拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

支那そばは この国からいつ消え、いつ戻って来たのかな? 甲府の拉麺屋にて

2022年07月20日 | ラーメン
 のっけから失礼する。以下、答えよ。
  1. 冷やし中華発祥の店はどこか?
  2. 生碼麺(サンマーメン)を最初に出した店はどこか?
  3. ラーメンに「半熟玉子(味玉)」を最初に乗せた店はどこか?
  4. 「冷麺」を最初に提供した店はどこの都道府県にあるか?
  5. 戦後、最初に「餃子」を売り出したのはどこの店か?
 さあ、この5問を正確に答えられる人はいるだろうか? 「私は全問正解に自信がある」などと宣う方は申し訳ない、ボクは貴方のことをまったく信用しない。

 と書けば少し過激か。まあ少なくとも、ボクは上記5問の答えを知らない。いや、知ってはいるが、それが正解かどうかは確信がない。なぜならボクは、その答えと思しきものが複数あると知っていて、そのどれかが正解だという根拠を持ち合わせていないから。

 なぜこんなことを書き出したのか? それは2021年暮れ、山梨の増冨温泉郷から東京に戻る途中、甲府で下車して立ち寄った店の公式サイトを見たからである。いや、それは逆で、公式サイトを以前見て気になったので、増冨温泉郷の帰りに無理やり立ち寄ったのだが。

 その店は「蓬来軒」という。そしてその店の公式サイト、あるいは店の看板、さらにはWEB上にこういう記載があるのだ。

・「支那そば」を復活させた店
・消えた支那そばを全国で初めて復元させた店

(店の袖看板。2021年12月)

 淺草來々軒のことを調べていて見つけたこの記述、気になってはいたが淺草來々軒と直接の繋がりはなく放置していたのだが、そのままにしてボクがこの世から消えてしまうのだとしたら、それは心残りというもの。全国有数のラジウム含有量を誇る増冨温泉3泊4日旅行の帰りに立ち寄った。味などについてはWEBサイト「ラーメンデータベース(RDB)」を参照頂くこととし、“支那そば復活発祥店”なる件を書いておく。

WEB上記載の多くは「勘違い」「読み間違い」

 まずWEBに多く残るこのような記述を見てみよう。『支那そば→戦争の影響で我が国からその名前も、料理も消えてしまったものの、それではいけないと先代の店主が復活させた』。この店の品書きの先頭、デフォルト位置に並ぶ品、「支那そば」は、“消えた支那そばを復元させた”そうだ。さて、その真偽であるが。

 それはない。100%ない。この店、ネット上に見かけるこんな類の記述は勘違い、読み間違い。

 どういうこと? 店の公式サイトをさっと読んだらどうもよく分からない。何度か読み直すうちに、こういうことだと理解した。

 それは後述する。此処でちょっとお店のことを。

(甲府駅。2021年12月) 

(店外観。2021年12月)

 ・・・甲府駅から歩いて20分ほどだろうか、メインの通りから少し入った場所。平日の11時過ぎに店に入ったが、もう20人ほどの客がいる。この店の正式な開店時刻は11時30分であるが、早開きしているようだ。ちなみにボクが店を出た12時過ぎには、まあなんと、10人ほどの行列だ。結構な大箱で70人~80人は呑みこむキャパがあろうというのに。

 頂いた一杯。これがかつて戦前に提供されていたという“支那そば”だとしたら、ボクが都内や横浜、あるいは飛騨高山等々で頂いてきた、“戦前から存在する店で食べた”支那そば”(あるいは中華そば、またはラーメン)とは何だろう? というのが食べたボクの感想。ずっとこちらのほうが洗練されているというか、現代の多くの店で提供されている“ラーメン”にずっと近いスープ、と感じる。鶏メインであろうスープは少し甘く、穏やかで、そして深い味。黄色い縮れ麺にさほどの特徴はないが、具はなかなかの個性派である。まずメンマ。ネットの写真を見ると紅い、のである。どうやら食紅使用らしい。実際に見るとそんな紅い訳ではない。ちょっと紅っぽいかなという程度だが、これは確かにインパクトがある。どうしてこんな色をしているのか・・・理由は分からない。

 インパクトといえば、チャーシューも凄い。分かっていたのでチャーシュー増しにはしなかった。ボクの今の状態ではこの一枚ですら持て余し気味だ。何しろデカい、そして厚い。硬いのが玉に瑕だが、若い人には嬉しいだろう。いや、店の客は年配の方も多いから、肉が嫌いという客でなければ有難い、ということか。

 客を呼ぶ理由。それは支那そばそのものだけでなく、スタッフの対応や店の造りにも間違いなくある。スタッフは若い女性が多いが、皆声は大きく、丁寧だ。店は天井がとても高い。吹き抜けである。木材を多用し、座敷や小上りもある和食店の趣。こりゃ、味も含めて老若男女に人気が出る、いや、ずっと人気を保てるわけだ。ただし。ボクにはあまり響かなかったけれど。



(店に飾られる店模型。2021年12月)

“支那そば”という「差別的?用語」

 『差別用語でもないのに差別用語として学術的な「支那そば」さえ消されたのである。歴史にあった物を消された事の方が問題である。蓬来軒は消えた支那そばを全国で初めて復元した発祥の店である』。
 
 さらに、この店の公式サイトにはこんな記載もある。その直前には『日本で生まれた支那そば・東京そばが誕生した。時は明治三十八年(西暦一九〇五年)、ラーメン百年の歴史が始まった』という一文もある。後段の箇所は後に回す。

 先ほど「WEB上の記述、この店が消えた支那そばを復活させたというのは勘違い、読み間違い」と書いた。これをきちんと読めばそうとわかる。先ほどの店の公式サイトの一文をもう一度読んでほしい。

 この店が言いたいのは「支那そば」という“戦後、消された用語での品を復活させた最初の店”ということで、何も“戦前にあちこちにあった支那そばの味を復元させたわけではない”のである。

 太平洋戦争前、たとえば淺草にあった「來々軒」でも『支那蕎麦』と呼ばれていたラーメンは、戦後『支那』という言葉が差別的だという風潮が広まったため、多くの店がその呼称を止めてしまった。それは逆に問題だと考えたこの店は、『支那そば』という“呼称”を、全国で初めて“復元”、すなわち消えてしまった“呼称”を戦後復活させた最初の店、ということに言っているのだ。その時期は明示されてはいないが、創業当時の1964(昭和39)年、ということになるらしい。

 しかし。勘違い、読み間違いを起こした原因は、実はやっぱりこの店の記述や看板の表現にあるようである。たとえば店の看板には「支那そば復元 発祥店」とあり、公式サイトの一部にも『蓬来軒は、消えた支那そばを全国で初めて復元した発祥の店である』と書いてある。よく読めば上記のような意味なのであるが、この二つだけを切り取って、そこの箇所だけを読んでしまえば、勘違いを起こす。すなわち、この店こそ戦前にあった“「支那そば」の味を復元した“ことになる。

 きちんと公式サイトを読めばそうでないことが理解できるし、ちょっと考えれば“戦前の支那そばの味を復元する”ことなぞ到底あり得ないことだと気が付くのだが。

「支那そば」が差別用語でなく「支那」、という言葉が差別用語?

 さて、一体それはなぜなのか? その根拠はあるのか?

