5時だよ、ゴハンだにゃん

(元)外ねこさんに支えられる日々と、
野良猫さん一家TNRの記録

ふわちゃん またね!

2023年12月23日 | つれづれの日々
2023年 7月9日 ふわりが虹の橋へ旅立ちました。
たくさんの子たちと出会い、暮らし、そして見送る中でふわりほど見た目も中身も変わっていった子はいなかったように思う。
2012年に突然現れた子だった。手が届くほど近づいても逃げないことがあるのに、正面からは一切近づかないどころか一目散に
姿を消してしまう…数か月様子を見る中でどうやら聴力に障害があると気づいた。当時はまだお庭番中だったゴローちゃんと仲が良くて
くっきり茶白猫と白い長毛猫コンビは近所でも人目を引いていて焦ったものだ。
そんな彼女がようやくトラップケージに収まってくれたのは2012年の6月 
流浪の間に感染したのだろう…FIV(+)ということもあり、術後保護することに迷いはなかった。
威嚇の嵐から少しずつ表情が緩んでいく様子がうれしかったな。部屋割りのかげんでウォルと同室になった際には、ウォルにもよく懐いて
かわいがってもらっていた。ちょっとだけ首をかしげながら近づいてくる白い毛玉みたいな姿を思い出す。

             
ぽぽのすけとも仲良くできそうだったけど、激おこ発作の的になってしまったことで保護部屋から2Fの猫部屋に移ってきた。
2Fに来たばかりの頃はちょっとした猫嫌いに陥っていて、療養中のケージを覗いた一歩とまさおにシャーシャー攻撃してビビらせていたっけ。
でも徐々にココロがほどけて距離が縮まっていくほどにやさしく穏やかになっていく表情もまたうれしかったな。本当に豊かな表情を持つ子
だったと思う。

     


2Fでご機嫌さんに暮らしていたふわりだったが、2022年の年末頃から背中を中心にぽつぽつとカビが見受けられるようになり内服治療を
開始。一時軽快したが梅雨に入って再発。その治療も終盤になった6月下旬、それまで旺盛だった食欲に陰りが出始めた。
長期にわたる内服が腎臓や肝臓に負担になったか?と受診した6/26 思いがけないデータに驚愕した。Plt 2.2万 Hbもわずかに落ち始めていた。
何らかの理由で骨髄抑制がおきている。原因はなにか?FIVの発症?カビもそのせいだったのか?極わずかに肢がもつれるようなようすからFIP?
等々頭の中を駆け巡ったがそのどれであれ今すべきは対症療法のみ。すぐさまステロイドの大量投与と免疫抑制剤が開始になった。
それまでとはうってかわって食欲なく引きこもっているふわりに投薬と強制給餌をするのはつらかった。食べたくもないものを口に入れられる
ふわりはもっともっとつらかっただろうと思う。それでも気分が良いときには私の体にぴったりくっついて眠った。

   

検査を繰り返しながら治療は続いた。でもデータはどんどん悪化し治療開始から1Wを過ぎたころ、ふわりの血液の中に血小板は存在しなくなった。
Hbもさらに低下し、消化が難しくなったのだろう…嘔吐が始まった時点で免疫抑制剤は中止、ステロイドは量を減らして様子を見ながら続けられる
だけにした。
そしてふわりの受診も止め、私はVETにある「お願い」をした。

ここから先のことがどうしても書けなくてこんなに時間が経ってしまった。でも半年経ってもやっぱり書けそうもない。
ふわりが逝ってしまったあとVETに送ったメールを転記してみることにします。

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ふわりの件では大変お世話になりました。7/9 17:45旅立ちました。
火葬の際にもまだまだずしりと重みがあり、本当に短期間で逝ってしまったのだなぁ…と
悲しくなったり、あんな状態でも頑張って食べてくれていたんだな…ふわり偉かったなーと
思ったり。

兼続のことがあり貧血からの呼吸苦だけは本当に嫌だなと思っていました。ふわりは徐々に動けなく
なってはいましたが兼続のような呼吸苦はなく過ごしており、このままなら出していただいた
坐薬も使わずに済むかもしれないという期待もしていました。ただ9日の午後、排尿をきっかけに
激しい嘔吐とそれに伴って呼吸状態が急激に悪化したため、その時点で坐薬を使いました。
20分ほどで鎮静がかかり、17:40半覚醒と同時に吐き気とも痙攣ともつかない状態になるまでぐっすり眠り
穏やかでした。
残念ながら最期も眠ったまま…というわけにはいきませんでしたが、恐れていた長い長い息苦しさを
感じることはなく逝けたと思います。

今回私のわがままな申し出をご理解くださり、坐薬を処方していただけたこと、大変感謝しております。
仕事柄お看取りの場面に関わることも多いのですが、ご家族は何よりも「穏やかであること」を望まれます。
死への道のりが苦しいものであればあるほど後悔が残りますから。それは人も動物も同じだと思います。
動物には安楽死という選択肢がありますし、それを選ぶしかない瞬間ももちろんありますが、苦しみから
救った…よりも自分がその子の命を終わらせたというやり場のない気持ちが消えないものだと友人は言って
おり、安楽死では飼い主の心は救われないのだと感じていました。
今回私の気持ちを汲んでいただけたことで、いつもより少しだけ冷静にふわりを送れたように思います。

正直、病状を知った時から絶望的な気持ちでした。先生方が懸命に治療をしてくださっていることも
ふわり自身とても頑張っていることももちろんわかっていましたが、データが改善しなければこの先何が
起きてくるか想像はたやすく、そして時間はない…どんなふうにふわりを看取ってあげられるか、看取って
あげたいかを自問自答する日々でした。そしてあの「お願い」に至りました。
もし苦しい瞬間が来そうなら眠らせてあげられる、少しでも楽にしてあげられると思うだけで、最期まで
しっかり看取ろうというガッツが不思議と湧いてきました。
誰しもその子が大好きな安心できる場所で最期を迎えさせたい、苦しみさえなければそれが可能なら
そのための鎮静という選択肢が提示されてもよいのかな…とあらためて思います。

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ふわりのことを想うとき、早くに逝った兼続のことを想わずにはいられない。

             
        

ふわちゃん、虹の橋での暮らしには慣れましたか?そちらでも変わらずDxなふわちゃんでいてください。いつか、また、会える日まで。


穏やかな日々と悔恨と

2022年04月07日 | つれづれの日々

      冷たい風の吹く夜を、棚上の背負いかごのなかでやり過ごしていた去年までの冬  
 
    今年の冬は、はじめてのホカペにとろけたね 
    
      15年の距離感がいつのまにか縮まって
 
    一歩が退いちゃうくらいの甘えっぷり全開  

    
   
    奇跡だと思えたあの日、ココは自らの意思でトラップケージに入ったのだと思う。
  
どんなに願っても保護出来る子とできない子がいる。人馴れの度合いとか、タイミングとか、様々な要素がそこにはあるが、でもそれだけではないと思っている。
かつてぶらっきぃを保護しようとしていた時、体力の落ちたぶらっきぃは食欲もなくなかなか姿を見せてくれなかった。でも私が近所のモータースの廃車置き場で
ぶらっきぃを探し当てることができたのは、彼のそばを離れることがなかった菊千代のおかげだ。
ぶらっきぃが保護部屋で息を引き取った後、菊千代もまた、輪禍に遭い命を落とした。
菊千代の亡骸を火葬に運びながら不憫でならなかったし、あの時一緒に保護するという選択肢はなかったのか?と悔いる私に猫の大先輩が言った。
「人も猫もそれぞれに役割をもって生まれてくる。菊千代はぶらっきぃを私に引き渡す役割をもって生まれてきた。そしてそれを全うして逝ったのだから
悲しむよりも褒めてあげなさい」と。

同じように外で暮らし、私たちと年月を重ねてきたココとミミ なにが違ったのかな。どうしたらよかったのかな。
ココが自らの意思で私たちに猫生を委ねてくれたと思うように、ミミはそうすることを潔しと思わなかったのかもしれない。
答えは見つからず、ミミの姿を見失ったことを悔み続けている。
でも猫の大先輩の言葉を借りるなら、ミミは得意の「おあがんなちゃい」で何匹もの子たちをしろりん食堂に招き入れた。そうして仲間の命を繋ぐことが彼女の
役割で、それをサポートするのが私たちの役割。
ミミを見失ったということは、ミミも私たちも互いに役割を全うしたということなのかな…とも思っている。




ニッキさん またね!

