細菌戦の系譜!!

2023-07-06 11:09:41 | Weblog
 

【実話】イタイイタイ病の闇が深過ぎる…(漫画動画)

(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる

 

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

 

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!     
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 
     

 

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 
 
 
新版 「帝銀事件」 森川哲郎 (抄録)
 
第1章 犯人適格者の追及
 
米軍の重要機密戦略に触れる
 
米軍の政策の大転換
 
 G2のウイロビーは躍起になって悪辣な巻き返し工作を展開した。配下のCICに命じてGSの高官の公的、私的な素行を徹底的にスパイさせた。彼らの落度を洗って失脚させるために、連日連夜尾行させたのである。当時日本の警察はG2に掌握されていた。帝銀事件の捜査本部長であった藤田警視長などはG2のウイロビーと最も密接に結びついていた1人であった。また国警長官の斎藤昇もその中の1人であった。GSを怨み憎んでいる右翼や追放を受けた勢力の1群もこのGS高官の追い落としドラマに一役買った。こうして、GSの高官ケーディス大佐と島尾子爵夫人とのただれたスキャンダルが暴き出された。またケーディスやダイクが、昭電社長の日野原節三の愛人秀駒の経営する料亭に頻繁に現れることから、ケーディスらが日野原を三流会社経営から昭電社長に仕立て上げたからくり が発覚し、昭電疑獄が、白日をもとにさらされ、世を震撼させた。 
 
 

松本清張と帝銀事件第2部

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帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)

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帝銀事件①


帝銀事件と薬害エイズ事件

 

冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!

社会が許さない 釈放後も「地獄」

 

 

 

 

 

 



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 11:06:02 | Weblog

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

特別研究室とは何だ??

 

実験医学雑報22巻 第5号(1938年)
西澤先生のテーブルスピーチ 
 本日私は終生にとりて実に忘るること能わざる喜の感激を覚えた日であります。年老いては憂鬱なることを多きも今日という今日は誠に愉悦を感じました 。これが老の日の感激とでも申すべきかと思います。
 ここに伝染病研究所を退くにあたり、私の尊敬 せし恩師青山先生を追懐し一言述べさせていただきたいのであります。 
 大正5年の頃、林博士は青山先生に代りて、所長となられ、研究所は順次整備するに至りました。然るに翌6年青山先生が大病にかかられたと聞いた時一同は愕然として憂愁に鎖されました。私は軽井沢の転地先にお見舞い状を差し上げましたところ、御病床中態々御返事を下さいました。誠に恐縮に存じたのであります。これが先生よりの約20年前のお手紙であります。(書状を示す)。この内には研究所の研究業績が上がりつつあること、血清類の製造も段々好調に向かっておることを喜ばれております。丁度二木博士、石原博士等の鼠咬症病原の発見、長與、宮川、三田村、田宮博士等のツツガムシ病赤虫の研究等の知名の作業が続々出来上がった頃であります。然るに先生の病はその後いよいよ増進するばかりでありました。私は1日八木沢君と共に、本郷弓町の御宅に参りお見舞いいたしましたところ、先生は私等を病床近くに呼び寄せ、ご自分は床の上にて向き直られて研究所の仕事につき激励且つ懇々と依嘱されました。私等は誠に悲しき思いでありました。実に今に忘れぬ感激に打たれたのであります。そうして私等は一層緊張と努力をせねばならぬことを覚悟したのであります。私はあの時の光景を筆紙に尽くすことができまぬ。唯々ご想像に任せます。自分にはこれが先生との最後の対面でありました。私は本日の光栄に浴したる機会において先生を想い、 20年の昔には私の身にこんなことがあった、かかる感激の日があったことあったということをその当時を御存知なき方々に申し上げた次第であります。
 
 
1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

浜一中大福餅事件

浜松一中の慰霊碑
 

大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験

 

 大牟田の爆発赤痢の慰霊碑(表)

大牟田の慰霊碑(裏)

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

 

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

 

(資料)

表3―2

科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?

 

 

 ●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
 

731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 11:02:57 | Weblog
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

 

           731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』



はじめのことば
 
 軍隊生活への疑問や不安、嘆きをつぶやきながら時に零下22度にもなるなか、昼夜問わずの満鉄の守備や炭鉱内の巡察という激務をこなし、さらに行軍や軍事演習でしごかれ、ひたすら満期明けを心待ちにする、そんな姿が変色した紙面から浮かび上がってきました。 

 

軍都広島での物語

原爆詩集

峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 
 
  その日はいつか
   4

君は黙って途中まで足早に来た、

何かの気配でうつ伏せたとき

閃光は真うしろから君を()

