拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅵ

2022年12月05日 | 老舗の中華料理
■nakoさん、のこと
 佳境に入る前に、傍証になることを書いておく。話を引っ張りすぎているのは承知だが、もう少しお付き合い願いたい。

 nakoさん、のブログのことだ。「いたのーじ」さんからの情報提供があったのがきっかけで、自分で調べたことも含めて書くと、要はこういうことである。

 2018年4月にUPされたこんなブログ(記事)がある。すでに連絡が取れ、転載の許可も頂戴しているから一部抜粋する。
 ブログの管理者はnakoさんと仰る女性である。紹介するブログは横浜・野毛の辨麺提供店である「萬福」でnakoさんが食べたときのことで、同店主人から聞き取った話、である。

 『先代は會星楼(注21)から独立。中華丼・五目焼きそばとあたまは一緒!五目焼きそばには錦糸卵をのせている。
會星楼で修業されていた方が長野に行かれた。長野にバンメンがある理由はこれかも!? 會星楼の方は本牧の出身。(万福店主は)冷やしバンメンを作ったことがある!というお話』。

 この話、辨麺が「横浜から長野」に伝わった傍証にもなる貴重な話である。ただ、一部は残念ながら事実と違う箇所もある。補足が必要であるから、少し解説を加える。

 まず筆者(管理者)のnakoさん。相当に辨麺を食べ歩いて、研究もきちんとされている(注22)ので、辨麺とは何ぞや、ということにはお詳しい。

 この引用文の冒頭、“先代”とあるのは「萬福」の先代の主で、會星楼というのは同じく野毛にあって、すでに廃業しているがかつて辨麺を提供していた店である。ボクが食べに行った2017年4月時点では“うま煮そば”として提供していた店だ。“あたま”というのは上に載る「具」のことを指す。會星楼の創業時期は不明で、これは結構重要なことなのだが、ボクが伺って食べた当時、そして今回と、その時期を再度調べたのだが、分からずじまいであることはご容赦願いたい。

 文中に『會星楼で修業されていた方が長野に行かれた、その人は本牧の人』とある(その人を便宜上A氏とする)ので、こんな推測が成り立つ。まず本牧、とは無論、辨麺提供店が多数点在する“山手・本牧エリア一帯”のことである。A氏の出身まで知っていて、さらに転職先まで知り得たということは、萬福の初代が、A氏とともに同時期に會星楼に在籍していたということではないか。


 (會星楼もすでに廃業。右はうま煮そば。2017年4月)

 ボクも萬福に伺っている。2016年のことだ。その時ですら現在の萬福(二代目)主人はご高齢であった。その親御さん(初代萬福主人)は明治末期から大正末期ごろまでに生まれた方ではないかと推測できる。となれば、A氏と初代萬福主人が會星楼で勤務されたのは昭和の初期から戦争前後の間? 桜木町・野毛の一帯は1945年5月29日の横浜大空襲で壊滅したという記録もあることから、戦争で営業できなくなったために長野に行った、とも考えられる。行った先は松本の竹乃家か、上田の福昇亭だったかも知れない。そんなつながりを想像するのも楽しいが、いずれにせよ、竹乃家も福昇亭も大正期の創業であるから、A氏が辨麺を長野に伝えた、ということにはならない。遅すぎる、のである。


(「散歩の達人」2022年12月号。交通新聞社)


 一方、『(辨麺と)五目焼きそばとあたまは一緒』で、『五目焼きそばには錦糸卵をのせている』のは、辨麺の長野・松本系の店とも上田系の店とも一致する。すなわち、A氏は本牧で育ち、おそらく本牧の辨麺提供店で辨麺を食べ、あるいはその店にて勤務したのち、野毛の會星楼に転籍した。それは松本の竹乃家主人・石田華、上田の初代福昇亭主人・小松福平両氏の歩んだ道と同じだったか、それに近いものだったのかも知れない。昭和の20年代ころまで石田・小松両名は横浜のある店(A氏在籍店)と交流があり、両名のどちらかを頼ってA氏は長野に向かった・・・そんな可能性も感じるのだ。 

 さらにもう一つ、付け加えようか。文中の『(萬福二代目主人が)冷やしバンメンを作ったことがある!』という箇所である。萬福二代目は同店初代から引き継いだと考えるべきで、その初代は會星楼か、あるいは山手・本牧エリアのどこかで店で教わったA氏から教わったのだろう。

 そして思い出して欲しい。松本竹乃家の後継店・驪山の品書きに何があったか?

  そう、『涼拌麺』、である。冷やしバンメン、だ。竹乃家の石田華氏と、Aさんとは、どこかできっと、接点があった。それは昭和の、まだはじめのころの、横浜か長野か、それは分からないけれど。


(「驪山」の”涼拌麺”のメニュー。2022年9月)

※この原稿の校了間近、nakoさんと連絡を取っていたら、雑誌の掲載情報をいただいた。以前、雑誌の取材を受けたと話されておいでだったが、その雑誌が発売された旨。その雑誌は、ボクも愛読させていただいており、このブログシリーズでも何度か取り上げさせていただいている「散歩の達人」。その2022年12月号(交通新聞社/刊。2022年11月21日発売)である。当該雑誌はラーメンの特集も頻回に組まれていて、今号は『大特集』と銘打って、『一杯の器から広がる無限の宇宙! 麺が食べたい』。その中に『首都圏麺カルチャー 03 急がないと絶滅しちゃうかも! 横浜の”バンメン”って何だ?』がある。nakoさんはそこで”孤高のバンメンマニア”、”バンメン研究家”として紹介され、コメントも掲載されている。タイトル通り、辨麺提供店は減少の一途で、こうしてメディアが取り上げることにより、辨麺とその提供店の”寿命”が延びることはもちろん、新規に提供しようという店が現れる可能性だって高まるのだ。


■辨麺の広がりを阻んだ大地震
 まず、福昇亭も竹之家も、もともと焼きそば(餡掛け)が有名だった店であることにも留意する必要がある。その上で共通点を探っていくのだが、その前にボクが考えた結論を書いてしまおう。

 前項の冒頭、ボクはこう記述(要旨)した。「長野の松本(竹之家)と上田(福昇亭)に伝わった経緯は、おそらく同じ。ただ、確証も、有力な手掛かりもない。いくつかの傍証が重なった末のボクの推測だ。しかし、伝わった時期は違ったとしてもそれほどの時間差はなかったはずだし、推測に大きな誤りはないだろう」。

 本牧か、あるいは中華街かは分からないが、明治期の横浜の、当時の南京町(中華街)とその周辺の狭いエリアに、中国から拌麺と、そして辨麺が伝えられた。辨麺については、スープの量や具材に関して幾度かの改良があったと思う。各店独自のアレンジもあったこともまた確かであろう。

 伝えられた店の中に、細い揚げ麺の上に、“あたま“として野菜餡掛けを載せた「焼きそば」を出す店が現れた。多くの店で現在提供される、いわゆる「カタヤキソバ」であり、”炒麺”でもある。一方、一部料理人の間では”あたま”、と麺を混ぜて食べるというのは、つまり「拌麺」の一ヴァリエーションであると主張する者もいた。従い、一部のある店では今でいう”五目餡掛けのカタヤキソバ“のことを「拌麺」とも呼んだのである。

 その、本牧あたりで生まれた“拌麺”=カタヤキソバ”の特徴は、炒麺というよりは”バンメン”の一種と主張する料理人が作る焼きそばのアイコンは、錦糸卵を乗せること、だった。そしてその味付けは「甘い」。山手本牧エリア所在の「奇珍楼」で食べてみるといい。辨麺にしても焼きそばにしても、まあ、甘い。戦前戦中、甘味のある食べ物が少なかったからその店では甘くした、という理由が一部で言われるものの、本当のところは分からない。

 一方、支那そばとか拉麺(ラーメン)とか呼ばれる汁そばの人気はすこぶる高く、例えば東京淺草・來々軒は広東料理の店であるが、支那そばを求める客で連日大繁盛をしていた。大正期半ば、横浜中華街から調理人を何人も引き抜いていったのだが、それも淺草來々軒大繁盛の大きな理由の一つであろう。

 横浜の中華料理店では、汁がやや少なかった辨麺と呼ばれる麺料理のスープを増やし、野菜も豚肉もたくさん摂れる栄養満点の品として大々的に売り出した店もあったし、卵でとじたり、錦糸卵にして上に乗せたり、見た目も華やかにして人気を博した店もあった。ただ、それは調理人の手間がかかったり、材料の仕入れが大変だったりといった問題も生じたのであった。

 錦糸卵を載せた、今でいう餡掛けカタヤキソバ=拌麺も人気。
 錦糸卵を載せた店、あるいは卵とじの店もあった餡掛け汁そば=辨麺も人気。

 ともに人気のメニューとなった拌麺と辨麺。調理人の手間、仕入れ材料のコスト等の問題は、声に出してしまうと区別がつかない“拌麺”と“辨麺”の餡掛けの部分=“あたま”は同じにすることで解決できた。もとよりきちんとしたレシピがあるわけでもない。“あたま”の部分は全く同じ店もあれば、多少アレンジを加えて変えた店もあった。特に汁ありの“辨麺”のほうは、日本人の“汁そば”好きもあったものだから、スープの量を増やし、それに合わせて具材も変える・・・そうして多少姿を変えて、伊勢佐木町や野毛にも広がっていった。

 ほぼ同じころ、それは大正の終わりに近づいたころだったのだが、本牧か野毛のあたりにあった店で、揚げ麺の代わりに通常の中華麺を使い、茹でた後に水で絞めた、”涼麺(冷麺)” なるものを考案した料理人がいた。冷麺であるから“あたま”には熱い餡掛けではだめだ。代わりに火腿(ハム)とか、蕃茄(トマト)や胡瓜とか、そうそう錦糸卵は外せない、そんなものにしたリャンメン、涼麺を誕生させた。冷やした麺と、“あたま”を混ぜて食べることから、涼拌麺、と名付けた店もあった。
 
 ただし、これら“辨麺”やら“涼拌麺”やらが、横浜の本牧や伊勢佐木町、野毛あたりの中華料理の店に広まった期間は大正の半ばから終わりにかけての、ごくごく短い期間の中に留まってしまった。これから広がろうか、とされたその矢先に、それは、起きた。起きてしまった。

 1923(大正12)年9月1日正午少し前。凄まじい大地の震動が関東を襲った。とりわけ横浜が位置する南関東は甚大な被害を受けることになる。

 関東大震災、であった。
 震災の後、2年半を経て刊行された「横濱市震災誌第一冊」(注23)はその巻頭でこう記している。

 『吾々横濱市民として、一生忘れることの出来ない想ひ出は、去る大正一二年九月一日午前一一時五八分、横濱、東京及神奈川、千葉静岡、山梨等の諸縣を襲つた、あの恐ろしい残虐な大地震である。その被害の大きかつたことは、横濱と東京であつたが、横濱は殊にひどく、會てなかつた大惨害を受けた。大地震で、市内の建物は殆んど全部倒潰した上に、つヾいて起つた猛烈な火災の為に、殆んど横濱全市は、一夜の中に焼野原となつてしまつたのである』。