2022年01月30日 | つれづれの日々
早いものでもう2022年もひと月過ぎようとしている。
昨年末からの杞憂がやっぱり杞憂で済まなくなり、ものすごい勢いでオミクロンが近づいてきている(…いやもうその手中に収められてしまっているのかも
しれないが)のを感じている。
東京でジャズシンガーをしている親友から久しぶりにLINEが来た。秋に送ったサツマイモが最後の1本になったと彼女らしく日々の暮らしを楽しみながらも
歌う場所を奪われた日常に対する憤りをにじませていた。
休まざるを得ない業界と休むことを許されない業界 どちらにとっても今、せつない時。

2021.12.28 ニッキさんが虹の橋へ旅立った。もう長らくあまり体調の良くない状態が続いていたことを思うと、本当に良く頑張り立派な旅立ちだった。
画像を紐解いてみると、彼が現れたのはまだまだ藪がわちゃわちゃしていた2008年のこと。私のぼんやりした記憶では小さくて傷だらけでなんだか貧相な
猫だった印象なのだが、あらためて当時の画像をサルベージしてみると、それなりに筋肉質でキリッとした顔立ちの子だったのだと今更驚いた。
なぜかわが家のお庭番や藪っ子たちはみながっちりした体格だったから、その中においてはニッキさんが小さく見えたのだろうな。もじゃといっしょに
保護部屋で暮らすようになってからの彼の様子が私の当たり前になっていたから、そのたくましい表情がなんだか新鮮にも思えた。
 
          

ニッキさんは、どこから来たのか皆目見当がつかない。かるびやもじゃなど新顔の男の子たちが庭に出入りするようになり、小さな諍いごとが増えだした頃
フラっと姿を現した。他の子たちよりも近く、でも気を許しているわけでもないぞと言う距離感でしろりん食堂の常連になった。
最初はもじゃともあんまりうまくいかなくて、顔を合わせれば唸り声が絶えなかったのだが…。
なにがきっかけになったのか??いつからかボーイズラブなMNコンビが結成された。喧嘩っ早いかるびがニッキさんを襲ったのをみて、いつもはおだやかな
もじゃがかるびにとびかかっていきニッキさんを助けた様子は忘れられない。

          

          
ニッキさんはよくケガもした。一番ひどかったのは右額のフレグモーネ。額から血をダラダラ流しながらもまだかるびと唸りあっているニッキさんを素手で
キャリーに放り込んだ雨の日。たぶんあれが後に「知恵がないことをして…」と医者に言われることになる「猫のケンカの仲裁」をした初めてだ。

骨盤狭窄による便秘の管理のために保護部屋生活となったもじゃが元気をなくしていき、もじゃと離れたニッキさんがかるびに生活の場を追われていく様子に
なんとかニッキさんにもじゃとの同居をお願いできないか…と考えた。
そして2010.8月かるびの姿がないうちに…と勝手口にゴハンをねだりに来たニッキさんを(私のうろ覚えの記憶では…)抱き上げて身柄確保、3段に組み直して
置いたもじゃのケージに即入居。もじゃ、とっても喜んで食欲も戻って元気になったんだよね。ニッキさんも出せ出せもせず、アイスノンも使いこなして、
まぁちょっとの間スプレーとかしたけど、いつの間にかそれもおさまって…そうしてMNコンビの穏やかな時間が流れていった。
このころがニッキさんにとってももじゃにとっても一番幸せな時だったんじゃないのかな。


          

2016.6月ニッキさんはもじゃが息を引き取るその瞬間も、いつもと同じようにお気に入りのカゴにもじゃと一緒に居てくれた。もじゃは安心して眠れたと思う。
独りになってしまったニッキさんはさすがに元気をなくしていき、もじゃを探すように啼くようになった。そのころ隣の保護部屋にはうっしーとお嬢が居て
稀に部屋を行き来してはいた。賭けだった。うっしーとお嬢を隣のニッキさんのところへ移してみた。
すべてはこれこそ杞憂だった。すぐにうっしーとお嬢はニッキさんに寄り添い眠り、ゴハンを食べ新しい生活が始まった。

                  
ニッキさんは、たぶんものすごい愛されキャラなんだと思う。外に居た時にも女の子たちに人気だった。誰ともつるまなかったココが唯一一緒に時を過ごした
相手もニッキさんだった。かるびとは犬猿の仲だったけどねw

そんなニッキさんも2017年に急性膵炎を発症したころから体調が思わしくないことが増え、痩せて小さくなっていった。同じころから時折大きな声でまるで
雄たけびを上げるように啼き続けるようになった。
正確な年齢は分からないが出会った時にもうそれほど若くはないと言われたニッキさん、これは認知症なのだと思った。
認知症は少しずつ進んで、同じ場所をクルクル回ったりベッドやトイレの場所が分からなくなることが増えた。けれど、お嬢もうっしーもニッキさんが大好きで
ニッキさんのカゴはいつもどちらかが一緒、2匹でぎゅうぎゅうなのは変わらなかった。
体力がないのでFVRの後遺症が悪化しやすく、そうなれば余計に食べられない。食べた量に応じてちゅーるを強制給餌して補食、投薬や時には水を背負わせたり。
ニッキさんにはさぞかし迷惑なことだっただろうが、それを大した抵抗もせず受け入れてくれた。痩せてさらに寒がりになったから…と服を着せてみた時も
トイレが分からなくなってあちこちに失禁してしまうようになり、マナーウエアをつけることにした時も、本当に粛々とその状況を受け入れてくれた。

ニッキさんを思う時、不思議なくらい楽しかったことしか浮かばない。ほっこりした気持ちになる。
たくさんの環境の変化にも時の流れにも逆らわず、けれど何があってもニッキさんはニッキさんで、いつでも誰からも愛されている。
様々なことが思うようにならない時だからこそ、そんな在り方を私もしたい。

年の瀬の青空にニッキさんは煙になって昇って行った。見えなくてもきっとその傍らにはもじゃが居たと思う。
空の彼方の虹の橋でMNコンビ復活。それはそれできっともじゃとニッキは幸せ。
こちらはしばらく寂しくなるよ。でもきっと、いつか、またね。



