ユニバーサルフロンティア理論は世界を救う

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述語命題に主語の名前を付けることは自由かタブーか(唯名論哲学の欠陥)

2013年05月22日 | Weblog
まず、自己言及命題「この命題は証明できない」とG「Gは証明できない」は本当に同値だろうかという疑義が残っています。

述語に関して「~は証明できる」と「~は証明できない」とは確かにexclusiveなんですけど、G「Gは証明できない」とやったときの「証明できない命題をGという」という感情はむしろG「この命題は証明できない」にしても十分に表現されていませんかね?

つまり標題のように述語命題に己の主語を命名するということから諸問題が生じているのではないかという話に帰着していくわけです。

百歩譲って「この命題は証明できない」⇔G「Gは証明できない」だとしたら¬G「Gは証明できる」の意味が(強いて言えば)「その命題は証明できる」になっちゃいますから、それは「不完全否定に終わることは明白である」ということが分かるのです。ところが、ここでも G∧¬G=φ すなわち、Gと¬Gとはexclusiveだということなんです。まさに「述語命題に主語の名前を付けてしまうと自己言及命題に化けてしまう」のが原因だと思えます。

さて「Gは証明できない」と「Gは証明できる」はexclusiveだが「Gと¬Gとはそうではない」とはどんなことからしょうじているのでしょう?

正しくはG「この命題は証明できない」に対して¬G「Gは証明できる」ではなかったでしょうか・・。

あるいはA「Gは証明できない」に対して¬A「Gは証明できる」なのでは!

こうやると不完全性定理の世界そのものが完全に崩壊してしまいます、ようするにゲーデルの算術と言ったものは一時期の流行に過ぎなくて、歴史の中で燦然と輝くために必要な普遍性に欠けていた、それやこれやで、あのような晩年の僥倖だって出現してしまった、そういうことではなかったでしょうか?





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