 森鴎外にして、横浜市歌(注24)の中で「されば港の数多かれど 此横濱に優るあらめや 今は百舟百千舟(ももふねももちふね) 泊る處ぞ見よや 果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港」と描かれた、『東洋第一の輸出港として矜(ほこ)つてゐた横濱(港)も、再び復活することは出来ないと、絶望されたのである』。

 内閣府の中央防災会議の資料などによれば、この震災での死者は、全体で約105,000人。東京市内で約69,000人、横浜市内では27,000人。この二つの市内で全体の9割を超える死者を出した。横濱震災誌にあるように両市とも猛烈な大火災が起きたことが主要因であった。横浜市内では『特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた埋立地では、(建物の)全潰率が80%以上に達するところが多い。この地域は現在のJR関内駅を中心とした横浜の中心地である』(内閣府発行「広報ぼうさい」第39号“過去の災害に学ぶ 1923(大正12)年関東大震災 - 揺れと津波による被害 -”より)。

 ここからは、今まで書いてきた事実をもとに、想像を膨らましたボクの創作である。


(世界でここだけ? 咖哩辨麺。横浜・榮濱樓)

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 その二人の調理人たちは、横浜港を見下ろす高台にいた。眼下には焦土と化した街が広がり、焼け焦げた臭気が周囲を覆っていた。まだ若い二人は、そんな変わり果てた街並みに、ただただ絶望するばかりであった。けれど、それでも生きていかねばならないのは誰しも同じことである。前を向かねばならんな、と最初に石田が口を開いた。

 「そのために、なあ、何度か行って二人とも気に入っている長野に行こうと思うのだ。俺もお前も、多少なりとも蓄えがある。料理だって、何年もこうして中華料理の本場・横浜で腕を磨いたのだ。東京の淺草では來々軒という店が大繁盛しているって聞いているだろう。俺らの中華街から何人も調理人を引き抜いたことはお前だって知ってのことだ。中華街の人間の腕は確かだっていうことの証だよ。俺らも店を出そうぜ。なあに、きっと大丈夫だ。俺は松本市内で店を出そうと思う。お前も長野に来ないか? 一緒にやってもいいし、別々に独立して店を出してもいいし」。
 
 小松が応じる。「そうだな。長野にはお前と一緒に何度も出かけたな。店はそうさな、別々に出そうぜ。先にお前が横浜で腕を磨いていて、俺が後から店に入ってな、今まで一緒に働いてきたんだ。独立してこそ勝負というものだろう。それでさ、俺はやっぱり善光寺近くがいいなと思っている。特に気に入っているんだよ、善光寺と、その周りがさ。あの辺りは全国から大勢の人が来るからな。なんといっても景色とか、街を包む厳かな雰囲気とか、住んで、店を開くには最高の場所だ。そういやあ、善光寺と長野駅の間にある権堂にさ、鉄道の駅ができるんだそうだ(注25)。長野と須坂を結ぶ路線で、今から2年ちょっと先に開通する、という話だ。善光寺近くの、新しい駅。俺の新しい人生にもってこいの場所じゃないかな。それにな、お前も知っての通り、俺が勤めていた店、この大震災でもう再開は難しいんだよ。潰れったってことさ」。

 よし、決まりだ、と石田が小さく、しかしきっぱりとした口調で言うと、小松もまた小さく頷いた。

 ・・・時に1923(大正12)年秋。横濱を、東京を、たった一日のうちに焼野原にしたあの大震災からひと月近くが経とうとしていた。

 年が明けた1924(大正13)年、横濱を発った二人の中華料理人。向かった先はもちろん長野である。石田は松本で、小松は長野市内の権堂で、それぞれ店を開くために。

 石田は自信があったのだが、長野に移った当初は、まず屋台の引き売りから始めた。最初から路面店を構えるリスクを避けることもあったが、長野の人たちはどんな中華料理を好むのか、リサーチの意味もあった。1日でも早く好みを掴んで路面店を出す、そんな思いがあった。

 石田はもともと中国・広東省の出身で、上海航路のコックだった。日本が気に入り、陸(おか)に上がって横浜は本牧のKという中華料理の店で働くようになった。中国人が旨いと思った料理がすべて日本人の舌に合うとは限らなかったので、石田はどんな工夫をすれば美味しいと日本人に言って貰えるか、随分と研究したものだ。例えばそのKという店では、茹でた麺を水で絞め、胡瓜や蕃茄、錦糸卵、そして竈で焼いた叉焼などを乗せ、酢が効いた少量のスープで食べる「涼拌麺」という料理も学んだ。

 石田はやがて日本に帰化する。そして職場は野毛にあるSという店に移っていた。そこにやって来たのが小松であった。小松もまた腕のいい中華料理人であって、年齢も近く、二人はウマがよく合ったのである。

 石田と小松は、長野の善光寺に何度か出かけたことがあった。全国の人々から厚い信仰を集める善光寺は、日本人の小松はもとより中国出身の石田にとっても、その本尊の阿弥陀如来が百済から海を渡ったという日本最古の御仏ということもあり、非常に興味深いものがあった。そしてまた、信州の大自然は時に厳しくあったものの、奥深く、豊かで、二人の青年の心を優しく包んでくれた。いつの日かこの信州で暮らしてみたい、店を出してみたい・・・、二人の心の中にはそんな気持ちが芽生え、育ち、膨らみ続け、口には出さずともお互いにそれは分かるようになっていた。

 二人は中華街にもよく食べに行った。もとより職場からも家からも歩いて行ける距離である。遊びというよりは、勉強のためでもある。どうしたら叉焼が上手く焼けるのか、日本人が好きなスープの出汁にはどんな魚介類が必要なのか・・・毎日行っても学ぶべきことは尽きることがなかった。二人にはまたAという、もっと若い弟子のような存在もでき、ときに三人で聘珍楼やら萬珍樓やら、明治も中期までに創業した老舗の店に出向き、研鑽を積んでいた。

 そして、石田も小松もそろそろ独立しようと考え始めていた矢先のことであった。1923(大正12)年9月、関東地方を突如襲った大地震は、結果として二人の背中を押すことになった。

 石田の屋台はたいそう好評であった。いつ行っても、彼の屋台には誰かしら客がいた。なんといっても日本では中華料理といえば横浜、である。その横浜のいくつかの店で何年も研鑽を積んだ腕前は、だれが言うともなく松本市内で評判になっていた。

 石田の店の客の中に、竹原という実業家の男がいた。竹原は石田の腕に惚れ込み、可愛がって援助を申し出た。石田はその話を有難く受け入れ、路面店を開く。そして自分の店に、感謝の意を込めて“竹”の字を取った屋号を付けたのであった。一方、権堂に移った小松。石田と同じく当初は屋台からスタートしたが、その歩みもまた、石田同様順風満帆そのものであった。

 二人の店の成功の背景には看板メニューがあったことを忘れてはならない。炒麺、それもカタ焼きそば、である。極細の麵を打ち、揚げる。悩ませたのは具の材料。横浜ではさして苦労もせずに入手できた海鮮類・・・貝類・エビや烏賊などは鮮度が落ちるうえ、仕入れ値がベラボーに高い。けれど、長野には豊富なキノコ類がある。それにキャベツやもやし、人参、玉葱などの野菜と豚肉を加え、香味油を絡め、素早く火を入れる。独自レシピのタレを加え、片栗粉の餡でまとめる。それを“あたま”というのだが、そのあたま、を揚げ麺の上に乗せ、仕上げに錦糸卵で飾るのだ。見た目も美しく食欲をそそる、と評判の一品だ。この料理は無論、横浜は本牧のKであるとか、野毛のSといった店で働いて会得したものである。

 もう一品(ひとしな)、裏メニュー的な麺料理を二人は用意していた。淺草の來々軒や五十番、人形町の大勝軒などの大繁盛ぶりを見れば分かるのだが、なにより日本人はラーメン=汁ありのそば、が大好きである。それは別に東京だろうと長野であろうと変わるはずもない。ただ二人は、具がシナチク・叉焼、ネギだけというシンプルな、単に“支那そば”なるものを作った訳ではない。横浜の、ごく一部の地域で密かに持て囃されていた麺料理、彼らはそれを“バンメン”と呼んでいたのだが、石田と小松はそれをもう一つの看板メニューに育てたいと思っていた。

 大正時代のほんの一時期、横浜の山手地区や中華街、近接する野毛や伊勢佐木町などの中華料理店に“辨麺=バンメン”と称する麺料理が伝わっていた。これも中国から持ち込まれたものだ。広東省出身の石田はもちろんそれを知っていたが、日本に永住しようと決めた当初は、日本人にはとってはスープの量が少なく、あまり人気は出ないと感じていたから、それを作ったことも、作ろうとしたこともなく、いや、その存在は記憶の中から消えていた。しかし伊勢佐木町のG、本牧のK、石川町のA、野毛のSといった一部の店の主人たちは “和えそば・混ぜそば”である『拌麺』と、日本語で発音が同じの『辨麺』を、日本人好みのものにアレンジして品書きに乗せていた。数は少ないけれど、中華街の店も加わっていた。

 アレンジとは細かく言えばいろいろあるのだが、一番の特徴はスープの量を本来のものより増やしたことだろう。GやK、Sなどの店は焼きそばと同じ“あたま”を乗せ、錦糸卵でさらに飾った。そう、石田や小松が作ったものとほぼ同じ、である。当然といえば当然で、石田と小松はそれらの店に勤めていたのだから。

 ただ、店によって“あたま”の材料は異なるし、スープの量にも決まりがあるわけでもなかった。きちんとしたレシピは伝えられることはなかったし、横浜市内全域の中華店に広まろうという機運が高まる少し前に関東大震災が発生し、中華街や、野毛・桜木町、関内・伊勢佐木町、石川町・中村町に存在していた店のほとんどは、そして山手・本牧エリアの一部の地帯は瓦礫の街と化してしまったのである。

 平成、そして令和の世になった日本。あまり世間一般には知られていないというものの、“辨麺”と“拌麺”の違いは今でこそ明確であるが、大正末期の横浜という狭いエリアで広まろうとしていた、極めてローカルでかつマイナーな麺料理を、一体だれがきちんと定義づけをしようとしただろうか。もちろん、誰一人としていなかった。だから“辨麺”は、その当時すでに辨麺を提供していた長い営業歴を持ち、数少ない店にのみ、伝わり残ったに過ぎない。

 それでも、昭和の15年ごろまではそこそこ提供店はあったのだ。しかし、太平洋戦争は関東大震災とは比べ物にならないほどの被害を、横浜にもたらした。その結果、辨麺を提供する店はほんの一握りの店になってしまった。

 しかしその短い期間であっても、そうした店に足を運び食べてみて、真似てみようとか、あるいはうちでも出してみようとか、ある意味モノ好きな、数としてはとても多いとは言えない中華料理店の店主たちの手によって、自らの店に持ち帰られ、客に出されたこともあった。そうした店主の中には、人形町大勝軒、代田橋萬来軒などの店主たちがいたことは言うまでもない。関東大震災ののち、眼を瞠る勢いで復興を遂げた横浜中華街は、軍靴の響きの勢いが増してきた昭和15年ごろまでは、やはり日本の中華料理の中心であったから、近場の東京所在の中華店々主は、足繫く中華街に通ったものであった。

 ただ、辨麺、という漢字がよろしくなかった。書けない人が圧倒的に多い。もちろん、読める人だって少数だ。だから振り仮名を付けたりカタカナ表記をしたりすることになる。しかし、それより何よりも辨麺ってどんな料理? と聞かれることの何と多いこと! 商売にはスピードも必要なのだから、説明する時間だってもったいないし、100回200回と同じ話を繰り返すのは飽き飽きする。しまいに辨麺、バンメンと書くのをやめて“広東麺”とする店が増え始める。本場中国風の呼び方で何となく旨そうに聞こえたからこれはそこそこ広がった。けれど今度は「広東麺って何だ? どんなラーメンなの?」と聞かれる始末。短気な店主は「面倒臭い!」と“五目うま煮そば”や“五目餡掛けそば”に名前を変える。一方、商売の上手な店主や、バンメンという名に愛着を持っていた店主は、“あたま”の内容を変えて、例えば辨麺には当時でも高級食材だった鮑を入れ、それが入っていないものを“広東麺”やら“五目うま煮そば”として辨麺とともに“併存”させた。

 だから現在、辨麺が品書きにあるのに広東麺もある店、先々代の主が辨麺という漢字を書けなかったから“バン麺”としてずっと品書きに乗せている店、“五目うま煮そば”としてメニューには載せてはいるが、昔からそれを辨麺と呼んでいた癖から、五目うま煮そばと注文が入ると店員が勝手に“変換”して「辨麺一丁入りましたあ~」などと叫ぶ店・・・などが残っているのだ。

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■もはや戦後ではなくなった、横浜の、街角から
 さて、話を長野に戻そうか。

 辨麺を作る際、“あたま”が焼きそばと同じ、というのは石田・小松両名にとっても都合の良い話であった。何せ狭い屋台のことだ。材料の種類もあまり仕入れることは出来ないし、売れ残ればすべて廃棄処理せざるを得ない。商売を始めたばかりの二人にとっては負担が少ないほうが良いに決まっている。だから、大看板メニューの焼きそばと同じ材料で済むというのは何より有難かったのだ。

 ただ二人の中では“バンメン”の定義は、現在一般的に言われるようなものではなかった。彼らが横浜で過ごした大正時代の半ば、中国から入ってきた“バンメン”は二種類。汁なしが“拌麺”で、汁ありが“辨麺”という大雑把な括りはあったものの、裏を返せばそれしかなかったのである。だからスープがごく少量でもあれば辨麺と呼ぶ店もあれば、同じ量くらいのスープでも拌麺という店もある。そしてややこしいのは、同じ“バンメン”という日本語の発音だ。辨麺、拌麺。漢字で書くと違いは明白だが、書くのも読むのも少々難解だ。ほとんどの場合、彼らが様々な店で“バンメン”という言葉は耳でのみ聞いていて、漢字で書いた辨麺・拌麺と実物とを照らし合わせて見て判断していたわけではない。もとより辨麺のほうが漢字も少々難しい。彼ら二人のなかではいつのまに「混ぜて食べる麺料理=拌麺=バンメン」という共通の認識ができたのはごく自然の成り行きであった。だから汁そばであっても、“あたま”をスープや麺と混ぜ合わせて食べるのだから、それは“拌麺=拌メン=バンメン”になるのは当然のことだ。

 ともあれ、松本の石田の店、権堂の小松の店から発信されたユニークな焼きそば。本場中国直伝、中華街のある町・ヨコハマからやって来たハイカラな食べ物・炒麺、焼きそばは大正末期の長野県一帯に瞬く間に広がっていった。同じ材料を用いる”バンメン”は毎回炒麺ばかりでは飽きるという客から密かに支持された。もちろん、その人気の背景には二人の料理人の確かな腕前、調理技術があったことは言うまでもなかろう。

 日本の食文化、いや、わが国のあらゆる文化と呼べるものは、太平洋戦争において甚大な被害を受けて途絶え、あるいは途絶えそうになった。ただ、太平洋戦争での長野の物的人的被害は最も深刻な場合でも1945(昭和20)年8月13日の“長野空襲”で、死者が長野市内で46人、上田市内で1人というものであったし、どちらかというと東京などの大都市部からの疎開先になっていた。また、確かに山岳地帯は多かれど、蕎麦の生産量と質は全国屈指であり、白菜などの葉物野菜、林檎・ブドウなど果物の栽培も盛んな土地である。食の文化は絶えることなく、むしろ都会から運ばれた文化から新しいものが生まれ、そして育っていった。その一つが大正期、中国から横浜へ、横浜から長野へと、二人の料理人によって運ばれた焼きそば、そしてバンメンだったのである。

 時代は移る。戦争は数えきれない悲劇を産み出した末にようやく終結。人々が心から待ち望んだ平和な時代へと流れを変えた。もはや戦後ではない、と経済白書が語ったのは終戦から僅か11年後の1956(昭和31)年。

 そしてさらに3年の、のち。
 
 1959(昭和34)年、春。横浜、中華街。

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 「そういやあ親爺、この間、長谷川 伸先生(注26)に、此処のシウマイを土産に持って行ったんだ。そしたら先生、『ああ、これはいい。むかしの味がするんだよなあ、清風楼のシウマイはさ』って仰っていたよ」。
 「池波先生、そうですか、それは誉め言葉なんですかね? それともむかしの味、ってことは、全然進歩していないってことですかね 笑」
 「いやいや、もう15年も前の話だけど、横浜も空襲で焼け野原になってもさ、あのときの味をね、こうしてまた楽しめるってことはシアワセなんだと思うよ。話は変わるけどさ、この近くに蓬莱閣って店が開業したよね。いやあ、あそこはさ、マスターが王さんっていうそうだけど、餃子がね、旨いんだ。ニンニクが入ってないんだけどね、その代わりにニラでさ、独特の味なんだよ。酸辣湯も醤牛肉(ジャンニウロウ)もイケたよ」。
 「そうでしたか。それは何より、よろしかったです。ところで先生、今日は酒の肴ばかりで召し上がってますなあ。腹持ちするもの、何か召し上がりますか?」
 「そうさなあ、久しぶりに辨麺、食べようかな。それ、頼むよ」。

 1959(昭和34)年、弥生三月も、もう終わるころ。例年に比して幾分か長かった冬は、さすがに列島に居座ることには飽きたようである。上空の強烈な寒気団は、また来年の訪れを約束するかのように雨混じりの雪を横浜に少しだけもたらしたのち、潔く去っていった。世間はどことなく、いや、間違いなく、浮かれていた。それは本格的な春到来を予感させる気候のせいだけではあるまい。皇太子さまと、正田美智子さまのご成婚が近いということも大きかろう。横浜中華街の清風楼にふらりと立ち寄った歴史小説家・池波正太郎もまた、そんな雰囲気を楽しんでいた。

 その、池波が立ち寄った中華街・清風楼から、山手方面にかけてだらだらとした坂道をゆっくりゆっくりと登っていく。20分、30分、40分・・・眼下に港ヨコハマの夜景が広がる。その先にある、山手の一角の、ちょっと大きな中華料理店を覘いてみると。おお、いた、いた。

 「いやあ、横浜のこの店、何十年ぶりだろうかな。こうして来るのは・・・さて、30年か40年か、なあ、小松」。
 「そうだよねえ・・・俺とお前が横浜を離れたのが関東大震災の翌年だったろう。だから大正13(1924)年以来ではないかな。だから35年振りってとこか。随分と昔のことになるなあ。つまり、石田、お前も俺も老けたってことだ。お互い古希を過ぎちまった。いつお迎えが来たっておかしくないお年頃だわ。ははは」。

 この店の品はどれを食っても甘みが先にくるんだよねえ、と辨麺の“あたま”をつまみながら石田がボソッと呟くと、小松もまた小さく頷く。

 春の宵は、ゆっくりと静かに更けていった。
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注21 會星楼⇒横浜市中区野毛町2丁目所在で、2019年秋に廃業。ボクのRDBレヴューは2017年4月に。https://ramendb.supleks.jp/review/1058436.html
注22 nakoさんの研究⇒『横浜にひっそりと提供されているバンメンを探る 〜県内実地調査とヒアリングからの考察〜』。2018年9月、芸術教養学科WEB卒業研究展 より。http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1455/
注23 「横濱市震災誌第一冊」⇒横濱市史編纂係/編、1926(大正15年)2月刊。)
注24 横浜市歌⇒1909(明治42)年7月1日、横浜港開港50周年記念祝祭にて初披露。作詞・森林太郎(森鴎外)、作曲・南能衛(よしえ、当時東京音楽学校=現、東京藝術大学 助教授)。抜粋箇所の意は『(日本は島国であるから)港の数は多いが、この横浜に勝る港はない。さあ見よ、多くの船が停泊する活気ある港を。この果てしなく栄えてゆく天皇陛下の治世を彩る文物が、今日も横浜港から入ってくる』)。
注25 権堂に鉄道の駅ができる⇒権堂駅は長野市権堂に本社がある長野電鉄の駅。会社設立は1920=大正9年。権堂駅はJR長野駅から二つ目、善光寺下駅の一つ手前。開業は1926=大正15年6月、当時は長野電気鉄道の地上駅であった。現在は地下化されている)。
注26 長谷川 伸⇒作家。1884年~1963年。横浜市の日ノ出町で生まれる。股旅(またたび)物の創始者とも呼ばれる。作品に「瞼(まぶた)の母」「一本刀土俵入」など。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅲ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
萬来軒
 人形町大勝軒系とは別に、都内と千葉に存在する「萬来軒(ばんらいけん)」という店舗群の一部に“バンメン“を提供している、あるいは提供していたという事実がある。

 結論を書いてしまうと、この萬来軒系の「バンメン」は、横浜系すなわち辨麺の大元となる系統とはまったく異なる成立過程を持っている可能性があることが確かめられた。横浜の老舗店でなどで提供されている「辨麺」とはまったく別物の可能性があるということである。此処ではとりあえず便宜的に「萬来軒系」と呼ぶ。

 しかし、である。まったく別物の可能性はあるのだけれど、辨麺という料理はまったく謎が多く、辨麺≒五目うま煮そば・五目餡かけそば、という関係は、やっぱり萬来軒系のバンメンにも当てはまるのだ。結果として「成り立ちは異なるかも知れないが、内容はほぼ同じ」ということになる。これは単なる偶然か、それとも何か理由があるのだろうか?

 「萬来軒系と横浜系と何が違う」のか? 先ほど書いたように成立した過程が横浜系と関連がないけれど、結果的に出来上がった麺料理は、五目うま煮そば、あるいは五目餡かけそばと謳っても何ら違和感はない。ボクは「成立過程中に起きた、理由の後付け」とすることが自然だろうと考えている。その根拠はもちろんないのだけれど、その理由などを書いておく。

 その前に、まずは萬来軒の系譜をたどってみよう。
 そもそも萬来軒という中華料理店はどこが発祥なのか、ということを書く気はさらさらない。「万来(萬来)」、は「千客万来」という四字熟語があるように「多数の人(客)が来ること」を意味するから、どんな業種の商店が名乗っても違和感はない。

 これは以前調べたことがあって、今回は改めて調べなおして書いているのだが、少なくとも都内あるいは近隣県の“萬来軒”という屋号の中華料理店・ラーメン店には、成立と発展別にまとめると四つの系統あることが分かった。すなわち、
1.1924(大正13)年、幡ヶ谷にて創業した「萬来軒」(創業者・下山    氏)。1945(昭和20年、空襲にて焼失したため、二号店であった下記「2.萬来軒」が総本店となった。1955(昭和30)年に二代目が上落合にて「萬来軒」を復活させる。1970(昭和45)年、府中に移転。2018年5月、筆者実食。辨麺はない。

2. 1933(昭和8)年、代田橋にて「萬来軒」二号店開業(店主・福原氏)。のち、「萬来軒総本店」となる。系列店はいっとき40店舗まで増えた。2018年8月、筆者実食するも翌2019年1月、廃業。実食当時、辨麺はなかった。なお、静岡県沼津市に1946(昭和21)年創業の「萬来軒総本店 沼津店」という店が存在していた。2019年には廃業している。沼津市内に萬来軒の屋号を掲げる店がほかに複数確認できるため、沼津市内の“萬来軒の本店”という位置付けと思われ、代田橋・萬来軒総本店の「沼津支店」的ではなかろう。ただ、萬来軒総本店沼津店にはユニークな品名が品書きにあったことを書いておく。
   この店、品書きの左に「品名」を、右側にその説明、を書いてある。たとえば
“47 什景麺 五目めん”
“48 肉絲麺 豚肉細切りの炒め入りそば”
こんな感じ。で、54番目は・・・
“54 広東麺 サンマーメン”。
「広東麺が生碼麺とイコール」というのは、まあ分からなくはないが、他店で見つけたことは一度もない。

3.  1931(昭和6)年創業、半蔵門「萬来軒」。現在も創業地で営業中。2022年9月、筆者実食。辨麺、なし。なお、最寄りの地下鉄駅地下通路に「間もなく創業百年」という案内板を掲示しているが、創業年次は店舗にて筆者が確認している。

4. “暖簾会”的な「萬来軒」店舗群。この店舗群は下表4のグループを形成し、表中の店舗群の一部にバンメンは存在する。表は、「いたのーじさん」(以下「いたさん」)が下表3のNo.3、萬来軒奥戸店(正式店舗名称ではないが、便宜上そう呼ぶ。以下、萬来軒他店も同様表現を用いる。なお、奥戸、とあるが、実際の所在地は隣接する江戸川区西小岩2丁目である)を2022年9月に訪問時、店内で見かけた寄贈鏡に書かれた店舗(店舗所在地)10店をまとめたものがベースとなっている。詳しくは「いたさん」のRDBのレヴューで。

 ボクはまず、寄贈鏡に記載のあった10店について調べてみることとした。なお、表3には12店の記載があるが「いたさん」が見た寄贈鏡にはあくまで10店の記載、である。下欄2段の2店舗については後述する。

 なお、この段階で分かっていることであるが、萬来軒都合四系統のうち、この系統の店舗群のみ、バンメンがあった(ある)ということ。表3のNo.10までの10店舗中、現在も営業中の店はわずか3店のみだが、うち都内の2店は、表記はともあれバンメンを提供している。また、すでに廃業した新小岩店でも提供していたのは確認できている。

 「いたさん」が奥戸店を訪問しているので、ボクは水元の店に向かって確認することとしたのだが、その前に。いたさんが見かけた寄贈鏡がいつ頃製作されたものか、について記す。

 表3のNo.9に「小岩四丁目」という記載がある。これは江戸川区の北部に位置する小岩地区の、住居表示実施前のものであって、現在「小岩四丁目」という地名はない。ボクは地元在住であるから、子どものころに住居表示なるものが実施され、「住所が変わった」記憶がある。

 当該地域に住居表示が実施されたのは、今から50年以上も遡る1966(昭和41)年の3月と9月である。それからして、鏡寄贈はそれより前と分かる。もう50年以上も前のこと、つまり現在も営業中の店は、辨麺提供店に相応しい長い営業歴があるといえよう。ちなみに表No.7の「上平井」も、同1966年に葛飾区で住居表示が実施されたときに消滅した地名(上平井、とあっても江戸川区ではなく葛飾区の地名)である。

 もう一つ。この“暖簾会”的な店舗群だが、暖簾分けを重ねて店舗を増やしていった、いわゆる暖簾会ではない。所在地を見ると10店中、江戸川区内が4・葛飾区内が5と、東京の東部2区に集中しており、千葉の柏の店だけが少し離れている。

 これには理由があって、そしてそれはこの店舗群の成り立ちをも表している。この萬来軒はみな、「ある場所で営業していた中華料理店(仮にB店とする)において、ある特定の時期に働いていた従業員が、その後独立して開いた店のグループの会」なのだ。そして、さらに遡ってそのB店の元となった店もまた現存している。ただし、屋号は萬来軒ではない。これは後でも出てくる話なので、ちょっと記憶に留めておいて欲しい。

 それでは、萬来軒のバンメンとはどんなものなのか? ボクは尋ねた水元店でかなり驚かされる話を聞くことになった。それは、次項で詳しく書くことにする。
 
表3 都内及び千葉県に存在する(した)萬来軒(寄贈鏡掲載10店+2店)
No.
店 名
所 在 地
現在営業
辨麺
備考(バンメンの品書き表記)
1
    柏
柏市永楽台2
×

2
亀 有
該当店不明
3
奥 戸
江戸川区西小岩2
(バンメン)
4
篠 崎
該当店不明
5
細 田
葛飾区細田1
×
G/M※[1]で見る限り廃業
6
水 元
葛飾区水元3
昭和38年創業。(萬メン)
7
上平井
※[2] 該当店不明
8
新小岩
葛飾区東新小岩5
×
廃業している
9
小岩四丁目
※[3] 該当店不明
10
小 岩
江戸川区南小岩4
2018年に廃業している
以下、寄贈鏡には記されていない店
11
※流 山
流山市美原4
創業40年超。(バンメン)
12
国府台
市川市国府台1
創業50年超。(万来バンメン)














  
[11 ※流山] については 注9参照)




■萬来軒系は六軒島系で、バンメンはやはり謎麺
 表題(中見出し)、おそらく「意味が分からない」とお叱りを受けるだろう。ボクもこういう展開は全く予想していなかった。結論から書けば、萬来軒系の「バンメン」は横浜系の「辨麺」とは別物である可能性が浮上してきたわけだ。ただし内容は五目餡掛けそば以外に呼びようがないし、また汁なしの料理ではないから「拌麺」でもない。文字で書くなら、表3 No.6にあるとおりの「萬メン」で、同No.12の「“万”来バンメン」なのである。つまりシンプルな話で、萬来軒だから屋号の頭文字「萬、万」を取って、付けた、ということに過ぎない。実はこの話、同じような話であるのだが、表3 No.11の流山の萬来軒(注9)にて、ボクは2022年夏にそこのオカミさんから聞いていた。

 ただし、「いたさん」が奥戸店を訪ねた際のオカミさんとの会話では、
 『「会計時には「ばんらいけんだからばんめんって言うのですか?」とおかみさんに質問してみる。
 はにかみながら「そうじゃないんですけど、バンメンって名前はわからないんですよね」』
 と否定して見せている。これはどちらが正しいとか記憶違いとかいうようなことではなく、”伝えた側と、伝えられた側”の”受け取り方の相違”であるとボクは考えている。つまりは、「萬来軒だから、ウリは”萬メン”」という単純な命名ではないということだ。それはこの先、明らかになる。

 それでは「寄贈鏡に記載がない流山の店は、水元の萬来軒と関係があるのか?」と問われるだろう。そう、関係は、ある。ついでに書けば、小岩と江戸川を挟んで対岸、千葉の国府台にも萬来軒(表3 No.12。注10)があって、そちらも同じグループに属する。「いたさん」が奥戸店に飾ってあった鏡に書かれた10店に加え、流山と国府台の萬来軒も同一のグループだった、ということである。ほかにもいろいろな疑問があるから、一つずつ解説していく。

 まず、「いたさん」が見た寄贈鏡に流山店と国府台店が記載されていない点。これは単純な話で、鏡が作られた時期にはこの2店舗はまだ存在していなかったからに過ぎない。ボクは国府台の店には2017年1月に、流山の店には2022年9月に出かけてバンメンをいただいている。店のオカミさんに聞いた話では、流山店が営業歴40年超なので1980(昭和55)年前後の創業、国府台店が営業歴55年程度だから1970(昭和45)年前後の創業。寄贈鏡の製作年次は1966(昭和41)以前であることが分かっているから、鏡製作時には2店とも存在していない。店名(所在地名)を入れようがないということだ。

 次に、さらに遡って「この萬来軒の店舗群のルーツはどこの、なんという店」について。その店のことを、少し前に「仮にB店」とする、と書いたわけだが、この項の中見出しにある「六軒島(ろっけんじま)」というのは地名であって、その六軒島にかつて存在した萬来軒という店がそのルーツ、なのである。その店を以下「六軒島萬来軒(系)」と書く。萬来軒系はほかにもあるが、バンメン提供はこの「六軒島系」だけだからだ。


(左:六軒島交差点。右手奥がJR小岩駅、左手手前を進むと葛飾区奥戸。
右:奥戸街道西小岩2・3丁目付近。左手手前の赤い看板が萬来軒奥戸店)

 「いたさん」が萬来軒奥戸店で見た鏡、そこに記されてあった萬来軒10軒は、現在の江戸川区西小岩の「六軒島」という場所に、かつて存在した萬来軒が元になっている。実は、その六軒島という場所は、「いたさん」が訪問した萬来軒奥戸店のほど近くである。具体的に書くと、千葉街道の江戸川に架かる橋・市川橋を東京方面に向かって渡り直進、蔵前橋通りに入りさらに進み、JR小岩駅の入り口前を過ぎるとすぐ、四つ木方面に向かう奥戸街道と分岐する交差点(三叉路)がある。

 その先あたりを俯瞰してみると、蔵前橋通りと奥戸街道、さらには西小岩と鹿本(しかもと)方面を結ぶ区道“鹿本通り”の三本の道路に挟まれた“島”のような形状になっているのが見て取れる。Google Mapで「六軒島」と入力し見てみるとよく分かる。で、ここらを「六軒島」と呼ぶのだ。「いたさん」が訪問した萬来軒奥戸店は、そのまま蔵前橋通りを右に入り、奥戸街道を直進した、すこし先の左側にあるのだ。また、萬来軒水元店ご主人によれば「六軒島より小岩方面に向かった蔵前橋通り沿いにも萬来軒があった(B店ではない)」そうなので、おそらくは表3のNo.9「小岩四丁目店」ではないかとボクは考えている。
 
