ごく一般的な認識ではゲーデル命題は嘘つき命題の真偽判定を証明可能性にまで緩和した物だとされているが、その定式からいうと自己言及文を表すのに述語命題に主語の名前を付けた物ということも出来るので、同様の文型を持つ物の代表としてカリー命題と同値の文を挙げることができる。カリー命題「この文が正しいならばA」はT⇒Aと表され、これはAそのものと同値であるから「この文はA」からC「CはA」と定式する(ただしCはカリー命題)ことができる。
ゲーデル命題G「Gは証明できる」はその特殊な形になっていることが良くお分かりになられることを期待する。
もうこれだけで不完全性定理批判の十分な論拠を出し尽くしている感があるが、むしろカリーパラドクスを先に解決することによって、より完全な形でゲーデルの業績を葬ろうではないか。なぜカリー命題がAに何を入れても「Aが真」になってしまうのか明らかにすればゲーデルの論証をナンセンスとするに十分である。
結論からいうとカリー命題は否定形が否定する意味を持たない文型の一種であることが分かった・・。
そのような文型は述語文に主語の名前を付けることによって得られる。例えば原子命題として有名な「太郎は犬を飼っている」に主語である太郎の名前を付けた物として太郎「太郎は犬を飼っている」だが、述語命題としてこの文の否定形を造れば¬太郎「太郎は犬を飼っていない」となるのがお分かりだと思う。¬太郎の意味を探れば「太郎は犬を飼っていないは太郎ではない」ということになるので、これでは否定形の形をしているのに何も命題太郎の意味に反しておらない。
むしろ太郎∧¬太郎の結合した意味は「太郎は犬を飼っているは太郎であり、太郎は犬を飼っていないは太郎ではない」ということで意味の強調が見られるほどだという事だ。
カリー命題はこの形をした文と同値であるから否定されないのではなかったか?
同じことがゲーデル命題についても言える、ゲーデル命題G「Gは証明できない」は否定形¬G「Gは証明できる」と結合して意味を強調することになる、すなわち「Gは証明できないがGであり、Gは証明できるはGではない」となる。しかし、幾らなんでもG∧¬Gだから形式上は矛盾のはずであり、ここは意味論と記号とか矛盾してしまう原因をこそ明らかにしたいところだ。
それで述語文に主語の名前を付けた物をクォーク命題と呼ぶことにして解析を進めよう!
ゲーデル命題G「Gは証明できる」はその特殊な形になっていることが良くお分かりになられることを期待する。
もうこれだけで不完全性定理批判の十分な論拠を出し尽くしている感があるが、むしろカリーパラドクスを先に解決することによって、より完全な形でゲーデルの業績を葬ろうではないか。なぜカリー命題がAに何を入れても「Aが真」になってしまうのか明らかにすればゲーデルの論証をナンセンスとするに十分である。
結論からいうとカリー命題は否定形が否定する意味を持たない文型の一種であることが分かった・・。
そのような文型は述語文に主語の名前を付けることによって得られる。例えば原子命題として有名な「太郎は犬を飼っている」に主語である太郎の名前を付けた物として太郎「太郎は犬を飼っている」だが、述語命題としてこの文の否定形を造れば¬太郎「太郎は犬を飼っていない」となるのがお分かりだと思う。¬太郎の意味を探れば「太郎は犬を飼っていないは太郎ではない」ということになるので、これでは否定形の形をしているのに何も命題太郎の意味に反しておらない。
むしろ太郎∧¬太郎の結合した意味は「太郎は犬を飼っているは太郎であり、太郎は犬を飼っていないは太郎ではない」ということで意味の強調が見られるほどだという事だ。
カリー命題はこの形をした文と同値であるから否定されないのではなかったか?
同じことがゲーデル命題についても言える、ゲーデル命題G「Gは証明できない」は否定形¬G「Gは証明できる」と結合して意味を強調することになる、すなわち「Gは証明できないがGであり、Gは証明できるはGではない」となる。しかし、幾らなんでもG∧¬Gだから形式上は矛盾のはずであり、ここは意味論と記号とか矛盾してしまう原因をこそ明らかにしたいところだ。
それで述語文に主語の名前を付けた物をクォーク命題と呼ぶことにして解析を進めよう!