地図を見て頂こう。 ユウラシア大陸である。 中央にタクラマカン砂漠、その左がパミール高原がある。 中央の白い部分はヒマラヤ山脈・カラコルム山脈・チベット高原である。 【天山山脈 北部の旅】は地図上の中央部に記した範囲である。 後編はその左半分の旅程。 ”草原の道”の核心部分である。 東西交易は草原の道から始まった

ウルムチの混乱を逃れ、半年前に南下した高速道を北上して米泉・阜康と快適にジュンガール砂漠へ向う。 ウルムチから砂漠までの緑草地帯は清朝以来屯田兵(漢族)が遊牧民を追放して耕作地に変えて行った地帯だ。 それは 現代までも続いている。 各地に広がる兵団農場がそれだ。 よって 事あるたびに遊牧民と農耕(侵略)民との摩擦が発生する。 高速道の最終地点が”幸福路口”*路口とは中国語で交差点の意*とは皮肉であった。 ”幸福路口”から公道216号線が一気にアルタイ山麓に直進している。 途中に温泉があり、前編で記述した。 その温泉場で遅い昼の食事をした。 食道棟に入っていくと、また 同じ日本人が来たと怪訝な顔つきで歓迎した。 さもありナン、この場を使うのは漢族高級役人か 所轄の管理役人位しかいないのだから。
単調な道である。 前方にあるアルタイ山脈が山陰は 何時までも そのままで地平にある。 無理は無い 温泉(五彩湾)から山麓の街”富蘊”まで280kmあり、アルタイ市は更に西北に走ること250km余を強いられる。 東京から富士山麓まで直線的に走っているのだ、しかも 視界は荒漠たる砂漠。 起伏もなければ、何も無い。 そう 一軒の食堂さえも見つからぬ。 されば と 車に積み込んだビールとウイスキーでバーを開店、 愚妻呆れて ”あー ラクダが居る” 砂漠にラクダは当然と 小生 体が砂漠にならぬよう、水分補給 渇きを癒すに忙しい。
思考が停滞していく中で ふと思い出した。 ”まず その地域の歴史を知ることである”井上靖氏 *72歳で 西域南道はホータンから且末までの500km余を踏破*が言った言葉だ。 この地に歴史が・・・・・・・・紀元前7世紀、ギリシャの吟遊詩人アリストラアスがスキタイ*金装飾文化の担い手 騎馬の民 馬のハミを開発( 遊牧民族の機動性を飛躍させた)*の要路をウラル山脈南部より”草原の道”に入り、この地を放浪したとヘロドレスの”歴史”に記されている。 更に古く 紀元前1200年頃 メソポタニヤの青銅文化*中国 殷・商王朝に最盛期*が西より東に伝わり、また 紀元前2世紀 漢の武帝の命を受けた張騫がパミール・ルートを打開するまで モンゴリアを制圧した匈奴・鮮卑・柔然・回鶻 等の勃興に伴う民族の流動が東欧に民族移動を起こさせ、欧州の歴史を刻んでいった波動は この道があった故である と あまたの歴史書にある。 この地(上記の地図をご参照)は”草原の道” ユウラシア大陸は東西交易の大動脈であった。 ショウトカットの要路であった。 少なくとも 張騫がパミール越えを果たすまでの数百年間は。 この地には”サモアの巨像”の小型版”カイナール石像”が青銅器時代の墳墓遺構として散在する。 あれやこれやで 酔いが早く いや 車に酔ったのかな、ラクダどころではない。 狼は昼間は寝ているであろう。 小生も昼寝とするか
夕刻 富蘊に入る。 清水流れる小さな町であった。 キルギスの旅行を思い出した。

ウルムチの混乱を逃れ、半年前に南下した高速道を北上して米泉・阜康と快適にジュンガール砂漠へ向う。 ウルムチから砂漠までの緑草地帯は清朝以来屯田兵(漢族)が遊牧民を追放して耕作地に変えて行った地帯だ。 それは 現代までも続いている。 各地に広がる兵団農場がそれだ。 よって 事あるたびに遊牧民と農耕(侵略)民との摩擦が発生する。 高速道の最終地点が”幸福路口”*路口とは中国語で交差点の意*とは皮肉であった。 ”幸福路口”から公道216号線が一気にアルタイ山麓に直進している。 途中に温泉があり、前編で記述した。 その温泉場で遅い昼の食事をした。 食道棟に入っていくと、また 同じ日本人が来たと怪訝な顔つきで歓迎した。 さもありナン、この場を使うのは漢族高級役人か 所轄の管理役人位しかいないのだから。
単調な道である。 前方にあるアルタイ山脈が山陰は 何時までも そのままで地平にある。 無理は無い 温泉(五彩湾)から山麓の街”富蘊”まで280kmあり、アルタイ市は更に西北に走ること250km余を強いられる。 東京から富士山麓まで直線的に走っているのだ、しかも 視界は荒漠たる砂漠。 起伏もなければ、何も無い。 そう 一軒の食堂さえも見つからぬ。 されば と 車に積み込んだビールとウイスキーでバーを開店、 愚妻呆れて ”あー ラクダが居る” 砂漠にラクダは当然と 小生 体が砂漠にならぬよう、水分補給 渇きを癒すに忙しい。
思考が停滞していく中で ふと思い出した。 ”まず その地域の歴史を知ることである”井上靖氏 *72歳で 西域南道はホータンから且末までの500km余を踏破*が言った言葉だ。 この地に歴史が・・・・・・・・紀元前7世紀、ギリシャの吟遊詩人アリストラアスがスキタイ*金装飾文化の担い手 騎馬の民 馬のハミを開発( 遊牧民族の機動性を飛躍させた)*の要路をウラル山脈南部より”草原の道”に入り、この地を放浪したとヘロドレスの”歴史”に記されている。 更に古く 紀元前1200年頃 メソポタニヤの青銅文化*中国 殷・商王朝に最盛期*が西より東に伝わり、また 紀元前2世紀 漢の武帝の命を受けた張騫がパミール・ルートを打開するまで モンゴリアを制圧した匈奴・鮮卑・柔然・回鶻 等の勃興に伴う民族の流動が東欧に民族移動を起こさせ、欧州の歴史を刻んでいった波動は この道があった故である と あまたの歴史書にある。 この地(上記の地図をご参照)は”草原の道” ユウラシア大陸は東西交易の大動脈であった。 ショウトカットの要路であった。 少なくとも 張騫がパミール越えを果たすまでの数百年間は。 この地には”サモアの巨像”の小型版”カイナール石像”が青銅器時代の墳墓遺構として散在する。 あれやこれやで 酔いが早く いや 車に酔ったのかな、ラクダどころではない。 狼は昼間は寝ているであろう。 小生も昼寝とするか
夕刻 富蘊に入る。 清水流れる小さな町であった。 キルギスの旅行を思い出した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます