※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影で、撮影年月を表示した。
(沖縄・本部にある「きしもと食堂」。2022年7月)
□元首相が撃たれたその日。沖縄・本部。□
強烈な日差しは、狂暴、という表現こそが相応しい。視線を泳がせば、ゆらゆらと陽炎があちらこちらで揺れている。頭上から降り注ぐような蝉の鳴き声は、そうさね、こういうことを蝉時雨と言う。
・・・そう、此処は沖縄、本部。創業は明治38年という「きしもと食堂」の真ん前。10数人の待ち客だ。まあ、これは想定内である。けれど、この陽射しの強烈さはどうよ。耐え難い。
並び始めて30分ほど、店の脇の細い路を通ってください、と、ようやっと若いスタッフに言われ、奥の座敷にボク一人だけ招き入れられた。3帖ほどの空間には変色しかかった畳、四角い古いテーブル、ガタガタと音を立てるガラスの引き戸。ここに黒電話とブラウン管テレビでも置こうものなら、ボクの子どものころ、だ。つまりは、昭和30年代後半から40年代前半で、半世紀以上も前のこと。随分と、遠い昔に、なってしまったな。
ぼんやりとそんな思いに浸っていると、「おまちどうさま」と声がする。ほんの2分かそこら待っただけで届いた一杯を頂けば、それはもう、想像の範囲にきっちり収まるモノだった。
(きしもと食堂の座敷席。すっきり整理されている。2022年7月)
麺を啜れば、平打ちで、かなり密度の高いこと。つまりはミシッとした食感で喰いでがある。というか噛み応えありすぎ、こりゃあラーメンの麺と言うよりは・・・スープを飲めば、それほど脂(あぶら)がなく、あくまであっさり。麺を含めて書けば、ラーメンではなくて、やっぱり饂飩に近いのだ。だから、沖縄そばをラーメンの類に分けることは、やっぱりボクは抵抗がある。
豚(骨)を相当量使っているはずなのだが、脂はないのはどういう訳か? スープはそれでも染み入るようだし、角煮状の三枚肉は甘めの味付けでボク好み。パサつき気味の蒲鉾は妙にそれはそれで存在感もある。麺だきゃあ、ごにょごにょと言葉を濁そう、か。
此処の食堂の麺は、かん水不使用。その代わり、木灰(もっかい)、この店ではガジュマルなどを燃やした際に出た上澄みを使用しているそうである。製法は創業時から一切変えていないというのだが。沖縄そばがお好きな方は「隙なき一杯」「他店と明確に違う」と言った賛辞を贈るのであろうが、やっぱり、ボクは沖縄そばを含めて、沖縄料理全般が苦手だ。でも記憶に残る一杯であったことは、間違いない。ご馳走様。
・・・名護から少し入った、今帰仁(なきじん)の宿を出て、美ら海(ちゅらうみ)水族館を経て、路線バスを利用して店に着いたのは12時前。並びは10数人ほどだったが、帰り際に見ると、あらま30人超の大行列だ。行列の末尾の人が店に入れるのには、あと30分か40分、あるいはもう少し必要だろうか。
沖縄に来る数日前にレンタカーを予約しようとしたらまったく取れず。前日搭乗した400近い座席を有するボーイング787 ANA国内線の旅客機もほぼ満席状態だったから、新型コロナの禍から観光客はかなり戻ったことは間違いない。にしても東京とは比較にならないほど強い陽射しが容赦なく照り付ける本部の街角で、30分以上待つのはしんどいだろうに。しかも何組かは泣く赤子を抱いている。親の身勝手もたいがいにしろよ、と呟くのは還暦過ぎの嫌味な爺の説教に過ぎないか。
・・・入店前に並んでいたときのこと。退屈しのぎにスマホでニュースを見れば、あろうことか安倍元首相が凶弾に倒れたという。まさか令和の平和なこの日本で、という思いは日本人なら誰でも思うことだろう。ボクは元首相の支援者ではなかったが、得体の知れない不安感と喪失感が暫く抜けずにいた。それは東日本大震災の際の原発メルトダウン時に似た感情だ。帰り際、並んでいる人たちの多くはスマホを見ていたが、さて、このニュースをどんな思いで見ていることか・・・そんな思いを置いて、来た道を戻ってまた路線バスに乗る。パイン、マンゴー、島バナナ、パッションフルーツ等々、魅惑の果物がズラリと並んで安価だよ、と今帰仁の宿のオーナーに教わった名護の市場に向かおうとしようかね。
