☆ 戦国の女傑❗ ;
歴史拾遺 ヒロイ ;
戦国時代の猛女・妙林尼が戦うべき、
理由とは、 何だったのか? ;
Dyson 尚子 女史 ;
公式webサイト:
大分県大分市鶴崎校区歴史マップ
大分市鶴崎歴史散歩コース
大分市役所にご協力頂きました。
参考文献 ;
『 戦国時代の大誤解 』 ;
熊谷充亮二氏著 彩図社 2015年1月。
『 目からウロコの戦国時代 』 ;
谷口克広氏 PHP研究所 2000年12月。
『 大分県の地名 』 ; 下中弘氏 ;
平凡社 1995年2月。
歴史な上で、 猛女や烈女、
と、呼ばれる、女性がいる。
男も顔負けの戦績を残す、 逆境に、
機転を利かして、 立ち向かう、 など、
様々な武勇伝が、
後世に伝え残されている。
彼女らが選んだ道は、 あまりにも険しく、
単なる必然では、片づけられないような、
気がしてならないのだ。
それは、 人に応じて、異なるが、
執念にも似た信念だったり、
亡き夫への愛だったり、守るべき民など、
揺るぐことない、 自分だけの、
「 モノサシ 」、 を、
心に持っていたからではないか。
吉岡妙林尼 ;
( よしおか みょうりんに )。
本名も、生没年も、 不明であるが、
彼女のなした功績だけは、
詳細に語り継がれている。
「 かの有名な島津軍を撃退し、知略で、
亡き夫の居城である、
鶴崎城を奪回した女性❗ 」 ;
戦国史上きっての猛女と呼ばれた、
妙林尼は、 何を思って、戦ったのか。
そこに迫りたい。
@ どうして、 島津勢と、一戦を、
交えなければならなかったのか ;
現在の、 大分市立鶴崎小学校、や、
大分県立鶴崎高校の場所には、かつて、
鶴崎城 ( つるさきじょう )、
があった、 という。
この鶴崎城の城主は、 吉岡鑑興 ;
( よしおか あきおき ) 氏 。
妙林尼への夫である。
この吉岡家は、 当時は、
豊後の一帯を統治していた、
大友氏への側近の一族で、 もとは、
その父である、 吉岡長増
( よしおか ながます ) 氏が、
鶴崎城を構築したといわれている。
@ 鶴崎城跡 ( 写真の提供: 大分市 ) ;
※ 学校の敷地内にあり、
勝手に立ち入ることは、 不可❗。
大友家の当主の大友宗麟
( おおとも そうりん ) 氏は、
1578年、 な、 天正 6年 、に、
日向 ヒュウガ ; ( 宮崎県 )
、へ侵攻するも、
薩摩 ( 鹿児島県 )、 を治めていた、
島津勢に大敗する ;
( 耳川の戦い ) 。
この戦いで、 吉岡鑑興氏は、戦死。
夫を失ったため、 その後に、
「 尼 」、 として、 妙林尼は、
生きることになる。
居城であった鶴崎城は、 息子の甚吉
( 後の統増 ) 氏が、 当主となって、
跡を継いだ。
当時の勢力図は、 大友宗麟氏が、
高城・耳川の戦いの敗北をきっかけにして、
衰退しつつある状況。
一方で、 島津氏は、 勢力を伸ばし、
九州の一帯が大きく変わろうとしていた。
そのために、
1586年、 な、 天正 14年 、には、
大友宗麟氏が、 大坂へ参上し、
豊臣秀吉氏へ、 直に、 島津氏、への、
討伐を願い出ている。
こうして、 秀吉氏による、
九州への討伐が始まるが、
同年の、 12月の、 第一戦目の、
戸次川の戦いは、 島津勢が、大勝❗。
この勢いにのって、 島津軍は、
大友宗麟氏が籠城する、 丹生島城 ;
( 臼杵城 )、 へ迫り、
甚吉氏は、 母の妙林尼を鶴崎城に残し、
軍勢を率いて、 丹生島城へと向かう。
つまり、 鶴崎城には、
妙林尼のほかは、 わずかな兵、 以外は、
老兵や農者 ノーザ 、と、
女子どもしかおらず、ほぼ、 戦力としては、
無いに等しい状況であった、 という。
@ 島津軍の、 16回もの、
攻撃を凌ぐ、知略とは? ;
幸いながら、 鶴崎城の立地は、
平城ながらも、
別府湾、乙津川、大野川に囲まれた、
デルタ地帯にあった。
干潮でしか渡れないために、
天然の堀に、守られており、
唯一の陸地は、 「 琵琶の首 」、
と、呼ばれるほどの、 細い土地だった。
この鶴崎城を守るために、 妙林尼は、
完全武装。
鎧 ( よろい )、 の上に、 陣羽織
( じんばおり )、 をまとって、
額に鉢巻 ( はちまき )、 手には、
薙刀 ( なぎなた )、 という姿。
また、 農者らに、 板や畳を持ち寄らせ、
城の周りには、 堀を建てるよう指示し、
砦を完成させた。
さらに、 自ら、 農者や女性らに、
鉄砲の使い方を教えこんだ、 という。
@ 鶴崎公民館の前にある、
吉岡妙林尼の像 ;
( 写真の提供:大分市 ) 。
一方で、 島津軍は、というと、
伊集院美作守久宣氏、
野村備中守文綱氏、 白浜周防守重政氏の、
三将が、 3千もの、 兵を率いて、
鶴崎城へ。
息子の甚吉内側の留守を知って、
一気に攻め落とそうとしていた。
しかし、この鶴崎城、
予想に反して、 落ちそうで、落ちない。
実は、 妙林尼の策略が、功を奏したのだ。
妙林尼は、 砦を作る際に、できる限りの、
防御施設を施していた。
土塁 ( 土を積み上げたもの )、は、
もちろん、 堀底の落とし穴、
薬研堀 ヤゲンボリ ;
( 底が、 Vの字状になった堀 ) 、
などの、 様々な仕掛けを準備していた、
という。
油断した島津軍は、 落とし穴に落ちては、
鉄砲に狙い撃ちされる、 などし、
結果的に、 16回にも及ぶ攻撃を行うが、
鶴崎城を落とすことは、できなかった、
という。
勝ち目のない戦いであっても、
兵らの士気は、不思議と、落ちなかった。
というのも、 妙林尼が、自ら、
飯や酒を配って回ったからだ。
このように、 優しさも見せつつ、
時には、 厳しさも見せる。
じつは、 降参を進める家臣に対しては、
「 汝らは、臆病者なり 」
、と、 刀を抜いた、 という、
逸話も残っているとか。
しかし、
判断力が鈍っているわけではない。
その後に、 戦いは、 膠着状態となり、
城中の食料も尽きる頃に、
島津側が、 家臣を通じて、促した降参を、
妙林尼は、 全員の命の保証を条件に、
あっけなく受け入れる。
そして、 鶴崎城を明け渡し、
近くの屋敷に落ち着くことになる。
それだけでは、ない。
これまでの戦いで、
互いの健闘を称えるかのように、
島津の諸将を、
酒などで。もてなした、 という。
明けて、 1587年 、 な、
天正 15年 、 の、 3月に、
豊臣秀吉氏による、再度の、
九州への討伐の知らせが届いた為に、
島津の全軍に、 薩摩への退却の命が下る。
鶴崎城に駐留していた島津軍も、
引き揚げることに。
その際に、 妙林尼は、 意外にも、
「 大友家に背いた 」、 ことを理由に、
家中の者と共に、 連れて行ってほしい、
と、 頼んだ、 という。
これを快諾した、 島津の三将。
さて、鶴崎城での最後の夜。
妙林尼は、 美酒などを用意させ、
酒宴を開く。
そして、 同年の、 翌る、 3月8日、に、
酒に酔った状態で、 夜明けから、
島津軍は、 退却を始めるのだ。
@ 里心の付いた敵を討つ❗ ;
ここで、 妙林尼は、
出立の支度があるために、 後で、
合流するとして、
島津の三将を丁寧に見送ったようだ。
ようやく、 鶴崎城をあとにした島津軍。
二日酔いの状態で、 退却の途中に、
乙津川を渡ろうとした、 その時、
突然の敵勢の襲来を受ける。
松林に隠れていたのは、
妙林尼の命を受けた伏兵らだった。
そして、 慌てふためく島津軍を、
あの妙林尼が、耳川の戦いで、
討ち死にした武将の妻の一団と共に、
追撃した、 という ;
( 諸説がある )。
この乙津川の戦い ;
( 寺司浜の戦い )、 で、 三将のうち、
伊集院美作守、白浜周防守、と、
3百名以上の島津兵らが戦死。
残る野村備中守も、矢を受けた傷により、
後日に、死亡。
妙林尼は、 敵将の首などの、
63個を、 亡き夫の主君である、
大友宗麟氏へ差し出した、 という。
@ 寺司浜の戦いの戦死者を供養した、
寺司地蔵尊 ; ( 写真の提供:大分市 )。
その後の妙林尼の記録は、ない。
なお、後日談ではあるが、
豊臣秀吉氏も、 これを聞いて、
妙林尼に、 是非に、 会いたかったようだが、
断った、 という。
そもそも、 戦国時代の女性は、勇ましい。
なにしろ、戦場に散った兵の、
3割は、 女性、 との記録もあるほど。
ここからは、 推測の域となるが、
夫が果たせなかった大友宗麟氏、への、
忠義を、代わりに果たそうとしたのか、
鶴崎城下の民を守りたい、 という、
気だったのか。
そのどちらも、当たっている気がする。
☆ 豊臣秀吉氏には、 8百人も❓❗ ;
戦国時代の新しい職業 ;
「 御伽衆 」、って、なんなんだ? ;
Dyson 尚子 記者 ;
ラジオ、などない時代。 眠れないとき、
いや、眠ってはいけないとき、
人は、 どのように過ごしたのか。
特に、 権力者であれば、あるほどに、
孤独で、 悩みは、尽きないだろう。
時は、 戦国時代。 戦乱の世では、
何日、何年も続く、合戦もある。
この戦陣の中で、君主のそばに仕え、
ラジオ的な役割を果たしたのが、
「 御伽衆 ( おとぎしゅう 」、 だ。
御伽衆、への、 流津 ルツ ; ルーツ ;
、は、 室町時代の、 「 御相伴衆 」。
室町時代に、 将軍の次に、
地位が高かったのは、
「 管領 ( かんれい 」、
と、呼ばれる、 役職の方々。
といっても、 「 三管領 」
、と、 呼ばれるだけあって、
誰でも、その地位に就けたわけではなく、
細川 ( ほそかわ )、 ・斯波( しば )、
・畠山 ( はたけやま )、 の、 三氏が、
交代で、独占していた。
そして、 この管領の次にあった役職、
と、 いわれているのが、
「 御相伴衆 ( ごしょうばんしゅう 」。
簡単にいえば、 将軍が、
他家を訪問する場合や、 殿中での、
饗宴があった場合に、
「 ついていく人 」、 である。
ただ、 小姓のような、
お付き的な存在ではなく、
一緒に、 客として迎えられるような、
意目侍だ。
将軍随行、という方が、
わかりやすいかもしれない。
そのため、 当然、将軍のそばにいても、
見劣りしない人物、
格式備えた人物でなければ、
務まらない。
実際に、 「 管領 」、 を務めた、
一族員ら、などの、 名実ともに、
軍事力、発言力もある、
現役大名がなるような、役職であった。
その後、 室町幕府は、衰退、
戦国時代の幕開けとなる。
それとともに、 各地の大名も、
「 御相伴衆 」、 と、 同じような、
役割な人を、 そばに置くように、
なっていった。
それが、 「 御伽衆 」、だ。
「 伽 ( とぎ 」、 とは、 もとは、
人が多く集まって、 眠らずに、
夜を過ごす、 という、 意味という。
眠らないように、 咄
( はなし )、 をすることが、 転じ、
戦陣の中で、 君主のそばで、
話をすることが、 「 御伽 ( おとぎ 」
、と呼ばれ、 新しい職業となった。
豊臣秀吉氏への御伽衆には、
豪華なメンツが、勢揃い
戦国大名は、 それぞれが、
独自の御伽衆を抱えていた。
織田信長氏をはじめ、 武田信玄氏や、
毛利元就 ( もうり もとなり ) 氏、
などは、 少なくて、 3人、
多くて、 ➕人を超える人数で、
御伽衆を用いていた、
という、記録がある。
ケタ違いの御伽衆を抱えていたのが、
豊臣秀吉氏である。
なんと、 その数は、 8百人ほど。
朝鮮への出兵の際に、 備前名護屋城
( びぜんなごやじょう )、 まで、
連れて行った、 というから、
規模が違う。
さらに、その面葉ときたら、
錚々たる顔ぶれで、豪華であった。
8百人もいたのだから、その多様性は、
いうまでもない、 というところか。
元の将軍から、 名家の武将、
僧侶、商人から、茶人まで、
多彩に、取り揃え、
豊臣秀吉氏らしい選出で、
民間人も含まれていた。
秀吉氏のご自慢のメンツ、
どのような人物がいたのかは、
気になるところだろう。
最初に、 ご紹介するのは、
室町幕府の、 第15代の征夷大将軍の、
足利義昭 ( あしかが よしあき ) 氏。
織田信長氏に、 京都から追放されて、
流浪したのちに、 あまり、
知られてはいないが、
秀吉氏からの保護を受けて、
御伽衆となっていた。
もちろん、これは、
信長氏が死んだ後の話だ。
次に、 かつての主君である、
織田信長氏の血筋を受け継ぐものたちを、
秀吉氏は、取り込んだ。
信長氏の子である、 信雄氏、
弟である信包 ( のぶかね ) 氏、
同じく、 弟で、 茶人の有楽斎
( うらくさい ) 氏。
彼らも、 秀吉氏のもとに、
御伽衆として、召し抱えられた。
一般的には、 織田家を取り込むことで、
自身の政権の正統性を維持したい、
意図だ、と、考えるだろう。
しかし、 私には、 それよりも、
憧憬していた織田信長氏の面影を残す者を、
そばに置きたい、 という、欲望が、
垣間見える気がする。
これは、 織田家に関わる、 姫君を、
3人も、側室にしたことからも、
推測できるだろう。
さらに、 元の近江への守護の、
六角義賢 ( ろっかく よしかた ) 氏らな、
親子や、 信長氏の配下であった、
荒木村重 ( あらき むらしげ ) 氏、
山名宗全 ( やまな そうぜん ) 氏の、
子孫である、 山名豊国 ( とよくに )
氏 、 などの、 かつての名家員も、
御伽衆に名を連ねている。
その他、 茶人も多かった。
千利休運動や、 今井宗薫
( いまい そうくん ) 氏、
織部流の祖である古田織部
( ふるた おりべ ) 内側、 なども、
御伽衆となっている。
秀吉氏は、 ただの、 暇つぶしの、
話し相手、 というよりは、
知識や情報を得る相手として、
御伽衆を重宝していたようである。
気軽に、 意見を聞ける、
参謀的な役割も担っていた。
そのため、 御伽衆の条件としては、
様々な知識や情報などを与えるだけの、
知見を兼ね備えなければならない。
だからこそ、 天下人の、
豊臣秀吉氏、への、 御伽衆には、
元の武将や、 名家員、などの、
国を治めた経験を持つ、
