●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
2、 生物・化学兵器の種類と特性
生物兵器の種類・使用方法
微生物
微生物とは、通常細菌(または、ばい菌)と呼ばれているもので肉眼では見ることが出来ない微小な生物である。微生物の多くは植物体に類似し、植物界の一員ともみなすことができるが、原虫類のように動物の形態のものもある。微生物の種類と特性は次のようなものである。
(2)原虫類(例、マラリア原虫)①原虫類は単細胞生物で、動植物では最も小さい原始動物ある。②原虫は他の微生物に比べて構造、機能、運動、呼吸、増殖等が極めて複雑であり、自然界の表面には広く分布している。③原虫類の大きいものは肉眼で見られるが、病原性のものは通常1~15ミクロンである。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅰ
皇太子の知識、勤勉、学業についての小笠原の評価は、彼を直接知るほとんどすべての人間のそれと一致している。問題は小笠原が言う「猶ほ」と「同時に」であった。小笠原が皇太子は口演に優れ、「尚武の精神」を備えていると断言していないように取れるとすれば、(歴史学者田中宏巳が指摘するように)それは御学問所への批判に配慮してのことである。成年式の直前の3月末、『時事新聞』は、過保護で閉鎖的な御学問所という社会のせいで、皇太子はほとんど人前で話すことができず、軍人精神にも欠けていると報じたのである。元老山県と首相原敬の腹心である子爵三浦梧楼〔三浦は皇太子教育問題では山県と一致したが、もともとは反山県の立場である〕も、御学問所の現実離れした教育方針の改革を主張した。小笠原もほかの教師たちも、皇太子が内気で、会話に熱心でなく話しべたなことをよく知っていた。事実、のちに彼の侍従武官になる奈良武次は、皇太子の成長についての小笠原のこの公式発言のあと、5月8日の成年式に続いて行われた晩餐会での沈黙についてこう記している。
・・・殿下は唯拝謁を賜り御宴に着席遊ばされたるのみにて何にも御話し遊されず、何か御話し申上ても殆んど御応答なき状態なりし由にて、御宴後休息の際元来無遠慮の評判ある枢密顧問官三浦梧楼子爵は衆人稠座の中にて浜尾〔新〕東宮大夫に批難攻撃を加へ殿下の箱入り御教育の結集なりと大声叱咤せることある由、斯の如き状態よりしてか山県、西園寺〔公望〕両元老方面に於ては殿下の御教育御補導に大革新の必要論起り・・・・・(略)
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.