…とここで少しマナーウエアの考察。
仕事柄人間用のおむつは使い慣れているが、猫用のマナーウエアを使うのは今回が初めて。
使い始める前に現在使用中の猫友さんに相談、様々なアドバイスをもらった。そして実際に使ってみてなるほどねーの嵐。猫友さんとのやり取りの一つ一つを
まるで検証しているみたいだった。
まず、品質の良さにおどろいたね。人間用のおむつ開発の賜物なのだろうが吸収力やギャザー、テープの扱いやすさ、耐久性などにいやー本当に驚いたね。
素晴らしいと思った。
ただ残念だったのは、たぶん開発には元気な猫さんたちが協力してるんだろうなぁ…という点。もちろん若い猫さんであっても様々な状況でおむつを使うことが
あるわけでそれは問題ない。猫友さんとも話したのだが(彼女は某社の開発プロジェクトに参加させろとまで言っていたw) 少なからず若い猫とシニア猫では
オムツのカタチを変えることが必要だと思う。猫は生まれつき猫背だ。だがシニア猫はさらに猫背になる。そして大腿部から臀部が痩せていく。
この加齢による変化をクリア出来たらもっとフィット感の良い漏れないマナーウエアになると思うのだが…。ニッキさんが最後に教えてくれたこと。
開発チームのみなさま、ぜひよろしく。

ようこそ、ココちゃん 

2021年12月31日 | つれづれの日々
更けゆく2021年の大晦日。まずは今年もこんな寂れたBlogをお訪ねいただけたことに感謝を。
そして来る新年が皆さまにとって素晴らしい一年でありますように。

忙しない日々の中に埋もれていってしまう記憶のなんと多いこと…。いいのか悪いのか分からないが、少なからず今一番やりたくないのは長谷川式テストだな(笑)
数字を逆からとか…マジ無理だわ。
それでも記憶の底に沈んでいくものが多いということは、決して不幸ではないのだろうとも思う。沈まない記憶を思い煩うことはせつない。

3月に思いがけず「福」を保護したことで、庭にはミミとココの2匹が残ることになった。2匹ともかなりの古参組 ココはかしゃんとみけちゃん一家のTNRを
終えた後のいわばTNR2期組というところの2006年藪に現れて2007年にオペ。ミミは2008年庭に現れて同年オペ、リリースした子になる。
だからかれこれ13~15年を藪や庭で過ごしてきたということになるわけで、少なく見積もっても結構なシニア猫の部類になる。
ミミは時々体調を崩すことがあるが体格を保っているし、動きも悪くない。ココは一日の大半を藪の持ち主の庭か我が家の屋根で過ごしており毛ツヤや動きは
ミミより数段おちる感じはあったが、食欲はキープできていた。
とはいえ、どちらも高齢であることには変わりなく、福がいなくなり流入猫が増えるだろう庭は、これまでのように安らげる場所ではなくなるだろう。
どちらからでも構わない、福が落ち着いたらとにかく順に身柄を確保しようと決めていた。
9月初めの夜。ミミはいつものように駐車場で私の帰りを待っており、雨が降り出す前に…とゴハンをたくさん食べた。「明日、雨が止んだらちゃんとくるんだよ」
それがミミに声をかけた最後の日になった。
10月になり、夜はたいてい屋外の冷蔵庫の上から通り過ぎるダンナや私を呼び止めるはずのココの姿が見えなくなった。ココは毎日県道を渡る。体調だって決して
良いとは言えない。ミミに続いてココも消えてしまうのか…。それが外で暮らすということだと理解していても、気持ちはそうもいかない。
だから、10日ほど経った庭にココの姿を見つけたときには叫んじゃうくらい嬉しかったな。
やはり具合が悪そうで、食欲もあまりない。足の運びが悪く県道をヨタヨタ渡っていく。時間がない、と思った。
後肢が弱り、定位置の冷蔵庫の上に上がれなくなったココは、日中の陽当りの良い時間帯と夜半の私の帰宅時間を見計らって庭へ戻ってきているようだった。
チャンスは多くない。トラップケージに慣れさせながら粘った。
私はかつてココが連れていた仔猫を保護して里子に出している。
ココはとても慎重な子なのに、どうして仔猫が目の前でトラップされるのを黙って見ていたんだろう?と不思議がる私に猫の大先輩は「母ネコには仔猫が幸せに
なれることが分かる、だからそうしてくれる人に託す」のだと言った。
軽トラの下でそろそろ肌寒くなってきた風をよけながらゴハンを食べているココに「今度は自分自身を託して欲しい」と声をかけた。店前の自販機で買い物を
していたお客さんには、毎晩軽トラの下をのぞき込んでブツブツ言っているさぞかし怪しさてんこ盛りのおばさんだっただろうと思う(笑)

11月半ばの昼過ぎ。出かけようとしていた時、かすかな啼き声が聞こえた気がした。もしや…とのぞき込んだトラップケージにココの姿を見つけたときには
安堵しかなかった。ココには怖い思いをさせたわけで申し訳なかったが。トラップケージの中のココは、思っていたよりも小さかった。
用意していた2Fの二段ケージに移す。驚いたことに30分もしないうちにトイレに上等な便としっこ玉 意外に大物感。
上段には上がらないが、用意したクッションにちんまりと休み、ちゅーるもドライも食べる。出せ出せも言わず、ありがちなトイレ籠城もしない。さすがに
手が近くまで行くと「しゃー」言うけど、それだけ。逃げるわけでもなく猫パンチが炸裂するわけでもない。
やはり後肢の力が落ちていて通常設置してある中段に上がることも難しい様子だったので、さらにもう一段低位置に足場を設置するとほどなく上段にも上がる
ようになった。

そして今…こんな感じ。

     

湯たんぽを使いこなし、お腹が空けば下段に降り、啼いてゴハンの催促をする(笑) さすがにまだ下僕におさわりの許可を出しては
頂けないが。
寒さが緩むころには、リビングデビューできるかな。出窓で日向ぼっこする姿が見れるかな。
今はとにかく、暖かい冬を、風や雨に怯えない夜を、記憶に刻んで欲しいと思う。
ようこそ。ココちゃん。

そして、2002年 しろ・くぅ・ぶち そして ちゃってい の4匹から始まった我が家の「しろりん食堂」は閉店の運びとなりました。
今思うのは、途絶えることなく猫たちが次々現れていたのは、やはりミミが「おあがんなちゃい」をしていたんだなってこと。
彼女が姿を消してから、庭に猫の姿はない。
今度は誰かに「おあがんなちゃい」をしてもらって、新しい居場所を見つけたのか?そんなことは難しいと思いながらもそうであって欲しいと願ってしまう。
沈んでいかない記憶はいつまでもせつない。だけど、忘れないよ。ミミちゃん、また、いつか、どこかで。

