●昭和天皇と731部隊
「731部隊で研究・製造した細菌弾(主にPX・・・ペスト菌に汚染されたノミのこと)は、1940~42年に中国10数地域に撒布され、多数のペスト患者を生み出しました。まず、1940年6月4日吉林省農安でPXが地上で撒布され、同年末までに300人近いペスト患者が発生・死亡しました。同年9月下旬、農安から60キロ離れた「満州国」首都新京(現在の長春)に伝播しました。これが「1940年新京ペスト」です。石井四郎を防疫隊長とする防疫隊がハルビンから新京と農安にやって来て、1ヶ月間で新しいペスト菌株を取得したり、ペスト犠牲者の死体から臓器を取り出しプレパラートにして平房に持ち帰ります。まだ新京・農安でペストが終息していないというのに、です。農安ではペスト菌感染ネズミの移動経路の詳細な調査も、731部隊ペスト班の責任者・高橋正彦(慶応大)が行っております。」
【季刊 『中帰連』58号 松村高夫(慶応大学名誉教授)「巻頭言」より】
※この農安に731部隊がペストを撒いた後、そこに731部隊員の石川太刀雄が行き、剖検(解剖)をしている。このときは死体だけでなく、生きた人間も解剖したのではないか?
【石川は「炎症(殊にペスト)に関する研究」で次のように書いていいる。「満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於いて世界記録である」。】(『医学者たちの組織犯罪」常石敬一著)
※石川は、広島に原爆が投下された後に行われた原爆被害調査に京都帝大の調査団に加わって、剖検をしている。
この人の死因に、原爆の放射能は影響していないのだろうか??
細胞生物学シンポジウム24 昭和48.11
※新京では日本人も多数ペストに感染し、死亡した。
農安、新京のペスト流行について ①
農安、新京のペスト流行について ②
新京ペスト流行と731部隊
新京ペストの写真
アメリカに提出されたQ(ペスト菌)レポートの表紙
(参考)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
1940年10月4日・・・ペストノミ(PX)を衢県(くけん)に撒布(雨下)。撒布量8.0kg
1次流行の死者219人、2次流行の死者9060人。
1940年10月27日・・・ペストノミ(PX)を寧波に撒布(雨下)。撒布量2.0kg
1次流行の死者104人、2次流行の死者1450人
寧波細菌戦
※雨下とは、飛行機を使用して空中から病原体を投下、撒布する方法。
※PXとは、Pはペスト、Xはケオプスネズミノミのことである。PXはペスト菌を保菌しているケオプスネズミノミという兵器のこと。
ケオプスネズミノミ(オス)
(『新発見の金子順一論文を読み解く』奈須重雄)
1940(昭和15)年10月、裕仁の朝廷は、戦争が敗北に終った場合に天皇制を守ることを目的とした後方計画を開始した。
第1段階は皇族を責任ある地位から退ける事であった。
第2段階は彼らが戦争準備の過程で何の役割も演じなかったかのように見せかける表向きの筋書きをつくることであった。
菊の垂幕の背後への引退は、10月3日に・・・・75歳の閑院宮が、陸軍参謀総長の職を辞した時に始まった。・・・『天皇の陰謀』下 バーガミニ著p134
1940年 紀元2600年式典が挙行される。
第23号 紀元2600年祝典
天皇制の絶頂期であり、逆らえば投獄され、拷問され、殺された!!
戦争のためオリンピックは中止された!!(オリンピック自体、本来いらないと思うが)
【予言】東京五輪が無くなる!?1940年と2020年の東京五輪の状況がヤバイくらい似ている!
この動画を見れば、大元帥昭和天皇、戦争の最高責任者であることが一目瞭然!!
紀元二千六百年特別観艦式
昭和初期の日本(その4)
自衛隊では毒ガスの製造が明らかになりましたが、生物兵器、核兵器の製造はしてる???
2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
※『化学学校記事』の公開も求めているが、防衛省からのいまだに回答がない。疑問が膨らむばかりである。
※2016年3月18日、「衛生戦史資料の体系化」という論文の不開示決定の取消しを求める異議申し立てについて、情報公開・個人情報保護審査会から答申があったという。
審査の結果は以下の通り。
第1 審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
●日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
自衛隊の関与はなかったのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
機密ばかりが多いと、国民はいつもだまされる?