2022年、文月八日、正午前後。沖縄・本部にて
□きしもと食堂は「最古参の現役ラーメン専門店」なのか?□
先ほどちらっと書いたが、ボクは沖縄そばを含む沖縄料理全般がとにかく苦手だ。だいぶ前のことになるが、予備知識なしで初めて沖縄料理店に行った際、出てくるものすべてが口に合わず、往生したことを思い出す。だから生涯、沖縄に行くことはあるまいと思っていたのだが・・・。2022年夏、僅か3泊ではあったが行くことになった。そのきっかけは、ボク自身の病気のこと(文末に記す)もあるのだが、本部にある「きしもと食堂」を知ったからというのが大きい。この店、考えようによっては「我が国最古の、現役ラーメン専門店」である・・・かも知れないのだから、どうしても行かなければならないという思いにかられてしまったのである。
その「きしもと食堂」、創業は1905(明治38)年である。ある程度信頼できる資料が残されており、明治40年までに創業し、かつ現在まで営業していて、さらに創業時からラーメン類を提供していたと考えられる店は、全国で以下の数店のみである。
(※ボクが知らない店もあるだろうから、もしご存じの方がおいでになったらぜひご教示いただきたい)。
≪リスト1≫
◆聘珍楼 創業1884(明治17)年。横浜中華街。ただし、2022年5月に中華街の本店はクローズ。翌6月には運営企業が破産した。ただし、本店とは別の運営企業が日比谷・吉祥寺・大阪等で店舗営業をしている。
◆萬珍楼 創業明治25年。横浜中華街。
◆維新號 創業明治32年。当初は神保町で開業、現在の本店は赤坂である。
◆四海楼 明治32年の創業。長崎。「長崎ちゃんぽん、皿うどん発祥の中華料理の店」(公式サイトより)。
◆きしもと食堂 明治38年創業。沖縄県本部(もとぶ)。所謂沖縄そばの店である。
◆揚子江菜館 創業明治39年。東京・神保町。
(上 運営企業が破産、店舗はクローズされた中華街・聘珍楼。2021年5月、
中 神保町・揚子江菜館の広東麺。2017年12月、
下 長崎の四海楼。周辺を圧倒する存在感。2020年8月)
僅かこれだけである。クローズしてしまったが、横浜聘珍楼は大型の店舗が犇めく横浜中華街でもひときわ目立つ、威厳に満ちた雰囲気を持つ建物だ。長崎四海楼もまた、周辺を圧倒する威容を誇り、極めて高い存在感を示している。この2店ほど大規模ではではないが、萬珍楼、維新號、揚子江菜館もまた、長い歴史を感じさせる凛とした雰囲気を持つ。きしもと食堂だけは、平屋建てで、地方の食堂然(実際、地方の食堂なのだが)とした佇まい。なんとまあ対照的であることか。
上記でも触れているが、挙げた6店のうち、長崎四海楼はいわゆる「長崎ちゃんぽん」発祥の店。また、今回取り上げる沖縄本部の「きしもと食堂」は創業時に「支那そば」の名で提供していたのだが、食してみればラーメンとはちょっと異なる、所謂「沖縄そば」の店で、現在の店の品書きには「そば」とだけ記載がある。
実はこのほかにも創業自体はかなり古い店もあるのだが、今回のリストには入れていない。これは「創業時からラーメン類を提供していると考えられる」という条件をつけたからだ。つまり、明治40年以前の創業であっても「現在はラーメン類を提供しているが、創業時は提供していなかった」店が結構あるのだ。多くは前身も飲食業であったにせよ、寿司屋のなどの他業種である。その簡単なリスト(明治40年より前、関東地区)を記しておく。
≪リスト2≫
◆山田家 創業は明治元年。千葉・京成線中山駅、法華経寺参道。ラーメン提供開始時期は不明。立地や店舗形態(お休み處的)から、ラーメンの提供は相当、後のことと推測される。
◆ゑちごや 創業明治10年。東京・春日。ラーメン提供は昭和25年ごろから。
◆とらや 創業明治20年。東京・柴又帝釈天参道。ラーメン提供開始時期は不明なるも前述「山田家」同様、立地等からラーメンの提供はずっと後のことであろう。
◆龍公亭 明治22年の創業。東京・神楽坂。当初は寿司店で、中華提供開始は大正期。
◆水新菜館 創業は明治32年ごろ。東京・浅草橋。中華店に衣替えをしたのは昭和後期。