 もう時効だし、もう少し先には、ボクはこの世界の住民でなくなるから書いてもいいだろう。

 ボクは20歳代のころ、都内の、相当人口の多い区の行政機関に属し、広報というセクションに在籍していた。主要業務は行政広報誌や行政パンフレット類の企画・編集・発行である。広報誌という性格上、発行物に間違っても差別的な用語を使ってはならない。編集作業はそこにも留意して進める必要があった。そこで、「支那」という言葉である。

 40年前と現代では、差別用語と言われる範囲も異なってきているが、40年ほど前は少なくとも「支那」という言葉は行政では避けられていた。その言葉の意味、あるいはどう使われてきたのかは此処では省く。差別は(いじめ、もそうだが)、「する側」がたとえそういう意図は全くなくとも「される側」が「差別」と感じればそれは「差別」になり得る。差別と行かないまでも、「不快」とされることもよくある。だからこの言葉が差別用語・不快用語かどうかは、此処で書くことは相応しくないと考えるし、何よりボクは歴史学者でも言語研究者でもない。書くには知識が足りないし、書いたらエライ長文になるし、書いた文章に自信が持てない。

 地方公務員が気にするのは、中央行政の動静だ。中央が発出した一枚の通達に長年拘束される地方行政がなんと多いことか。此処ではこの文書番号と標題及びその内容の概略のみを記載しておく。なお、公務員はこの手の文章に慣れているので抵抗はないが、一般の人には「なんじゃこりゃ?」となるのは承知している。

・昭和二十一年六月十三日付 
内閣外乙第二五號
内閣官房總務課長
内閣官房人事、会計兩課長(以下略)
 支那の呼稱を避けることに関する件
『標記の件について別紙のとほり外務次官より申越があつたから御参考のため通知する』

・昭和二十一年六月六日付
 文合第三五七號
 外務次官
 内閣書記官長殿
支那の呼稱を避けることに關する件
『本件に關し外務省總務局長から六月六日附で都下の主な新聞雜誌社長に對し念のため寫のやうに申送つた。
 『(支那という文字を使うことは)今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたい・・・』

 この店のサイトにある「学術的な」という表現は、この通達の中にもこう書いているので転記する。

『唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます』(ただ、歴史的地理的または学術的なことを時系列で書くこと、それはたとえば東シナ海や日支事変=日中事変=などと書く際はやむを得ないと考えます)

 (以上は 「支那の呼称を避けることに関する件」国立公文書館・アジア歴史資料センター 枢密院関係文書・枢密院文書 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000780263 などより)



 まだ戦後1年も経過していない頃のこと、敗戦国日本はGHQ占領下で自らの政治行政を行うことが出来なかった。だから「理屈抜きに、相手が嫌がる表現は使うな」と、各都道府県にとどまらず、民間の新聞雑誌の経営者にまで通達した。しかし此処の経営者は、支那そばという言葉は「東シナ海」などと同様、学術的な用語であると同様に扱うべきで、使用はやむを得ないが使っていけないということではない、だから当店は「支那そば」として売り出す、と主張していたのである。


“戦前の支那そば”の味を“復元”することは出来るはずもない

 2020年11月、新横浜のラーメン博物館で淺草來々軒の支那そばを再現して提供する、という企画が実施されている。ボクもすぐ食べに行ったが、それが戦前の淺草來々軒の味の再現だ! と書けるはずもない。企画した側も「多分、そうだろう」的なことしか言えないはずだ。なぜなら、戦前の、もっと言えば大正時代中期の、淺草來々軒最盛期に提供した支那そばの味など、食べたことがある人間など、現代のこの世界に誰一人として存在しないのだ」から。

 翻って、この店でいう“戦前の支那そばの味”とはさて、どんな味なのだろうか? それもまた、別の意味で誰も答えることはできまい。それは、その“支那そば”とやらは、何時の時代の、どの店の“支那そば”なのであろうか? ということが定義されていないからだ。まさか明治初期あるいは中期に日本で現れ(当時は“南京そば”という呼称もあった)、提供店舗数は今よりははるかに少なかったろうが全国に存在した“支那そば”を一括りにした、あるいはそれは最大公約数的な“支那そば”なのかも知れないが、“支那そば”の味を復元などどう考えてもあり得ない。この店の先代はさて何年の生まれか知らぬが、一人の人間が明治のころから終戦の間際までの期間に、全国の支那そば提供店を巡って、昭和39年に再現を果たすなどというのは三流四流のSF小説のアイデアでも出てこないだろう。

 だから、この店のサイトでは支那そばの“味”ではなく“呼称”を復活させたということを書いてあるのだ。ただし、それはサッと読んだだけでは理解できないから、あちこちで勘違いを起こし、それを元に、ロクに検証もせずにネットでいろんな人が書くものだから、誤った記述がいつの間にかあたかも真実であるような事象に化ける。

 ネット社会の脆弱性は、こういうところに如実に表れる。今回、ボクが言いたいのはこれがメイン、であった。すみません・・・

戦後「支那そば」という呼称を復活させたのはこの店なのか

 ここまで書いたことで、ボクの書きたいことは終わり。しかし、この店の公式サイトの記述には二つ、疑義があることだけは書いておきたい。それは

  1. 蓬来軒本店が戦後初の『支那そば』という呼称を用いた店である。
  2. 日本で初めてラーメンが誕生したのは1905(明治38)年である。
 という二つの点。まず、

 1.については正しいとも言えるかもしれないが根拠はない

 正しいとする根拠も、そうでない根拠も、残念ながらボクには示すことが出来ない。というより、根拠となるモノが存在しないからである。この店の創業年、昭和39年という年を考えていただきたい。前回の東京オリンピックが開かれた年でもある。家電を例にとれば、カラーテレビ。NHKの放送史によれば、本格的なカラー放送が始まったのはその東京オリンピックからであり、この年、大河ドラマ「天と地と」がカラー放送されたとある。総合テレビ全時間カラー化され、一般家庭に広く普及したのは1970(昭和45)年以降のことだ。もちろんデジタル放送なんてことはない。

 ちなみにデジタル化の先端を行ったのは電卓であろうか。CASIOの公式サイトによれば、『電卓として初めてメモリー機能を搭載し、歴史へ新たな1ページを追加することになった001型という“電卓”が登場したのは『1965(昭和40)年』のこと。もちろんインターネットもパソコンも、携帯電話もワープロ専用機ですら登場していない昭和39年である。

 こんな時代に、一体どうしたらどこの店が最初に“支那そば”と名乗ったと分かるのであろうか? 何より、本当に戦後、「支那そば」という呼称は全国あらゆるところで使用しなかったのであろうか?

 アナログの時代に、いずれもそんな記録など公式に残っているはずもない。だからこの店が「うちが最初」と名乗ったところで、それを検証する術はない。ただ、他に「うちのほうが先だ」「いや、うちは戦前戦後を通じてずっと支那そばとして売っていた」という店が名乗り出て、その根拠を示さない限り、この店の公式サイトのとおりでよいのではないか、とボクは思っている。ただし、二番目はそうはいかない。ちゃんと記録があるからである。
 
支那そばという呼称は明治35年には使われていた

 2.については、明らかに過ちである
 
 サイトに記述のある『明治三十八年(西暦一九〇五年)』に、日本でラーメンの歴史が始まったという記述には根拠が示されていない。けれど、この一文、ボクはどうも読んだ記憶があった。少し考えると、ボクが淺草來々軒=日本初のラーメン専門店でない、ということを調べてブログに書いたとき、ある本に記述があったことを思い出した。

 その本とは、1989年発行の「ベスト オブ ラーメン」(麺’S CLUB編集、文藝春秋、1989年10月刊)。そこに、こう、ある。

 『日本人にも食べて貰ひたいのなら、古来慣れ親しんだ関東風の醤油味にして、獣臭さを消さなくてはならない。この考へに考へたアレンジが横浜人の支持を得たことに気を良くした彼らは、より広い市場を求めて東京へ進出する。そして〈明治も日露戦争を終わった頃から、東京の夜の町にはチャルメラの音が哀しく響きはじめた〉(平山蘆江『東京おぼえ帳』昭和二十七年・住吉書店)のであつた。時に明治三十八(1905)年。ラーメン八十年の歴史はここに始まつたのである』。
 

 前後の文章からして、この店の公式サイトの文面と照らせば、「ベスト オブ ラーメン」からの引用と考えて差し支えないであろう。そして「ベスト オブ ラーメン」にも、明治38年ラーメン発祥説の根拠は示されていない。もとより、日本のラーメン発祥についてはいつどこで提供され始めた、と明確に示されている資料(史料)は存在しないのである。しかしながら、横浜の南京街(中華街)では明治中期には「南京そば」「支那そば」という品が提供されたいたという記録がある。それはボクの過去のブログを参照されたい。

 なお、明治38年創業の店では、もう今はないが人形町系と呼ばれる大勝軒本店が屋台で営業を始めた、という記録がある。ただし、それは四代目のおかみさんがインタビューで答えたもので、正確に言えば『明治38年ごろ』ということであるのだ。また、ボクのブログで書いた中にこういうのもある。二つだけ引用する。

 “NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」によれば、『(注・神田に現存する)揚子江菜館は明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある“。

 これからすると、この店が「支那そば」屋と名乗ったのは明治38年以前、ということになる。ただし、これもその根拠となる資料等の明示はない。

 もう一つ。連絡を取り合っていた、現代食文化研究会様から寄せられた情報で、1904年=明治37年9月18日の新聞記事が残っている。

『強盗傷を負ふて逃ぐ
 昨晩三時頃神田仲町二丁目三番地南京蕎麦屋青柳賢藏方へ一人の窃盗忍(しのび)入り店頭にありし銭箱の金三十銭と單衣(ひとへもの)一枚を窃取して二階に上り・・・』


行きたくないけど 沖縄に行かなくちゃ?