・非核3原則も嘘だった!!
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
秘密保護法撤廃!!
731部隊の生体実験、細菌戦、また、毒ガス戦などの戦争犯罪についての反省は全くしない?
自衛の名のもとに、戦後も生物戦・核戦争の研究は秘かに行われている?
アメリカの圧力を受けて「機密」が増大し、軍事費が膨らんでいる!!
戦後も自衛隊はアメリカから情報を入手し、サリンやVXガスなどの毒ガス製造をしている??
化学兵器禁止条約があるにもかかわらず!!
防衛省は、地下鉄サリン事件の発生することを事前に知っていた??オウムは自衛隊から解毒情報入手??
地下鉄サリン事件 警視庁警察無線全記録
●今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造
2安保体制の機密
憲法に優先する安保条約
安保条約第6条によれば、「施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位」は、地位協定および「合意される他の取極」により規律されるとなっている。地位協定は安保条約とともに、条約のカテゴリーに属するものとして一応国会に提出され公表された。問題は、「合意される他の取極」の性格とその取扱いである。地位協定は、多くの事項を両政府間の取決めに委ねている。たとえば、個々の基地に関する協定は、日米合同委員会をつうじて両政府が締結すること(第2条)、 航空交通管理および通信体系の協調整合に必要な手続は、両政府の当局間の取極によって定めること(第6条)、そのほか気象業務(第8条)、警察権(第17条)等々である。これらの合意事項については60年3月25日、国会に提出された政府資料により29項目にわたって、その概要が明らかにされた。ついで62年4月28日、参院予算委に提出された資料で、新協定にもとづく改正点の概要が11項目についてしめされた。だが、公表されたものは「合意された取極」の概要にすぎず、しかも重要な部分はすべて除外されている。
南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
●南京大虐殺
・証言
1937年に南京が陥落する前、私は21歳で、家は夫子廟でした。夏は夫子廟の秦淮河に遊覧船を浮かばせ、冬は小さな商売をして口過ぎしていました。日本の侵略軍が南京を爆撃した時、母が大中橋で日本の飛行機が投下した爆弾で爆死させられました。
農暦の冬月11日に、日本兵が南京を占領しましたが、その時私は管家橋の難民区に入っていました。冬月14日の深夜に、日本兵の一隊が来て、私たち若い者をみんなでだいたい20人余り、縛って車に乗せ、その他の所から捕まえて来た人達と合わせて車2台で雲南路広場まで引っ張って行き、検査して、中国兵かどうかを見、結局30人余りだけ放ち帰らせ、私はその1人でした。その他の人達は、日本軍に車でどこかへ引きずって行かれました。何日かして初めてみんな日本軍に機関銃で殺害されたと知りました。雲南路には沼が1つあり、沼の水がみんな紅く染まってしまいました。私は放たれて家に帰ってから2日は食べたくない、ぼうっとしてただ眠りたいだけで、魂が驚いて逃げて行ってしまいました。(明日に続く:彭光焯と呉紅興が記録)
南京大虐殺 世界記憶遺産登録で世界の教科書に掲載可能性も
●731問題
・「ABC企画NEWS第100号」より
―写真で学ぶ『高知と戦争』展―
関心を集めた「731部隊と高知」
平和資料館・草の家 副館長:岡村啓佐
・・・・
・四国4県出身兵士が731部隊を支えた事実に衝撃
『731部隊と高知』では、731部隊で安達(アンダー)での野外実験など様々な生体実験に関わった(故)尾原竹善さんの証言は参加者に衝撃となって、改めて戦争とは何かを感じ取っていただいたようです。尾原さんの証言をまとめた資料は追加印刷しその数は800セットを超えました。
また731部隊には6つの中心支隊・機関が存在し、その支隊に高知県人で編成されたハイラル支部(543部隊)があり、4名の部隊員の「ネズミを捕まえ、飼育する」「ネズミを入れる籠を作り、この籠にペスト菌を注射したネズミを入れて731部隊に送った」との証言も熱心に読んでいました。
そして、林口に「162部隊」(香川県出身)、孫呉に「673部隊」(徳島県出身)、海林に「643部隊」(愛媛県出身)などの各支部があり、731部隊が四国4県の兵士らによって支えられていた事実に皆一様に衝撃的に受け止められたようです。
終戦50周年731部隊1
終戦50周年731部隊2
・731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
なぜ、日本政府は、731部隊の生体実験、細菌戦を認め、謝罪しないのか?