夏の終わりに

2021年10月15日 | つれづれの日々

コロナ禍で2回目の秋がきた。ここ静岡も緊急事態宣言が明け、少しずつ人流が戻りつつある。県独自の警戒レベルも3まで下がったが、コロナウイルスの特性と
これまでの経過を考えれば、やはり治療薬が確立されるまではある程度のセルフロックダウンは維持すべきだろうと思う。
夏の終わりに、オヤジが逝った。実家を飛び出して20年余り、その間の日々を思うと意外にあっさり、あっけないとも言える逝き方だった。
リウマチを患い年々体の自由が利かなくなっていたが、「誰にも迷惑かけてない」が口癖だった。
実家の弟からは事実上絶縁、長年の別居の末母親とは一昨年離婚が成立。帰る家が本当に無くなった。
なぜなら彼の生涯はよく言えば自由奔放?いや…周囲に迷惑かけ放題の人生だったから。
ここ数年来の体調不良が、リウマチ治療に使用していたステロイドによる医原性副腎不全だと今年1月の入院で判明。
何度も繰り返される大騒ぎの救急搬送。呼び出されて駆け付ければ「もう帰りたい。早く連れて帰れ」と救急外来で駄々をこねるわ、検査では格別悪いとこないし…。
今回も同様で、しかもこのコロナ禍で2度目。
年末年始の連続勤務がようやく終わりヘトヘトだった私は、サ高住やケアマネと生活の調整をする気力もなく、救急のドクターにダメもとで頼んだ。
「数日でいいので、症状が落ち着くまで入院させてもらえないか」と。
しかしとにかく、このドクターがここ最近の一番の名医だった。
データ上では低Naであることしか異常のないオヤジ。しかも同様のデータで別の総合病院で精査しても異常なしの結果だったオヤジの体に隠れた原因をすでに推測して
いたんだろうね、あっさり「いいよ。じゃあ入院。」あの日の驚きとありがたさは言い尽くせない。
翌日には内分泌科に転科、確定診断。ステロイド依存性の病態のため、過不足なくステロイド薬を内服することで日常生活を取り戻すことができた。
けれど体力は落ち、サ高住での生活を継続することは困難と判断。2Wのショートステイをはさんで老健への入所を選んだ。
ここが終の棲家。もう救急搬送はしない、この施設で看取りまで…とお願いしたのは今年3月中旬。
入所後も施設スタッフにわがまま放題、暴言吐きまくり。それでも本人は「オレは迷惑かけてない」の一点張り。
施設からは大きなクレームをいただくことはなかったが、この20年、オヤジの所業に対する山のようなクレームを処理してきた私としては、時にスタッフから伝え聞く
日々の様子に、その言葉の後ろにあるオヤジの様子が想像できて申し訳なさでいっぱいだった。実際、入所時「自施設で、自分で看なくて申し訳ない」とスタッフ達に
頭を下げた。
この人は死ぬまで自分が何を言っているのか、やってきたのかもわからないだろう。いや…死ぬのか?私の方が先なんじゃない?いつまでこんなことが続くんだろう?
だから誤嚥性肺炎から低酸素となり、酸素吸入を始め食事も薬も摂れ難くなったと連絡の翌日、看取り同意書の記入をした直後に逝くとは思わなかった。
大急ぎで様々な手配をし、なんとか葬儀ホールの小さな部屋にオヤジの体を安置できたのは、暑い暑い一日が過ぎ、晩夏の陽が傾くころだった。
久しぶりにじっくり顔を見る。
いつもいつも腹立たしくてまともに顔を見たことなかったなぁとあらためて思った。痩せて小さくなったからだに20年前の面影は少なく、過ぎた年月を感じた。
最期に話したのいつだったかな。ああ、そうだ。施設で必要ないものを差し入れしろと言われて電話で言い争いになったんだっけ。
「持ってきてよ」に「嫌です!」だったなぁ。これが最期の会話って…さすがにヒドいね…と苦笑。承認欲求がとても強い人ですね…と以前関わってくれたスタッフに
言われたことがあるが、今になって思えば寂しかったんだろうな、あのわがままも暴言も自己アピールだったんだろうなぁ、完全に方法間違ってたけど。
亡くなってはじめて、腹を立てずに顔を見た。分かってやれなくて悪かったなぁと思った。でも、私にはもう無理だったよ。もう笑うことも無理だった。

連絡はしてみたものの母親は葬儀には出ないと返事をよこし、結局私と弟の二人だけで送ることになった。
賑やかなことや目立つことが大好きだったのに最期はめっちゃこじんまりしちゃったな。仕方ないか…。うん、だけどそれは「らしく」ないな。
20数年ぶりに顔を見て弟が言った「それでもやっぱりオレと似てるなって思ったよ」
記憶に残る一緒に暮らした日々の面影は少ないけれど、せめてあの頃のイメージで送り出そうじゃないか!そう決めた。
こんな時のために…とサ高住を引き払う時にかき集めてきた写真。古いものから新しいものまで。そのどれにもそれなりに楽しそうな表情が切り取られていた。
そしてカラオケに興じる小梅太夫ばりの衣装とメイクを施した姿にわかっていても何度もドン退くw
入院と引っ越しを繰り返すたびに大量に出てくるカツラと着物に毎度イラッとしたものだが、今回はひとりでニヤリ。
処分せずに保管していた衣類の中に、写真によく写り込んでいるお気に入りだったと思われるジャケットとズボンがあった。(ある意味、奇跡。)
さすがにカツラはないけど(笑)写真の中のニセ小梅太夫が好んで着ていたらしい緑色の着物は、唯一処分を逃れた1枚だった。(奇跡が渋滞w)
遺影には旅芸人の一座と撮った1枚を選んだ。(そうそう、この顔だよ。)
センスがどうだったかはともかく、おしゃれが大好きで見た目を気にする人だったのでエンバーミングを施し、新品のYシャツにお気に入りのベージュのジャケットと
ズボンを着せてもらった。死装束の代わりに緑の着物を掛けた。
遺影のバックには青空と富士山 ド派手な宮型霊柩車(もちろんベンツ)をチョイス。見送る人数こそ少なかったが、それなりに賑やかになったと思う。

先日49日を迎え、オヤジが眠る永代供養塔をたずね、花を手向けてきた。
オヤジが亡くなった時、私とオヤジの関係が良くないと察していた施設のスタッフから「ずいぶん色々なことされてきたの?」と声をかけられた。相当ホッとした顔を
してるのかな?って思ったな。
お世辞にもいい父親じゃなかった。(はっきり言うよ) ホントもういい加減にしてくれ!って思ってた。
だけど、そのおかげで(かなり迷惑だったけど)いろんな経験ができたことも事実だな。私がキレまくりながらも、とりあえずなんとかやり切るのは度重なるオヤジの
後片付けで得た知識や体験がベースにあるからだなと今思う。ま…それに感謝するとこまで私、ニンゲンのレベル上がってないけどねwww

なにはともあれ、82年の人生、お疲れさま。
実家を飛び出していった時、こう言ったよね。その言葉で送るよ。「じゃあね」

まさおにゃん またね!

2021年05月05日 | つれづれの日々
2021年4月26日 あともう少しで夜が明けるころ、まさおが虹の橋へ旅立ちました。
なんだか、まだ、お気に入りだった出窓のチラ見カーテンのかげで寝てるんじゃないかなぁって思ってしまうけれど。

とても長いあいだ一緒に過ごしてきていて。傍にいてくれることが当たり前で。
いったいいつからまさおにゃんは私たちと居てくれたのだろう…と画像フォルダを開く。かれこれ15年。共に暮らし始めて14年だったのだと気づく。
その長きにわたる時間を寄り添い過ごしてくれたことに、まさおの旅立ちからずっと堪えていたものがはじめて溢れた。