 最後に。今回見つけた史料である。明治35年の新聞広告なのだが、それは何と沖縄! の店だ。明治35年発行の琉球新報広告とされるもので、そこにはこう書かれている。

 『御披露
 一 支那そば●(判読不能)ニ支那料理數々
 右ハ今般清國ヨリ料理人ヲ招キ左ノ●(同)に●(同)テ開業(以下略)・・・
 那覇警察署下リ肥料會社裏
 四月九日 支那そばや
 各位 敬白』

 
 リンクを張りたいところだが、見つけたばかりでまだ検証していないため、後日確認が取れればこのブログを編集したい。なお、その店は3年後、屋号を変えて、今なお営業をしている現役店である。ただし、現在は当たり前だが「沖縄そば」の店だそうだ。(この段落、取り消し線の理由は下記注参照)

 「きしもと食堂」。

 だそうだ。ああ、これで沖縄に行かなくてはいかんのか・・・

注 2022年7月12日 この琉球新報広告店は「きしもと食堂」とは無関係です。私の勘違いであたかもこの「支那そばや」がのちの「きしもと食堂」になったような記述をしておりますが、間違いです。お詫びして訂正いたします。なお、「きしもと食堂」については2022年夏には別項にて記述する予定です⇒2022年7月20日 また入院してしまいましたので、8月中にはUPしたいと考えています)

あとがきにかえて
 
 ボクの病気のことは何度か書いていますが、近況を。興味のない方はすっ飛ばしてくださいませ。

 2019年1月初旬、がんと診断され、即入院翌日オペ。つまりそれからもう3年。いわゆる“3年生存率”向上に多少なりとも寄与したわけです。でも2020年夏には両杯転移で肺切除手術。今年夏には肝転移だけでなく腹膜転移(腹膜播種)、それどころか、なんとまあ予後が滅茶苦茶悪い胆管に原発性腫瘍発症で、胆管にステント挿入オペ。つまりボクのお腹の中はがんだらけ。

 今年の9月には人生初の(当たり前か)余命宣告まで受けましたわ。「最悪、半年持ちません」。そのあと、10月に鳩尾に激痛が走ってね、結果、原発性胆管がんの疑い、ですと・・・。
がんには「三大治療」というのが使われます。すなわち、
  1. 外科的切除
  2. 化学療法(抗がん剤治療)
  3. 放射線治療
 そして最近では「免疫療法」。だいぶ前に話題になった“丸山ワクチン”もこの部類です。ほかに健康保険適用では「温熱療法」なんてのもあります。
 ボクは2019年のがん発症から、外科的切除と化学療法を繰り返し、今年の夏以降、化学療法に加え、週2~3回の丸山ワクチン投与のほか、こんなことしてますよ。
  1. 温泉療法? 少量の放射線はむしろ体に良い、という「ホルシミス療法(効果)」に従い、勝手に玉川温泉やら増冨温泉に行った。ついでに近隣のスーパー銭湯(温泉)に週2ペースで通っているぜ。効果? さあね。きっと、いや、たぶん、ちょっとだけ、効果があるような気がする。
  2. 免疫活性化食品等摂取療法? ヤクルトの乳酸菌シロタ株や、キリンのプラズマ乳酸菌飲料やサプリを毎日摂取! 効果? カゼを引かなくなったぜ。いや、その・・・・
 まあでもね、この世にボクがいられるのは、最長で1年半、いやいや、もっとうまくいけば2年、くらいでしょうか。短ければ2022年の夏ごろまで、ですかね。

 でもね、3年かけて、泣いて喚いて叫んで絶望して辿り着いた心境は、それほど悪いものではありません。だって生の終わりは、地球上に生存する生物に必ず訪れるわけですから。ボクは医療介護福祉関連の仕事をずっとしていたので、自分で見たこと、ネット上で調べたことからして、多くのがん患者はこの世を去る一月前あたりまで通常の生活をしていることを知っています。きっとボクもそうなります。だから、まだ最低一月は死にませんって。運が良ければまだ1年くらいはダイジョウブでしょう。その時が来るまで、ボクはきちんと生きていきます。

 そんなことを考えながら、2021年の暮れを迎えました。皆さま、一年間ありがとうございました。幸多き新しい年をお迎えください。

 それではまた、いつかお会いできることを楽しみに。

 2021年の、大晦日の、晩にて

【上】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年12月24日 | ラーメン
-----改めて、近代食文化研究会様 の調査力と深い洞察力に敬意を表します。また、同会と連絡を取り合うきっかけとなったブログを書いた、株式会社ラーメンデータバンク取締役会長で、ラーメン評論家の大崎裕史氏に深く御礼申し上げます-----

☆と☆に囲まれた箇所は、事実を基にしたボクの創作である。

 『・・・ススキノの夜はふけるほどに、賑やかである。南五条西三丁目、ラーメン横丁の狭い通りには、ラーメン通たちでひしめいている。(中略)
 「どこで食べても同じようなものだから、オレはススキノじゃラーメンをたべないよ」。地元の食通はそんな風にもいう。地元の人にはちょっと飽きられたのだろうか。「ラーメンを食べたくなったら、旭川まで行っちゃうよ」と教えてくれる人がいた。「結構おいしいし、高速にのったらすぐだしさ」』
(安藤百福・編「日本めん百景」[1]より)

 札幌の人にとっては、地元のラーメンより旭川のラーメンのほうが魅力的なのだろうか。今からちょうど30年前、カップラーメンなどの生みの親・日清食品会長などを務めた安藤百福が書いた一文である。

 その旭川ラーメンの発祥は昭和22年。路面店の蜂屋と、屋台の引き売りから始まった青葉というのが定説なのだが、それはあくまで戦後のこと。

 『旭川で初めてメニューとしてラーメンが登場したのは、昭和初期だといわれており、そば店が、そばに加えてラーメンを提供していたという説と、中華料理店が提供していたという説があります』(旭川市広報誌「あさひばし」、2017=平成29=年11月号)


(旭川「らぅめん青葉」と醤油らぁめん。2021年8月撮影)

 もう少し、具体的に。

 『旭川で始めてラーメンが登場したのは昭和初期だといわれています。資料が不十分なため定説はありませんが、2つの有力な説が存在しています。
 1つは昭和11年(1936)、いまでも旭川の市街地に店をかまえるそば屋[2]、「8条はま長」の創業者である千葉力衛がお品書きにラーメンを載せて提供したのが最初という説です。(中略)開店と同時にメニューに取り入れました。麺は、縮れのないストレート麺。スープは鶏がらと昆布で取った簡単なもの』(原文ママ。旭川大雪観光文化検定公式テキストブック「旭川魅力発見伝」2011年版より)

 『説は2つある。1936(昭和11)年、いまも中心市街地に店を構える蕎麦屋「八條はま長」がお品書きにラーメンの名を載せた説。もう1つは、それより少し前に、札幌の中華料理店「竹家食堂」の旭川別店「芳蘭」が提供したという説である。だが双方とも、現在でいう旭川ラーメンの特徴を持つものではなかった』(「今日も旭(きょく)ラー あなたの食べたいラーメンがここにある」[3]。以下「旭ラー」という)

