G∧¬Gによってもたらされるものが非ユークリッド幾何学における「曲面にして平面」と同じような限定的で一部ですむものであればなんともなかろう・・。
数論のプロがやってきたことはωなどの超現順序数が自然数であり違うというような矛盾の導入らしいが、超準解析学の一派である内部集合論においては無量大数だとか、無限小だとかが無限の性質を持った有限数として導入されている。それらはいずれもごく平凡なことの証明手段に使うのだが「矛盾性を導入して無矛盾性を証明せざるを得ない」という意味では不完全性定理の結果をなぞっているように見えてくる・・。
さてヒルベルトの言う「体系内に一つでも矛盾があったら全域におよぶ」という定理はどうなるのであろうか?
ここで数学的帰納法におけるω矛盾に思いを馳せるということになった・・。
ω矛盾自体も部分的な矛盾であるが、ひょっとしてゲーデル命題は無限の彼方にそれを追いやってしまって、Gまでは数学命題だが¬Gは数学命題ではないということにでもなっているのかもしれない。それにしても、ヒルベルトの定理が意味を持たないとしたら、最初からゲーデル命題がもたらす矛盾はG∧¬Gだけかもわからないじゃないか。
さて、今さら何を合理化してみたところで、¬G⇔G∧¬Gだとか、G⇔¬Gだとか、述語命題に主語の名前を付けてはならないだとか、あれこれやってきた後では意味ないかw)
それでも、本心を言えば、これまでせっかくクォーク命題だとか中間子文だとかユニバース命題だとかまでやってきたのだから「述語命題に主語の名前を付ける」という手法には愛着がある。
不完全性定理のような正面切った論証には向かないのだと思っている!
数論のプロがやってきたことはωなどの超現順序数が自然数であり違うというような矛盾の導入らしいが、超準解析学の一派である内部集合論においては無量大数だとか、無限小だとかが無限の性質を持った有限数として導入されている。それらはいずれもごく平凡なことの証明手段に使うのだが「矛盾性を導入して無矛盾性を証明せざるを得ない」という意味では不完全性定理の結果をなぞっているように見えてくる・・。
さてヒルベルトの言う「体系内に一つでも矛盾があったら全域におよぶ」という定理はどうなるのであろうか?
ここで数学的帰納法におけるω矛盾に思いを馳せるということになった・・。
ω矛盾自体も部分的な矛盾であるが、ひょっとしてゲーデル命題は無限の彼方にそれを追いやってしまって、Gまでは数学命題だが¬Gは数学命題ではないということにでもなっているのかもしれない。それにしても、ヒルベルトの定理が意味を持たないとしたら、最初からゲーデル命題がもたらす矛盾はG∧¬Gだけかもわからないじゃないか。
さて、今さら何を合理化してみたところで、¬G⇔G∧¬Gだとか、G⇔¬Gだとか、述語命題に主語の名前を付けてはならないだとか、あれこれやってきた後では意味ないかw)
それでも、本心を言えば、これまでせっかくクォーク命題だとか中間子文だとかユニバース命題だとかまでやってきたのだから「述語命題に主語の名前を付ける」という手法には愛着がある。
不完全性定理のような正面切った論証には向かないのだと思っている!