2006年にTNRをしたが、まさおはほかの藪っこたちのように庭にがっつり定着している子ではなかった。もちろんゴハンを食べに来てはいたけれど
近くの畑のおじさんに可愛がられているという話も聞いており、2~3日姿を見せないこともあったように記憶している。
2007年の9月の半ばから体調不良となり、投薬して様子を見ていたが軽快するどころかどんどん悪化していく有様で、食欲も落ち投薬すら困難になった。
姿を見せないことにヤキモキしていたその日の夕方、トボトボと勝手口にやってきたまさおにゃんの姿を見つけた時はホッとした。
そして、勝手口でへたり込んでしまったまさおにゃんを前に「病院連れていこう」と思った。
外に暮らす子を病院に連れていく、そしてそこから先どうする? そんなこと…ぶっ飛ばしてとにかく…とにかく連れていこう!と思ったなぁ、あの時。
高熱が続いてインターフェロン何度も打って、それでもなかなか下がらなくて。濃状の鼻水と涎が止まらなくて。FIV(+)だったことも重なって重症化していた。
VETにはリリース=「死」といわれたなぁ。
今でこそ「ヤバいね、この子。入れちゃおう」とある程度の保護ができるようになったが、当時のわたしたちには「保護」のハードルはとても高かった。
もちろん今だって決して低くはない。
だってその子の命を預かって守り続けることだからね、相応の覚悟と責任とそれを全うする環境が必要なことなのはこれから先も変わらない。
2Fの保護部屋には、人馴れの十分でない元藪っ子たちが散在してわちゃわちゃだったし、私たち自身も「保護」に慣れていなかったそんな中での強行。
言うなれば無茶ぶりもいいところ。それでも、死なせたくなかったんだよ、どうしても。助けたかったんだよ、どうしても。
高熱で呼吸も荒くて体を動かすこともつらかっただろうと思う、それでも起き上がって、歩いて、来てくれた。ここに来たいと思ってくれたその気持ちに
応えたいと思った。
 
           

大きな体にそぐわないビビリさんで控えめで。たくさんの猫と暮らす生活は決して楽ではなかっただろう。
黒目がちな大きな瞳と大きなパン。背中に三角のおにぎり柄。寝ている私にくっつけてくる額の温かさ。ダンナの背中にコッソリ背中を寄り添わせる。
まさおがずっとこの部屋で見つめてきたものは、わたしたちと猫たちの暮らしであり歴史だ。
楽しかったこと つらかったこと 悲しかったこと うれしかったこと その歴史を抱えてまさおは、新緑の庭から煙になって空へ昇って行った。

           

まさおがこの14年間ずっと私たちに与え続けてくれたもの、それはゆるぎない信頼にほかならないと思う。きっと猫の神様からの最高のご褒美にちがいない。
まさおはぶちのことが大好きで、まだまだ新入りだった頃から「ぶっちゃんみたいな優しくていいネコになるんだよ」って私に言われていたせいなのか
どんなに「かわいい」と言われるよりも嬉しそうな顔をする言葉がある。

           

「まさおにゃんはいいネコ」
まさおはしろりん家の大切な、いいネコだったよ。
いつか、また会おうね。その日まで、またね。

体力勝負な下僕とニッキさんの近況

2021年02月09日 | つれづれの日々
一年経ったね。思い起こせば去年の今頃は、1年過ぎてもまだコロナ禍にあるなんて考えてもみなかったな。
SARSやMERSそして今回のCOVID-19とすっかり有名どころになったコロナウイルスだけど、猫飼いの世界ではもっとずっとずっと以前から
猫コロナウイルスというやつは恐ろしい存在だった。そのお仲間がニンゲン世界においても生活を一変させるほどの脅威になったってわけだ。
新型コロナウイルスCOVID-19が世の中を席巻し始めた頃、ふと思い出したことがある。
ひとつは栗本薫氏の著作 『黴』 1983年初版発行の「時の石」という短編集の中の1編で、初めて読んだのは…かれこれ30年は前になるかな。歳バレる(笑)
その中の1節。
「人びとは、はじめのごく短いあいだは、あまりそれを真剣にとろうとはしなかった。なぜなら、他のものと異なり、それはあまりにも人類にとって身近で
長い年月を共生してきたものだったからである。」

そして黴が世界を静かに覆っていくさまに主人公は

「昨日まで自分のものだと信じて疑いもしなかった世界をー昨日そうであった通りに、明日も、あさっても、そのままずっとつづいてゆくと
ばかり信じていた世界をゆっくりと見回した。」

ニンゲンは、地球上において、明日のことさえもわからない存在だ。それがこの1年で世界中の人たちがはっきりと理解した唯一のことだと思う。

そしてふたつめ。猫伝染性腹膜炎…FIPは猫飼いを震え上がらせる呪文だ。
私は経験がないが、猫の先輩方も大親友も、猫コロナウイルスが引き起こすこのFIPという病気で大切な仔たちを空に還した。
基本、私は何ごとも経験派だが、FIPに関しては経験せずにこれたことが幸せだと思える。
そのFIPについて10年以上前に、それこそ猫の大先輩がブログに残してくださった幾つかのエントリ。
当時もFIPについて本当にわかりやすく拝読し、そして人の医療よりも遅れがちな動物医療の発展を祈ったものだが。
          はなちん先生のblogはここからドゾ

エントリの中で大先輩は書いている。
FIPの本態は「サイトカインストーム」で(種の特異性から猫には効くわけないとしながらも)「抗リウマチ薬が原理的には凄く効くと思う」

まさかそれが、2020年。猫の世界でなく、対新型コロナウイルスの、ニンゲンの世界で現実になるとはね。


『黴』の終盤 主人公は、旅立つ(もしこれから読んでみようと思う方いらっしゃたらネタバレごめんなさい)

「それはふいうちをくわせたけれども、ちゃんとまた、うろたえた巨人にひとすじのチャンスはのこしておいてくれたのだ。」

ほどなく始まるワクチンの接種、日々研究と開発が続けられる新薬、また現場でデータが蓄積されていく既存薬剤の数々。
そしてなによりも 大切なヒトを守りたい という思い。
チャンスはある。生きている自分こそが希望。


さて、日々のことを書き始めると、まー止まらないのよ、愚痴がw 
うちの施設はまぁなんとか新型コロナウイルスから今のところ逃げ続けて…いや、感染者が出ていないというだけで実はがっつり捕獲されているか。
家族が勤める療養施設で感染者が出て、同居家族がその対応にあたらざるを得ない。自宅にウイルスが入るかもしれない、家族が感染するかもしれない不安。
自分も感染するかも…なによりも自分がスプレッダーになってしまうことへの恐怖と不安。キツイ。ホントに気持ちがキツイ。
そうして同僚のナースが辞めていった。
病院はもちろんだけれど、介護施設なんて元々ギリギリの人数でまわしている。ましてやこのコロナ禍だ、消毒やガラス越し面会…あれやこれやと
通常外の業務や対応が山積み。だけど仲間は減っていく。
これまでは急変したり、お看取りの時期が重なって残業が続いてたけど、今は違う。
リアルに勤務時間が延長されたシフト組まれてる。残業じゃない。もうね、笑っちゃう。歳だねー階段の往復で膝も笑っちゃう。
感染者が出ていなくても、コロナウイルスは確実に息の根を止めにきてる。じわじわとね。
うちの施設におけるコロナワクチンの接種は、ナースも含めて高齢者施設の括りで行うのでもう少し先になる。法人内のクリニックの職員は先行接種。
正直に書けば、効果のほどはまだまだ分からないと思ってる。でも打ったら少しだけ気持ちが楽になるかもな。
ただ接種が始まることで新しい面倒がもりもりっと起きてきそうな予感がしている。
多いんだよね…「ワクチン打ったら自由に面会できますよね?」って家族。
いや、そんなことないからね。ワクチンはひとりひとりの体の中で、抗体を作らせるためのいわばスイッチャーに過ぎない。
社会の中で、ひとりひとりの体の中の抗体が安定したシールドとして機能するまでは、やはり「距離」を保つことが一番。
静岡県は、変異種発見の影響もあって先月5とした県独自の警戒レベルを4へと引き下げたが、うちの施設はガラス越し面会を継続だ。
そろそろまた次の面会の準備しなくちゃだなー。会いたい気持ちと感染させたくない気持ち。どちらも叶えるのは難しい。
そんなこんなで、もはや底をつきそうな気力を体力でカバーする日々が続いてる。