 さて、ろっけんじま、である。少々変わった地名だ。ボクは小岩が地元、愛着もあるから謂れについて、簡単に書いておこう。
『(今のJR総武線)小岩駅が開業する前年の1898(明治31)年9月、台風の影響により利根川をはじめ幾つかの河川が増水・氾濫し、小岩村辺り一面は水の海となった。この水害の模様を総武本線の車窓から見ると、六軒の家々が浮かぶ島のように見えた事から、この地域に「六軒の島」・「六軒島」と言う俗称が生まれるようになった)』(西小岩六軒島町会HPより。注11)。

 小岩に限ったことではないが、江戸川区はゼロメートル地帯に代表されるように、とにかく水害の多いところであったから、いかにも「らしい」話ではある。ともあれ、昭和30年代、おそらくは昭和20年代からだろうけれど、30年代後半にかけて、「六軒島萬来軒=B店」では多くの若者が働いていた。もちろん、のち独立した萬来軒の各店舗の主(あるじ)となる人全部が同じ時期に勤務していたということではないだろう。数人ずつ、何年かに分かれて勤務し、独立を果たした主たちが一人、また一人と加わってグループを作った、ということである。

 ・・・ボクの悪い癖。話が、飛ぶ。2022年(令和四年)、秋。ちょっとお付き合いを願いたい。葛飾区水元にある町中華・萬来軒。そこでの小さな小さなおはなし。


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注9 流山萬来軒⇒流山市美原4-1195-13。最寄り駅は東武野田線「江戸川台」駅で徒歩7~8分。創業は「40年超」とのこと=オカミサン談。ボクのRDBレヴューは
https://ramendb.supleks.jp/review/1553548.html
注10 国府台萬来軒=市川市国府台1-4-6。最寄り駅は京成線「江戸川駅」で徒歩10分。創業は「50年超」とのこと=オカミサン談。ボクのRDBレヴューはhttps://ramendb.supleks.jp/review/1041182.html
注11 六軒島の地名の由来⇒西小岩六軒島町会の公式サイト、https://www.chokai.info/nishikoiwarokken/029092.php

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅱ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
■辨麺の発祥は中国で間違いないか
  この辨麺、日本で生まれたのでは、という説もあるのだが、そうではなく、やはり中国で誕生し、横浜に伝わったことは間違いないところであろう。定着する前に、あるいは時間の経過とともに、例えばスープ(汁)の量を多少増やすなど、日本人の好みに変えられたということであれば、そういうことはあったであろうが。

  中国所在の店で“辨麺(「辧・辦・辨・办・弁」を同一文字とみなす)”の存在が確認できたもののみ紹介しておく。

  香港所在の『陸羽茶室』という店。ネット上の大手某グルメサイトのメニュー写真を確認すると、次のような品があることが分かる。
◇鮮菇 生魚辦麵
◇鮮菇 蝦仁辦麵
 (筆注・鮮菇=フレッシュなキノコ、マッシュルーム)
  この品、Webサイト「80C(ハオチー)」(注6)によれば、『料理の写真を見る限り、とろみあんかけそばといった風情』だそうである。また、同サイト(80C)を見ると、上海に本拠地を置く広東料理店「皇朝」でも、braised noodle、すなわち「煮込み麺」として次のような品があることが確認できる。
◇北菇辦麵
◇叉焼辦麵
◇牛肉辦麵

 日本の、横浜を中心とした古い店のごくごく一部の中華料理店にしかない辨麺を、香港や上海の店が“逆輸入”したとは考えにくい。また、「80C」では『香港や広東省では、汁の少ない麺料理に関して、「撈麺(ローメン:極々少量の汁をかけた和えそば)」とバンメンは区別されており、汁の少ない順から多くなるにつれて「撈麵」「辦麵」「湯麵」と分類していると考えられます』としている。

 確認は取れていないので断定する気はないが、日本では、つい先日まで我が国“最古の現役中国料理店”であった明治期創業の「聘珍楼 横浜本店」(1884=明治17=年開業、2022年廃業。横浜中華街)や「旭酒楼」(1910=明治43=年開業、横浜。JR根岸線石川町駅近く)などで、かつて「辨麺」があったという証言もある(従業員用の賄い含む)ことから、「辨麺」は、明治期後半から大正期前半にかけて中華街を中心としたその周辺の横浜エリアに伝わったと考えられる。

 以下はそれを示す資料となるが、情報の元は『焼きそばの歴史 上・下巻』の著者、塩崎省吾氏からいただいたものである。写真を掲載したいところであるが著作権があるため、引用でご容赦いただきたい。

 かつての横浜中華街は南京町と呼ばれていた。その南京町に古くから「成昌楼」という広東料理の店があった。場所は、2022年に廃業してしまったが「聘珍楼横浜本店」の前であったそうだ。創業の詳しい時期は分からないが、1903(明治36)年に書かれた「横浜繁盛記」(注ⅰ)に『又南京料理店は南京町に遠芳樓、聘珍楼、永樂樓、成昌樓などあつて』とあるので1900年ごろからあったことは確かである。また、1929(昭和4)年刊行の「鯖を讀む話」(注ⅱ)にも『横濱山下町に名題(筆注・作品などの”顔”のこと)の支那料理屋である』、と書かれているところからして、著名な店であったであろう。

 その成昌楼の1917(大正6)年の品書き(「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」(注ⅲ)による)、正確には”支那輕便御料理定價表”、であるが、そこに以下の品が記載されている。
◇蟹肉辦麵(ハイヨクバアンメン)
◇蝦仁辦麵(ハイヤンバアンメン)

 余談であるが、この品書きには「伊府麵」のほか「生碼麺」も記載もあって、生碼麺がその時期から存在していたことが分かり、一部で取り沙汰された生碼麺発祥=聘珍楼が昭和初期から出した、という説を打ち消していると、少々話題になった。

【注記 本稿公開後、「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」を取り寄せ改めて確認したところ、当該二品の品名左側に振られている日本語解説的なルビ(注釈。例示⇒「叉焼」 やきぶた)からすると、この二品は「冷やしそば」であった可能性が高い。すなわち現在提供されている辨麺(温かいつゆそば)とは異なるようである。この書の存在をご教示いただいた塩崎氏も同意見であった。詳しくは2022年のうちにはまとめて、公開する予定である。2022年12月8日・記】
 
 さらに1935(昭和10)年ごろの聘珍樓のメニュー(横浜開港資料館所蔵)には
◇辦麵(ばんみん) 金五十五銭
 と記されている。
 
 続けよう。日中戦争のさなかの1941(昭和16)年に刊行された、南支那地方の生活を描いた書「生活習慣南支那篇」(注ⅳ)には、『廣東料理に就ては・・・廣東市政府の書記長を勤めてゐる劉マヌチアン氏(原本は漢字)が調べたもの』として次のように紹介されている。要は当時の広東における店の品書き、である。

 ( )内であるが「かけそばに野菜を添えた物)とある。

 おもしろいのは、この書にある品書きの表記は「」麵であることだ。それ以前は真ん中が「力」(になっている。塩崎氏は「誤植もしくは著者の転記ミスではないか」としている。おそらくこうして「バンメン」の表記は変遷し、いつの間にか真ん中が「リ」の「」麺という表記が定着したのであろう。

 塩崎氏からはまた
『ニューヨークのチャイナタウンにある「Delight 28」や、ロンドンの「Imperial China」という中華料理店でもメニューに掲載されているようです。』
 ともお教えいただいた。
 確かに「Delight 28」では
辨麺類 LO MEIN ◇蠔油北菰辦麺
などとして、「Imperial China」では
辦麵 Braised Egg Noodles ◇ 叉燒辦麵 Cantonese Honey Roast Pork 
 などとして、メニューに記載があるのが確認できる。日本で”絶滅”などといわれるバンメン、辨麺がアメリカやイギリスで食べられるとは驚きである。ボクにあと5年の寿命があるとしなら、是非とも行ってたべたいところである。
(品書きのタイトルと品名が違うのは原文ママ)
 
 話を変えよう。

 ラーメンレヴューに特化したWebサイト「ラーメンデータベース」(以下「RDB」という)で、3800回近くのレヴューを上げ、食べた店舗数は2800店近くという数字を残している『ぬこ@横浜』さん(以下「ぬこさん」)という方は、ハンドルネーム(以下「HN」という)のとおり主に横浜中心に活動されているのだが、「ぬこさん」は

  『生碼麺(サンマーメン)の伝播と合わせて辨麺が伝播していく中で、生碼麺が「もやしそば」に、辨麺が「広東麺」に何らかの理由で呼称が変化した、というのが仮説の一つ』

  と書いておいでだ。ボクもおそらくそういうことだろうと考えている。ただ、理由は多分、名称というか、品名が分かりにくいというごく単純なことなのではないか、と思う。生碼麺、ではそもそもどう読んでいいか分からないし、分かったところでどんな麺料理かも分からない。傍証になると思うので記述しておく。

  表1を見ていただきたい。後で触れるが、表1にある長野のいくつかの店に存在する生碼麺と辨麺、拌麺は、大正期後半の同時期に伝わったと考えられる。うち、生碼麺に関しては品書きに「サンマ麺」や「さんまめん」といった表記が見られる。これは教わった料理人が生碼麺の内容をよく理解しないまま長野で料理を出したからであろう。だから次のような意味があることも理解せず、いや、理解していたかも知れないが、『醤油味の、具の中心はもやしという餡かけそばを、生碼麺=さんまめん、サンマ麺などという』的なシンプルな考え方を持って作ってきたのではないか。

◇生碼麺◇『生馬麺の意味は、生(サン)は「新鮮でしゃきしゃきした」と言う意味。 馬(マー)は「上に載せる」と言う意味があります。つまり新鮮な野菜や肉をサッと 炒めてしゃきしゃき感の有る具を麺の上に載せることから名付けられたと伝われているのです』(「かながわサンマ―麺の会」公式サイト。注7

 生碼麺ではなく辨麺であるが、“分かりにくいから品名を変えた”、その傍証というにはあまりに面白い話があって、ボクにはそれが忘れられない。それは2016年11月のことだった。


 
 表2-2(次項)の中(No.43)、人形町大勝軒の暖簾分け店である日本橋の、通称“三越前大勝軒”で注文時のことである。ボクはこの店に「辨麺」がないことを知っていたので、品書きにあった「うま煮そば」を注文したのだ。もちろん、「うま煮そばをお願いします」と言って。するとその注文を聞いた店員は、なんとまあ、厨房に向かって「バンメンひとつ」と言ったのである。
 その店員に理由を聞くと「うちでは昔からうま煮そばは“バンメン”って呼んでいるんです。理由? さあ?」。

