1か所目はグルーオン発見の際の強い相互作用にまつわる定数がきちんと出ていないという下りです。
ここがきちんと出ないということは、グルーオン発見だったかどうだか分からない、というところだったと存じます。この部分は日米で追試をしていたわけで、その部分を両者の談合で測定値を決めていたのでは、それは何をやっていたのか分かりません。事は追試の追試か、あるいは監査機構を要する、というような話だったということです。なぜならばこのケースは、強い相互作用のグルーオンではなくて、弱い相互作用のZ粒子が出たとしても、やはり辻褄が合うからです。Z粒子だった場合には強い相互作用の定数なるものがきちんと出るはずがないのです。
きちんと出るはずのない定数のデータをもっともらしく整えるための談合だったのではないでしょうか。
その談合の結果として、ハドロン内で個々のクォークスピンが総スピンに寄与している割合は約30パーセントだということで、それはパラドクスだという話のままで終わってしまっています。それはイケマセン、ハドロンスピンは個々のクォークスピンの明確な和でなくてはなりません、その割合は100パーセントでなくてはならないのです。すべては、グルーオン発見がデマだったという事実を受け入れられれば、それだけで解かれる謎だったのです。その数値が100パーセントでなければならないことは、スピン3/2のハドロンが存在していることや、あるいはラムダシグマ問題などから言えることです。
もう1か所はB中間子CP破れ実験における稀事象のデータ処理のありかたです。
日本の研究所からはCP破れのデータとして、正負逆転したような驚愕の結果が出たのですが、アメリカの研究所がそこに咬みつきました。そんなことがあり得てはならないからやり直せ、という命令を出したのです。その際の言い分は公的には「日米のデータ処理における解析法が違ったので共通にした」と明らかに?されています。その結果としてデータはあれよあれよと平凡なものにされてしまいました。そんなのありでしょうか、日本の研究所の方がずーっと純粋な解析法だったのではないでしょうか、談合するよりも競合する権利があったのではないでしょうか。
このいずれのケースもユニバーサルフロンティア理論では日本の研究所のデータ解析のままが正しかったとして解決されます。
アメリカの研究所のやり口は旧共産圏で破たんしていた修正主義となんら変わらないと言っていいと存じます。
ここがきちんと出ないということは、グルーオン発見だったかどうだか分からない、というところだったと存じます。この部分は日米で追試をしていたわけで、その部分を両者の談合で測定値を決めていたのでは、それは何をやっていたのか分かりません。事は追試の追試か、あるいは監査機構を要する、というような話だったということです。なぜならばこのケースは、強い相互作用のグルーオンではなくて、弱い相互作用のZ粒子が出たとしても、やはり辻褄が合うからです。Z粒子だった場合には強い相互作用の定数なるものがきちんと出るはずがないのです。
きちんと出るはずのない定数のデータをもっともらしく整えるための談合だったのではないでしょうか。
その談合の結果として、ハドロン内で個々のクォークスピンが総スピンに寄与している割合は約30パーセントだということで、それはパラドクスだという話のままで終わってしまっています。それはイケマセン、ハドロンスピンは個々のクォークスピンの明確な和でなくてはなりません、その割合は100パーセントでなくてはならないのです。すべては、グルーオン発見がデマだったという事実を受け入れられれば、それだけで解かれる謎だったのです。その数値が100パーセントでなければならないことは、スピン3/2のハドロンが存在していることや、あるいはラムダシグマ問題などから言えることです。
もう1か所はB中間子CP破れ実験における稀事象のデータ処理のありかたです。
日本の研究所からはCP破れのデータとして、正負逆転したような驚愕の結果が出たのですが、アメリカの研究所がそこに咬みつきました。そんなことがあり得てはならないからやり直せ、という命令を出したのです。その際の言い分は公的には「日米のデータ処理における解析法が違ったので共通にした」と明らかに?されています。その結果としてデータはあれよあれよと平凡なものにされてしまいました。そんなのありでしょうか、日本の研究所の方がずーっと純粋な解析法だったのではないでしょうか、談合するよりも競合する権利があったのではないでしょうか。
このいずれのケースもユニバーサルフロンティア理論では日本の研究所のデータ解析のままが正しかったとして解決されます。
アメリカの研究所のやり口は旧共産圏で破たんしていた修正主義となんら変わらないと言っていいと存じます。