保護部屋のニッキさんは低空飛行。まぁね、あの膵炎からよくリカバリしたと思うし、FIVの影響もでてると思うしね。
確かなことはわからないけど、出会ってから少なくとも15年は経つわけだから、まぁそこそこいい歳ではある。
眠る時間が長くなり、少しずつ食べる量が減り。けれど食べないわけじゃない。食べる根気というかな―それが無くなっていく感じ。
湯煎したシニア用ウェットを自力で食べられるだけ。そのあと表情を見ながら高カロリーちゅーるを強制給餌。
使うものがちゅーるだということと下僕の雑な性格もあり、5mlのシリンジに1/2本入れ、1mlぐらいずつ流し込んでいくことを繰り返す。
実に上手に飲むのよ、ニッキさん(笑)
あと加齢による腎不全の進行があるから、週1程度で水を背負わせで脱水を軽く補正。
この冬は下僕の不在時間も長くなって、温度管理がムズいので服を着てもらってみた。

 

くっついて寝ているのは「うっしー」ニッキさんの保温担当w
最初の1日ちょっと苦戦していたけど、そこからはちゃんと着こなしてる。えらいぞ、ニッキさん。
お互いに無理はしないで、楽しくいこう。

が…服を着こなすニッキさんを横目に思いがけず下僕の涙腺が崩壊。
ぶっちゃん、逢いたいなぁ。  

今年の冬も外で頑張る子たちは、あと3匹。
 

 下僕、がんばらんとね。

またおまえか…だった件とふわりが○○だった件

2020年12月04日 | つれづれの日々
暖かい日が多いが、もう12月。春になれば…夏が過ぎれば…秋が来るまでには…そして冬。
世界はafterコロナどころではなく、未だ渦中にある。

静岡市内の感染拡大は未だ収束が見えず、12月2日、市内のコロナ病床使用率はおよそ80%になった。
ベッドと医療従事者の確保が急務…と各方面で検討がされているけれど、ベッドは確保できても医療従事者の確保は難しいだろうと思う。
しかし病床と人員がが確保できなければ、今後増えるであろう高齢者の受け入れは困難、施設入居の場合は介護の現場での対応に切り替えざるを
得ないという見解だ。
先日、市内のコロナ患者受け入れをしている総合病院でクラスターが発生、大きなニュースになった。が、続いて報道されたのは病院職員や家族の
差別的体験についてだった。
静岡では第1波時にも同様のことが他病院で起きていて、相当な非難があったはず。
誰もが罹り、拡げる可能性がある。すでに罹っていて気づかないまま拡げているかもしれない。ましてや医療や介護の現場にはソーシャルディスタンスは
通用しない。だけど罹らない拡げないことが絶対条件で、どれだけ感染対策していても不幸にもそうなってしまった時には誰よりも非難される。
足りないです!誰かお願いします!って…やりたい人、いると思う?
医療や介護関係の人たちは、職場を離れても仕事から離れられない。
go to travel も eat も遠い世界過ぎて見えない(笑) 正直みんなそんな生活に疲れ果ててる。
だけどね、仕事だから。家族を守って暮らしていく糧だから、支えあって踏ん張っている。

差別だと非難された行為も言葉も、元をただせば大切なヒトを守りたくてココロから溢れてしまったモノ。
だけど医療や介護に携わる人たちにも、その行為をした人たちと同じように、大切なヒトが居て、守りたい暮らしがある。
そんなことすら判らなくさせることが、コロナウイルスの本当の恐ろしさなのかもしれない。

私のような介護福祉現場の医療従事者には、コロナ感染で苦しむ患者さんたちを助ける術はない
日々奮闘している医療スタッフに手を差し述べる術もない
だからせめて新たな感染者を出さないことで最前線の医療スタッフを助けたい。
またいつか家族と元気に会えるように利用者さんの命を守りたい。
そして自分たちの家族を、暮らしを、これからを、精いっぱい守りたい。

医療従事者にエールよりも手洗いとマスクを。感謝よりも今すべきことを考えた行動を。それがなにより彼らを力づけることを忘れないで。


さて、2020年も終盤となり…とりあえずこの1年を振りかえってみる。きっとホントの年末には振り返るのを忘れるからねw
しろりんは訃報の時しかblog書かない…とお叱りを受けたので(笑)最初に書いておきますが、猫たちはみんなそれなりに元気です。

年々持久力が無くなっていく私。一番の反省はとうとう「福」をオペに持ち込めなかったことに尽きる。以前に比べてた確かに時間もないのだが
とにかく持久力が落ちたー。また最近はTNRをする人たちも増え、おそらくそういう現場に行き当たった経験を持つ猫が増えているんじゃないかな?
以前に比べて、トラップケージに対する警戒心が強い子が多くなったようにも感じている。ま、以前だったらそれがやる気スイッチを連打する刺激に
なったものだけど…歳かな?(笑) いやいやいや、こんなこと書くとまだまだ現役の大先輩方にお叱りを受けるねw
引き続き2021年早々にも解決したい案件ということで、諦めず頑張る。
そして…激今更感だけど、お庭番の「ちょびこ」が2019年末に部屋ネコ修業に。意外にスムーズに2Fの一歩とまさおと交流し、歴代の保護ネコ最速で
キャットドアを使いこなすまでになったのだけれど、彼女なりにかなり大変だったんだろうね…粗相が続くようになり離れの保護部屋へ移動。個室で
部屋暮らしの基本をやり直すことに。

              
そして一年。もりもり食べて、気ままに寝て、出して@トイレ。ヒルズよりロイカナが美味いね!というふとましい猫になった。
私との距離は残念ながら少し遠くなった気がするが、爪も牙も出ないので良しとする。相変わらず家猫の基準が激しく低いチームしろりん。
いいの、いいの。気ままに「生きて」てくれれば、それで。

