コロナ禍で2回目の秋がきた。ここ静岡も緊急事態宣言が明け、少しずつ人流が戻りつつある。県独自の警戒レベルも3まで下がったが、コロナウイルスの特性と
これまでの経過を考えれば、やはり治療薬が確立されるまではある程度のセルフロックダウンは維持すべきだろうと思う。
夏の終わりに、オヤジが逝った。実家を飛び出して20年余り、その間の日々を思うと意外にあっさり、あっけないとも言える逝き方だった。
リウマチを患い年々体の自由が利かなくなっていたが、「誰にも迷惑かけてない」が口癖だった。
実家の弟からは事実上絶縁、長年の別居の末母親とは一昨年離婚が成立。帰る家が本当に無くなった。
なぜなら彼の生涯はよく言えば自由奔放?いや…周囲に迷惑かけ放題の人生だったから。
ここ数年来の体調不良が、リウマチ治療に使用していたステロイドによる医原性副腎不全だと今年1月の入院で判明。
何度も繰り返される大騒ぎの救急搬送。呼び出されて駆け付ければ「もう帰りたい。早く連れて帰れ」と救急外来で駄々をこねるわ、検査では格別悪いとこないし…。
今回も同様で、しかもこのコロナ禍で2度目。
年末年始の連続勤務がようやく終わりヘトヘトだった私は、サ高住やケアマネと生活の調整をする気力もなく、救急のドクターにダメもとで頼んだ。
「数日でいいので、症状が落ち着くまで入院させてもらえないか」と。
しかしとにかく、このドクターがここ最近の一番の名医だった。
データ上では低Naであることしか異常のないオヤジ。しかも同様のデータで別の総合病院で精査しても異常なしの結果だったオヤジの体に隠れた原因をすでに推測して
いたんだろうね、あっさり「いいよ。じゃあ入院。」あの日の驚きとありがたさは言い尽くせない。
翌日には内分泌科に転科、確定診断。ステロイド依存性の病態のため、過不足なくステロイド薬を内服することで日常生活を取り戻すことができた。
けれど体力は落ち、サ高住での生活を継続することは困難と判断。2Wのショートステイをはさんで老健への入所を選んだ。
ここが終の棲家。もう救急搬送はしない、この施設で看取りまで…とお願いしたのは今年3月中旬。
入所後も施設スタッフにわがまま放題、暴言吐きまくり。それでも本人は「オレは迷惑かけてない」の一点張り。
施設からは大きなクレームをいただくことはなかったが、この20年、オヤジの所業に対する山のようなクレームを処理してきた私としては、時にスタッフから伝え聞く
日々の様子に、その言葉の後ろにあるオヤジの様子が想像できて申し訳なさでいっぱいだった。実際、入所時「自施設で、自分で看なくて申し訳ない」とスタッフ達に
頭を下げた。
この人は死ぬまで自分が何を言っているのか、やってきたのかもわからないだろう。いや…死ぬのか?私の方が先なんじゃない?いつまでこんなことが続くんだろう?
だから誤嚥性肺炎から低酸素となり、酸素吸入を始め食事も薬も摂れ難くなったと連絡の翌日、看取り同意書の記入をした直後に逝くとは思わなかった。
大急ぎで様々な手配をし、なんとか葬儀ホールの小さな部屋にオヤジの体を安置できたのは、暑い暑い一日が過ぎ、晩夏の陽が傾くころだった。
久しぶりにじっくり顔を見る。
いつもいつも腹立たしくてまともに顔を見たことなかったなぁとあらためて思った。痩せて小さくなったからだに20年前の面影は少なく、過ぎた年月を感じた。
最期に話したのいつだったかな。ああ、そうだ。施設で必要ないものを差し入れしろと言われて電話で言い争いになったんだっけ。
「持ってきてよ」に「嫌です!」だったなぁ。これが最期の会話って…さすがにヒドいね…と苦笑。承認欲求がとても強い人ですね…と以前関わってくれたスタッフに
言われたことがあるが、今になって思えば寂しかったんだろうな、あのわがままも暴言も自己アピールだったんだろうなぁ、完全に方法間違ってたけど。
亡くなってはじめて、腹を立てずに顔を見た。分かってやれなくて悪かったなぁと思った。でも、私にはもう無理だったよ。もう笑うことも無理だった。
連絡はしてみたものの母親は葬儀には出ないと返事をよこし、結局私と弟の二人だけで送ることになった。
賑やかなことや目立つことが大好きだったのに最期はめっちゃこじんまりしちゃったな。仕方ないか…。うん、だけどそれは「らしく」ないな。
20数年ぶりに顔を見て弟が言った「それでもやっぱりオレと似てるなって思ったよ」
記憶に残る一緒に暮らした日々の面影は少ないけれど、せめてあの頃のイメージで送り出そうじゃないか!そう決めた。
こんな時のために…とサ高住を引き払う時にかき集めてきた写真。古いものから新しいものまで。そのどれにもそれなりに楽しそうな表情が切り取られていた。
そしてカラオケに興じる小梅太夫ばりの衣装とメイクを施した姿にわかっていても何度もドン退くw
入院と引っ越しを繰り返すたびに大量に出てくるカツラと着物に毎度イラッとしたものだが、今回はひとりでニヤリ。
処分せずに保管していた衣類の中に、写真によく写り込んでいるお気に入りだったと思われるジャケットとズボンがあった。(ある意味、奇跡。)
さすがにカツラはないけど(笑)写真の中のニセ小梅太夫が好んで着ていたらしい緑色の着物は、唯一処分を逃れた1枚だった。(奇跡が渋滞w)
遺影には旅芸人の一座と撮った1枚を選んだ。(そうそう、この顔だよ。)
センスがどうだったかはともかく、おしゃれが大好きで見た目を気にする人だったのでエンバーミングを施し、新品のYシャツにお気に入りのベージュのジャケットと
ズボンを着せてもらった。死装束の代わりに緑の着物を掛けた。
遺影のバックには青空と富士山 ド派手な宮型霊柩車(もちろんベンツ)をチョイス。見送る人数こそ少なかったが、それなりに賑やかになったと思う。
先日49日を迎え、オヤジが眠る永代供養塔をたずね、花を手向けてきた。
オヤジが亡くなった時、私とオヤジの関係が良くないと察していた施設のスタッフから「ずいぶん色々なことされてきたの?」と声をかけられた。相当ホッとした顔を
してるのかな?って思ったな。
お世辞にもいい父親じゃなかった。(はっきり言うよ) ホントもういい加減にしてくれ!って思ってた。
だけど、そのおかげで(かなり迷惑だったけど)いろんな経験ができたことも事実だな。私がキレまくりながらも、とりあえずなんとかやり切るのは度重なるオヤジの
後片付けで得た知識や体験がベースにあるからだなと今思う。ま…それに感謝するとこまで私、ニンゲンのレベル上がってないけどねwww
なにはともあれ、82年の人生、お疲れさま。
実家を飛び出していった時、こう言ったよね。その言葉で送るよ。「じゃあね」