731部隊のドキュメンタリー
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
昭和17年の冬から翌春にかけて、農安の街にペストが流行し、4、5千戸のうちの大半を焼き払ったときも、やはり「731」の謀略班が暗躍していたといわれる。満州においては、農安もそうした地域の一つなのだから、それがたまたま大流行をみたとしても、少しも不思議ではないのだが、しかし、“謀略”とは、最も自然な結果を招くように仕向けることを原則として行われるものである。農安の場合も、その例に漏れず、誰にもあやしまれずに目的を達するところがミソであったのだろう。したがって、一般には、「731」の尽力によって被害を最小限に抑制できたと思われているのである。だが、自然な蔓延と人工のそれとは菌力の違いから、蔓延速度も異なるし、時には菌の型態が違う場合も生じてくる。―農安の場合、人工的であったことを多くの専門家は認めているのだ。
厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)
医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
吉橋が目撃した「虚脱」した民衆の表情は注目に値する。3月には工場の生産性が低下し始め、欠勤サボタージュが目立つようになってきた。また、宮内省がつねに鋭い関心を払っいた不敬罪の事例も増えていた。その後、〔敗戦までの〕5ヵ月間にわたり、皇族の軍人と重臣たちは国体の危機について話をするようになった。近衛が指摘してきた国内からの危機が、いよいよ現実味を帯びてきたように思われた。しかし、日本の民衆の大半にとって、地方にいる者も大都市にいる者も指導者に従い、常日頃言われてきた勝利の到来に向けて働き、犠牲となる決意は、終局にいたるまで確固としたものだった。
昭和天皇が首都の罹災地を視察した2日後、元外相幣原喜重郎は当時の統治エリートの間に広く認められた思いを代弁していた。幣原こそ、かつての英米協調外交のシンボルであったが、いまや日本は試練に耐え、いかなる降伏にも応じてはならないというまでになっていた。幣原は以前、民衆は日を追うごとに空襲に慣れていくであろうと重光外相に建言していた。民衆の団結と決意はますます固くなり、外交官にとってそこに「我国未曾有のの危局にあたりて回天救国の策をめぐらすの余地」もあるというものである。
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第三章
敗戦
(その1)
婦女と狼人間
もし、占領軍が、復讐心ではなく、健全な意図をもってやってきていたとしても、日本にとってはそれもまた、用心すべき偶発性にすぎなかった。いずれにせよ、可能な限り彼らを迎える用意は万端でなければならず、敵愾心すらも除かれなければならなかった。裕仁の61歳の母親、節子皇太后は、血縁の近衛宮の道楽について、何ヶ月にもわたって相談をうけていた。皇太后は戦争への厳しい批判者であり、真珠湾以来、裕仁とは緊張した関係にあったが、彼女は、愛国的努力を傾けて、高貴な女性たちが和平派を助けるために、出来るだけのことをすると約束していたからだった。降伏の直前や直後の日々にあっては、近衛宮や警察は、宮中の女性たちの助言を実行に移していた。(14) 一方、三年間にわたって閉鎖されていた外国大使館は検査され、可能なところでは、かつての職員や使用人が再招集され、かつて賑やかだった日々の面影が再現された#。(15) 横浜近くにある、1853年に大砲を突き付けて日本を開国させたペリー提督の記念碑は、戦争中に過激な愛国者によって破壊されていた。それが今や、闇夜に隠れて、横浜の地方警察によって立て直されていた(16)。
# しかし、空襲による爆撃で開けられた穴から入ってくる雨水が、米国大使館の事務所の床に淀んでいた。
全文は「ノブのノート」で!!
2.「!」が多くて説得力がない。
3.個人的主観で書かれていて意味がとりにくい。