そして時折、猫親友からその生存を確認されていた我が家の白いもっさもさの猫 コードネーム「ふわり」
ウォル亡き後、保護部屋で独り暮らしをしていたが、昨年のぽぽのすけ肝リピ事件を境にぽぽのすけ&ゴローと交流するようになり、意外にも
ぽぽのすけのことが大好きでくっついて眠ったり。ああ…良かった、やっとぽぽのすけにもゴローちゃん以外の仲良しさんができた!と安堵して
いたが…やはり事件は起こったorz
9月のある朝、保護部屋のドアを開けたらすごい便臭。不思議なんだけど瞬間的に思った。これ、病気じゃないって。下僕、仕事柄便臭にはちょっと
うるさい。
部屋に入ると飛散した被毛とステップの最上段にお尻を便まるけにしたふわりを見つけた。どうやら大腿部を数カ所咬まれているようだが、
みまわしても大きな出血はない様子。
触ると威嚇が酷くてなかなか確認が難しいが、ウェットと水を前に置いたら食べ始めた。うん、食べられるならとりあえず大丈夫。
犯猫は…目星がついているというか、あいつしかいないけど。ぽぽのすけ、鼻筋に長い爪痕つけてた。はい、確定。またっつうかやっぱりおまえか…。
ふわり部屋とぽぽ&ゴロー部屋はラティスドアを閉じれば分離できるが、ふわりの威嚇はハンパなく…ラティス挟んでお隣さんもムリそう、
部屋の組替え必至な様相。
基本、病気がちだったり人馴れ不足や気難しくて里親募集が困難な子ばかりが手元に居るわけで、急な組替えは難しい。とりあえずちょびこ退去で
空きのある2Fにふわり引っ越しで手を打つ。
引っ越しを前に、咬みキズからフレグモーネになっても嫌なので、威嚇しまくるふわりをネットに突っ込みキャリーを抱えてびよいん受診。
その時ちょっと「ん?」って思ったけどココロの中で「気のせい、気のせい」って打ち消す下僕。
お久しぶりのびよいんで事情を聴かれて「あ゛ー、ぽぽちゃん、またやっちゃったかぁ…」「うん。顔に証拠ついてたよ」と交わされる会話www
そしてお約束のBW測定。VET「ん?」 スタッフ「ゼロ点あわせました?」 下僕はその時データを見逃さなかった…でも再計量に賭けた。
慎重にゼロ点合わせて…再計量 ハイ注目!
VET & スタッフ & 下僕 全員「…」言葉を失う。やっぱり見間違いでも気のせいでもなかった。7.64㎏…。重っ!全然ふわっとしてなかった(汗)
そこから先は…「腹すごいね」とか「がっちりしてる」とかチンチラミックス女子の話題とは思えない言葉が飛び交う。
ふわりは両大腿部を結構な箇所咬まれていたが、幸いにも深かったり裂けたりしている傷はなし。抗生剤を処方してもらって、気のせいじゃなかった
重たいキャリーを抱えて帰宅の途に就く。
大したことが無くて良かったし、「相手がぽぽちゃんだから、ちゃんと診てあげて。容赦ないから!」とぽぽのすけの悪行を知り尽くした
ベテランスタッフがVETに掛けた言葉がなにより最高にツボってしまった下僕であった。ふわちゃん、ごめんよ。

2Fに用意したケージがふわりの新居。よほど怖かったんだろうなぁ…ニンゲンは平気だけど、初見の一歩にもまさおにも威嚇しまくり。
対する2匹は「ヤダ、このヒトこわい」とビビリまくり。

         
それでも少しずつココロが緩んで、1W過ぎるころにはケージの外に出られるようになり、2Wめには一歩とゴハンを食べられるようになった。
気の小さいまさおとはもう少しだけ時間が掛かったけれど、今は3匹で頭を突き合わせてゴハンを食べている。

         
ダイエットも兼ねて活動範囲が広がれば…と、ダンナが若干ドンくさいふわりのためにリビングのキャットステップを増設して動きやすいように
してくれた。キャットドアも通過できるようになった。通過時になんかほかの二匹とは違う音してるけど。
ずっと保護部屋暮らしだったから知らなかったけれど、ふわりはとにかくニンゲンが好き。とんだアクシデントで痛い思いをしたけれど、部屋の
移動のきっかけをもらったと思えば、悪いことばかりじゃなかったのかもしれないな。
あ、ちなみに「ふわり」という名前は「名は体を表す」ように魔改名 今後は「ふわりDx」でお見知りおきを!

ロコちゃんの旅立ち

2020年04月18日 | つれづれの日々
非常事態宣言が全国展開になり、こんな田舎でも人通りが本当に少なくなった。
職場はなんとか感染者を出さずに過ごせている。規模は小さいけれど、総合診療的なクリニックをはじめ、様々な介護サービスを包括的に行える法人体系。
なので、ヒトの出入りはなかなか縮小できない。特にデイサービスでは、感染防止策がトラブルの火種になることも増えていて、対応するスタッフを疲弊させている。
私の勤務する老人ホームではもう数か月にわたって、ご家族には本当に申し訳ないのだけれど面会制限をさせていただいている。
とはいえ、看取り期の利用者さんもおられるので、そこはやはり一律に制限はかけられない部分もあり…日々葛藤しながら対応している。
が、そういう日々の中で思うことは、3密を避けろ!といくら声高に叫んでみても、それを理解できない人が残念ながら一定数存在するということだ。
面会はできないと言っているのに、関東(最初の非常事態宣言県)から静岡へ高速バスで行き来し、在静の家族にまで感染のリスクを広げてしまっているのに
お母さん、コロナに気をつけて元気でいてねと言う家族…気分転換に食事に連れて行きたいという家族…気持ちはわからないでもない、でもね、でもね…。
挙げたらきりがない。
感染したくないのは誰しも。なのにどうして感染させないことには意識が低くなってしまうんだろ。
感染させられた、うつされたくないという被害者的な考え方じゃいけない。 もし感染したとしても、自分がそこから感染を拡げないことが大事。
もし自分が誰かを感染させてしまったとして、その相手は名前も知らない人かもしれない。けれどそこからまわりまわって次は自分の大切なヒトが感染するかもしれない。
ウイルスはそこらじゅうに存在している。
罹りやすさは個人の感受性(体力や抵抗力、既往など)に因るところが大きいが、ウイルスが何かを介して拡がっていく…この経路だけは本来コントロールが可能なはず。
私の大切なヒトを私が守る。誰もがみんなそんな気持ちでこの自粛期間を捉えて欲しいと思ってやまない。

ロコちゃんの里親さまから1通のメールが届いた。
掛川から埼玉へ、そして可愛い同居ネコとの暮らしと別れ、歩調を合わせて歩んでくれた里親さまご夫妻との穏やかな日々を経て、ロコちゃんが虹の橋へ旅立った。
このところなぜだか今はもう猫の姿もなく閑散とした藪横の駐車場を見るにつけ、この藪のことを知っている子はロコちゃんだけになっちゃったんだなぁ…と
思い返すことが多くなっていたが、もしかしたらなにか感じるところがあったのかもしれないな。


         

くろくろちゃんと同時期に保護猫生活をしていたロコちゃん。 人馴れは本当に不十分で、今考えてもかなり無謀な里親募集だった。
押し入れに引き籠り&激しい夜啼きのトライアル期間…これは無理だなと思っていたのに本譲渡の運びとなり、ありがたいより驚きの方が大きかった保護主の私。
もしもどうしてもお困りの時には戻してくださって構いませんと伝えた時「大丈夫です」と即座に応えてくださったことを覚えている。
そしてその言葉通りにゆっくりゆっくり時間を重ね、信頼を紡ぎ、穏やかな暮らしを作り上げてくださった。

             13年間のなかではいろいろなことがありました
             特に最初のころは苦労をしました
             でもそれはヒト目線であり、ロコに言わせれば全世界が○○家という状況に一転し不安と恐怖が最大級となっていたと思います
             それを少しずつ僕らを許してくれるようになり、ひところからは僕らを認めてくれるようになったとも感じています

          


          

             とても幸せな13年間でした
             これからもその幸せは続きます


知識も力もなくて、どうしたらいいのかわからず、救いたくても救えなかったたくさんの藪っ子たち。
藪横の餌場はcloseできた。猫の姿を見かけることもない。TNRとしては、ほぼ完了したと言えるだろうが、結局残ったのは後悔ばかりだ。
けれど、そんな中で保護にこぎつけ、新しい家族として迎え入れて貰えた5匹の子たちの存在が私を支えてくれてきたとも思っている。

メールはこんなふうに結ばれていた。

             13年前に僕らにロコを託してくださったことがすべての始まりです
             こんな素敵なネコと一緒になれたことを嬉しく思います 

ロコちゃんと里親さまを繋ぐ役割を与えてもらえたことに感謝。 なによりの嬉しい言葉です。本当にありがとうございました。 
ロコちゃん、ありがとう。いつか、またね! 


