細菌戦の系譜!!

2022-09-27 08:44:16 | Weblog

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)


Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930


 2 毒ガス使用禁止国際条約への対応


  毒ガス・細菌兵器の禁止に関するジュネーブ議定書


 しかし、日本はいつまでも批准しようとしなかった。日本は、軍縮会議などで毒ガス・細菌兵器の使用禁止について積極的な発言を繰り返していくが、アメリカが批准しない限り、自らの手を縛りたくないと考えていた。アメリカ国内では。化学協会・化学工業界・退役軍人協会などが批准に強く反対していた。議会上院でも議定書批准反対の意見が強く、審議は進まなかった。アメリカなどがこの議定書を批准するのは1975年1月22日だったから、日本が第2次世界大戦の開始以前に批准することはあり得なかったのである。

 

 
 

 

 

海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)



 

 

 

 

 
 

 
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備
えていた!!
 



 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理

第2次世界大戦が終わったばかりの中国には、日本軍の遺棄した武器弾薬があちこちにあり、人々の生活と建設に大きな危害を与えていた。50年代に入り、中国の政治的局面が安定し始めた時、人民政府は直ちに処理を始めた。しかし、善良な中国人が日本軍の遺棄したのは普通の武器弾薬に過ぎないと思い、通常のやり方で処理を行ったとき、次々に思いがけない傷害が起きたのである。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

 

 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-27 08:41:49 | Weblog
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

糧穀の略奪

(冷酷非情な取り立て)

 

引地 章(ひきじあきら)

警察署長 警正

(略歴)

学歴 高等小学校卒業

所属 旧満国 図們警察署

年齢 54歳

住民たちの行列は、署の所まで約半キロも続いていた。引地の日本刀や、双眼鏡、水筒、赤革の図嚢や、堅胴の長靴に拍車という狂気じみた姿を、珍しいというよりは、憎々しげに、じろじろと見ていた。それは「これが日本鬼子の強盗めか」と言わんばかりの態度だった。
署長室に落ち着いてから、村長の紹介で沢山の鎮民の主だった人たちの挨拶を受けた。今晩は歓迎会を催すから、ぜひ出席してくれとのことだった。引地も早川から、中央農産公社の工作費を相当貰ってきているので、返礼の宴会を明晩やり、そしてまた、彼ら幹部にも飲ませ、大きな仕事をしてやろうと腹黒いことを考えていた。
 
 
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 

 

 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

 

 
日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)

38年2月1日    統裁部

昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画

4 研究のための組織

次の通り統裁部及び研究部を組織する。

(2)研究部

    イ 統幕研究班

    J-1 グループ     2名

    J-2 グループ     2名

    J-3 グループ     6名(内6名は統幕部補助官を兼務)

    J-4 グループ     4名

    J-5 グループ     合同図上研究の場合若干名

     *J=Joint J1は統幕第1幕僚室のこと

   ロ 各幕研究班

    (イ)陸幕研究班

     5名(作戦運用2名、情報1名、人事行政管理1名、後方補給1名の構成と
        する)

    (ロ)海幕研究班

     5名(構成は陸幕研究班に同じ)

    (ハ)空爆研究班

     5名(構成は陸幕研究班に同じ)

    (注)各幕研究班員は状況に応じ必要な増員を行なう。

  (3)防衛局から若干名の部員が統幕部又は研究部において研究に協力する。

    1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

第4代衛生学校長

 

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

 

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

 

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

 

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

 

『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-09-27 08:39:49 | Weblog
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

 

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み

 

2、 生物・化学兵器の種類と特性

生物兵器の種類・使用方法

 

病害動物  病害動物というのは、人体または動物に対して疾病あるいは毒素等による病害を直接与えるものと、間接的に病害を媒介、伝播するもの(学術的には、衛生動物という)の総称である。

(2)衛生動物

① 節足動物(ハエ、ノミ、ダニなど)。

②その他(ネズミ、犬など)。

 ところで、生物兵器は使用予想形状について、エアロゾル(病原微生物を、微粉末の状態にし、これらを雲状又は霧状の形で広範囲に散布する)、けん濁液(病原微生物または芽胞のけん濁液を適当な噴射装置、投射器等により、化学剤同様に散布するか、容器等に入れて目的地(水源地等)に運搬し投入する)、媒体(病害動物をそのまま使用するか、または、病原微生物を適当な媒体に注射して使用する)の三形態をあげることができる。

 

第5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 

 



 

 

 

 

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

     



 

 

 

第1部 皇太子の教育

1901(明治34)年―1921 (大正10)年

第3章  現実世界に向きあう

 

 皇太子は、自制心の訓練と厳格な日課としての軍事訓練を少年時代から積んできた。彼の祖父は、外国軍隊の侵入を想定して随時行われる演習でみずから陸海軍を指揮し、大正天皇とはまったく対照的に熱心に陸海軍学校の卒業式に臨席した。しかし明治天皇は軍事教育を受けておらず、戦略も戦術も事実上無知だった。軍事に関する訓練は、彼を戸外に連れ出して不健康な生活習慣を改造するために計画された。生涯の模範として裕仁が位置づけた、人為的につくりあげられた明治天皇の理想像を追うことは彼のもっとも強い願いのひとつであった。しかしその場合、事情によっては明治天皇の先例はいつでも自由に変更できた。祖父とは違って常時侍従武官がつけられ、軍人らしくふるまうように彼を誘導した。とくに1926年12月に天皇になったのちは、古代の神主の衣装をまとう宗教儀式のとき以外、ほとんどつねに軍服を着用するようになった。こうした日常の慣習は、彼の人格の発展に深い影響を及ばした。 

 

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

 

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

 

 

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 

 



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