メンツを揃えた、 と、 考えられる。
また、 聴くからには、
話が、うまくなければならない。
話術に秀でたことも、
御伽衆の条件だった、 と、 いえる。
いかに、 退屈させずに、
興味を持って、 聴いてもらえるか、
その創意工夫が、 現在の、
「 講談 」、の、 ネタに活かされている、
とか。
一説には、 落語、への、
もとになった、 とも、いわれている。
この御伽衆、 江戸時代になると、
統治制度が、整備されたためか、
需要も、 少なくなり、 しだいに、
姿を消していく。
そういう意味では、 戦国時代の特徴、
ともいえる現象だったのかもしれない。
もし、 豊臣秀吉氏が、
現代に生きた、としたら、 何と言うか。
8百人もの、 御伽衆を使いこなしていた、
のだから、 過剰な情報にさらされている、
現代でも、難なく適応できるだろう。
きっと、 スマホは手、
放せないに違いない。
☆ 戦国マニア必見❗ ;
徳川家康氏を育てた、
「 臨済寺 」 に行くしかない❗ ;
澤田真一 記者 ;
【 臨済寺 】 ;
静岡県 静岡市 葵区 大岩町7−1
( 本堂は、 通常は、 非公開 ) ;
徳川家康氏は、 苦難の少年時代を送った、
人物である。
家康氏の出身は、
織田、と、 今川、 という、
大勢力らに挟まれ、
どちらかの陣営につかなければ、
生きていけないような、 弱小豪族だった。
彼は、 織田と今川、両方に、
人質として取られている。
しかし、 戦国時代の、 「 人質 」、とは、
決して、 ぞんざいに扱われた訳ではない。
むしろ、 今川氏への人質として、
駿府 ; ( 今の静岡県は、 静岡市 ) 、
にいた頃の、 家康氏は、
厚遇されていた。
彼は、 今川氏にとっては、
未来の家老である。
軍団を率いて戦えるだけの、
武将になってくれなければ、困るのだ。
だから、 今川氏は、当時は、
松平竹千代、 という、 名だった、
幼少時代の家康氏を、
「 軍事学院 」、 に入れた。
それが、 臨済寺である。
@ 年に、 2回の一般公開 ;
静岡県は、 静岡市の、 葵区に所在する、
臨済寺は、 修行寺である。
普段は、 一般公開されておらず、
境内に入ることは、できても、
建物内に上がることは、できない。
だが、 年に、 2回だけは、
この臨済寺の本堂が、公開される。
今川義元氏の命日である、 5月19日と、
摩利支天祈祷会が催される、
10月15日が、 一般公開日だ。
今回は、 10月15日の公開日に、
臨済寺へ足を運んだ。
「 猪に乗った神様 」、 で、
有名な摩利支天は、
武士たちからの信仰を集めていた。
徳川家康氏も、 摩利支天を信仰していた、
ひとりである。
上の写真の摩利支天像は、もとは、
浅間神社にあったもの。
明治の神仏分離政策を受けて、
臨済寺に移されたのだ。
日本において、 仏教と神道は、
明治時代を迎えるまでは、
融合していた。
臨済寺は、 様々な歴史的所蔵品を抱える、
寺社でもある。
この日に、 公開されていたものの中には、
あの武田信玄氏の書状もあった。
戦国時代の臨済寺は、
「 今川の外交機関 」、 としての、
一面を有していたのだ。
@ 寺と軍事学 ;
また、 臨済寺は、 先述の通りに、
「 軍事学院 」、 でもあった。
徳川家康氏にとっての、 学問の師匠は、
臨済寺の僧侶な、 太原雪斎師。
この雪斎師は、 今川の軍師でもあり、
実際に、 兵を率いて戦ったこともある。
聖職者が、 軍人を兼ねる、ということは、
決して、 珍しい光景ではなかった。
同時に、 寺社は、
最先端の軍事学を教えるための、
教育機関としても、機能した。
家康氏は、 人質であったが故に、
この時代の最高列辺 レベ ; レベル ;
、の、 「 士官 養成 プログラム 」、
に、ありつくことができたのだ。
家康氏の読書好きは、 現代でも、
よく、知られている。
それは、 つまるところ、
臨済寺での、 少年時代が、
原点にあるのではないか、
と、 筆者は、 考えている。
修行寺の中であれば、
本は、読み放題である。
今とは、違い、 図書館、 などは、
存在しない。
本を読もうと思ったら、
寺に行くぐらいしかなかった時代だ。
@ 徳川氏に愛され続けた駿府 ;
臨済寺の所蔵品の中で、
「 これは❗ 」、と、 思ったものがある。
それは、 山岡鉄舟氏の書だ。
「 東照宮守護大摩利支尊天 」、 とある。
山岡鉄舟氏については、 筆者も、
以前に、 記事にしたが、
彼の豪胆さが、よく表れている筆遣いだ。
山岡氏もまた、摩利支天を信仰する、
者のひとりだったのだろう。
臨済寺は、というよりも、
駿府の寺社は、 徳川氏に愛され続けた。
臨済寺も、浅間神社も、
戦乱で、焼けているが、 徳川氏は、
それを再建している。
さらに、 晩年の家康氏は、 江戸ではなく、
駿府に腰を下ろした。
ここが、 戦略な上での、 重要拠点、
ということもあるが、 家康氏は、
「 己を成長させた出来事 」、 を、
いつまでも、忘れない男である。
駿府がなければ、 今の自分がないことを、
骨の髄まで自覚していたのだ。
そんな、家康氏の意向は、
徳川幕府の歴代将軍に引き継がれた。
臨済寺は、 明治維新を迎えるまで、
幕府に厚遇され続ける。
@ 駿府がアツい❗ ;
静岡市は、 今や、
歴史魔員 マイン ; マニア ;
らに注目されている。
そのきっかけは、 駿府城だ。
史料には、ない、 「 幻の城 」、の、
天守台と、金箔瓦が、発掘され、
しかも、 それが、
豊臣秀吉氏の命令で、
築かれたものではないか、 という、
説が浮上した。
駿府城公園の発掘の現場には、
全国から、 戦国和阿 ワー ; ファン ;
、 が、 押し寄せるようになった。
今川、武田、そして徳川と、
駿府は、 太守を変えながらも、
戦乱の世を生き抜いた。
その中で、 駿府は、
東海地方を代表する都市としての形を、
徐々に築き上げ、
今の静岡市への基礎になったのだ。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
グローバリズム 、という、疫病(後編)
2019-10-23 09:03:18
三橋貴明オフィシャルブログ
「新世紀のビッグブラザーへ blog」
株式会社経世論研究所 講演・執筆依頼
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チャンネルAJER
『日本の少子化をくい止めるにはーその2ー
(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.22
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
令和の政策ピボットの呼びかけ人に、
経済評論家・株式会社
クレディセゾン主任研究員の
島倉原氏が加わって下さいました。
また、メルマガ
「令和ピボットニュース」が始まりました。
皆様、是非とも、メルマガ登録を!