くろくろちゃんの里親さまからも春の便りが届く。

          

満開の桜の下で、ぶちとくぅが花見酒。
このカードを見つけた時、ぶちとくぅからの「元気にやってるよ」って伝えて!というメッセージなんだと思った…と里親さま。
折々に届く言葉の数々は、今は亡き猫たちが結んでくれたご縁から生まれたものだ。
なんにもしてあげられなかったのに、もらったものの方が多いじゃないか…。まったく…ダメだなぁ、この下僕。
まだなお、猫たちに支えられている。


くぅちゃん またね!

2019年11月23日 | つれづれの日々

11月18日 早朝 くぅが虹の橋を渡りました。

長く暑かった8月の終わりに体調を崩して受診。検査データは思いのほか悪くなく、脱水の補正と数日の投薬で再び食べられる
ようになった。
このままこの秋も乗り切れるかなと思っていたが、10月に入った頃から少しずつ食べる量が減り、そのうちパッタリ食べなくなった。
ただし、本人はいたってゴキゲンで、だた「食べない」だけ。
様々な可能性を探った投薬のいずれにも好反応はみせなかったが、投薬を兼ねて高栄養ちゅーるを強制給餌すれば案外上手に
飲み込み、嘔吐することもなかった。しばらく続けて体力が戻れば、また食べられるようになるだろう…なんて構えていたが
どんな食べ物にも興味を示すようにならず、スッと離れてしまう…の繰り返し。
そして徐々に給餌への抵抗が増し、10月の終わりには給餌しても殆どを口から吐き出してしまうようになった。抵抗するたびに
顎からギリギリという音が聞こえるようになり、そのころから水もうまく飲めなくなった。急速に後肢の力が落ち、お気に入りの
出窓にも上がれなくなった。
理由はわからないが、猫の終末期には顎からギリギリガリガリという歯ぎしり様の音が生じることが多い。
もうすぐ18歳。お別れの時が近づいていると思った。
嫌がっても強制給餌をがんばって、濃厚な治療をすればもう少し生きられるかもしれない。
けれど、食べないだけで日々を楽しそうに過ごしているくぅにとって、それは必要なことではないんじゃないかな。
むしろ変わらない日々を過ごすことこそが彼女の望みなんじゃないのかな。
チームしろりんらしく送る。くぅが嫌がることもいたずらに苦しめることもしない、したいことをして、行きたいところへ行って
眠りたいところで眠れるよう。そうして最期の日々を穏やかに過ごせるようにできるだけのことをしよう。
強制給餌したちゅーるをとうとう吐いてしまった日、そう決めて強制給餌を止めた。

くぅは仔猫の頃からとびきり臆病で用心深いステルス猫で、4兄妹のうち3匹がゴハンを食べていてもなかなか近寄らないのに、
真っ先に食べ終わりぶっ飛んでどこかへ消えていく子だった。
それなのに思いがけないところで大胆で(笑)ネコ嫌いのじいさんが作業をしている目と鼻の先で一日中ぐぅぐぅ寝ていて
「見つかりはしないか?」?と見ているこちらをヒヤヒヤさせたりもした。
慎重で頭が良くて、(オペ時を含めて我が家の猫たちは1~2回トラップケージのお世話になった子が殆どなのだけど)くぅは
どうしてもトラップできなかった数匹のうちの1匹でもあった。だからオペ時と保護時の二回とも私はくぅに咬まれて流血…
今思い返しても手強い子だったと思う。
保護してからも夜啼きが激しくて、猫との生活に慣れないダンナはかなり苦労していたし、なんとか落ち着かせようと猫の
先輩たちにたくさんのアドバイスいただき助けて頂いたのも今になればいい思い出。
抱っこもスリスリも本当は大好きなのに結構なツンデレ&元来の臆病さが災いしてなかなか素直に行動できない。
保護した子がダンナに懐いて胸の上で眠る姿をタンスの上からじぃぃぃぃ-っとにらんでいた姿が忘れられない(笑)
ぶちのことが大好きで頼りにしているくせに常に態度はめっちゃ強気(笑)ぶちも「仕方ないなぁー」って感じで対応(笑)
そんな彼女も歳を重ねるごとに穏やかにしなやかに気持ちを表せるようになり、酔っぱらったダンナがお腹に顔をうずめて
眠ることを許したり、ぶちや一歩、まさおとくっついて眠る姿を見せるようになった。





昨年末にぶちが逝ってしまった後からは、ぶちの定位置だった私の左脇に顔をうずめて眠るようになった。一緒に暮らして14年。
くぅを抱いて眠れる日が来るとは思いもよらなかった。

食欲は廃絶、嘔吐を誘発してしまうので強制給餌は止めた。上手く水が飲めないが水入れの前に佇むことがあれば、様子で水を
背負ってもらうくらいしかできなかった。それでも、仕事を終えたダンナが部屋に戻ると「おかえりー」といい姿勢で迎えた。
毎晩、喉をゴロゴロさせて我先にと布団にやってきて眠った。
半ば気を失っている時間が多くなってからも、その習慣は続いた。よろよろとおぼつかない足取りでもやめなかった、
そしてその日の朝も私の左脇に入り込んでしばらく眠ったあと、静かに静かに旅立っていった。




存在感って、躯体や動きや声の大きさなんか関係のないもの…その子の在り方「佇まい」なのだと思う。
動物には「死」を受け止める悲しさや淋しさは無いかもしれない。そもそも「死」という概念があるのかどうかもわからない。
だけどそこに在るべきものがないという「喪失感」は、彼らの中にも確実にある。
くぅの姿の無いリビングがやけに広く感じているのは、私とダンナだけではないはずだ。

ぶちが逝ってしまった後、くぅは夜になると時々「あーあー」と啼いて歩くようになった。普段ほとんど出入りすることのない
寝室に入り込んで、物陰に向かって啼いた。
帰りが遅い私を探しているとダンナが言った。でも私が居ても啼くときがある。やっぱりぶちを探しているのかな?
猫は環境の変化に弱く、変わらないことがなによりの安心感になる。
くぅが求めていたものは必ずしも私でもぶちでもなく、時の流れの中で少しずつ自分の周りから欠けてしまったなにか…だったの
だろうと今は思う。

2002年にしろとぶちとくぅ、そして風になってしまったちゃってぃーの4兄妹と出会って始まった猫たちとの暮らしとTNR 
何も終わっていないし、これからも変わらず続けていくのだけれど、それでもなにか自分の中でひと区切り。
それは淋しさよりもあの日母ネコから預かった仔猫たちを時を経て、空へ還すことができた安堵感のほうが大きいかもしれない。
「死」はだれもが往く道。どんなに悲しくても淋しくても、いつか自分も必ず往くのだと思えば、しばしのお別れに過ぎない。
だからさよならは言わない。くぅちゃん、一緒に暮らしてくれてありがとう。その日まで、またね。