 以上のように、戦前の旭川のラーメンの発祥は中華料理店、日本蕎麦店の二つの説がある、とされている。

 中華料理店に関しては、「旭ラー」にあるように、札幌の竹家支店である旭川芳蘭、もしくは「支那料理広東軒」という店である。旭川芳蘭が昭和3年若しくは4年からラーメンを出したというのは、かなり信憑性の高い記録である。また、「中華料理広東軒」なる店がは昭和2年からラーメンを出したというWeb上の記述があるが、ボクは広東軒に関して情報を持ち合わせていないし、いろいろ調べたが広東軒に関するきちんとした記録は見つけられないため、本稿ではこの店については無視する。

 次に、日本蕎麦店というのはどこか。上記にあるように「八條は満長(はまちょう)」という店である。「はま長」という書き方も見受けられるが、正確には「は満長」が正しい。

 その前に、そもそも日本蕎麦屋でラーメン(支那そば、中華そば)を提供し始めたのはいつ頃のことなのか、そしてその理由は何なのか。色々調べたのだが、答えは出ない。ただ、以前淺草來々軒のことを調べていくうちに、加太こうじ[4]著「江戸のあじ東京の味」[5] に記述があるのを見つけた。


 
 1911(明治44)年、米ぬか中に脚気を予防する新規成分が存在することを示したという世界最初の論文が、鈴木梅太郎により東京化学会誌に掲載された。当時は成分の本体は解明できていなかったが、のち、これがビタミンB1の発見とされた。そしてそのビタミンB1は、豚肉に多く含まれていることが分かったのである。加太こうじはこの著作で、一片の豚肉とはいえ、ラーメンにチャーシューが載ったことで脚気に効くという評判になり、『客を取られた日本蕎麦屋が昭和十年ごろから中華そばを売るようになった』と書いている。

 脚気に関して言えば、江戸のころから「江戸煩い」と呼ばれた、ごく一般的な病気ではあった。農林水産省の公式サイト「明治150年 脚気の発生」[6]によれば、『明治時代に大流行した脚気は、長い間原因が解明されず、大正時代には結核と並んで2大国民病と言われるほどになり』、『脚気死亡患者は、明治末期から大正時代にかけてもっとも多く』なったという。

 脚気に効果があるという話はともかく、昭和10年ごろからという記述はいかがだろうか。大正半ばには淺草の來々軒、五十番といった店がたいそう評判になっていた。ボクは前々回のブログ[7]でも書いているが、浅草では西洋料理店やカフェなどが中華料理を提供し始め、関東大震災直後は『猫も杓子も西洋、支那料理を看板としてゐたものだった』(「淺草經濟学」[8])という状況になったのである。そしてラーメンの当時の呼び名は「支那蕎麦」である。小さなカフェですら支那蕎麦を出していたのだ。テイストは異なるとはいえ同じ「蕎麦」を商品として売る日本蕎麦屋が黙っているわけがない。かくして、大正末期には日本蕎麦屋も支那蕎麦を出す店が何軒も現れた、とボクは考えている。

※2021年9月2日追記 本稿をWEB上にUPしたのち、本稿内容の確認をお願いした近代食文化研究会様より、同会の著書「お好み焼きの物語」に記述があるとの指摘がございました。同書はボクも所持して拝読させていただいたおりましたが、当該部分の記憶が欠落していたようです。引用させていただきますが


 淺草經濟学(国立国会図書館デジタルコレクション より)
 
 これはもちろん浅草の話、ではある。しかし、当時の浅草は日本有数の繁華街であった。全国から多くの観光客が浅草にやって来ては、日本蕎麦屋で支那蕎麦を食べたことだろう。客はまた故郷に帰ってその話をする、あるいは観光客の中には日本蕎麦屋の経営者もいたはずだ。こうして、日本蕎麦屋で支那蕎麦を出す、ということが昭和の初めには全国に伝わったのではないかとボクは考えている。そう考えないと、これから書く話が成立しないのである。

 さて、ボクが旭川ラーメンの物語を書こうと思い立ったのは、その淺草にあった來々軒の物語を書く中で、伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏の著作「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」[9] を読んだからである。著作の中で著者は、旭川の「青葉」で食べた際『こりゃそばだしだと即座に思いました』と書いている。続けて飛騨高山の 豆天狗 本店 と まさごそば のスープにも触れ『そばだしそのものでした。このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』とした。

 ただしその理由については『日本人にとって醤油は郷愁の味と香りだからです』としか書いていない。ここでいう“東京の支那そば”とは、文脈からして淺草來々軒のことと思われるが、この理屈だと醤油スープのラーメンはすべて淺草來々軒の影響を受けていることになる。それはかなり乱暴ではあろう。ともあれ、ボクは高山に出かけて確認をしたのだが、ある事情(これはあとがきで書く)によって、旭川まで出かけ、確認しようと考えたである。そして、旭川ラーメン発祥二店説を知り、ついでに旭川の蕎麦屋の歴史を調べたのである。

 それはそれは、とても長い物語になった。本筋とは関連性はあまりないのだが、後半の部分で北海道の蕎麦屋がある役割を果たすことになるので、北海道蕎麦屋物語の簡略版を記す。簡略版ではないものはいずれ時間があれば書く機会があるかも知れない(おそらく、無くなった)。また、興味のない方は次章を飛ばして読んでいただいても構わないような構成にしてあるのでご自由に。

北海道蕎麦屋物語(戦前編簡略版)

 東京あたりに暮らしていると、北海道の蕎麦屋の歴史など知る由もないが、道内には「東家」という蕎麦屋の一大勢力があり、それはそもそも明治時代の、ごく初期に東京の「やぶ」蕎麦から始まったかも・・・ということを知った。「東家」という屋号の蕎麦屋、食べログで検索すると、北海道の現役店でゆうに40を超える。その系譜をたどるのには、エライ時間がかかりそうだが、とりあえず、太平洋戦争前までの歴史を中心に記す。

 まず、蕎麦の歴史の基本について。江戸のころから今のような“そば切り”という形で食されるようになったという日本蕎麦。やがて、江戸生まれの「藪」、信州の「更科」、大阪発祥の「砂場」の三系統が、いわゆる“蕎麦御三家” と呼ばれるようになる。

 そのうち「藪」そばは、最初、現在の淡路町あたりにあった蕎麦屋「蔦屋」の支店であり、団子坂(千駄木)の竹藪に囲まれていたことから通称「藪蕎麦」という店が始まりという。その「藪蕎麦」で働いていた伊藤文平という男が1874(明治7)年、小樽で夜啼き蕎麦「やまなか」あるいは「ヤマ中」を始めた、などとWikipediaに記載がある[10]。しかし。

 「伊藤文平が藪蕎麦で修行」という記述、実はWiki以外では見つからないのだ。Wikiにはその出典すら記載がない。Web上でそうした記載があるサイトやブログもあるがどれも出典や引用は示されておらず、おそらくはWikiが元ネタではないかと思われるのだ。中にはこんな記述さえある。


小樽の街並みと小樽駅。2021年8月撮影

 『時代は明治2年。幕末の混乱を逃れ、越前福井藩下級武士の伊藤文平一家は、北前舟の船底で耐えに耐え、食うや食わずで小樽港にたどり着く。何とかして家族を養わねば、ジキに酷しい冬がやってくる。文平は武士のプライドをかなぐり捨て、屋台の蕎麦屋で寝ずの商売に励み一家を養った・・・』(石神淳[11])。