 おそらくは、以前はバンメン(辨麺)として品書きにあったのだが、多くの客から「それは何?」と聞かれ続け、面倒臭くなってうま煮そばに変えたのではないか、とボクは考えている。ただ、主人や古くから働いているスタッフは、バンメンという言葉に慣れているので、うま煮そばの注文が入ったら、聞いた店員が勝手になのか、ルール化してあるのか分からないが、”変換”してバンメンと厨房に伝達していたのであろう。

 なお、この店は他の人形町大勝軒系列店と同様、もう、ない(2019年9月26日廃業)。ただし、建物の老朽化と周辺の再開発のためという理由であり、いずれ再開するという話を複数から聞いているので、復活しまた辨麺の提供を期待したい。まお、店員が“変換”したエピソードはこちらに詳しい(RDB)。

 ちなみに、全く“真逆”の展開であったのが横浜の三渓楼。此処ではボクが「バンメンお願いします」と言ったにも関わらず、注文を聞いたスタッフの女性(娘さん?)は、奥まった厨房に向かって「ウマニそば」と、言ったのである。
 それは、2016年12月のことだった。昭和七年か昭和十八年か、創業年次は定かではないが、山手・本牧エリアで小さいながらも確実な存在感を示していた三渓楼も、この秋、つまり2022年の10月末、姿を消した。店主高齢のため、が理由であった。

三渓楼の、そのときの、ボクのレヴュー。


■横浜から生まれて辨麺の系統は
 汁ありの麺料理、バンメン、辨麺。中国からまず横浜に伝わった。さて、最初はどこの店だったろうか。表2をご覧いただきたい。この中では華香亭本店が最も古い歴史がある
 
 この店、横浜中華街の南端・朱雀門から直線距離でなら1.5kmほどしかない。もっとも、付近をご存じの方ならお分かりだろうが、10kmほどなら歩くことは苦にならないボクでも、中華街からこの店まで歩いて行こうなどとは思わない。なだらかだけではない、時に急な勾配を含んだ坂道をずっと登る・・・。まあ、坂道の多い横浜だから当たり前なのだが。

 辨麺は、明治後期から大正期にかけて、中華街の店に始まり、それが周辺の、現在の地名で言えば山手・本牧、桜木町・野毛、石川町・中村町、伊勢佐木町といったエリア所在の店に広がったことは確かだが、どこが最初の店なぞ、今となっては分かるはずもない。横浜市内以外の神奈川県内、例えば平塚・厚木・小田原などだが、おそらく横浜市内のいずれかの店から伝えられたのだろう。なお、今回は店毎に詳述することはやめておく。
 
それでは、提供エリア毎に提供店を見てみよう。
  1. 横浜市内
 中華街あたりから本牧・山手、桜木町・野毛、伊勢佐木町、石川町・中村町などの周辺地域に広まった辨麺。便宜上横浜系とするが、以下の、「2.」と「3.(萬来軒系は?だが)」はこの横浜系の流れを汲んでいると考えている。ただし、市内の提供店(だった)の一部については、汁なし系の「拌麺」に近いものを提供している店もあった。明治初期から歴史を刻んできた中華街に提供店は非常に少なく、ボクが食べた店では清風楼と聚英程度。聘珍楼(横浜本店)にもあったというが、その聘珍楼も、そして聚英も廃業してしまった。また、石川町駅近くの旭酒楼でもかつて提供していたという話を聞いて伺ったのだが、スタッフから「そんな話は聞いたこともない」と一蹴されてしまった。このときのエピソードはRDBのボクの2017年11月のレヴューにて記してある。

 中華街は、その150年という長い歴史がある割には、100年を超す営業歴がある店が極めて少ないのは二度の大災害があったという理由が大きい。すなわち、関東大震災と太平洋戦争である。さらにこれに令和のコロナも加わって、例えば聘珍楼横浜本店もこの禍に飲み込まれてしまったのは、残念極まりない。


(広東料理店聚英のメニュー。一番に「かに肉あえそば 蟹肉辨麺」とある。右はその
蟹肉辨麺。あえそばとあるが、ご覧の通りスープもちゃんとある。2017年12月)


2. 横浜市以外の神奈川県内
 平塚、厚木、小田原といったエリアに数店舗存在している(していた)が、食べてみれば横浜市内の店と内容的に大きな差異はない。距離的に横浜市内からそれほど離れているわけではなく、横浜市内から伝わって来たと考えて差し支えないだろう。

3. 神奈川県以外の関東地域
 東京都内、千葉、茨城(水戸)などで確認できる。都内と千葉県については、以下2系統にて伝わったと考えられる。
Ⅰ 「人形町大勝軒」系の店舗
Ⅱ 「萬来軒」系の店舗
 この二つのうち、Ⅱ、に関しては、他のすべての系統と成立過程が全く違う可能性もある。それは後述する。

4. 長野県 
 松本市内、上田市内に提供店が今なお残る。便宜上、以下のように呼ぶ。
Ⅰ 長野松本系
Ⅱ 長野上田系
 長野系統は、今まで書いてきたように大元は横浜系であるにしても、萬来軒系とは違った意味で、他のエリアの店舗とは相当異なる成り立ちを持っている可能性が高い。横浜の関連する店や人間関係など、事実を基にして想像を膨らますと、それはとてもとても面白い、興味深い物語になる。






■神奈川以外の関東の辨麺は二系統が存在
 汁あり系の麺料理・辨麺の提供店。神奈川県以外で関東地方所在の店については、水戸所在の大興飯店を除けば、すべて「人形町大勝軒系」か「萬来軒系」の二つに分類できる。なお、水戸・茨城大学近くの『大興飯店』は、店主が横浜中華街での勤務経験があるので、おそらく横浜系として分類して差し支えないだろう。

 それではまず、人形町大勝軒系から考察する。

 □人形町大勝軒系
 考察の前に簡単に「大勝軒」について触れておく。ラーメン界の事情に多少詳しい方であれば、「大勝軒」というブランドは四つの系統に分かれていることをご存じであろう。すなわち、
  1. 人形町大勝軒系
  2. 永福町大勝軒系
  3. 東池袋大勝軒系(丸長系とも)
  4. 麺屋大勝軒系
 このうち、「4.」については歴史も浅く、本稿では触れることがないので割愛する。

  1. 人形町大勝軒系
 1905(明治38)年ごろ、中国出身の林 仁軒 氏と、渡辺半之助 氏の二人で屋台の引き売りを始めたのが最初。1913(大正2)年ごろに人形町に路面店を構えたとのこと。1933(昭和8)年には当時都内、というよりは全国屈指の大繁華街・浅草にも支店を出したほか、暖簾分けにも積極的で、系列店は最盛期には17を数えた。しかし、その大半が個人経営で、後継者不在のため廃業してしまい、2022年11月の時点で営業している店はJR総武線、都営浅草線の浅草橋駅近くにある「大勝軒(台東区浅草橋2丁目。創業1946=昭和21=年)」のみ。茅場町所在の「新川大勝軒(飯店)」(中央区新川1丁目。創業1914=大正3=年)は、人形町系だったそうだが、随分と前に経営者が変わり、今となっては関連がないという。
  
 確認をとれた範囲でのみ、辨麺の有無と、有りの場合の表記について記載しておく(店名は正式な屋号ではなく、便宜的に地名等から表記した)。
 ◇(廃業)人形町大勝軒本店 提供あり。辨麺。
 ◇浅草橋大勝軒 提供なし。
 ◇(廃業)三越前大勝軒 中央区日本橋本町1丁目。1933(昭和8)年~2019年。提供あり。ただし、本稿でも触れているようにうま煮そばと品書きにあり、店員が辨麺に“変換”。筆者実食。
 ◇(廃業)日本橋大勝軒 中央区日本橋本町3丁目。「日本橋よし町」→「日本橋大勝軒」→「HALE WILLOWS」と変遷。最終的に2019年に廃業。提供あり。辨麺、バンメン。筆者実食。
 ◇(廃業)横山町大勝軒 馬喰町大勝軒とも。中央区日本橋横山町。1924(大正13)年~2018年。提供あり。バン麺。筆者実食。


(日本橋横山町・大勝軒のバンメン。大正13年創業で、
とての雰囲気のある店だったが既に廃業。2017年8月)

2.永福町大勝軒系
 1955(昭和30)年に草村賢治氏が26歳のときに杉並区永福町にて創業。“永福系”の特徴は“煮干し”“鰹節”の出汁が強いスープ、全体的な量が多い、というところにあって、固定ファンは極めて多い。「大勝軒」と屋号になくとも系列(出身)店は数多く、例えば松戸「中華そば まるき」、現在は新宿御苑にある(創業時は幡ヶ谷)「金色不如帰」、三軒茶屋所在「めん和正」等々、人気店も数知れないが、ボクはこの系列店で辨麺に出会ったことはない。

3.東池袋大勝軒系
 「東池(ひがしいけ)大勝軒」、「丸長系大勝軒」とも呼ばれるこの系統は、つけ麺で知られる故・山岸一雄氏によって1961(昭和36)年に創業。系列(出身)店は永福系よりさらに多く、行列店も多数ある。元を辿ると、1947(昭和22)年創業の荻窪の「丸長」、さらに山岸氏も在籍した「中野大勝軒」、「代々木上原大勝軒」へとつながる。ただ、永福町系同様、辨麺を提供している店は聞いたことがない。

 こうして、人形町大勝軒系にのみ辨麺は伝わった。「4.」を除く三つの大勝軒はいずれも創業店の営業歴が60年超という歴史のある店舗群であるが、人形町系のみが戦前から存在している。辨麺は現在提供している店や過去提供していた店も含め考えると、横浜に伝わって以降、市内やその他エリアに広がりを見せたのは大正初期から昭和初期にかけての、ごく短い期間であると推測できるため、人形町系のみにしか存在しないというのも頷ける。

 なお、「大勝軒」の屋号の由来については、日露戦争(1904~1905、明治37~38)において日本が“大勝”したからと一般的に伝えられており、それも有力な説では違いないものの、
一、年号が「大正」に変わったときだったから
一、乃木「大将」が活躍したころだから
 といった説もある(この項、注8記載のWebサイトを参照した)。



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注6  WEBサイト「80C(ハオチー)」⇒日本橋箱崎町にて1953年に創業した株式会社中華・高橋が運営するWEBサイト。キャッチフレーズは「中華料理がわかるWEBメディア」。バンメンに関するページはhttps://80c.jp/restaurant/20210428-1.html
注ⅰ 横浜繁盛記⇒横濱新報社著作部・著、発行。1903(明治36)年4月刊。ちなみに横濱新報は、1890(明治23)年2月に創刊した「横濱貿易新聞」を前身とし、のち、現在の「神奈川新聞」となる。
注ⅱ 鯖を讀む話⇒下村海南・著、日本評論社、1929(昭和4)年8月刊)
注ⅲ 「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」⇒増田太次郎・著、 ビジネス社、1986(昭和61)年10月刊)
注ⅳ「生活習慣南支那篇」⇒タイトルとおり、日中戦争のさなかの南支那=広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区=における生活様式を書いた書で約300頁。米田裕太朗・著、教材社、日本出版配給株式会社・配給、1941(昭和16)年11月刊)
注7 かながわサンマ―麺の会公式サイト⇒『サンマー麺の会は 神奈川県中華組合に所属し、歴史のある美味しいサンマーメンを より多くのお客様に知って頂くため、全国にその名を轟かせようと 日々努力を続けており、料理人として腕に自信を持った有志の集まり』。http://sannma-men.com/index.html)
注8 人形町大勝軒関連のWebサイト⇒『1913年創業・元祖大勝軒は「珈琲大勝軒」に。後のGHQ専用料理人が生んだ大勝軒のすごい歴史』。東急メディア・コミュニケーションズ発行、デイリーポータル2020年3月11日付特集。




辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅰ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
*本稿は、事実を踏まえて筆者の想像を膨らまして執筆したものです。可能性の一つとしてこんなことがあったのかも、という程度にお考えいただき、お読みいただければ幸いです、特に
 -----★----- (↓)(↑)
に囲まれた文章は、事実を基にしてはおりますが、筆者が推測・想像して創作した箇所であることをお断りしておきます。また、本稿をお読みいただく前に私のラーメンデータベース(RDB)のレヴューを先にお読みいただきますと、少しだけ面白みが増すかと存じます。

松本「驪山」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1576565.html
上田「福昇亭」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1555670.html
四つ木「まんまる」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1570390.html
三越前「大勝軒」(廃業)⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1028388.html
山手(横浜)「三渓楼 」(廃業)⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1031520.html

*本稿中、RDBとはWebサイト「ラーメンデータベース」(株式会社スープレックス運営)、WikiとあるのはWeb百科事典「Wikipedia」のことを指します。
*本稿中、「現在」とあるのは2022年11月下旬現在です。
*本稿中の写真は筆者が原則撮影したものです。
*本稿中、「バンメン」の表記については、該当する店の表記などにできるだけ合わせてありますが、一般的な表記は「汁あり=辨麺」「汁なし=拌麺」にしてあります。
*本稿中、引用した古い資料・史料や文芸作品等については、原則原文ママですので、仮名遣いなどは現在と違う箇所もありますし、不快用語などが含まれていることがあります。
*本稿中の引用資料や補足説明は(注)として別に記載しています。また、引用文中に(筆注)は筆者が該当箇所について補足等をしたもので、(注)と同様、別に記載してあります。なお、(注ⅰ)のように注釈の番号が一部連続していない箇所がありますが、これはある程度原稿が完成してから注釈を挿入したことによるものです。
*本稿執筆にあたり、多くの方々にご協力いただきました。本稿文末にお名前等を紹介させていただきました。この場を借りて深く御礼申し上げます。なお、当然のことながら、本稿の文責は当方(筆者)にあります。
*「いたのーじ」さんには辨麺提供店リスト作成等で大変お力添えをいただきました。なお、「いたのーじ」さんとは、RDBにおけるハンドルネームであり、本稿では「いたさん」と表記しています。
また本稿中「研究会(さん)」とあるのは、淺草來々軒が「日本最初のラーメン専門店ではない」とする説を最初に公表した書『お好み焼きの物語』注1などの著作がある「近代食文化研究会」のことです。さらに、”塩崎省吾氏”とは、『焼きそばの歴史 上・下巻』(注1‐2)の著者、塩崎省吾氏です。
 
(「驪山」の”バン麺”)

■「汁そば」なのに「拌麺(まぜそば)」とはさて?
 ・・・この店での表記は、「バン麺」である。

 横浜は山手・本牧エリアの、古い中華料理店を中心とした本当に、ごく一部の店でしか通用しないのだが、スープ(汁)がたっぷり丼の中にある、五目餡掛けそば風の調理麺、麺料理を「辨麺(バンメン)」と呼ぶ。類似の、というよりはほとんどイコールの麺料理を挙げれば、それは“広東麺”であろう。で、同じ“バンメン”と発音する麺料理が別にあって、そちらは汁がない、混ぜそばとか和えそばとかいった類のモノだが、それは「拌麺(バンメン)」という。

  ところが。この店では勝手が違う。ボクはたった今、スープがたっぷり入った汁そばを、食べた。けれど、この店のオカミさんはボクに向かってはっきりとこう言った。

   「うちのはね、拌麺、なのね。そうよ、混ぜるとかいう意味の、バン麺」。
  さて、これは一体どういうことか? 

  秋分を過ぎたのに真夏のような陽射しが厳しい、信州・松本。ボクはオカミさんの言葉を何度も繰り返し、その意味を確かめようとしていた。

  実際の時間は10秒にも満たない時間だったろう。ボクはその僅かな時間で浮かんだその考えを、口には出さずに呟くのだ。オカミさん、それ、勘違いだよ。今さっき、ボクが食べた「バン麺」は間違いなく汁そばで、漢字で書くなら「辨麺」であって、汁なしの、混ぜるとかいう意味の「バン麺」、「拌麺」とは別物さ。

  いや。
  呟く傍から、ボクの中で違った考えが横槍を入れてくる。

  待てよ・・・・オカミさんは間違いなく「混ぜるかとの意味の、バン麺」と言ったのだ。ということはだ、オカミさんは「拌麺」と「辨麺」を区別してそう言った。つまり、この店では、汁そばの、五目餡掛けそば風の麺料理を、「かき混ぜて食べる」から“拌麺”であるというのだ。そして、そのバン麺の“あたま”(餡掛けの具の部分)を載せた汁なしの、揚げそばの、かき混ぜて食べる麺料理を、“焼きそば”というのである。一般の中華料理店なら「五目餡掛けカタヤキソバ」と呼ぶのが常であろう。

  もう一度、自分に問う。
  さて、これは一体どういうことか? 

  ボクはまた混乱する。そして入店する前に、店外で見た品書きの一部を思い出す。

  そうだよ、店頭の品書きにもいくつか「拌麺」、と書かれたモノがあった。それはもちろん焼きそばのことではなくて、数種類の「涼拌麺(リャンバンメン)」、冷やしバンメンであった。

  ボクはこのときまだ、ブロガーnakoさんのことは知らないし、だから当然nakoさんがブログで書いていた冷やしバンメンのことも、知らない。知るのは、もう少し先のこと。


(”コマツ・プラザ”と驪山外観)
 
 ・・2022年9月末、此処、信州長野・松本の気温は30度を超えていた。真夏のような日差しが容赦なく照り付けていて、汗が滴る。冷房で冷えているであろう店の中に早く入りたいのだが、ボクにとっては運悪く、店内満員の盛況振りだ。数分のち、一組二人の客が店から出てきたが、「ごめんなさいね」と女性スタッフがボクに告げ、あろうことかボクの後ろに並んだ男性客二人を先に案内していった。おいおい、ボクが先に・・・と思ったが、空いたのは4人掛けのテーブル席のようで、単身客のボクを案内するのは効率が悪いということだろう。まあ、良い。それにすぐスタッフが「暑いでしょうから中でお待ちください」と店内に招き入れてくれたから、此処は大人の対応がスマートだ。

 長野県松本市、桐。コマツ・プラザという小さな飲食店数店が集まるミニ・レストラン街、とでも言おうか。松本駅から、松本城の脇を通る循環路線バスで20分ほど、信州大学医学部付属病院や松本深志高校が近くにある。

  店の名は、驪山、という。れいざん、である。中国・陝西(せんせい)省中部には実在する同名の山(ただし、れいざん、ではなく、りざん)があり、始皇帝陵のことも驪山と呼ぶそうだが、関連があるのだろうか?

  この驪山、松本市内にかつて存在した「竹乃家」という中華料理店、広東料理店の系譜に連なる、ちょっと高級な中華料理店である。此処の店主は竹乃家の孫娘さんの御夫君で、その奥方(孫娘)、ご子息とで営んでおいでだ。創業は1977(昭和52)年というから、45年の営業歴である。竹乃家は、時代・歴史小説家であり、稀代の美食家でもある池波正太郎が愛した店と知られていたそうだが、ボクの目的は、そう、「バンメン」を食べることの、ただそれ一点。事情が許せば、この店のバン麺のことも聞こうではないかとの腹積もりで、わざわざ東京から、本稿のもう一方の課題店・上田市所在の福昇亭(2を前日に訪問し、此処までやって来た訳である。

 ・・・店内に案内されたあと、ボクは所在なくカウンターのレジ脇で他の客の動向を見つめていたが、間もなくカウンター席に案内される。事前の予習通り、店内はまさに喫茶店、それも昭和のころの純喫茶、たとえばガロが歌った「学生街の喫茶店」(1973年リリース)に出てくるような、という風情である。照明が落ちれば、カンターバーにでも早変わりでもしそうではあるが。

 バン麺が届けられるまで、他の客が頼んだ品を観察する。ああ、やっぱりな、此処も昨日食べた上田の福昇亭もそうだったが、圧倒的人気なのは「焼きそば」なのである。ほとんどの客はソレが目当て。

  焼きそば、と聞けば、ソース焼きそばを思い浮かべる方も多いだろうが、それは的外れ、まったくのベツモノ。近いのは「餡かけカタヤキソバ」で、特徴的なのは錦糸卵が載っていること。そうそう、横浜は伊勢佐木町の玉泉亭(注3)の「カタヤキソバ」に似ているかな。ネットのレヴュー記事では、例えば横浜中華街の萬珍楼(注4)との相似性を指摘するものもある。あとで詳述するが、この焼きそばこそが“信州のソウルフード”とも呼ばれる食べ物である。しかし不思議なことに、ネットで調べると、長野で著名な焼きそばの店というとボクが前日伺った上田市所在の福昇亭で、その店は創業店として頻回に出てくるのだが、この驪山はほとんど目にしない。理由は・・・、分からない。

 ボクが注文したのはバン麺であるから、食べていない焼きそばの味についてはコメントできない。2人以上で来ることができればシェアするということも考えるのだが、バンメンだけを食べに都内から長野に出向く相当なモノ好きは、まあ、いない。

  ともあれ、頂いたバン麺。見た目は横浜あたりで提供されるソレよりずっとシンプル。しかしやっぱり特徴がある。“あたま”の上にさらに載る、錦糸卵、である。前日に伺った上田・福昇亭にしてもそうだが、長野名物焼きそばはもちろん、長野でいただく“バンメン”ならば、これは必須アイテムだ。麺も福昇亭同様、極細。焼きそばは揚げ麺だが、バン麺の麺は無論揚げていない。

  竹之家の時代は製麺機もあったそうだが、あまりにデカく、現在は製麺機ごと某製麺所に預け、驪山専用の麺を作ってもらっているという、まさに特注麺。ただボクとしては、好みの問題だろうけれど、これはあまりに細すぎる、か。スープには特筆すべきものはないけれど、言ってみれば多くの方がスッと受け入れてしまうようなテイストだ。そうそう、池波正太郎絶賛の叉焼は、やっぱりそこらの町中華とはベツモノと書いておく。