埃煙(あいえん)がおさまり意識が返ると

それでも工場へ辿りつこうと

逃げてくる人々の波を潜り此処まで来て(たお)れた

この出来事の判断も自分の中に畳みこみ

そのまま素直に眼を閉じた、

 
" target="_blank">原爆投下
 
" target="_blank">原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
 
" target="_blank">封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。

原爆の威力調査を行い、原爆による「死亡率曲線」などを
作成した。全部で181冊の原爆報告書はすべて英訳され、アメリカに渡された。
その報告書は、もっぱら731部隊などの残虐行為の免責を得るためのカードに使われた。
苦しんでいる被爆者の治療はほとんどされなかったし、入市被爆などの事実も国民には知らされなかった。
また、被爆者本人の治療にも生かされなかった。" itemprop="description"><iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8669gl" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>

 
 
 
" target="_blank">原爆初動調査1
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x87n39j" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
 
 
 
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ

撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった

 

大竹康二

731部隊・教育部

〈略歴〉

1926年生まれ

1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。

43年8月開拓団入植

1945年5月 122師団(牡丹江)入隊

1945年6月 731部隊教育部に配属

1945年8月 帰国

■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの

解説―731部隊教育部

(越田稜)

また防疫という事で、細菌学の学習、顕微鏡の取扱い、細菌の培養と培地作成、遠心分離機の使用などの訓練も施された。二期教育が終了すると、入隊前の特技も尊重され、防疫・給水・兵器部門、動物舎、医務室、庶務室、経理課、教育課、酒保(軍隊内にある日用品・飲食物などの売店)、炊事、縫工室などの勤務に従事することになった。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 11:00:15 | Weblog
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
 

被控訴(附帯控訴)代理人(鈴木)

内容はそういうまとめたもので、聞き取り書きですか。

 

 違います。聞き取りもありますけれども、これはハバロフスク裁判のものを使っていますし、戦前の医学論文も十分使っておりますし、第1部1981年に出た、その中にも聞き取りだけではなくて、ハバロフスク公判書類とか医学論文雑誌と、森村さんは突き合わせをやっているわけです。照合しない場合には両論を併記して結論を出さないでいる部分もあります。そういう記述になっています。2部以後はまたアメリカの調査が入ってきますけれども。

 

 

 

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941

2 修水渡河作戦

 

大規模毒ガス戦の諸記録 

 しかし高級将校の立場から見れば、南昌攻略作戦は現代的兵器を思う存分に使用して軽快に目的を達した心地よい作戦であった。第11軍の宮崎作戦主任参謀は、この作戦は自分の「戦場勤務を通じ随一の会心の作戦」であったと回想しているが、その会心の作戦の発端をなした修水渡河作戦は、日中戦争・アジア太平洋戦争を通じて、日本軍が行った最大の毒ガス戦であったのである。

※小津安二郎(ウキペディアより)

小津と戦争

 1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。

 



 

 

 

 
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!

 

 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 
 
 
大久野島の歴史
 
Ⅳ 日本軍の毒ガス戦
③日本軍の毒ガス使用の本格化 
 しかし、1938年4月11日に、閑院宮参謀総長が、くしゃみ性ガス(赤剤)の使用を許可する「大陸指第110号」を発して2ヶ月経過しても戦地の各部隊は、すぐには、くしゃみ性ガスの使用に踏み切りませんでした。それは各部隊の参謀長、部隊長の中に、毒ガスの使用を躊躇する気持ちがあったからでした。その理由として「果たして毒ガスが本当に戦闘で効果を上げるものだろうか。」「毒ガスの使用によって部隊の動きにマイナス面が生じないだろうか。」「 国際条約違反の毒ガスを使用することの責任問題が生じないだろうか。」 といった意識があり、毒ガスの使用を躊躇する参謀長、部隊長がいたからです。そこで陸軍参謀本部は、部隊へのくしゃみ性ガスの使用を促すために、1938年7月徐州作戦の晋南粛清戦で大量にくしゃみ性ガスの使用を決意し、山西省南部の戦闘で、くしゃみ性ガスの使用命令を出しました。 
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" title="Dailymotion動画プレーヤー" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8grcvw" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""> </iframe>

中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!

チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
 
山下基之弁護士の話
 
 チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。
 

 認定NPO法人化学兵器被害者支援:​日中未来平和基金

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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 10:58:10 | Weblog
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

強制労働

殺人長屋に押し込めて酷使

 

大西馨(おおにしかおる)

大尉

〈略歴〉

本籍 愛媛県

学歴 高等小学校卒業

出身階級 貧農

所属部隊名 第42野戦道路隊

年齢 47歳

健康をはじめ、天候や道具と共に恵まれた条件がないのに、作業は予定通り進んでいったのである。私は貧しい百姓の家に生まれた。仕事を嫌って軍隊に入ったが、すかしの紋章の入った辞令とピカピカの肩章に有頂天になって、≪そうだ、真面目にやって恩給をもらい。老後を安楽に≫と一生の方針を決定したのである。天皇や三井、三菱の為に忠実にまじめに働き、又他人を働かすことが私自身の成績を上げ、立身出世と恩給生活を保証するものであったが、このことの為、この捕虜にどれほど苦労と悲しみを背負わせたことであろうか。