 越前藩士であった伊藤文平が越前(福井)から直接小樽に渡ったという記述はほかにもある。信憑性はそちらのほうが高そうではあるが、それでも疑問はある。蕎麦を打ったことがある人はお分かりだろうが、ちょっと教わったくらいでは客に出せるようには到底不可能だ。
 ボクも何度か食べに行ったことのある葛飾区立石の蕎麦店「玄庵」[12]では、『江戸東京そばの会』として、そば打ち教室を開催している。そのうち、プロコースは1日6時間で20日間のコースである。これは“教室”であるから効率的に教えているのだろうから、実際に店を出すのであれば、もっと時間は必要であろう。伊藤文平が福井でどんな暮らしをしていたのか不明だが、全く経験がなく小樽に渡って屋台を引いたとは考えられない。また小樽にも当時は蕎麦屋はなかったであろう。ならば、東京の藪にいた、という可能性もないではない。時間が許せばもっと調べるのだが、今回は時間切れということでご容赦いただき、伊藤文平=藪蕎麦在籍説にはその信憑性に相当な疑問符を付けながら、Wikiの記述を肯定して話を進める。

 伊藤文平はやがて、屋号を「東家」と改称し店も構えることになる。この時期は1877(明治10)年とされるようだが、実際には特定できていないようである。また、伊藤文平が創業したのか、あるいはその子(伊藤竹次郎)なのかも判然としない。1897(明治30)年には「東家」と屋号を変えたものの、1902(明治35)年、伊藤家は小樽を去り、函館に移り住むことになった。小樽から函館、結構な距離があるのだが、この理由については「やまなか」あるいは「ヤマ中」が繁盛したことを聞きつけた郷里・福井の親戚らが聞きつけ、金をせびられたり、店に居座られたりで、小樽にいられなくなったという記録もある。

 話は変わる。松平家の家臣であった大山家にて1868(明治元)年、マキ、という女性が東京・麹町にて誕生した。マキ15歳の時には父母と死別したため叔父に引き取られる。この叔父、東京でただ一つの雇い人などを周旋する業者、当時でいう「人入業者」であり、その印半纏(しるしばんてん)は「丸南(〇の中に南が入る。まるみなみ)」であった。

 マキ19歳のとき、その叔父が死んだ。マキは叔母の世話でそば職人だった柘植春吉と見合い結婚をすることになる。春吉とマキは神田錦町に居を移し、蕎麦屋を営むのだが、間もなく失敗、春吉の知人を頼って函館に渡る。この頼った知人というのが柳川熊吉である。
 熊吉は浅草の料亭で生まれた。やがて箱館(函館)に行き、五稜郭築造工事に貢献、柳川鍋の商売を始めた。本名は野村姓であったのだが、箱館奉行から「柳川」と呼ばれていたため、改姓したという。

 1868(慶応4)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い、世にいう箱館戦争、または五稜郭の戦いが勃発。このとき、幕府の海軍副総裁であった榎本武揚(たけあき)は、土方歳三らと五稜郭に立て籠もる。榎本は、箱館に将軍を迎えて北海道を開拓して新しい国を作ろうと考えたのだが、、新政府軍の攻撃を受け、降伏することとなる。

 敗れた旧幕府軍人の遺体は「賊軍の慰霊は不可」との命令で、市中に放置されたままになっていた。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は「死ねば皆、仏」と実行寺の日隆住職らと協力しと、数日間を掛けて遺体を集めては同寺に葬った。これが基で榎本は軍事裁判で死刑判決を受けることになったのだが、熊吉の侠気に感動した新政府軍の田島圭蔵の計らいで断罪を免れ、放免されたそうである。

 さて、東京で蕎麦屋経営に失敗した柘植春吉とマキ夫婦、柳川熊吉に頼み込み25円を借りた。当時の25円は、今の価値に直すと200万円ほどだ。その金でまた蕎麦屋を始める。これが丸南蕎麦屋の始まりである。時に1890(明治23)年、マキ23歳のころだ。丸南は今も営業中で、函館市内に支店が複数あり、Facebookには『江戸文化の流れを汲む老舗蕎麦屋』とも謡っている。

 今度は「藪蕎麦」で働いていた伊藤文平の話に戻る。小樽から函館に移った伊藤家は1902(明治35)年、その丸南蕎麦屋に奉公することになった。そして2年ののち、文平の子・竹次郎が函館松風町に東家を創業するも、1904(明治37)年、文平死去。さらに、1907(明治40)年8月に発生した函館大火にて店は全焼することになる。なお、このときの大火は33か町で焼失家屋約9,000戸、死者8人負傷者1,000人に上るという惨事であった。以後、竹次郎は表具師として生計を立てることになった。

 1912(明治45)年、伊藤竹次郎、今度は釧路の真砂町(現在の釧路市大町)にて東家を開業する。1923(大正12)年には釧路の店の新店舗が落成、延べ210坪の大店舗となる。竹次郎は釧路の春採湖畔に屋敷を建てて隠居するも、蕎麦作りが忘れられず、東家総本店として営業を開始。1932(昭和7)年に庭内を改装、竹老園と改称することとなった。

 竹次郎の妻は(佐藤)リツ、といった。東京に住んでいた佐藤家はリツを頼って釧路に移住、佐藤孫次郎が竹次郎のもとでそば作りの腕を磨き、1919(大正8)年に釧路市東部の春採に東家分店を開業。これが東家寿楽の始まりで、戦争でいったん途絶えたが、戦後札幌にて復活を果たしている。




 以上のように、明治初期に小樽から始まった北海道の蕎麦屋の歴史は、函館から釧路に向かい、戦争を挟んで札幌、帯広、苫小牧などに伝わっていく。無論北海道第二の都市となっている旭川にも出店を果たしている。様々な記録を辿っていくと、旭川への出店は次のとおりである。
 上記で触れた佐藤孫次郎の四男である重明が「旭川東家寿楽」を開業した。また1975(昭和50)年には「東家寿楽西武店」を開業した。「旭川東家寿楽」の開業年は分からない。しかし孫次郎の子は何人かいて、最も早く店を持ったのが三男・博行で、1952(昭和27)年札幌市中央区に「東家南19条店」を開店、とあるからそれよりは後と推測できる。なお「東家南19条店」は、2021年3月末、70年近くの歴史に終止符を打った。

 現在、旭川では重明の親戚筋らしい種市加代子が開いた「東家寿楽神居店」がある。もう一軒、旭川四条に「東家」という蕎麦店があるが、東家のれん会との関連は分からない。


現在の旭川駅前。2021年8月撮影。

 また、都内では、釧路「竹老園」で研鑽を積んだ主人が開業した「そばきり 東庵」(亀戸水神)があったのだが、2013年に閉店してしまっている。

札幌・竹家の大久夫妻も小樽から来た

 次に札幌・竹家について触れておこう。この店は1921(大正10)年、大久昌治・タツ夫妻によって、北海道大学正門前に「竹家食堂」として開業した店である。

 大久昌治・タツ夫妻は、現在の小樽駅と南小樽駅の中間にある花園町というところで、小判焼きの店を二年半ほど経営していた。その前は知床近くの斜里で木工場を営んでいた。

 幸い、小判焼きの店の経営は順調で、蓄財もできていた。しかし1920(大正9)年ごろから小樽の町には同業が増え、客が減り始めたのを機に、札幌に出ることにしたのだ。

 最初は竹家食堂という店だったが、1922(大正11)年に、シベリアのニコラエフスクから尼港事件の影響を受け来日した王文彩の手により “拉麺(ラーメン)”を出した。これが受けたのである。

 竹家は、支那そばという名が一般的だった品を初めてラーメンと呼んだ、という話も有名だが、これには相当の異論があって、きちんとまとめたサイト、“近代食文化研究会(以下「研究会」という)”のnoteであるが、これを紹介したい。末尾にURLを記載しておく。

 ところで、この店の成り立ちなどを調べていくと実に面白いことに気付くのである。旭川ラーメンの“源流”になるかも知れないので簡単に記す、と考えてある程度まとめたのだが、せっかく研究会がまとめたもの(note)があるので抜粋しておく。上記同様、URLは末尾を参照されたい。