三橋TV第153回
【自由と権利、民主制について
本当の話をしよう】
https://youtu.be/4mvwJUg6O3Y
昨日、「即位礼正殿の儀」が執り行われ、
陛下が即位を内外に宣言されました。
陛下の即位の礼を祝うように、
雪化粧した富士山が現れたそうですが、
写真は翌日(23日)に
わたくしが箱根から写した富士山。
いつの間にか、冠雪富士でございました。
冬が近づいている・・・。
我が国の皇室は、「少なくとも」
二千年以上の長期に渡り、
天照大神、瓊瓊杵尊、神倭伊波礼比古命
(神武天皇)と神話から繋がり、
神武天皇以降は男系の皇統を繋いできた、
世界に例を見ない「貴重」な存在です。
(「存在」としか言いようがない)
なぜ、皇統は男系なのか。
いくつか理由があるとは思います。
男系の皇統の維持とは、女性排除
云々ではありません。
これを口にする人は、相当に
頭が悪い。
皇統から排除されてきたのは、むしろ
我々日本人の男性です。
日本の女性は
皇族になる可能性がありますが、
男性には、ありません。
結果、日本は、歴史的に
「権威」と「権力」が分離され、
「権威を帯びた権力者」は
ついに出現しませんでした。
平安時代に権勢を誇った
藤原道長といえども、
自分の娘を皇室に嫁がせることは
できたものの、そこまで。
天皇の祖父になることはできても、
父親にはなれませんでした。
まして、自ら、
皇位を襲うことも不可能。
≒
【 道長氏のころの、 陛下らは、
母方の、 祖父母の家で、 養育され、
小さい頃からの、 馴染みの、
信頼できる、 おじいさん、な、
藤原氏、の、 男性を、
摂政や、関白にしており、
自らの母方の、祖父、 などである、
藤原氏員、 などと、 共に、
政務を成す事、などをめぐって、
より、 対立性を成すようになる、
のは、
母方の祖父母の家で、
養育される事が、
より、 無く成ってから、
の事としての、 度合いも、ある 】。
豊臣秀吉氏も、戦国時代を統一する、
という、偉業を成し遂げたにも関わらず、
関白どまり。
歴史上、皇位を簒奪しようとした、
「日本人男性」は、何人もいます。
蘇我入鹿、道鏡、足利義満氏、
などに、なりますが、
なぜか、ことごとく失敗。
というわけで、 権威を、
権力から切り離す、「男系の皇統」が、
日本国にとって、 ベター
( ベストじゃないでしょうが )、
な、 政体、 あるいは、
国体であることが、
二千年を超す検証により、
証明されているのです。
過去、二千年を超す検証に耐えた
「伝統」に、我々、精々が
百年も生きない一人間の脳みそが
立ち向かえるはずがないでしょうに。
NHKの調査では、
「女系天皇の意味を知っているか」
という調査に対し、
「よく知っている」と
「ある程度知っている」を合わせた
「知っている」は
42%にとどまり、
「あまり知らない」と
「全く知らない」を合わせた
「知らない」が、
52%と多数派を占めました。
我々は、 戦後の愚劣な歴史教育により、
日本国民として最も重要な存在について、
知識を身に着ける機会を奪われてきた。
それ以前に、「女系天皇」という、
言葉が間違っています。
女系天皇ではなく、
「男系ではない天皇」が正しいのです。
女性宮家にせよ、
非・男系天皇にせよ、
「外の男」を皇族に迎え入れる
ことになります。
日本国は、未だかつて
「外の男」を皇族としたことは
ありません。
どなたでもいいですが、
内親王殿下が
一般男性
(例えば「三橋」という名字の男)
と結婚し、
二人の子が次の天皇になると、
神武天皇以来の皇統は
断絶し、
新たに
「三橋朝」が始まる
ことになってしまいます。
さらに言えば、
何しろ
「グローバリズム」の時代でございますので、
内親王殿下が
中国人、韓国人と結婚したら・・・?
アメリカ人、イギリス人でも
同じことですが、我が国の皇統が
「外国」に奪われることになります。
その時点で、
日本国のナショナリズムの最強の柱である
皇統は、おしまいです。
日本「人民」、つまりは
旧・日本国民は
「人間」に個別化され、
互いに協力することもなく、
万人の万人に対する闘争
(ホッブス)の世界が始まります。
分かりやすく書くと、北斗の拳、の
「ヒャッハー!」の世界でございますね。
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※※特別コンテンツ「MMTポリティクス
第三回」が視聴可能となりました。
※12月12-13日、邪馬台国視察ツアー「歴史に魅せられて、
マイと辿る邪馬台国への道」開催決定!
(三橋貴明、長浜浩明先生、
高家望愛さんも同行します)
取材の光景は、映像で記録し、
特別コンテンツとして配信したいと思います。
そもそも、皇嗣殿下、悠仁親王殿下
という正当な皇統の継承者が
いらっしゃるにも関わらず、現時点で
女性宮家だ、
非・男系天皇だのと言い出す時点で
不遜なのです。
とはいえ、女性宮家やら
非・男系天皇やらを主張する、
「伝統に逆らう傲慢な勢力」を
黙らせるために、現時点で
「旧・宮家復活」を検討することは
価値があると思います。
『旧宮家男子の皇族復帰を可能に
自民有志の提言案
安定的な皇位継承に向け、
自民党の保守系有志議員による
「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」
(代表幹事・青山繁晴参院議員)が
まとめた提言案が20日、分かった。
例外なく
父方に天皇がいる
男系の継承を堅持し、
旧宮家の男子の皇族復帰を可能とする
皇室典範の改正か特例法の制定が柱。
23日に正式決定後、
安倍晋三首相や自民党幹部に
直接手渡す方針だ。
提言案では、女性皇族が
結婚後も
皇室にとどまる
「女性宮家」の創設について、
婚姻した民間人男性が
皇族となり、
男系継承の伝統が途切れる
女系天皇の呼び水になりかねないことから、
否定的な見解を示す。(後略)』
皇室典範の改正は、
やめた方が良いです。
一度、皇室典範を改正した
という「実績」が出てしまうと、
最も重要な、
「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」
の改訂に繋がる可能性が生じます。
特例法の制定を検討するべきです。
いずれにせよ、我々日本国民は、
皇統に対する攻撃
(女性宮家、非・男系天皇等)について、
「グローバリズムという疫病の侵略」である
と認識するべきです。
マスコミやら「識者」やらは、
「外国では~」
「グローバルでは~」
と、「抗体」を持たない
日本国民を騙し、グローバリズム
という疫病を蔓延させ、我々が
日本列島で生きていく上で
必須のナショナリズムを破壊しよう
としてきます。
「ヨーロッパの王室では、
男系女系の区別がなく、
外国の王室から婿を迎えることもあるのに、
日本は~」
といったレトリックには、
「知るか! というか、
そんなアホな権威継承しているから、
欧州人は、殺し合いばかり
やっていたんだろが! 一緒にすんな!」
