南部物理ではP対称性よりも先に【カイラル対称性すなわちカイラリティー】が成立していると考えるように私には思えました・・。
その方針で検討するとすべてが解かれるのですよw)
元はといえば左巻きだけの存在であったとしてもカイラリティーが破れたら右巻きが混ざるように変わる、ひょっとしたら宇宙はそれだけで成立しているところもあって、だからP対称性が内蔵されているように錯覚しているだけで本当は「宇宙のPは本質において1破れている」が正しいのではなかったでしょうか?
「そのことが南部物理とどのように調和するのか?」について、これから解説いたします・・。
カイラル対称性という言葉自体が、当時アメリカの物理シーンによって流行っていた【平易な群論による対称性物理】に対抗して(なかば苦し紛れに)南部先生が編み出した造語ではなかったでしょうか?
化学の世界では同じ英語の綴りで(だから同じ単語なのでしょう)キラリティーといって「左右対称性が存在しないこと」を意味します。だからというわけでもないのでしたが「カイラリティーとは左右対称性が(つまりP対称性が)存在しないこと」であって、元来の語義からするとカイラル対称性と称するのは言語矛盾そのものなのです。ここは正直に【P対称性の1破れ】と定義を改めてみれば完全に納得がいくのです・・。
(カイラリテイー)=(P対称性の欠如)
とすれば何もかもが合点がいくのですw)
弱い相互作用に右巻きと左巻きの弁別能力があるのではなくて、フェルミオンというのは元が左巻きだけである物をカイラリティーの欠如によってのみ、それだけの理由で電子やクォークなどのそれなりに大きな質量を持ったフェルミオンは左右両巻きになるということです。南部先生はかつて(ノーベル賞受賞論文の中で)「π中間子の質量は他と比べたら非常に軽いから0として第一次近似を取ってよい」とされましたけど、そこを逆に「ニュートリノからすれば電子の質量など無限大なぐらいに重い」という喩えにすることが許されましょう・・。
(カイラリティーの1破れ)=(P対称性の見かけ上の回復)
なのですよ!
反ニュートリノもまた左巻きではないかという考察結果を自らヒントといたしまして、中性粒子といえどもマヨラナ粒子だということはなく、また右巻きと左巻きとが反応するのが反応するのが粒子反粒子対消滅ということではなく、事柄の本質は「時間順行波動と時間逆行波動の対によって消滅する」にこそあるのではなかったか?
そうであってこそ粒子と反粒子の区別が時間特性に本質を求めることができ、さすればフェルミオンは左巻きを唯一とすることができて例外がなくなり、湯川流の非局所場ということは必要なくなるのではなかったか?
(はてさて、これを英文にどうやって翻訳しようか・・)
その方針で検討するとすべてが解かれるのですよw)
元はといえば左巻きだけの存在であったとしてもカイラリティーが破れたら右巻きが混ざるように変わる、ひょっとしたら宇宙はそれだけで成立しているところもあって、だからP対称性が内蔵されているように錯覚しているだけで本当は「宇宙のPは本質において1破れている」が正しいのではなかったでしょうか?
「そのことが南部物理とどのように調和するのか?」について、これから解説いたします・・。
カイラル対称性という言葉自体が、当時アメリカの物理シーンによって流行っていた【平易な群論による対称性物理】に対抗して(なかば苦し紛れに)南部先生が編み出した造語ではなかったでしょうか?
化学の世界では同じ英語の綴りで(だから同じ単語なのでしょう)キラリティーといって「左右対称性が存在しないこと」を意味します。だからというわけでもないのでしたが「カイラリティーとは左右対称性が(つまりP対称性が)存在しないこと」であって、元来の語義からするとカイラル対称性と称するのは言語矛盾そのものなのです。ここは正直に【P対称性の1破れ】と定義を改めてみれば完全に納得がいくのです・・。
(カイラリテイー)=(P対称性の欠如)
とすれば何もかもが合点がいくのですw)
弱い相互作用に右巻きと左巻きの弁別能力があるのではなくて、フェルミオンというのは元が左巻きだけである物をカイラリティーの欠如によってのみ、それだけの理由で電子やクォークなどのそれなりに大きな質量を持ったフェルミオンは左右両巻きになるということです。南部先生はかつて(ノーベル賞受賞論文の中で)「π中間子の質量は他と比べたら非常に軽いから0として第一次近似を取ってよい」とされましたけど、そこを逆に「ニュートリノからすれば電子の質量など無限大なぐらいに重い」という喩えにすることが許されましょう・・。
(カイラリティーの1破れ)=(P対称性の見かけ上の回復)
なのですよ!
反ニュートリノもまた左巻きではないかという考察結果を自らヒントといたしまして、中性粒子といえどもマヨラナ粒子だということはなく、また右巻きと左巻きとが反応するのが反応するのが粒子反粒子対消滅ということではなく、事柄の本質は「時間順行波動と時間逆行波動の対によって消滅する」にこそあるのではなかったか?
そうであってこそ粒子と反粒子の区別が時間特性に本質を求めることができ、さすればフェルミオンは左巻きを唯一とすることができて例外がなくなり、湯川流の非局所場ということは必要なくなるのではなかったか?
(はてさて、これを英文にどうやって翻訳しようか・・)