 『長男のぼるの「札幌ラーメン竹家食堂発明説」を詳細に検討すると、やはり竹家食堂の札幌ラーメンのルーツは横浜/東京のラーメン(支那そば)にあるという結論にいきつくのです。大久昌治は、省力化を名目に王文彩の手延べ麺を廃止し、当時東京で流行していた広東式の切麺に切り替えたのです。王文彩が竹家食堂をやめると、肉絲麺は抜本的に変わります。変わったというか、肉絲麺が廃止され、当時東京ではやっていた支那そばに取って代わられます。スープも、鶏ガラの塩味から、東京や横浜の支那そば=豚骨を使った醤油味に変更となります。昌治は明確な意思を持って、肉絲麺の代わりに東京/横浜の支那そばを導入したのです』(注・長男「のぼる」の字は「陞」)。

 このように、竹家では王文彩の味から横浜や東京のラーメンの味に近づいて行ったのである。


札幌~旭川を結ぶ特急ライラック。2021年8月札幌駅にて撮影。


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[1] 「日本めん百景」 安藤百福・編、フーディアム・コミュニケーション発行。1991年9月刊。

[2] 今でも店を構える 「八條(8条)は満長」は2015年5月6日に閉店した。

[3] 「今日も旭ラー あなたの食べたいラーメンがここにある」 旭川大学経済学部江口ゼミナール・著、旭川印刷製本工業協同組合・発行。2015年3月刊。

[4] 加太 こうじ 1918年1月、浅草生まれ。1998年没。紙芝居「黄金バット」の作者。下町文化を伝える作家。晩年は日本福祉大学教授として大衆芸術をテーマに教鞭を取った(NHKアーカイブスなどより)。

[5] 「江戸のあじ東京の味(加太こうじ江戸東京誌)」 立風書房、1988年10月刊。

[6] 農林水産省公式サイト 脚気の発生 https://www.maff.go.jp/j/meiji150/eiyo/01.html

[7] 前々回のブログ 「淺草來々軒 偉大なる『町中華』」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3

[8] 「淺草經濟学」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[9] 「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」 安藤百福・監修、奥村彪生・著、角川ソフィア文庫。2017(平成29)年11月刊。当初は1998(平成10)年6月刊の「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」(フーディアムコミュニケーション発行)として発刊されたものを改題、文庫化したもの

[10]藪(そば) Wikipediaの藪 (蕎麦屋)の項。 https://ja.wikipedia.org/wiki/藪_(蕎麦屋)

[11] 石神淳 『知の木々舎』(立川市・代表 横幕玲子)が創る文化教養マガジン「ニッポン蕎麦紀行№2 [アーカイブ]~釧路の蕎麦は緑色・釧路市柏木町~」映像作家 石神淳、より

[12] 玄庵 東京都葛飾区東立石3-24-8。(公式サイトedotokyosoba.co.jp)



【追記】旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月02日 | ラーメン
【上】旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった の『日本蕎麦屋はいつからラーメンを出したのか』の項から続く

※2021年9月2日追記 本稿をWEB上にUPしたのち、本稿内容の確認をお願いした近代食文化研究会様より、日本蕎麦屋がラーメンを出した時期などについて、同会の著書「お好み焼きの物語」(*1)に記述があるとの指摘がございました。同書はボクも所持して拝読させていただいたおりましたが、当該部分の記憶が欠落していたようです。引用させていただきます。

『中華料理の中でもこと支那そばに限っていえば、その普及にもっとも貢献した外食店は、蕎麦屋であったろう』
 
 『作家の平山蘆江(*2)の「東京おぼえ帳」(*3)において、大正時代に蕎麦屋に支那料理が広がっていったさまを次のように描写している』

 『>東村山の貯水池のほとりに一軒、すばらしいそばやふが出来たのは、東京市中のそばやがあら方焼売とチヤアシウ麺に占領されかけた大正末期のことだからすばらしい』

 ということなので、旭川の蕎麦屋で、昭和の初めからラーメンを出したことには何ら違和感はない、ということである。


(*1)「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。 Kindle版にて「お好み焼きの戦前史 第二版」もあり。
(*2)平山 蘆江(ひらやま ろこう) 1882(明治15)年~1953(昭和28)年。
(*3)「東京おぼえ帳」 平山 蘆江・著、住吉書店。初版は1952(昭和27)年刊。2009年、ウェッジ文庫より復刊。







【下】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月01日 | ラーメン

旭川芳蘭と「は満長本店」の位置図

☆と☆に囲まれた箇所は、事実に基にしたボクの創作である。

竹家食堂から百年の歳月が過ぎて・・・

 ・・・今日は中国からの船が小樽の港に入った。だから客はそれなりに来た。しかし、中国から船が来る日以外は、文字通り店は閑古鳥が啼く日々。「もう限界ダロウカ?」。

 王文彩は先---八月のことだ---札幌から竹家の主人である大久昌治が来て、話したことをふと思い出していた。

 「竹家に戻る気になったらいつでも来たらいい。また一緒に暮らそうや」。昌治はそう言った。王は、相変わらず日本語はあまり話せないが、聞いて理解することは随分と上達したのだ。昌治ははっきりそう言ってくれた。不覚にも涙が目に浮かび、思わずかつての主人の手を握り返していた王文彩であった。

 ・・・時は1920(大正9)年。ロシア革命後に起きたロシア内戦。そしてそのさなかに起きたのが尼港(にこう)事件、別名ニコラエフスク事件であった。王文彩も当時ニコラエフスクに住み、中国料理の調理人をしていたが事件に巻き込まれ、命からがら樺太を経て札幌にたどり着いたのは1921(大正10)年のことであった。

 一方、小樽から札幌に出てきた大久昌治・タツ夫妻は、写真屋がうまくいかず竹家食堂を開いていたのだが、雇った中国人の作る料理の評判が良くなかった。ある日、室蘭から来た男に王文彩を紹介された。腕のいい中国人コック、という触れ込みだったので昌治は採用を決めた。山東省出身で、名を王文彩といった。そして、これが当たった。北大前の支那料理・竹家は瞬く間に繁盛していった。1922(大正11)年のことである。

 しかし1924(大正13)年5月、王文彩は自分の店を持ちたいと決め、竹家を離れ小樽に向かったのだ。昌治・タツ夫妻は、竹家をここまで大きくしてくれたのは王文彩だという思いがある。だから随分と心配した。王の店は大丈夫だろうか・・・と。

 それは昌治・タツ夫妻が札幌に竹家支店芳蘭を出し、横浜の南京町から調理人・徐徳東を招いて料理全体をブラッシュアップした以降も変わらなかった。だから昌治は、かつて自分が小判焼きを売っていた懐かしい小樽の町の、王の店を訪れたのだった。

 王の店は中国から港に中国から船が入るかどうかで客入りが左右された。つまり、経営は不安定であったのだ。おまけに相変わらず日本人は中国人のことを馬鹿にする。いや、差別する。日本語が喋れなくたって、聞けば大体のことは分かる王である。もう限界だ、かつての主人はまだ私のことを思ってくれる、ならば札幌に戻ろう。

 王文彩は決意し、札幌の竹家に戻ることにした。すでに、かつての自分の地位にはほかの中国人コックが就いていたが、昌治もタツも、ほかの調理人たちも復帰を歓迎してくれた。それは1925(大正14)年11月のことであった。

 ・・・大正天皇が崩御し、年号が変わって間もなくのこと。昌治は旭川にたびたび行くようになっていた。旭川は明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第七師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきたのである。

 とりわけ発展の要となったのは札幌~旭川間の鉄道開通である。1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了した。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていたのである。

 
 旭川は軍服を着た男たちがべらぼうに増えた。当然、飲食店も増える。昌治が考えたのはまず、駅で弁当を売ることだ。そこで昌治は、かつて勤務していた旭川駅の知り合いを訪ねた。知り合いはもう駅助役までになっていた。昌治は駅での立ち売り許可を求め、それが認可されることになった。そのため昌治は、旭川駅前、四条七丁目に小さな店を借りて弁当を作るが、同時にその一角で中国料理も出すことにした。小さな店だが丁度いい、流行るかどうか分からないのだから。

