学問というのは新しいことを研究してなんぼ、ですから!
なんか、全学連がね、ま、その代表として雑誌「游」の編集者が対処したのですがね、ま、学生側の意見のひとつとして「慣性力が真の力だという物理学があっても良い」と提案したんですよね、そしたら大学当局は「その形のことは物理にはならない」と押し切って終わった談合会があったのですがね。それと同時に「立身出世に役立つ体系的な知識か、立身出世には役立たない特別な体験か、どっちかだ」と学生側が言えば、教授側のひとりが「それは逆であって、出世には役立たない体系的知識か、出世に役立つ特別な体験か、である」と述べたりしたのですがね。
なんか、ずっしりと重い認識の違いを感じさせますがなw
ぜんぶ学問じゃないか、ま、言ってしまえばそうなるのですがね。強いて言えば学生側の持つ余計なコンプレックスが痛いというか、んー、ドッチかは欲しいというよーな感じですかね。で、出世に役立たない特別な体験って何なのですかね、ま、不思議な話ですのや。言いたいのは数学体系とか理論物理体系ですね、あーいったモノをこそ学問だというのは止しませんか、という話ですがな、理系にとって学問とは「営みである」と思いたいのですのや。
学問とはすることであってあるものじゃない・・。
知識体系は学問が終わってからそびえ立つもの、んー、まー、そーいった認識ですかね、そこに立脚しませんかという提案ですのや。でー、真の力とも見かけの力とも言えないモノの代表としたら重力ですかね、重力を慣性力と認識してしまうと有名な「重力場中で静止する荷電粒子はなぜ発光しない」というような問題が出てきたりします。えーっと、あれどーなるのだったけなあ~、重力が慣性力同等だったら鈍く光るはずですが、さて。
なんか、全学連がね、ま、その代表として雑誌「游」の編集者が対処したのですがね、ま、学生側の意見のひとつとして「慣性力が真の力だという物理学があっても良い」と提案したんですよね、そしたら大学当局は「その形のことは物理にはならない」と押し切って終わった談合会があったのですがね。それと同時に「立身出世に役立つ体系的な知識か、立身出世には役立たない特別な体験か、どっちかだ」と学生側が言えば、教授側のひとりが「それは逆であって、出世には役立たない体系的知識か、出世に役立つ特別な体験か、である」と述べたりしたのですがね。
なんか、ずっしりと重い認識の違いを感じさせますがなw
ぜんぶ学問じゃないか、ま、言ってしまえばそうなるのですがね。強いて言えば学生側の持つ余計なコンプレックスが痛いというか、んー、ドッチかは欲しいというよーな感じですかね。で、出世に役立たない特別な体験って何なのですかね、ま、不思議な話ですのや。言いたいのは数学体系とか理論物理体系ですね、あーいったモノをこそ学問だというのは止しませんか、という話ですがな、理系にとって学問とは「営みである」と思いたいのですのや。
学問とはすることであってあるものじゃない・・。
知識体系は学問が終わってからそびえ立つもの、んー、まー、そーいった認識ですかね、そこに立脚しませんかという提案ですのや。でー、真の力とも見かけの力とも言えないモノの代表としたら重力ですかね、重力を慣性力と認識してしまうと有名な「重力場中で静止する荷電粒子はなぜ発光しない」というような問題が出てきたりします。えーっと、あれどーなるのだったけなあ~、重力が慣性力同等だったら鈍く光るはずですが、さて。
そこにあるだけでは意義が薄いですよね・・・
本当、学問は営みですよね。