 

 

 

 

    

 

 

    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 

 

 

 

●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

 

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 日米の対処方針 

(2)日本の直接防衛作戦
ロ 日本防衛出動準備について

 

日本側・・・日本防衛のため、日本側は直ちに本格的防衛準備を推進するので、日本の防衛力の不足する部門について米側の積極的協力を要望した。

米国側・・・当面 韓国作戦を優先するが、日本の重要性に鑑み、韓国作戦との関連において可能な限り協力する旨回答。また韓国作戦のための各般の措置は、直ちに日本防衛準備に直接的に寄与する旨強調された。次いで米国側から日本の本格的防衛準備実施の目途について質した。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

第4代衛生学校長

 

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

 

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

 

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

 

『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 10:55:05 | Weblog

●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

3,自衛隊における人体実験の疑念 

自衛隊の赤痢菌検査の疑惑

園口、時岡論文によって、この研究の経緯を詳しく追ってみると次のようになる。

陸上自衛隊勝田部隊の隊員1600人を対象として、隊員を2分し、その1群には、乳酸菌製剤ポリラクトンを、他の1群には外見的には同じ型をしているが、カプセルに乳酸菌を加えないものを、67年6月1日から7月31に至る1日2回、1回1カプセルを2か月間連続して与えた。

そのために、被験者総員に対する第1回赤痢菌検索を、5月25日、26日、27日の服用開始前と、第2回を7月4日、5日、6日の服用1か月後に、第3回の検索を8月1日、2日の服用終了後に行なっている。

第5代衛生学校長

 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修  

2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  
    第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

第5章   新しい皇室、新しい国家主義

だからこそ、昭和天皇のもとで統治を適切に進めるには、宮内官の側では極度の秘密と絶えざる見せかけ、擬態、謀略が、大臣や国家機関の長の側では一致、自制、過度の卑下が要求されるのだった。しかも、後者のなかには深刻な反目があり、互いに相手に疑念を抱いていた。そして天皇自身は太古から、王者と政治家というふたつの道徳性を包含した存在だったのである。この複雑な仕組みのため、総理大臣は絶えず積極的に天皇に相談し、天皇の意思が彼と一致しなくても、その意思を考慮しなければならなかった。天皇が現人神であるかどうかは別として、そうするのが適切だったのである。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

世界は、9条をえらび始めた。

日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私たちはとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。

―ベルギー、40代・男性

日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケーララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。

―インド、50代・女性

 

 『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について

~ご理解していただきたいことを文章にしました~

2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)

この史料館を順路通りに歩いていくと、数々の遺影や、遺品のコーナーがあり、そこで写真を見たり、遺書・手紙の類(検閲を受けたもの)を読む人々も多いです。そして、出口へと向かう最後のコーナーでは、自衛隊戦闘機の操縦席とか、世界平和に貢献する自衛隊ポスターとか、自衛隊賛美のような内容のコーナーを通るという順路になっています。戦没者たちを自衛隊のためにまさに利用する行為は、戦没者たちを踏みにじり冒涜する行為だと思います(近年、展示の仕方や順路等の変更があったとしても、展示の根本思想は同じだと思います)。ですから、この史料館は、他の場所に移設(新設)し、平和祈念会館などの名前で、公的機関が管理すべきではないかと、思うに至りました。少なくとも、自衛隊敷地内に史料館を置いて、まるで戦没者たちが、彼らの持ち物でもあるかのように思い違いし、彼らを正当化するために、利用されてはならないと思います。一人ひとりの戦没者たちは、自衛隊から、解放されるべきです。

 
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細菌戦の系譜!!

2023-07-06 10:52:44 | Weblog
 
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

 

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
 
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
 
※私が考える、今の異常気象の要因は

 

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。

 
核兵器禁止条約

 

内容

 

当条約の原文は、国連公用語である英語・フランス語・ロシア語・中国語・スペイン語・アラビア語で、国際連合の公式ウェブサイトに掲載されている。

なお日本は不参加のため外務省の公式な翻訳はないが、外務省は英文、暫定的な仮訳、日本国政府の考えを掲載中。

当条約は前文と20の条文から構成される。

前文では核兵器の非人道性、全廃の必要性、安全保障上の利益、「核兵器のない世界」の達成、国際人道法、過去決議との関連、法的禁止、平和利用、教育の重要性などを締結国の認識と記載した。

 

 

水素爆弾の恐怖・ビキ

ニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】

核実験の人体実験

 


●核融合もすべきではない!!

 

 

 
 
 
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

 

       

      


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

 
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
 
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した
 
 
 

 

 

 

福島第1原発事故



           











 

 


 
 
 
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

 
 

 

 
 
 

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