【随時更新】ロシア ウクライナに軍事侵攻(27日の動き)
日本、クラスター弾供与反対せず 松野氏、被害低減策に言及
核使えば「すぐ終戦」 ロシア前大統領が威嚇
【随時更新】ロシア ウクライナに軍事侵攻(27日の動き)
日本、クラスター弾供与反対せず 松野氏、被害低減策に言及
核使えば「すぐ終戦」 ロシア前大統領が威嚇
3、貴重な証言活動に感銘を受けました。歴史修正主義(否定主義)の根深さを感じます。
(80代以上、横浜市内、メール)
歴史に誠実に向き合い、国家の責任を問い、再発を許さない共生社会への第1歩を!
地震が相次ぐ5月 ここ1週間で震度5弱が2回 地震発生時の行動確認を
靖国神社参拝反対!!
原発の怖さを考えよう!!
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
731部隊の実態をきちんと伝えよう!!
新型コロナウイルスのワクチンを接種したあとに亡くなった人の遺族でつくる団体が、厚生労働省で会見し、予防接種法に基づいた健康被害の救済制度の認定を、速やかに進めることなどを国に求めました。
新型コロナウイルスのワクチン接種をめぐっては、副反応で健康被害が出たり死亡したりした場合、予防接種法上の救済制度の対象となり、接種との因果関係が否定できないと国が認定した人には、医療費や死亡一時金などが支給されます。
9日の会見には、おととし10月に、当時36歳の夫が2回目を接種した3日後に亡くなり、先月、救済申請が認められた須田睦子さんらが出席しました。
この中で須田さんは「夫が亡くなってから、当時、おなかの中にいた娘と上の子3人を育てていけるのか、不安の中で毎日を過ごしていました。接種の中止が一番の思いですが、せめて同じ不安を抱えている多くのご遺族の迅速な救済を望みます」と訴えました。
このあと団体は、救済制度の認定を速やかに幅広く進めることや、ワクチン接種後の突然死などについて、国が研究を進めることなどを求める要望書を、厚生労働省に提出しました。
救済制度には、先月10日時点で6219件の申請があり、死亡30件を含む1622件が認定されていて、厚生労働省は「審査の回数を増やしており、できるだけ迅速に対応していきたい」とコメントしています。
12且26日(月)
5、年を取って字を忘れてしまったのが、多いので「ひらがな」で勘弁して下さい。
私は、終戦6歳でした。住まいは浅草で、4歳から母の実家埼玉県杉戸町に預けれらました。3月10日の大空襲の時、夜中に母の弟に起こされ、「東京が燃えているぞ」と言われました。その2か月後ぐらいの午後その家の庭に焼夷弾が落ち激しく燃えが上がるのを見ました。父は出征し、浅草には母、姉、妹と女3人残っておりましたが、何とか逃げ延び助かりました。父も帰国し、農家の納屋を借りて過ごし、昭和23年2月に浅草に戻りましたが、東武鉄道浅草駅から見た町は見渡す限り焼け野原で、バラック建てがぽつぽつあるだけでした。
今日は、たまたま図書館へ来て、この展示会を知り、時間の合間わずかですが、拝見し、大変貴重な資料だと思いました。
私の年代が、戦争を実際に経験している最後の人間になると思います。私も何かしなければと思いながら、とうとうこの年になってしまいました。もっと大勢の人が見に来られるよう、PRをよろしくお願いします。(51歳以上、83歳、市内、図書館に来て)
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
なぜこんな事態になってしまったのだろうか
しばしば、「大学医学部や医学会はなぜ機能しなかったのか?」という質問が寄せられる。実は外部の方々の想像とは異なり、日本の大学医学部や医学会はディスカッションがほとんどないところである。対話やディスカッションが最も機能していると思われているはずの学問の世界で、実は全く逆のことが生じているのだ。医学部在学中に、医学生がディスカッションや対話の技術を学ぶ機会はほとんどない。そして卒業後の医師が属する可能性の多い医局は、後で述べるように少数の例外を除いて、そもそもディスカッションや対話とは程遠い仕組みになっている。教授がよほどの人格者でもなければそのような機能は働かない。どう説明してよいか分からないが、一番根本には、和を重んじる部分も少しあり、良くも悪くも「日本的」なのかもしれない。そこに厚かましい学者が取り入る隙間がぽっかりと開いている。残念ながらこれが現実化しているのが医学部の世界だ。