と、史実に基づき、
反論しなければならないのです。
「歴史的な知識」もまた、
我々が早急に身につけなければならない
「抗体」の一つです。
というわけで、経世史論では
「皇統論」に加え、
世界各国の歴史を(ランダムに)辿る
「歴史時事」と、
二つのコースがあるのです。
我々は歴史を学び、
グローバリズムという疫病に対する
「抗体」を身に着ける必要があるのです。
早急に。
「歴史を学び、抗体を身に着けよう」に
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
歴史拾遺 ヒロイ ;
戦国時代の猛女・妙林尼が戦うべき、
理由とは、 何だったのか? ;
Dyson 尚子 女史 ;
公式webサイト:
大分県大分市鶴崎校区歴史マップ
大分市鶴崎歴史散歩コース
大分市役所にご協力頂きました。
参考文献 ;
『 戦国時代の大誤解 』 ;
熊谷充亮二氏著 彩図社 2015年1月。
『 目からウロコの戦国時代 』 ;
谷口克広氏 PHP研究所 2000年12月。
『 大分県の地名 』 ; 下中弘氏 ;
平凡社 1995年2月。
歴史な上で、 猛女や烈女、
と、呼ばれる、女性がいる。
男も顔負けの戦績を残す、 逆境に、
機転を利かして、 立ち向かう、 など、
様々な武勇伝が、
後世に伝え残されている。
彼女らが選んだ道は、 あまりにも険しく、
単なる必然では、片づけられないような、
気がしてならないのだ。
それは、 人に応じて、異なるが、
執念にも似た信念だったり、
亡き夫への愛だったり、守るべき民など、
揺るぐことない、 自分だけの、
「 モノサシ 」、 を、
心に持っていたからではないか。
吉岡妙林尼 ;
( よしおか みょうりんに )。
本名も、生没年も、 不明であるが、
彼女のなした功績だけは、
詳細に語り継がれている。
「 かの有名な島津軍を撃退し、知略で、
亡き夫の居城である、
鶴崎城を奪回した女性❗ 」 ;
戦国史上きっての猛女と呼ばれた、
妙林尼は、 何を思って、戦ったのか。
そこに迫りたい。
@ どうして、 島津勢と、一戦を、
交えなければならなかったのか ;
現在の、 大分市立鶴崎小学校、や、
大分県立鶴崎高校の場所には、かつて、
鶴崎城 ( つるさきじょう )、
があった、 という。
この鶴崎城の城主は、 吉岡鑑興 ;
( よしおか あきおき ) 氏 。
妙林尼への夫である。
この吉岡家は、 当時は、
豊後の一帯を統治していた、
大友氏への側近の一族で、 もとは、
その父である、 吉岡長増
( よしおか ながます ) 氏が、
鶴崎城を構築したといわれている。
@ 鶴崎城跡 ( 写真の提供: 大分市 ) ;
※ 学校の敷地内にあり、
勝手に立ち入ることは、 不可❗。
大友家の当主の大友宗麟
( おおとも そうりん ) 氏は、
1578年、 な、 天正 6年 、に、
日向 ヒュウガ ; ( 宮崎県 )
、へ侵攻するも、
薩摩 ( 鹿児島県 )、 を治めていた、
島津勢に大敗する ;
( 耳川の戦い ) 。
この戦いで、 吉岡鑑興氏は、戦死。
夫を失ったため、 その後に、
「 尼 」、 として、 妙林尼は、
生きることになる。
居城であった鶴崎城は、 息子の甚吉
( 後の統増 ) 氏が、 当主となって、
跡を継いだ。
当時の勢力図は、 大友宗麟氏が、
高城・耳川の戦いの敗北をきっかけにして、
衰退しつつある状況。
一方で、 島津氏は、 勢力を伸ばし、
九州の一帯が大きく変わろうとしていた。
そのために、
1586年、 な、 天正 14年 、には、
大友宗麟氏が、 大坂へ参上し、
豊臣秀吉氏へ、 直に、 島津氏、への、
討伐を願い出ている。
こうして、 秀吉氏による、
九州への討伐が始まるが、
同年の、 12月の、 第一戦目の、
戸次川の戦いは、 島津勢が、大勝❗。
この勢いにのって、 島津軍は、
大友宗麟氏が籠城する、 丹生島城 ;
( 臼杵城 )、 へ迫り、
甚吉氏は、 母の妙林尼を鶴崎城に残し、
軍勢を率いて、 丹生島城へと向かう。
つまり、 鶴崎城には、
妙林尼のほかは、 わずかな兵、 以外は、
老兵や農者 ノーザ 、と、
女子どもしかおらず、ほぼ、 戦力としては、
無いに等しい状況であった、 という。
@ 島津軍の、 16回もの、
攻撃を凌ぐ、知略とは? ;
幸いながら、 鶴崎城の立地は、
平城ながらも、
別府湾、乙津川、大野川に囲まれた、
デルタ地帯にあった。
干潮でしか渡れないために、
天然の堀に、守られており、
唯一の陸地は、 「 琵琶の首 」、
と、呼ばれるほどの、 細い土地だった。
この鶴崎城を守るために、 妙林尼は、
完全武装。
鎧 ( よろい )、 の上に、 陣羽織
( じんばおり )、 をまとって、
額に鉢巻 ( はちまき )、 手には、
薙刀 ( なぎなた )、 という姿。
また、 農者らに、 板や畳を持ち寄らせ、
城の周りには、 堀を建てるよう指示し、
砦を完成させた。
さらに、 自ら、 農者や女性らに、
鉄砲の使い方を教えこんだ、 という。
@ 鶴崎公民館の前にある、
吉岡妙林尼の像 ;
( 写真の提供:大分市 ) 。
一方で、 島津軍は、というと、
伊集院美作守久宣氏、
野村備中守文綱氏、 白浜周防守重政氏の、
三将が、 3千もの、 兵を率いて、
鶴崎城へ。
息子の甚吉内側の留守を知って、
一気に攻め落とそうとしていた。
しかし、この鶴崎城、
予想に反して、 落ちそうで、落ちない。
実は、 妙林尼の策略が、功を奏したのだ。
妙林尼は、 砦を作る際に、できる限りの、
防御施設を施していた。
土塁 ( 土を積み上げたもの )、は、
もちろん、 堀底の落とし穴、
薬研堀 ヤゲンボリ ;
( 底が、 Vの字状になった堀 ) 、
などの、 様々な仕掛けを準備していた、
という。
油断した島津軍は、 落とし穴に落ちては、
鉄砲に狙い撃ちされる、 などし、
結果的に、 16回にも及ぶ攻撃を行うが、
鶴崎城を落とすことは、できなかった、
という。
勝ち目のない戦いであっても、
兵らの士気は、不思議と、落ちなかった。
というのも、 妙林尼が、自ら、
飯や酒を配って回ったからだ。
このように、 優しさも見せつつ、
時には、 厳しさも見せる。
じつは、 降参を進める家臣に対しては、
「 汝らは、臆病者なり 」
、と、 刀を抜いた、 という、
逸話も残っているとか。
しかし、
判断力が鈍っているわけではない。
その後に、 戦いは、 膠着状態となり、
城中の食料も尽きる頃に、
島津側が、 家臣を通じて、促した降参を、
妙林尼は、 全員の命の保証を条件に、
あっけなく受け入れる。
そして、 鶴崎城を明け渡し、
近くの屋敷に落ち着くことになる。
それだけでは、ない。
これまでの戦いで、
互いの健闘を称えるかのように、
島津の諸将を、
酒などで。もてなした、 という。
明けて、 1587年 、 な、
天正 15年 、 の、 3月に、
豊臣秀吉氏による、再度の、
九州への討伐の知らせが届いた為に、
島津の全軍に、 薩摩への退却の命が下る。