 昌治はふと思いついた。そうだ、どんな店にしようか王文彩に相談しよう。あいつの腕は確かだ。もう調理人は決まっているが、助言を頼もうではないか・・・。昌治が王に打診すると二つ返事で快諾してくれた。王もまた、旭川にたびたび出向くようになったのだ。

 王の助言もあって、1929(昭和4)年、旭川駅近くの三条七丁目左三号に「芳蘭」を移転させ、本格的に中国料理店としてスタートすることになる。蒋義深という男が厨房を任されることになっていたのだが、王はいろいろ助言をした。特に麺類に関しては王の腕前は確かであった。

 旭川芳蘭は、当時の旭川では唯一の料亭的に使える中国料理店であった。引戸の格子、丸テーブル、椅子の背もたれなどはすべて朱に塗られ、いかにも“中国”的な内装であった。夜ともなれば酔った軍の将校たちの歓声が連日響く。また、壁には“ラーメン二十銭”と貼られていて、多くの客がそのラーメン、いや、ほとんどの客がそれでも支那蕎麦と言って注文をし、舌鼓を打っていたのだ。

 移転新規開店して間もなくのこと。王は、軍服姿の男たちに混じって、店を毎日のように訪れ、ラーメンばかりを食べている二人の男がいることに気付いた。注意してみていると、料理を味わうというよりは、味を確かめるような様子で、時折二人でこそこそと話をしているのだ。ただ、商売の邪魔をするわけでなし、気にはなったが、そのままにしておいた。

 旭川芳蘭が開店して二週間ほど経ったころのことだ。王は仲間と買い出しに出かけた帰り、隣の街区に新しい店が開店準備をしているのを見かけた。看板からしてどうやら日本蕎麦屋らしい。競合はしないだろうとホッとしたのだが、その店から二人の男が出てきた。おや、彼らは・・・そう、毎日のようにラーメンを食べにくるあの男たちである。王は、仲間に頼んで通訳してもらい、毎日芳蘭に来てラーメンを食べる理由など、いろいろと話を聞くことができた。男たちはこんなふうに話したのである。

 男たちの名は、店主が今井、調理人というか蕎麦打ち職人が千葉といった。もうすぐ日本蕎麦店「は満長(のちの「本店」)」を開店するのだが、不安が大きいという。要因の一つに、明治の初めに小樽から始まった北海道一の「のれん会・東家」の存在がある。釧路では相当規模の店をいくつか構えており、函館などにも関連の店があるという。まだ規模はそれほど大きくはないが、味が良いとどこの店も評判で、もし此処旭川に出店されたら、は満長の大変な脅威になるかも知れぬ。いや、東家が出てこなくても、商売というのは店を開けてみないと分からない。蕎麦が当たらなかったときのことを考え、代わりのものも考えておかないといけない。

 そういえば東京の浅草あたりでは、同じ蕎麦でも“支那蕎麦”がたいそう人気らしい。五十番や來々軒という店が大繁盛だそうだ。それを見た日本蕎麦屋も支那蕎麦を出す店が増えたそうである。今井と千葉は、もしものときのために、ウチでも支那蕎麦を出そうかと相談していた折も折、札幌で旨いと評判の竹家の支店がすぐ目と鼻の先に開店したことを知り、研究のために毎日のように芳蘭に通っているのだという。

 王は、我が身を振り返った。そして今井と千葉にこう話したのだ。「私は王という中国人のコックだ。実は昨年まで、小樽で店を出していた。けれど経営が不安定で、店を畳んで札幌に来て、今は旭川の店に手伝いに来ている。経営が厳しいと本当に辛いということは骨身に沁みている。本格的に中華料理を始めるのではなく、日本蕎麦を出す片手間にラーメンを作るんだったら、私が作り方を教えようじゃないか。毎日食べに来てくれているお礼だよ」。

 今井と千葉はたいそう喜んだ。「それはとてもありがたいことです。あなたの名は王さんというのですか。小樽で店を出していたのですか・・・」。

 ほどなくして「は満長」は新規開店を果たし、結構な客で賑わった。ただ、至近距離の旭川芳蘭との競合を避けるため、王に教わったラーメンは品書きには載せず、店の賄や常連に限ってラーメンを出していた。

 時は流れ、昭和十一年。「は満長」から蕎麦職人・千葉力衛は独立する。「は満長」から約七百メートルほどの場所、八条通に「八條は満長」を開業することになった。本店との違いを出すために、は満長本店の今井店主の了解を得て、品書きにラーメンを載せることにした。旭川は相変わらず軍人たちが多い街でまだまだ栄は衰えない。両店との距離もそれなりに離れているし、まだラーメンを出す店が少ないこともあって旭川芳蘭と競合するということもなく、店は繁盛したのだが、時代は、日本をひたすら戦争へと突き動かしていた。

 ・・・昭和十一年二月二十六日、いわゆる二.二六事件発生。1,500人近くの将校・兵らが引き起こしたクーデター未遂事件である。翌1937(昭和12)年7月には盧溝橋事件が起きた。やがて支那事変、つまり日中戦争の引き金となった事件であった。食糧事情も悪化していく中で、千葉力衛は、近所の飲食店の経営者たちに請われてラーメンの作り方を教えるようになっていた。教えられる側の中には、のちの「蜂屋」を開業した加藤某、「天金」を創業した信田某もいた。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月14日、15日。アメリカ海軍第38任務部隊は、北海道の南部から登別市の沖合へと展開していた航空母艦13隻から延べ3,000機以上もの艦載機を発進させ、無差別に爆撃や砲撃を北海道の主要都市に浴びせた。結果、
 室蘭市、艦砲射撃等で死者525人[1]
 釧路市、空襲等により死者229人
 根室市、空襲などで死者393人
 旭川(死者3人)、札幌(同1人)などでは大規模な被害はなかった。いわゆる「北海道空襲」であった。
 それから一月後、あまりに愚かで、理不尽な、そして悲惨極まる、戦争が終わった。


東室蘭駅前(2021年8月)

 1947(昭和22)年、旭川で「蜂屋」、「青葉」が開業を果たして、何年か経ったある日のこと。旭川のラーメン店の店主たちが酒を交わしていた店ではこんな会話があった。

「そういやあ、この町でさ、最初にラーメンを出した店ってさ、どこだっけかな?」
「ああ、八條の『は満長』じゃあないか? あそこのご主人、千葉さんだよな、あん人に作り方教えてもらったって人、多いもの。確か、蜂屋の先代の加藤さんも、そうだったはずだよ」
「いや、芳蘭が先じゃあねえの? 確か昭和4年ごろって聞いているけどさ」
「そうかねえ? 三条通りの『は満長』の本店もその頃だったはずだよ。千葉さんってそこにいてさ、小樽から来た人ラーメンの作り方をに教わったって」
「まあ、いいんじゃないの。『は満長』の千葉さんの店、芳蘭、どっちも最初ってことで」。


 さて、「は満長」の今井と加藤にラーメンの作り方を伝授した王。旭川芳蘭も軌道に乗り札幌の竹家に戻ったのだが、若手の調理人が育って来ていた店で王の居場所は次第になくなっていった。

 1931(昭和6)年、王は札幌の南三条西七丁目角、常盤湯という銭湯の二階に住んでいた。相変わらず独り身であった。そして翌1932(昭和7)年、その場所で生涯を終えた。ラーメンという当時としては珍しい食べ物を、札幌に、そして旭川に広めた功労者としてはあまりに寂しい最期であった。


札幌駅(2021年8月)


 ・・・札幌・竹家。太平洋戦争での日本の敗色が濃厚となった頃、1943(昭和18)年、廃業。

 竹家創業者、大久タツ。1961(昭和36)年12月、旭川にて没。68歳。
同じく、大久昌治。1963(昭和38)年12月、札幌にて没。78歳。
大久昌治・タツ夫妻の長男、大久陞(のぼる)。戦後、大阪で店を開くも1988(昭和63)年に他界、75歳。

 竹家を繁盛させた功労者、李宏業。札幌竹家廃業を見届けたのち、戦後の1946(昭和21)年、西宮市甲子園口3丁目15-12にて北京料理店「桃源閣」開業。1985(昭和60)年、没。この店の詳細は不明である。

