定義式G「Gは証明できない」の対偶を取るならばG「証明できるならば¬G」ということになり、おなじく定義式¬G「Gは証明できる」の対偶を取れば¬G「証明できないならば¬G」になりますw)
これは驚きです、証明できてもできなくても、どちらも¬Gだというのですから!
また
それぞれの定義を代入した場合に、G「証明できるならば¬G」はG「¬G⇒¬G」ですし、¬G「証明できないならば¬G」は¬G「G⇒¬G」になっております・・。
_____(1)
ここではゲーデルに反する定式は用いておりませんから、G「数学の無矛盾性」と¬G「数学の矛盾性」を用いていいでしょう、すると(数学の無矛盾性)「数学の矛盾性は無矛盾である」(分かり難いかもしれないが「数学は矛盾しておれば矛盾している」ぐらいの意味)に対して、(数学の矛盾性)「数学の無矛盾性は数学の矛盾性である」(数学が矛盾しているとは無矛盾だと示されたら矛盾している証拠であるぐらいのもんだ」というようなややこしい意味)ということだ。
ここで数学の場合に「矛盾性が無矛盾であるのに対して無矛盾性が矛盾している理不尽な体系」という結論が得られます・・。
数学にとって無矛盾性とは矛盾した概念、それは同義反復したらナンセンスである数学証明のたびに思い出せばいいのではなかったでしょーか、数学にとって同義反復は無矛盾証明どころではなくて悪循環、ならば数学の危機だと大騒ぎするよりも“論理学の危機”だと思い知らせた方がずーっとよかったでしょーに!
(1)から
¬Gを仮定すればG⇒¬G、定義より¬G⇒G、ゆえにG⇔¬G
また
Gを仮定すれば¬G⇒¬G、論理学より¬Gが証明された、ゆえにG⇒¬G
もちろん、定義より自明で¬G⇒G、ゆえに「あわせて G⇔¬G」なのであったw)
クルト・ゲーデル、僻(ひが)まずに安らかに眠れ・・・。(合掌)
これは驚きです、証明できてもできなくても、どちらも¬Gだというのですから!
また
それぞれの定義を代入した場合に、G「証明できるならば¬G」はG「¬G⇒¬G」ですし、¬G「証明できないならば¬G」は¬G「G⇒¬G」になっております・・。
_____(1)
ここではゲーデルに反する定式は用いておりませんから、G「数学の無矛盾性」と¬G「数学の矛盾性」を用いていいでしょう、すると(数学の無矛盾性)「数学の矛盾性は無矛盾である」(分かり難いかもしれないが「数学は矛盾しておれば矛盾している」ぐらいの意味)に対して、(数学の矛盾性)「数学の無矛盾性は数学の矛盾性である」(数学が矛盾しているとは無矛盾だと示されたら矛盾している証拠であるぐらいのもんだ」というようなややこしい意味)ということだ。
ここで数学の場合に「矛盾性が無矛盾であるのに対して無矛盾性が矛盾している理不尽な体系」という結論が得られます・・。
数学にとって無矛盾性とは矛盾した概念、それは同義反復したらナンセンスである数学証明のたびに思い出せばいいのではなかったでしょーか、数学にとって同義反復は無矛盾証明どころではなくて悪循環、ならば数学の危機だと大騒ぎするよりも“論理学の危機”だと思い知らせた方がずーっとよかったでしょーに!
(1)から
¬Gを仮定すればG⇒¬G、定義より¬G⇒G、ゆえにG⇔¬G
また
Gを仮定すれば¬G⇒¬G、論理学より¬Gが証明された、ゆえにG⇒¬G
もちろん、定義より自明で¬G⇒G、ゆえに「あわせて G⇔¬G」なのであったw)
クルト・ゲーデル、僻(ひが)まずに安らかに眠れ・・・。(合掌)
>G「証明できるならば¬G」ということになり・・・
日本語の助詞「は」は、「ならば」ではありません。
したがって対偶を取ることはできません。
日本人なら誰でも知っています。
韓国人、朝鮮人、中国人なら間違うでしょうが。
ゲーデル本人の論文も意訳で締めくくってあるように聞きましたし・・w)