鶴崎城に駐留していた島津軍も、
引き揚げることに。
その際に、 妙林尼は、 意外にも、
「 大友家に背いた 」、 ことを理由に、
家中の者と共に、 連れて行ってほしい、
と、 頼んだ、 という。
これを快諾した、 島津の三将。
さて、鶴崎城での最後の夜。
妙林尼は、 美酒などを用意させ、
酒宴を開く。
そして、 同年の、 翌る、 3月8日、に、
酒に酔った状態で、 夜明けから、
島津軍は、 退却を始めるのだ。
@ 里心の付いた敵を討つ❗ ;
ここで、 妙林尼は、
出立の支度があるために、 後で、
合流するとして、
島津の三将を丁寧に見送ったようだ。
ようやく、 鶴崎城をあとにした島津軍。
二日酔いの状態で、 退却の途中に、
乙津川を渡ろうとした、 その時、
突然の敵勢の襲来を受ける。
松林に隠れていたのは、
妙林尼の命を受けた伏兵らだった。
そして、 慌てふためく島津軍を、
あの妙林尼が、耳川の戦いで、
討ち死にした武将の妻の一団と共に、
追撃した、 という ;
( 諸説がある )。
この乙津川の戦い ;
( 寺司浜の戦い )、 で、 三将のうち、
伊集院美作守、白浜周防守、と、
3百名以上の島津兵らが戦死。
残る野村備中守も、矢を受けた傷により、
後日に、死亡。
妙林尼は、 敵将の首などの、
63個を、 亡き夫の主君である、
大友宗麟氏へ差し出した、 という。
@ 寺司浜の戦いの戦死者を供養した、
寺司地蔵尊 ; ( 写真の提供:大分市 )。
その後の妙林尼の記録は、ない。
なお、後日談ではあるが、
豊臣秀吉氏も、 これを聞いて、
妙林尼に、 是非に、 会いたかったようだが、
断った、 という。
そもそも、 戦国時代の女性は、勇ましい。
なにしろ、戦場に散った兵の、
3割は、 女性、 との記録もあるほど。
ここからは、 推測の域となるが、
夫が果たせなかった大友宗麟氏、への、
忠義を、代わりに果たそうとしたのか、
鶴崎城下の民を守りたい、 という、
気だったのか。
そのどちらも、当たっている気がする。
☆ 豊臣秀吉氏には、 8百人も❓❗ ;
戦国時代の新しい職業 ;
「 御伽衆 」、って、なんなんだ? ;
Dyson 尚子 記者 ;
ラジオ、などない時代。 眠れないとき、
いや、眠ってはいけないとき、
人は、 どのように過ごしたのか。
特に、 権力者であれば、あるほどに、
孤独で、 悩みは、尽きないだろう。
時は、 戦国時代。 戦乱の世では、
何日、何年も続く、合戦もある。
この戦陣の中で、君主のそばに仕え、
ラジオ的な役割を果たしたのが、
「 御伽衆 ( おとぎしゅう 」、 だ。
御伽衆、への、 流津 ルツ ; ルーツ ;
、は、 室町時代の、 「 御相伴衆 」。
室町時代に、 将軍の次に、
地位が高かったのは、
「 管領 ( かんれい 」、
と、呼ばれる、 役職の方々。
といっても、 「 三管領 」
、と、 呼ばれるだけあって、
誰でも、その地位に就けたわけではなく、
細川 ( ほそかわ )、 ・斯波( しば )、
・畠山 ( はたけやま )、 の、 三氏が、
交代で、独占していた。
そして、 この管領の次にあった役職、
と、 いわれているのが、
「 御相伴衆 ( ごしょうばんしゅう 」。
簡単にいえば、 将軍が、
他家を訪問する場合や、 殿中での、
饗宴があった場合に、
「 ついていく人 」、 である。
ただ、 小姓のような、
お付き的な存在ではなく、
一緒に、 客として迎えられるような、
意目侍だ。
将軍随行、という方が、
わかりやすいかもしれない。
そのため、 当然、将軍のそばにいても、
見劣りしない人物、
格式備えた人物でなければ、
務まらない。
実際に、 「 管領 」、 を務めた、
一族員ら、などの、 名実ともに、
軍事力、発言力もある、
現役大名がなるような、役職であった。
その後、 室町幕府は、衰退、
戦国時代の幕開けとなる。
それとともに、 各地の大名も、
「 御相伴衆 」、 と、 同じような、
役割な人を、 そばに置くように、
なっていった。
それが、 「 御伽衆 」、だ。
「 伽 ( とぎ 」、 とは、 もとは、
人が多く集まって、 眠らずに、
夜を過ごす、 という、 意味という。
眠らないように、 咄
( はなし )、 をすることが、 転じ、
戦陣の中で、 君主のそばで、
話をすることが、 「 御伽 ( おとぎ 」
、と呼ばれ、 新しい職業となった。
豊臣秀吉氏への御伽衆には、
豪華なメンツが、勢揃い
戦国大名は、 それぞれが、
独自の御伽衆を抱えていた。
織田信長氏をはじめ、 武田信玄氏や、
毛利元就 ( もうり もとなり ) 氏、
などは、 少なくて、 3人、
多くて、 ➕人を超える人数で、
御伽衆を用いていた、
という、記録がある。
ケタ違いの御伽衆を抱えていたのが、
豊臣秀吉氏である。
なんと、 その数は、 8百人ほど。
朝鮮への出兵の際に、 備前名護屋城
( びぜんなごやじょう )、 まで、
連れて行った、 というから、
規模が違う。
さらに、その面葉ときたら、
錚々たる顔ぶれで、豪華であった。
8百人もいたのだから、その多様性は、
いうまでもない、 というところか。
元の将軍から、 名家の武将、
僧侶、商人から、茶人まで、
多彩に、取り揃え、
豊臣秀吉氏らしい選出で、
民間人も含まれていた。
秀吉氏のご自慢のメンツ、
どのような人物がいたのかは、
気になるところだろう。
最初に、 ご紹介するのは、
室町幕府の、 第15代の征夷大将軍の、
足利義昭 ( あしかが よしあき ) 氏。
織田信長氏に、 京都から追放されて、
流浪したのちに、 あまり、
知られてはいないが、
秀吉氏からの保護を受けて、
御伽衆となっていた。
もちろん、これは、
信長氏が死んだ後の話だ。
次に、 かつての主君である、
織田信長氏の血筋を受け継ぐものたちを、
秀吉氏は、取り込んだ。
信長氏の子である、 信雄氏、
弟である信包 ( のぶかね ) 氏、
同じく、 弟で、 茶人の有楽斎
( うらくさい ) 氏。
彼らも、 秀吉氏のもとに、
御伽衆として、召し抱えられた。
一般的には、 織田家を取り込むことで、
自身の政権の正統性を維持したい、
意図だ、と、考えるだろう。
しかし、 私には、 それよりも、
憧憬していた織田信長氏の面影を残す者を、
そばに置きたい、 という、欲望が、
垣間見える気がする。
これは、 織田家に関わる、 姫君を、
3人も、側室にしたことからも、
推測できるだろう。
さらに、 元の近江への守護の、
六角義賢 ( ろっかく よしかた ) 氏らな、
親子や、 信長氏の配下であった、
荒木村重 ( あらき むらしげ ) 氏、
山名宗全 ( やまな そうぜん ) 氏の、
子孫である、 山名豊国 ( とよくに )
氏 、 などの、 かつての名家員も、
御伽衆に名を連ねている。
その他、 茶人も多かった。
千利休運動や、 今井宗薫
( いまい そうくん ) 氏、
織部流の祖である古田織部
( ふるた おりべ ) 内側、 なども、
御伽衆となっている。
秀吉氏は、 ただの、 暇つぶしの、