◆関東以外の“最古参”では、福島・郡山ブラックラーメン提供店、「ますや本店」(郡山駅前ほか)で、その前身「ますや食堂」が明治元年に開業している。平成15年に一度クローズしているが再開。ラーメンの提供は、メニュー構成からしておそらく昭和初期には始まっていると推測されるが、詳しい開始時期は不明である。今後、時間が許せば全国の明治時代創業ラーメン店を探すつもりではあるが、さて?。
ちなみにボクは≪リスト1、2≫の12店のうち、郡山の「ますや」を除く店のすべてに行っているのだが、実際は数店舗でしか話は聞けていない。こういう原稿を書くと決めていたのなら、きちんと話を聞く用意をするのであったのだが・・・
□現役最古参ラーメン(専門)店を決めることは可能なのか?□
ネットや雑誌(MOOK本)等で、「日本の現役店で、最も古いラーメン専門店はどこだ?」といった問とその解とされる記述を結構見かける。しかし、ボクは以前から「その定義では、店の特定はできない」と考えている。その理由は、主に二つ。
一 ラーメン「専門店」の定義ができない
中華料理店はもとより、一般的に世間で「ラーメン専門店」と呼ばれる店の多くでも、サイドメニュー等で「ラーメン以外」の商品を提供している。餃子、シウマイ、チャーハン、ごはん、あるいはワンタン、野菜炒め等々・・・さて、「ラーメン以外のどんな品を出したら専門店でなくなるのか、なくならないのか」。それを決める機関もないし、そんな機関があったとして、その機関をだれが認証するのか。
二 同様、「ラーメン」の定義すらない
たとえば、日本最大(つまり世界最大)のラーメン類投稿サイト・RDB(WEBサイト『ラーメン・データ・ベース』、注1)では、汁ありのいわゆる”ラーメン”はもちろんだが、つけ麺、あえそば、まぜそば、冷やし中華はラーメンの類に分類されている。ラーメン専門店とされる店がパスタで多用される小麦粉(デュラム小麦のセモリナ粉)を使用した麵でトマトソースのあえそばを提供しても“ラーメン”の範疇。沖縄そばも、長崎ちゃんぽんもラーメン類に分類されるのだが、一方、長崎の“皿うどん”はラーメン類には入らないし、やきそば、と名称がついていたらレヴューは受け付けない。そのほか、ラーメンには具はなくてもあってもよく、その素材は何でもOK。
この分類、一WEBサイトが独自に決めているので、「何を基準にラーメン類かどうか決めているのか?」と、ときどき議論されている。ボクは、一般的に「長崎ちゃんぽん」をラーメン類とする人は少数派ではなかろうかと思うのである。沖縄そばも同様で、麺類・麺料理ではあるけれど、それぞれ「ちゃんぽん」「沖縄そば」という“食べ物”だ、と考える人が多いのでなかろうか。
「まぜそば」がラーメン類で「やきそば」がそうでないという根拠を、同サイトでは示していない。いや、明確な根拠がないため、示せない、というのが正しいのではないか。
□尼崎「大貫」は今も昔も中華料理店□
だからこそ、最古参の現役ラーメン(専門)店は? という問いは意味がない・・・として結論づけるのもありだが、ネット上などでは、主にラーメン評論家とされる人々が「この店だ」と断定的に書いていることを目にする。先日もあるラーメン評論家が「それは尼崎の『大貫』」だ、と書いているものをネット上で読んだ。尼崎「大貫」をそう紹介する記述は多いのであるが、それは明確に誤りだと指摘しておく。
ボクは淺草來々軒のことを調べ始めて以降、ことラーメンの歴史に関しては、ネット上に溢れる情報や、新横浜の某博物館の公式サイトにある記述は、ほぼ信用しなくなった。ちょっと調べれば簡単に分かることなのだが、それを怠り、信ぴょう性が定かではない元ネタを、様々な人によって繰り返しコピペされるから、誤情報があたかも真実の如く語られてしまうようになる。長い間、淺草來々軒が「日本初のラーメン専門店」とされていた事例は、その典型であろう。
ちょっと脇道に逸れる。
淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説は、1990年代に横浜の某所から発せられた誤情報が基になっているとボクは考えている。そのあたりはボクのブログ『【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン』に詳しい。
そこでボクは『淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説』は誤りだと、2020年の暮れに指摘したのだが、実はその2年近くも前に、近代食文化研究会というところによって明確に否定されていたのである(注2)。ボクは(間抜けなことに)そうとも知らず、古い書籍を求めたり、図書館に通ったりして原稿を必死になって書いていたわけだ。その著作を知ったのは、原稿をあらかた書き終え、ネット上に上げる寸前のことであった。
研究会の食文化に関する著作は他にもあるが、ともかく綿密な調査と詳細な分析により、極めて的確な指摘等をなされている。幸い、ボクのブログをラーメン評論家の大崎裕史氏がネットで取り上げてくださったこともあって、研究会とは現在も連絡を取り合っている。
(尼崎「大貫」。黄色い看板に「中華料理」、暖簾には「やきめし」とある。2021年7月)
さて、話を戻そう。
尼崎「大貫」の件、である。ただし、ボクのブログの『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』(注3)でも書いているので、ごく簡単に、しかし補足も含めて記載しておく。
1.「大貫」は開業時も現在も、「ラーメン専門店」はでない。
「大貫」は大正期の創業時に、神戸所在の20年超の営業歴のある中国料理店から調理人を招いた、と店舗公式サイトにも記述がある。その店の名を杏香楼、という。創業は1892(明治25)年ごろ。神戸初の本格的中華料理店・広東料理店であったという。場所は当時の南京町の南側であった(注4)。
その杏香楼が開業してからおおよそ20年ほど経ってから、そこの調理人である“周”氏を招いて大貫は開業した。
大貫の創業者で仙台出身の千坂長治氏は、淺草來々軒で食べた味が忘れられずに店を開いたとのことであるが、仙台⇒東京⇒神戸と移住した経緯が分からないため、千坂氏がどの程度淺草來々軒に通ったかは不明である。しかしながらいくら早く開け、海外との貿易も盛んだった神戸とはいえ、まだ中華料理店も極めて数が少なく、開業時千坂氏は24歳前後であった(つまり資金の余裕はないと推測する)ことを考慮すれば、東京市内(当時)でさえほとんどなかった中華そば専門店として大貫を開業したとは考えにくい。『神戸初の本格的中華料理店・広東料理店』から調理人を招いたということは、來々軒の味を追求して開業したということではなく、商売上の成功を優先し、本格的な”支那料理店“として開業したはずなのである。
2021年7月、ボクは大貫に伺った。店頭の大きい黄色の看板には「中華料理 大貫」とあり、品書きには「五目そば」「やきめし」などとあった。さらに、この店の公式サイトでも「日本最古の中華そば店」であることを把握できていない、と明示している。
(尼崎「大貫」メニュー。2021年7月)
大貫は開業時から、おそらくずっと「中華料理店」であった。少し考えれば大正時代の初期に「中華そば専門店」であったはずがないと理解できるだろう。少なくとも、現在の大貫は「ラーメン専門店」でないことは明白である。いつ、だれが、この店を「最も歴史がある、現役のラーメン専門店」と言い出した(書いた)のか分からないが、ネット情報の信用性に甚だ疑問符が付けられる典型的な例であろう。
□沖縄の“そば”の歴史は浅いけれど、中華料理は14世紀から□
さて、ここで沖縄の“そば”と中華料理の歴史をごくごく簡単に記しておく。
日清食品の元会長、というより“チキンラーメン”や“カップヌードル”等の考案者として知られる安藤百福氏の編著「日本めん百景」(注5)には『コムギが生育できない沖縄には、麺の歴史がない』『沖縄のめん食文化は新しい。沖縄ソバが食べられるようになるのは、明治中頃以降のことらしい。それまでの沖縄のめん食は、縁起ものとしてソウメンがあるくらい』などと書かれている。後述するが、明治20年代には沖縄に蕎麦屋があったというのだが、それが日本蕎麦屋なのか沖縄そばの店なのかははっきりしないという。
かつての農林水産省の試験研究機関で、現在は国立研究開発法人「農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)の研究資料『ソバ新品種の普及について』(注6)によれば『九州では古くからソバ栽培が行われていたが、沖縄ではソバ栽培自体が行われてこなかった』。これは、土壌などの条件はもちろん、沖縄特有の気象状況である台風の多さにもあるそうだ。資料では『ソバは台風被害を受けやすく、台風直撃により大きく減収』すると記述されている。日本蕎麦は「(沖縄)県内では馴染みが薄く、また、特に必要な食材でもなく、これまで本格的な栽培が行われることはなかった(『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』より。注7)」。
それでも近年では沖縄県でも蕎麦の収穫は増えているそうだ。2020年の統計では沖縄県の蕎麦生産量(乾燥子実ベース)は46トンとある(注8)。もっとも、同年の都道府県別生産量首位の北海道の19,300トン(国内生産量の43.1%)、2位の長野県3,960トン(同8.8%)などとは比べるべくもなく、沖縄の生産量比率は僅か0.1%ではあるが。ちなみに小麦の都道府県別生産量を見ると(注9)、首位・北海道の62万8千トンは別格として、2位福岡5万7千トン、3位佐賀3万9千トンの九州勢と比較して沖縄のそれは17トンに過ぎない。
つまり、沖縄は小麦も蕎麦も自県内ではほとんど生産されてきておらず、結果的に明治期まで、なかなか麺の食文化は育たなかったのである。
一方、沖縄と中華料理の関係はどうだろうか? 玉村豊男・著「食の地平線」(注10)では次のような要旨で書かれている。
~十四世紀以降、琉球王国には中国から“冊封使”(注11)の一行がたびたび訪れていた。その一行は数百名となり、一様に「うまい中華料理が食べたい」と注文する。一行はまた、中国の珍しい食品を持ち込んだほか、中国から調理人を同行させ、琉球の包丁人に中国料理の作り方を教えもしたのだ~
このことを、沖縄県の公式サイトの「沖縄の伝統的な食文化データベース」では、“冊封使饗応料理”とし、
「首里王府は大宴(七宴)を催して冊封使一行を歓待し、料理を振る舞いました。この饗応料理は大部分が中国料理でした」
と記している。さらに、同じ沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』の項には次のような記載がある。実に興味深い。
『沖縄の伝統的な食文化とは、琉球料理という沖縄独自の料理文化に基盤をおき、食材や調理法、風俗習慣などの様々な要素を包含した生活文化です。その底流には、自然や気候風土の尊重、家族・親族や地域とのつながりを大切にする精神、日中両国をはじめ各国との交流による影響などがあります』。そして琉球料理とは、『沖縄で発展・継承されてきた伝統的料理で、以下の双方を源流として現在に受け継がれています。1.琉球王朝時代に中国の冊封使や薩摩の在番奉行等を饗応するための料理が生まれ、調理技術や作法等を洗練させて宮廷料理として確立し、それが上流階級に伝わり、明治以降は一般家庭にも広がってさらに発展したもの、2.亜熱帯・島嶼(とうしょ)の自然環境のもとで育まれてきた庶民料理』。
さらに、その琉球料理の「各要素ごとの特徴 3.味わい(だし)」というのが、
『豚のだし(肉・骨)とかつおだしをベース(以下略)』
とされているのである。
沖縄には麺の食文化は育たなかったものの、古くから中国との交流は盛んで、沖縄の人々は中国料理の作り方も教わっていた。やがてそれは饗応料理を生み出し、さらに宮廷料理へと変化し、しばらく時代が進んでも上流階級の者の口にしか入らなかったけれども、やがて琉球料理となって庶民の間に広がっていった。とりわけ、琉球料理の味わいを醸し出す“出汁”は、『豚と鰹節がベース』であり、まさに沖縄そばの出汁そのものになっていったわけである。
(注1)ラーメン・データ・ベース⇒https://ramendb.supleks.jp。2006年からWEB公開されている。運営会社は株式会社スープレックス。
(注2)近代食文化研究会が否定していた⇒「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」にて触れられている。同書は、新紀元社、2019年1月刊。第二版「お好み焼きの戦前史(第二版 Kindle版)」が電子書籍で発行されている。
(注3)ボクのブログ『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』⇒https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注4)杏香楼の創業時期等⇒神戸商工会議所/2007年『第1回 神戸学検定 初級』問題より。1930=昭和5=年5月8日付大阪朝日新聞記事内で同店の記述があることから、その頃までは存在していた。
(注5)「日本めん百景」⇒安藤百福・編著、フーディアム・コミュニケーション。1991(平成3)年9月刊。
(注6)農研機構の研究資料『ソバ新品種の普及について』⇒九州沖縄農研農業経営研究資料第16号、原 貴洋(農研機構 九州沖縄農業研究センター)・著、2018年5月刊。
(注7)『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』⇒注6と同じ資料集より。山城梢(沖縄県農業研究センター名護支所)ほか・著。
(注8)2020年沖縄県の蕎麦生産量⇒農林水産省「令和2年産そば(乾燥子実)の田畑別作付面積、10a当たり収量及び収穫量」より
(注9)小麦の国内都道府県別生産量⇒注8と出典は同じ。
(注10)玉村豊男・著「食の地平線」⇒文藝春秋、1988年1月刊。
(注2)近代食文化研究会が否定していた⇒「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」にて触れられている。同書は、新紀元社、2019年1月刊。第二版「お好み焼きの戦前史(第二版 Kindle版)」が電子書籍で発行されている。
(注3)ボクのブログ『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』⇒https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注4)杏香楼の創業時期等⇒神戸商工会議所/2007年『第1回 神戸学検定 初級』問題より。1930=昭和5=年5月8日付大阪朝日新聞記事内で同店の記述があることから、その頃までは存在していた。
(注5)「日本めん百景」⇒安藤百福・編著、フーディアム・コミュニケーション。1991(平成3)年9月刊。
(注6)農研機構の研究資料『ソバ新品種の普及について』⇒九州沖縄農研農業経営研究資料第16号、原 貴洋(農研機構 九州沖縄農業研究センター)・著、2018年5月刊。
(注7)『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』⇒注6と同じ資料集より。山城梢(沖縄県農業研究センター名護支所)ほか・著。
(注8)2020年沖縄県の蕎麦生産量⇒農林水産省「令和2年産そば(乾燥子実)の田畑別作付面積、10a当たり収量及び収穫量」より
(注9)小麦の国内都道府県別生産量⇒注8と出典は同じ。
(注10)玉村豊男・著「食の地平線」⇒文藝春秋、1988年1月刊。
(注11)冊封使⇒冊封(さくほう)とは、各国の有力者が、中国皇帝から国王として承認を受けること。新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使が特定の国々へ派遣された。冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王の時ともいわれている。(沖縄県立総合教育センター「琉球文化アーカイブ」より)
大崎先生に見て貰えたのが大きいかと思います。
日本最古の〜が決まりかけていたのに、素直に間違いを認めてくれて寛大さ。
発信力のある方の目に止まったぢっちゃんさんの功績は偉大だと思います。