシャ人・中国人などと推定されたが、中にはイスラエルの失われた10支族や未知の超古代文明によるものではないか、という説を大真面目に検討した者もいた。この怪しげな説は1894年、サイラス・トーマスが考古学的調査の結果から、マウンドビルダーはアメリカ・インディアンの祖先であることを明らかにしたことで過去のものと化した。

知られているミシシッピ文化の首長制国家―その1―
ミシシッピ文化は政治的な地図を完全に理解して書き残される前にかなりの程度崩壊したが、多くのミシシッピ文化の政体は今でも知られている。これらを下記に示す。

  • エンジェル・マウンド(en:Angel Mounds):インディアナ州南部にあった首長制国家
  • アズトラン州立公園(en:Aztalan State Park):ウィスコンシン州にある小さなミシシッピ文化部族。大きなミシシッピ文化の北端。
  • カド:有史および現代のカドー族インディアンは少なくとも一つのミシシッピ文化の首長制国家から派生したと知られており、現在のルイジアナ州ナチトチェスとテキサス州ナコグドチェスに主要な首長制国家の祭祀センターがあった。
  • カホキア:イリノイ州コリンズビル(英語版)(イーストセントルイス近く)にあった、12世紀から13世紀頃の政治・宗教の中心地。カホキアはおそらく最初の、そして確実に最大で最も影響力あるミシシッピ文化の祭祀センターであった。世界遺産に登録されている。
  • イリノイ州イーストセントルイス:カホキアの西、ミシシッピ州セントルイスの東にあったこの祭祀センターは現在のイーストセントルイスにあたり、一部は市道の下にまた裏庭に保存されている。
    ・・・・・・明日に続く

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=Cahokia - Burial Mound 72 =

https://youtu.be/qC9-JWzq-Cs  

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

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