 ボクはそのバン麺を食べ終えて、ダメ元と思いつつ女性スタッフにこう尋ねた。
  「バンメン、って置いてある店は珍しいですよね? 何でバンメンって言うのでしょう?」。
  スタッフは「えっ? それは・・・分からないので・・・」と怪訝な表情を見せたかと思うと、おもむろに「オカミさん、お客さんがバン麺のことをお聞きになりたいそうですけど」と奥の厨房に向かって話しかけたのだ。

 そしてオカミさんの登場。「うちのは混ぜるとかいう意味の拌麺なの」という冒頭の発言につながったわけだ。此処のバン麺は、汁そばでありながら「拌麺」だと仰る。勘違いではなく、「拌麺」と「辨麺」の違いを知りながら、あえて「うちのバンメンは、まぜそば、のバン麺(拌麺)」と言うのであった。

 もう一度、自分に問うのである。ボクが食べたのは紛うことなき汁そばの、すなわち辨麺であって、オカミが言うところの「混ぜそば=拌麺」ではない。それでもオカミはその違いを知ったうえで拌麺だと言う。
さて、これは一体どういうことか? ・・・・・

 さあ、面白くなってきたじゃないか。長野まで来た甲斐は十分あったということだ。

■「辨麺」と「拌麺」の違いは?
 何を言っているのか分からない、という方もおいでだろうから、簡単に解説しておく。ネット上では7~8年ほど前から『ラーメン界のシーラカンス 辨麺』などと題したブログなどが随分と登場している。

  改めて、「辨麺」、である。ベンメン、ではなくバンメンと読む。一般的に言うところの広東麺若しくは五目うま煮そば、あるいは五目餡掛けそばに似ている調理麺のことで、なぜ「辨麺」と呼ぶのか、今一つはっきりしない、というのが多くの方の説明だ。

  ラーメン界のシーラカンスなどと呼ばれる理由は、
  • この品を提供している店が非常に少ないこと。
  • 提供している店は、ほぼ例外なく開業して五十年やら百年やらという長い営業歴を誇る店ばかり。また、“町中華”と呼ばれるような個人店が多く、後継者不在で廃業するなどして年々減少していること。現に、2019年から2022年の僅か4年の間に、10店舗が廃業してしまっている。減少率でいうなら25%超である。もはや現役で提供している店は、知りうる限りでは全国で25店舗程度になってしまった。
  • 提供店の多くは横浜市内、とりわけ中華街の奥に位置する山手・本牧のごく狭いエリアに集中している(いた)こと、ほかに横浜市以外の神奈川県に数店、県外では東京、千葉、茨城、長野の4都県に数店あるのみということ などが挙げられる。
 ボクがこの調理麺のことを知り、最初に食べたのが2016年6月のこと。横浜は野毛地区にある「中華料理 萬福」(注5)という店であった。2016年当時、まだ「辨麺(バンメン)」は同じ発音の「拌麺(バンメン)」と混同されることが多かった。違いははっきりしていて「辨麺」は汁そば、「拌麺」は和えそば・まぜそばなのである。「拌麺」のほうは都内でも時折見かけるもので、どこの中華店にもある、というほどではもちろんないが、さほど珍しい品ではない。

 漢字の「拌」は「混ぜる」の意があり、和えそば・まぜそばの名称としてはまずは相応しい。一方、「辨」は「分ける、区別する」などの意があり、これがなぜ広東麺あるいは五目餡かけそば、五目うま煮そばの別称になるのかはよく分かっていない。ちなみに「辦」や「弁」などの漢字の関係は別図-1のとおりである。「バンメン」を漢字表記した際の“バン”の字=「辧・辦・辨・办・弁」の字は本稿中において、同一と考えて差し支えない。



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注1 『お好み焼きの物語』⇒「執念の調査が解き明かす新戦前史 お好み焼きの物語」、近代食文化研究会/著、新紀元社、2019年1月刊。第二版『お好み焼きの戦前史 Kindle版」もあり。他に『牛丼の戦前史』『焼鳥の戦前史』『串かつの戦前史』等を出版。膨大な収集資料を的確に取りまとめ、近代の食文化史を解き明かしている。研究会とあるが、実際の活動は個人である)
注1-2 『焼きそばの歴史 上・下巻』⇒塩崎省吾 /著。上巻は『ソース焼きそば編』2019年12月刊 、下巻は『炒麺編』2021年6月刊。いずれもKindle版。
注2 上田の福昇亭⇒長野県上田市中央2-9-4。前日の昼、ボクはこの店でバンメンを食べている。WEBサイト『ラーメンデータベース(RDB)』でのボクのレヴューを参照されたい。https://ramendb.supleks.jp/review/1555670.html
注3 玉泉亭⇒横浜市中区伊勢佐木町5丁目所在。創業1918(大正7)年の創業。「生碼麺(サンマーメン)発祥店」とも一部で言われる、横浜を代表する老舗中華料理店。横浜駅東口地下街に支店はあるが、「辨麺」はない。
注4 萬珍楼⇒横浜中華街所在の広東料理店。創業は1892=明治25年で、同じ中華街にあった1884年創業の聘珍楼横浜本店が廃業(移転という話もあるが)したため、創業時から同じ場所で営業する現存中華料理店では最も歴史が長い店となった。
注5 中華料理萬福⇒横浜市中区宮川町2丁目所在。2022年4月に一度閉業したようだが、現在は復活営業されている)


ノスタルジックラーメンⅡ 東京都23区内 昭和20年(1945)~昭和34年(1959)の創業店

2022年11月01日 | ラーメン
東京23区内 老舗ラーメン 昭和20年(1945)~昭和34年(1959)の創業店 
2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。
2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。
※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース
店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。「辨麺」についてはコチラをご覧ください。
※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。


【1945 昭和20】
花家 日暮里 *創業は戦前で生花店との記載がある。
あづま家 日暮里
栄屋ミルクホール  淡路町 *2021年10月8日、一旦閉店。移転予定あり。
※らーめん田丸 目黒 
※八重洲大飯店 東京駅八重洲口
 大菊總本店(日本蕎麦店) 都立大学

【1946 昭和21】 
※山口家本店  浅草
磯野家  築地場内 2018年4月28日閉店 
岐阜屋 新宿

(新宿西口、通称「思い出横丁」にある岐阜屋)

※浅草橋大勝軒 浅草橋
※新世界菜館 神保町
※新橋亭(しんきょうてい) 新橋

【1947 昭和22】
※栄龍 入谷
光陽楼 青砥 *2017年には閉店した模様。
※丸長 荻窪本店 荻窪
亜細亜 五反田
東興樓  銀座7
山珍居 西新宿五丁目

【戦後まもなく(昭和20~22頃)】
※大興 上野御徒町
山水楼 代々木

【1948 昭和23】
※あづま軒 人形町
来々軒 水天宮

(水天宮・来々軒の肉炒め麺。看板がなぜかさかさまである)
※珍珍軒 上野
 今むら 新御徒町
※中華やまだ 御茶ノ水
中華若月  新宿西口 *2018年1月閉店
やじ満 築地場内  2018年10月に豊洲へ移転。
※中華博雅 八重洲 
満来 豪徳寺 *2016年頃閉店した模様
なかや 江戸川区松島(新小岩)

(江戸川区松島にある なかや 店内掲示メニュー)

(浅草・ぼたん と 広東麺)
※春木屋 荻窪本店 荻窪
登喜和 西新宿
※泰興楼 八重洲本店 東京駅八重洲口
※銀座天龍本店 銀座一丁目
1948 昭和23ごろ 中華つばめ 二子玉川
1948 昭和23ごろ ※集来 大門

【1949 昭和24】
鶏龍軒  広尾
中華料理 勝太楼  御徒町 ※2021/9 二代目奥様に確認。
1949 昭和24ごろ ※オトメ 根津

(根津・オトメの広東麺

【1950 昭和25】
※中華そば丸信 荻窪
※慶楽 日比谷  2018年12月閉店
※来集軒  浅草 
代一元本店 代田橋
※幸軒  築地場外
五芳斉 早稲田 
ぶん華 神保町
中華珍満 御徒町
喜楽 大森
新三陽 田端後楽園白山(根津)に店舗あり。創業店は調査中。
1950 昭和25ごろ 中華食堂 松葉 落合南長崎

【1951 昭和26】
※代々木上原大勝軒 代々木上原
※丸福 荻窪
第一食堂 代田橋
※中野大勝軒 中野
来集軒 八広


【1952 昭和27】
味乃一番  浅草 2017年1月閉店

(飾り切りが見事だった味乃一番・什錦湯麺)
※喜楽  渋谷
※宝来 堀切菖蒲園
※一番飯店 高田馬場
 四川・東家(新井薬師)
1952 昭和27ごろ ビストロ福昇亭 浅草 初代=中華店、二代目=洋食店、現在は三代目でランチタイムのみラーメンを提供している。
1952 昭和27より以前 ※中華 博雅 浅草

【1953 昭和28】
※福寿  笹塚
二葉 学芸大学
国泰飯店  京橋
※武田流古式カレーライス支那そばインディアン  蓮沼


1953 昭和28ごろ ※萬金 新富町 *屋台時代含む *2018年12月27日閉店

【1954 昭和29】
天津飯店本店 新宿
*豊島区雑司が谷にて点心・料理の製造工場を創業した時期。
※餃子の王さま 浅草
※おけ以 飯田橋
梅華(菜館) 自由が丘
丸長新井薬師店 新井薬師
丸長目白店 目白
亀喜 三田
   
 昭和20年代後半 ※宝来軒 三田

【1955 昭和30】
麗郷 渋谷店 渋谷 

(麗郷と海老ソバ。2021年11月)

中国料理 福井(フーチン) 菊川
※中華 みやこ 鶯谷  
※若葉  築地場外
※新東洋 御徒町
※丸長下北沢店 世田谷代田駅
香港園 目黒
長寿  亀戸
北京飯店 西新橋 *閉店した模様。横浜中華街には出店
1955 昭和30より以前 ※中華そば 成光  神保町

【1956 昭和31】
共楽 銀座一丁目
※永楽 大井町
※草むら 永福町


十番 東中野
※三幸園 白山通り店 神保町
昇龍 アメヤ横丁
赤坂飯店 赤坂見附

【1957 昭和32】
※メルシー  早稲田
元祖五十番神楽坂本店 神楽坂 現在は肉まん等の販売のみ
 正華 五反野
 榮林 赤坂 2021年秋に移転予定、詳細不明で2021年9月現在営業していない。
1957 昭和32より以前 中華・蕎麦 あさひ 平井

【1958 昭和33]
中華料理栄楽 方南町
※味の横綱 東向島
中華軽食 かっぱ 小岩
寿福 自由が丘
末っ子 浅草
三番 東中野 *大森・中華三番(閉店)の創業年
宝家 東陽町
樓外樓飯店 赤坂本店 赤坂

【1959 昭和34】
※再来軒 用賀
高社郷 (コウシャゴウ) 大山
七面鳥 高円寺
春華亭   町屋
わかい 人形町
(人形町・わかい)