話し相手、 というよりは、
知識や情報を得る相手として、
御伽衆を重宝していたようである。
気軽に、 意見を聞ける、
参謀的な役割も担っていた。
そのため、 御伽衆の条件としては、
様々な知識や情報などを与えるだけの、
知見を兼ね備えなければならない。
だからこそ、 天下人の、
豊臣秀吉氏、への、 御伽衆には、
元の武将や、 名家員、などの、
国を治めた経験を持つ、
メンツを揃えた、 と、 考えられる。
また、 聴くからには、
話が、うまくなければならない。
話術に秀でたことも、
御伽衆の条件だった、 と、 いえる。
いかに、 退屈させずに、
興味を持って、 聴いてもらえるか、
その創意工夫が、 現在の、
「 講談 」、の、 ネタに活かされている、
とか。
一説には、 落語、への、
もとになった、 とも、いわれている。
この御伽衆、 江戸時代になると、
統治制度が、整備されたためか、
需要も、 少なくなり、 しだいに、
姿を消していく。
そういう意味では、 戦国時代の特徴、
ともいえる現象だったのかもしれない。
もし、 豊臣秀吉氏が、
現代に生きた、としたら、 何と言うか。
8百人もの、 御伽衆を使いこなしていた、
のだから、 過剰な情報にさらされている、
現代でも、難なく適応できるだろう。
きっと、 スマホは手、
放せないに違いない。
☆ 戦国マニア必見❗ ;
徳川家康氏を育てた、
「 臨済寺 」 に行くしかない❗ ;
澤田真一 記者 ;
【 臨済寺 】 ;
静岡県 静岡市 葵区 大岩町7−1
( 本堂は、 通常は、 非公開 ) ;
徳川家康氏は、 苦難の少年時代を送った、
人物である。
家康氏の出身は、
織田、と、 今川、 という、
大勢力らに挟まれ、
どちらかの陣営につかなければ、
生きていけないような、 弱小豪族だった。
彼は、 織田と今川、両方に、
人質として取られている。
しかし、 戦国時代の、 「 人質 」、とは、
決して、 ぞんざいに扱われた訳ではない。
むしろ、 今川氏への人質として、
駿府 ; ( 今の静岡県は、 静岡市 ) 、
にいた頃の、 家康氏は、
厚遇されていた。
彼は、 今川氏にとっては、
未来の家老である。
軍団を率いて戦えるだけの、
武将になってくれなければ、困るのだ。
だから、 今川氏は、当時は、
松平竹千代、 という、 名だった、
幼少時代の家康氏を、
「 軍事学院 」、 に入れた。
それが、 臨済寺である。
@ 年に、 2回の一般公開 ;
静岡県は、 静岡市の、 葵区に所在する、
臨済寺は、 修行寺である。
普段は、 一般公開されておらず、
境内に入ることは、できても、
建物内に上がることは、できない。
だが、 年に、 2回だけは、
この臨済寺の本堂が、公開される。
今川義元氏の命日である、 5月19日と、
摩利支天祈祷会が催される、
10月15日が、 一般公開日だ。
今回は、 10月15日の公開日に、
臨済寺へ足を運んだ。
「 猪に乗った神様 」、 で、
有名な摩利支天は、
武士たちからの信仰を集めていた。
徳川家康氏も、 摩利支天を信仰していた、
ひとりである。
上の写真の摩利支天像は、もとは、
浅間神社にあったもの。
明治の神仏分離政策を受けて、
臨済寺に移されたのだ。
日本において、 仏教と神道は、
明治時代を迎えるまでは、
融合していた。
臨済寺は、 様々な歴史的所蔵品を抱える、
寺社でもある。
この日に、 公開されていたものの中には、
あの武田信玄氏の書状もあった。
戦国時代の臨済寺は、
「 今川の外交機関 」、 としての、
一面を有していたのだ。
@ 寺と軍事学 ;
また、 臨済寺は、 先述の通りに、
「 軍事学院 」、 でもあった。
徳川家康氏にとっての、 学問の師匠は、
臨済寺の僧侶な、 太原雪斎師。
この雪斎師は、 今川の軍師でもあり、
実際に、 兵を率いて戦ったこともある。
聖職者が、 軍人を兼ねる、ということは、
決して、 珍しい光景ではなかった。
同時に、 寺社は、
最先端の軍事学を教えるための、
教育機関としても、機能した。
家康氏は、 人質であったが故に、
この時代の最高列辺 レベ ; レベル ;
、の、 「 士官 養成 プログラム 」、
に、ありつくことができたのだ。
家康氏の読書好きは、 現代でも、
よく、知られている。
それは、 つまるところ、
臨済寺での、 少年時代が、
原点にあるのではないか、
と、 筆者は、 考えている。
修行寺の中であれば、
本は、読み放題である。
今とは、違い、 図書館、 などは、
存在しない。
本を読もうと思ったら、
寺に行くぐらいしかなかった時代だ。
@ 徳川氏に愛され続けた駿府 ;
臨済寺の所蔵品の中で、
「 これは❗ 」、と、 思ったものがある。
それは、 山岡鉄舟氏の書だ。
「 東照宮守護大摩利支尊天 」、 とある。
山岡鉄舟氏については、 筆者も、
以前に、 記事にしたが、
彼の豪胆さが、よく表れている筆遣いだ。
山岡氏もまた、摩利支天を信仰する、
者のひとりだったのだろう。
臨済寺は、というよりも、
駿府の寺社は、 徳川氏に愛され続けた。
臨済寺も、浅間神社も、
戦乱で、焼けているが、 徳川氏は、
それを再建している。
さらに、 晩年の家康氏は、 江戸ではなく、
駿府に腰を下ろした。
ここが、 戦略な上での、 重要拠点、
ということもあるが、 家康氏は、
「 己を成長させた出来事 」、 を、
いつまでも、忘れない男である。
駿府がなければ、 今の自分がないことを、
骨の髄まで自覚していたのだ。
そんな、家康氏の意向は、
徳川幕府の歴代将軍に引き継がれた。
臨済寺は、 明治維新を迎えるまで、
幕府に厚遇され続ける。
@ 駿府がアツい❗ ;
静岡市は、 今や、
歴史魔員 マイン ; マニア ;
らに注目されている。
そのきっかけは、 駿府城だ。
史料には、ない、 「 幻の城 」、の、
天守台と、金箔瓦が、発掘され、
しかも、 それが、
豊臣秀吉氏の命令で、
築かれたものではないか、 という、
説が浮上した。
駿府城公園の発掘の現場には、
全国から、 戦国和阿 ワー ; ファン ;
、 が、 押し寄せるようになった。
今川、武田、そして徳川と、
駿府は、 太守を変えながらも、
戦乱の世を生き抜いた。
その中で、 駿府は、
東海地方を代表する都市としての形を、
徐々に築き上げ、
今の静岡市への基礎になったのだ。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
グローバリズム 、という、疫病(後編)
2019-10-23 09:03:18
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(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.22
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三橋TV第153回
【自由と権利、民主制について
本当の話をしよう】
