論理を大別すれば命題論理と述語論理という二つに分かれると聞く・・。
つまり命題相互の結合関係を調べるのが命題論理であり、述語論理とは命題をさらに分解した主語と述語の関係を分析していく学問であり、両者ははっきり異なる体系をしているということだ。さらに集合論が関わって事態は複雑に展開してきた・・、ゲーデルによって論理は無矛盾かつ完全であり、それに対して数学は不完全だと証明されたことになっている。
もし集合論さえ使えるならば命題論理と述語論理とは同じ規則が使える可能性が出てくる・・。
つまり「私は正しい」も、「地球が惑星ならば月は惑星の衛星である」も、共に同じくA⇒Bの構造を持っていて、なのかつ¬A∨Bと同値だというのがUFTプランの理想であり、新年、元旦早々からの目標であるに他ならない。集合論ではA⇒BはA⊆Bと翻訳されるが、もしAがBの要素である場合には違ってきてA∈Bという風に変化するので同じ論理規則は使えないという意見がある。
この場合には多くの集合においてA={A}であるならば難点は回避されるのだが・・。
つまり「分析することナシにⅠ類集合を仮定しろ」という要請を論理学基礎ならびに集合論に課することになる。こう言うためには「多くの集合がその冪集合と一致する」ことを必要とする。すなわち三次方程式の三つの解がα,β,γと有った場合に、解集合は単に{α,β,γ}であるよりもむしろ{α,β,γ,{α,β},{β,γ},{γ,α},{α,β,γ},φ}であるということになり、そこを省略して要素の羅列に過ぎない{α,β,γ}と表記させることになる。
このように構成することによればラッセルパラドクスはおろか嘘つきパラドクスも回避される・・。
文章「主語 is 述語」を少し変化させた主語「主語 is 述語」を《クォーク命題》と呼ぶことにすれば、反クォーク命題が定義できて¬主語「主語 is ¬述語」となって、アッと驚くことには両者併せて《中間子文》を構成できてしまうのだ。これらが矛盾してしまわないのは論理規則より¬A⇒(A⇒¬B)は恒真であるのでA∧¬A⇒Aとなるからである。
これはもちろんゲーデル命題にも嘘つきパラドクスにも同じ手が使えるのだ・・。
さらにこの事には付録が付いてきて、R「Rは偽」という文章と¬R「¬Rは偽」という文章の間には自発的な対称性の破れが見受けられて「中間子文は否定記号が付かない方の意味に従う」という公理を得ることができる。つまり¬R「Rは真」だからであるが、もちろん¬(¬R)「¬Rは真」とすれば¬Rの意味に従うところを“ナシ”と禁則にするのである。クォークは粒子であり反クォークは反粒子であって逆にはできないと考えることにするのだ。嘘つきパラドクスに戻したならば事態はたちどころに鮮明になる。見よ!
私「私は嘘つき」かつ¬私「私は正直」
は
「嘘つきなのが私であって正直なのは私じゃない」と読めるが、
¬私「¬私は嘘つき」かつ私「¬私は正直」
を
大きく意訳しての「私以外は正直」は自己矛盾だと判定すれば良い・・。
つまり命題相互の結合関係を調べるのが命題論理であり、述語論理とは命題をさらに分解した主語と述語の関係を分析していく学問であり、両者ははっきり異なる体系をしているということだ。さらに集合論が関わって事態は複雑に展開してきた・・、ゲーデルによって論理は無矛盾かつ完全であり、それに対して数学は不完全だと証明されたことになっている。
もし集合論さえ使えるならば命題論理と述語論理とは同じ規則が使える可能性が出てくる・・。
つまり「私は正しい」も、「地球が惑星ならば月は惑星の衛星である」も、共に同じくA⇒Bの構造を持っていて、なのかつ¬A∨Bと同値だというのがUFTプランの理想であり、新年、元旦早々からの目標であるに他ならない。集合論ではA⇒BはA⊆Bと翻訳されるが、もしAがBの要素である場合には違ってきてA∈Bという風に変化するので同じ論理規則は使えないという意見がある。
この場合には多くの集合においてA={A}であるならば難点は回避されるのだが・・。
つまり「分析することナシにⅠ類集合を仮定しろ」という要請を論理学基礎ならびに集合論に課することになる。こう言うためには「多くの集合がその冪集合と一致する」ことを必要とする。すなわち三次方程式の三つの解がα,β,γと有った場合に、解集合は単に{α,β,γ}であるよりもむしろ{α,β,γ,{α,β},{β,γ},{γ,α},{α,β,γ},φ}であるということになり、そこを省略して要素の羅列に過ぎない{α,β,γ}と表記させることになる。
このように構成することによればラッセルパラドクスはおろか嘘つきパラドクスも回避される・・。
文章「主語 is 述語」を少し変化させた主語「主語 is 述語」を《クォーク命題》と呼ぶことにすれば、反クォーク命題が定義できて¬主語「主語 is ¬述語」となって、アッと驚くことには両者併せて《中間子文》を構成できてしまうのだ。これらが矛盾してしまわないのは論理規則より¬A⇒(A⇒¬B)は恒真であるのでA∧¬A⇒Aとなるからである。
これはもちろんゲーデル命題にも嘘つきパラドクスにも同じ手が使えるのだ・・。
さらにこの事には付録が付いてきて、R「Rは偽」という文章と¬R「¬Rは偽」という文章の間には自発的な対称性の破れが見受けられて「中間子文は否定記号が付かない方の意味に従う」という公理を得ることができる。つまり¬R「Rは真」だからであるが、もちろん¬(¬R)「¬Rは真」とすれば¬Rの意味に従うところを“ナシ”と禁則にするのである。クォークは粒子であり反クォークは反粒子であって逆にはできないと考えることにするのだ。嘘つきパラドクスに戻したならば事態はたちどころに鮮明になる。見よ!
私「私は嘘つき」かつ¬私「私は正直」
は
「嘘つきなのが私であって正直なのは私じゃない」と読めるが、
¬私「¬私は嘘つき」かつ私「¬私は正直」
を
大きく意訳しての「私以外は正直」は自己矛盾だと判定すれば良い・・。
¬G⇔(Gの証明が存在する)
⇒
¬G⇒(Gの証明が存在する)
⇔
G∨(Gの証明が存在する)
だが、これでは右辺が述語論理ではなくて原子命題に変わってしまっている!
だから、
¬G⇔(G⇒証明可能)
⇒
¬G⇒(G⇒証明可能)
⇔
T
でなくてはいけない!
¬G⇔(Gの証明が存在する)
⇒
¬G⇔(G⇒証明可能)
⇒
¬G⇒(G⇒証明可能)
⇔
T