ユニバーサルフロンティア理論は世界を救う

GUTこと大統一理論を上回る現代最高の物理理論を公開したいと思う!こう、ご期待・・。

ユニバーサルフロンティア理論による宇宙【第一章 論理学】(4)

2014年04月11日 | 究極理論
《クォーク文と中間子命題》

 山野命題Yにおいて自己言及文の効用を論じてきた当方としては、やはり目先目ざわりなパラドクスが起こるからと言って、ただ単に自己言及文を禁則にするのは悪しき健全化だと言えるかと思う。その反面としてゲーデル文と不完全性定理の論調は誤謬であるようにも感じるので、そうした目的によっては主語を命題の名称にそのまま使うことを禁則としたくなる。あるいは命題の主語を命題の名前にしてしまうと「その否定命題の定義が妥当ではなくなるのではなかったか」などの不安が残って当然だとも思われる。現実には不安などではない、命題の主語を命題の名前に使いたければ統一しなければならない。
 ゲーデル命題GひとつにとってみてもG「Gは証明できない」一つの真偽を問うのが数学という学問のスタイルである。であるし、その調子の文をこれから紹介したいように思う。
 その名をクォーク文と呼ぶ・・。

太郎「太郎は犬を飼っている」

¬太郎「太郎は犬を飼っていない」

これをやれば「この文は犬を飼っている」と同じになるではないか、というのがゲーデル文に向けての反論のメッセージでもあり、さらに似たようなことが起こっている。ほうれ、このふたつを合わせて読めば「太郎は犬を飼っているのが太郎であって、犬を飼っていないのは太郎じゃない」と読めるではないか?
 この両者を合わせた物を中間子命題と呼ぶことにしたのだが、そうしたら肯定形はクォーク文で否定形は反クォーク文ということになる。
 中間子命題はクォーク文と反クォーク文とで構成されていながら、文意としてはクォーク文が反クォーク文を強調するというような意味合いになって来ているのは、自然界と共通しているようで面白いw)
 強い相互作用ではくり込みの関係でクォークの側にクォークが引き寄せられる仕組みになっており、それはあたかも電磁場の逆ということだが、そのせいで低エネルギーでは中心電荷たるクォークが埋没したように消えるらしい。この効果はスクリーニングと呼ばれるが、粒子と反粒子とが数の上では1対1のままで粒子だけが存在する唯一の手段であり、現実の宇宙空間も論理構造はそうなっているのではないかという予想とも妄想ともつかぬ思いに私を駆り立てるのである。中間子のすべてが夢のように儚い短い寿命を持っている、命題の主語を命題の名前にしたら否定命題は本来つくられないはずなのだ、主語を名前にしたらどんな命題も否定されないとすれば「それは禁則だあ~」の造化の神の一声の元に消えゆく、その儚さこそが中間子の特質ではないだろうか・・。


《二つの排中律》

 排中律とは「白(真)か黒(偽)かハッキリさせる規則」ということです。裁判で喩えるならば「無罪(白)であるか有罪(黒)であるか」ということであり、そこでは中間色としての灰色はいっさい認められません。言い方として「白ならば黒でなく、黒ならば白でない」「黒でなければ白であり、白でなければ黒」という二種類の言い方が出てくる。どうしてこれが二種類であるかと言えば、それこそ不完全性というかなんというか、灰色命題が現実に出現した場合に(数学には決定不能命題があるので実際に存在する)その扱いで若干の差が出る。
 それは若干ではあるが、かなり本質的な違いでもある!
 なぜならば灰色命題が存在する場合に「白ならば黒でなく、黒ならば白でない」は(排中律だというのに灰色を仮定するのも奇妙だという気がするが数学に合わせて)灰色命題が存在したとすれば「白でも黒でもない」ということであるし、そうではなくて「黒でなければ白であるし、白でなければ黒である」の場合には灰色命題が出現したら「白でも黒でもある」ということになる。
 それで私としては前者を『無矛盾排中律』とし、後者を『完全排中律』としたい、という思いでいっぱいなのである・・。

個人的には「数学は無矛盾排中律で不完全、論理学は完全排中律で矛盾」という印象を強く持っている、灰色命題だけの話であるがw)
 






 

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