 大久陞の長男・武。1993(平成5)、神戸市灘区下河原通3丁目に「竹家ラーメン」開業。いっとき灘区稗原町2丁目に支店があった。屋号はいっとき「中華そば元味や」としていたが、やがてまた「竹家」に戻したものの、今はもう、ない。2001年夏頃閉店したようである。
ただ、河原通の「竹家ラーメン」は、中断期間はあるもののれっきとした札幌・竹家の正統な後継店で、今なお、暖簾を出している。

 ・・・大久昌治夫妻が札幌北大前に「竹家食堂」を開いたのが1921(大正10)年のこと。2021年でちょうど百年。


 旭川ラーメンの次の一世紀は、まだ始まったばかり、である。



◇旭川の人気ラーメン店◇
◆蜂 屋 1947(昭和22)年創業。
◆青 葉 1947(昭和22)年創業。
◆特一番 1950(昭和25)年創業。
◆天 金 1952(昭和27)年創業。
◆みづの 1967(昭和42)年創業。
◆よし乃 (1968)昭和42年創業。
◆梅光軒 1969(昭和44)年創業。
◆つるや 1972(昭和47)年創業。
◆味 徳 1978(昭和53)年創業。
◆ふるき 1982(昭和57)年創業。
◆ひまわり 1987(昭和62)年創業。
◆山頭火 1988(昭和63)年創業。

◇旭川のラーメン店が使用する製麺所◇

(「今日も旭ラー」より、グラフ化したもの。
加藤ラーメンは蜂屋創業者の兄弟が開く。昭和22年創業。
藤原製麺と須藤製麺はともには昭和23年の創業、
佐藤製麺は昭和30年、旭川製麺は昭和40年の、それぞれ創業である)


あとがきにかえて

 浅草新畑町にあった「淺草來々軒」。日本初のラーメン専門店ではない、と主張することを主眼とした物語を書き、続いて(主にスープ味を継承している)後継店を探して「明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~」も書いた。

 二つの物語を書く過程で、郡山、高山、岐阜、尼崎、神戸にも関連する店があるのを知って出かけて、食べた。旭川にもある、とは知っていたがラーメンを食うためだけに行けるか、という思いもあった。しかし、またまた事情が変わった。

 何度か書いたのだが、2018年暮れ、激しい腹痛に見舞われた。結果、ステージⅢbの大腸がんで即手術(2019年1月)。2020年夏には両肺転移が発覚、また手術。帰宅したはいいが気胸でまた入院。また転移はあるだろうな、と思ってビクビクしながら仕事をしていたが、2021年夏、また転移が発覚。これを書いている時点ではどこに転移しているかはっきりしてはいないのだが、再転移した場合、仮に手術ができてもまた再々転移の可能性が高いことは知っている。もしかすると、もう旅行には行けないかもしれないという恐怖感、焦燥感がボクを支配した。だから慌てて、函館~室蘭~小樽~札幌を経由して旭川に向かったのだった。後悔はある。もう少し早く、この原稿を書き出していれば、小樽の蕎麦屋、竹家の跡地なども廻れたのに。かえすがえすも残念至極。まあ、また行ける、と信じるほかはない。

 37歳で大腸がんの手術をし、以後合わせて6回の手術をしてなお健在という人がいることも知ってはいるが、それは相当幸運な方。ボクは楽観することも、悲観することも、もう、やめにした。

 中日ドラゴンズで選手として活躍、日ハムで監督も務めた大島康徳氏がブログに書き残した短い文章(一部)を書いて、ボクの原稿を締めくくろうと思う。氏は2016年10月にステージⅣの大腸がんであることを告知された。以後肝臓、肺に転移し、今年6月30日に鬼籍に入られた。最初のがん告知で「余命1年」と言われたそうだが、結果としてがん告知から4年8か月、この世に足跡を残し続けた。

楽しいこと
やりたいことは片っ端からやってきた。
楽しかったなぁ…

これ以上何を望む?
もう何もないよ。

幸せな人生だった

命には必ず終わりがある
自分にもいつかその時は訪れる
その時が俺の寿命
それが俺に与えられた運命

病気に負けたんじゃない
俺の寿命を
生ききったということだ

その時が来るまで俺はいつも通りに
普通に生きて
自分の人生を、命をしっかり生ききるよ

(「この道 大島康徳公式ブログ By Ameba」2021年7月5日付 より)

 この文章、ほぼ、今のボクの気持ちを代弁している。一つだけ違うことが、望むことがある。


 ボクはもう少し、美味しいものを食べに、あちこち旅をしたいのだが。



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 ※本日(2021年9月1日)、ボクは、残念ながら がん のオペはできないことが分かりました。いわゆる「多発性転移」で、大きい がん を取ったところで、今は微小な がん が必ず大きくなり、オペしたところで、という状態です。何も治療しなければ「あと半年もたない」との宣告でした。化学療法、ま、ケモともいいますが、抗がん剤治療の選択肢はありますが、抗がん剤では「がんは治せない」ことは分かっていますので、あまりきつい治療の選択はしないと、担当医にも伝えました。覚悟はある程度できていたので、ショックはそれほど大きくはありませんでしたが、正直、恐怖と不安で胸が潰れそうな感覚はあります。あとは、後悔のないよう、好きなことだけする毎日をしばらく続けようと思います。なので、また来週からふらっと逃避行旅行をしてきます。いつまで体が動くかは分かりませんが、その日が来るまで、しっかり生きていこうと思っています。
 また機会があればどこかで報告することがあるでしょう。いや、ラーメンの歴史にまつわる物語は、身体が動くうちは、書きたいと考てえいます。

 皆さん、それまで、しばしの間、お元気で。



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主要参考書籍
◆「竹家食堂物語 北のラーメン誕生秘話」大久昌巳・杉野邦彦・著、TOKIMEKIパブリッシング・発行。2004年2月刊。
◆「さっぽろラーメンの本」北海道新聞社・編、北海道新聞社・発行。1986年1月刊。
◆「にっぽんラーメン物語 中華ソバはいつどこで生まれたか」 小菅桂子・著、駸々堂。1987年10月刊(単行本)。



主要参考Webサイト 
◆近代食文化研究会の“note”  札幌ラーメン誕生の経緯を書いた七冊の本をレビュー 読むべき本は『「竹家食堂」ものがたり』2021年1月11日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nb2465b559a43
◆同じく 『札幌ラーメン誕生の経緯はわからずじまいで迷宮入り しかしそのルーツは関東のラーメン(支那そば)にある』2021年1月12日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nb8f588fb22fd
◆同じく 『竹家食堂神話の虚構性 上・下』2021年1月13日 よりhttps://note.com/ksk18681912/n/nea56a429b7cc 等
◆札幌市北区ホームページ『78.札幌の味、そのふる里をたずねて-竹家のラーメン』より
https://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/078.html

◆函館市史通説編第3巻第5編「大函館 その光と影」より
函館市史デジタル版http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/shishi_mokuji/tsuusetsu03-05_mokuji.htm

◆函館市公式観光情報はこぶら公式サイト『函館に歴史を刻んだ偉人6・柳川熊吉』より
https://www.hakobura.jp/deep/2010/08/post-138.html
◆中高生のための幕末・明治の日本の歴史辞典人物編『榎本武揚』より
https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_06.html
◆公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団公式サイト『函館ゆかりの人物伝 大山マキ』より
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/01_a/01-ooyama.html

◆株式会社竹光園東家総本店公式サイト『竹老園の歴史』より
https://chikurouen.com/history/
◆おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部公式サイト https://yabuhan.co.jp
◆函館大門商店街公式サイト『丸南本店』より
https://hakodate-daimon.com/shopinfo/maruminamihonten/

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[1] 北海道爆撃の死者 いしかり市民カレッジ公式サイト講座7 「今年は、戦後70年~歴史の記憶を風化させないために~」第1回 「あの日のいのち~北海道空襲の犠牲者たち~」 2015年7月18日 http://www.ishikari-c-college.com/topics/2015/07/7-70.html