https://youtu.be/4mvwJUg6O3Y
昨日、「即位礼正殿の儀」が執り行われ、
陛下が即位を内外に宣言されました。
陛下の即位の礼を祝うように、
雪化粧した富士山が現れたそうですが、
写真は翌日(23日)に
わたくしが箱根から写した富士山。
いつの間にか、冠雪富士でございました。
冬が近づいている・・・。
我が国の皇室は、「少なくとも」
二千年以上の長期に渡り、
天照大神、瓊瓊杵尊、神倭伊波礼比古命
(神武天皇)と神話から繋がり、
神武天皇以降は男系の皇統を繋いできた、
世界に例を見ない「貴重」な存在です。
(「存在」としか言いようがない)
なぜ、皇統は男系なのか。
いくつか理由があるとは思います。
男系の皇統の維持とは、女性排除
云々ではありません。
これを口にする人は、相当に
頭が悪い。
皇統から排除されてきたのは、むしろ
我々日本人の男性です。
日本の女性は
皇族になる可能性がありますが、
男性には、ありません。
結果、日本は、歴史的に
「権威」と「権力」が分離され、
「権威を帯びた権力者」は
ついに出現しませんでした。
平安時代に権勢を誇った
藤原道長といえども、
自分の娘を皇室に嫁がせることは
できたものの、そこまで。
天皇の祖父になることはできても、
父親にはなれませんでした。
まして、自ら、
皇位を襲うことも不可能。
≒
【 道長氏のころの、 陛下らは、
母方の、 祖父母の家で、 養育され、
小さい頃からの、 馴染みの、
信頼できる、 おじいさん、な、
藤原氏、の、 男性を、
摂政や、関白にしており、
自らの母方の、祖父、 などである、
藤原氏員、 などと、 共に、
政務を成す事、などをめぐって、
より、 対立性を成すようになる、
のは、
母方の祖父母の家で、
養育される事が、
より、 無く成ってから、
の事としての、 度合いも、ある 】。
豊臣秀吉氏も、戦国時代を統一する、
という、偉業を成し遂げたにも関わらず、
関白どまり。
歴史上、皇位を簒奪しようとした、
「日本人男性」は、何人もいます。
蘇我入鹿、道鏡、足利義満氏、
などに、なりますが、
なぜか、ことごとく失敗。
というわけで、 権威を、
権力から切り離す、「男系の皇統」が、
日本国にとって、 ベター
( ベストじゃないでしょうが )、
な、 政体、 あるいは、
国体であることが、
二千年を超す検証により、
証明されているのです。
過去、二千年を超す検証に耐えた
「伝統」に、我々、精々が
百年も生きない一人間の脳みそが
立ち向かえるはずがないでしょうに。
NHKの調査では、
「女系天皇の意味を知っているか」
という調査に対し、
「よく知っている」と
「ある程度知っている」を合わせた
「知っている」は
42%にとどまり、
「あまり知らない」と
「全く知らない」を合わせた
「知らない」が、
52%と多数派を占めました。
我々は、 戦後の愚劣な歴史教育により、
日本国民として最も重要な存在について、
知識を身に着ける機会を奪われてきた。
それ以前に、「女系天皇」という、
言葉が間違っています。
女系天皇ではなく、
「男系ではない天皇」が正しいのです。
女性宮家にせよ、
非・男系天皇にせよ、
「外の男」を皇族に迎え入れる
ことになります。
日本国は、未だかつて
「外の男」を皇族としたことは
ありません。
どなたでもいいですが、
内親王殿下が
一般男性
(例えば「三橋」という名字の男)
と結婚し、
二人の子が次の天皇になると、
神武天皇以来の皇統は
断絶し、
新たに
「三橋朝」が始まる
ことになってしまいます。
さらに言えば、
何しろ
「グローバリズム」の時代でございますので、
内親王殿下が
中国人、韓国人と結婚したら・・・?
アメリカ人、イギリス人でも
同じことですが、我が国の皇統が
「外国」に奪われることになります。
その時点で、
日本国のナショナリズムの最強の柱である
皇統は、おしまいです。
日本「人民」、つまりは
旧・日本国民は
「人間」に個別化され、
互いに協力することもなく、
万人の万人に対する闘争
(ホッブス)の世界が始まります。
分かりやすく書くと、北斗の拳、の
「ヒャッハー!」の世界でございますね。
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※※特別コンテンツ「MMTポリティクス
第三回」が視聴可能となりました。
※12月12-13日、邪馬台国視察ツアー「歴史に魅せられて、
マイと辿る邪馬台国への道」開催決定!
(三橋貴明、長浜浩明先生、
高家望愛さんも同行します)
取材の光景は、映像で記録し、
特別コンテンツとして配信したいと思います。
そもそも、皇嗣殿下、悠仁親王殿下
という正当な皇統の継承者が
いらっしゃるにも関わらず、現時点で
女性宮家だ、
非・男系天皇だのと言い出す時点で
不遜なのです。
とはいえ、女性宮家やら
非・男系天皇やらを主張する、
「伝統に逆らう傲慢な勢力」を
黙らせるために、現時点で
「旧・宮家復活」を検討することは
価値があると思います。
『旧宮家男子の皇族復帰を可能に
自民有志の提言案
安定的な皇位継承に向け、
自民党の保守系有志議員による
「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」
(代表幹事・青山繁晴参院議員)が
まとめた提言案が20日、分かった。
例外なく
父方に天皇がいる
男系の継承を堅持し、
旧宮家の男子の皇族復帰を可能とする
皇室典範の改正か特例法の制定が柱。
23日に正式決定後、
安倍晋三首相や自民党幹部に
直接手渡す方針だ。
提言案では、女性皇族が
結婚後も
皇室にとどまる
「女性宮家」の創設について、
婚姻した民間人男性が
皇族となり、
男系継承の伝統が途切れる
女系天皇の呼び水になりかねないことから、
否定的な見解を示す。(後略)』
皇室典範の改正は、
やめた方が良いです。
一度、皇室典範を改正した
という「実績」が出てしまうと、
最も重要な、
「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」
の改訂に繋がる可能性が生じます。
特例法の制定を検討するべきです。
いずれにせよ、我々日本国民は、
皇統に対する攻撃
(女性宮家、非・男系天皇等)について、
「グローバリズムという疫病の侵略」である
と認識するべきです。
マスコミやら「識者」やらは、
「外国では~」
「グローバルでは~」
と、「抗体」を持たない
日本国民を騙し、グローバリズム
という疫病を蔓延させ、我々が
日本列島で生きていく上で
必須のナショナリズムを破壊しよう
としてきます。
「ヨーロッパの王室では、
男系女系の区別がなく、
外国の王室から婿を迎えることもあるのに、
日本は~」
といったレトリックには、
「知るか! というか、
そんなアホな権威継承しているから、
欧州人は、殺し合いばかり
やっていたんだろが! 一緒にすんな!」
と、史実に基づき、
反論しなければならないのです。
「歴史的な知識」もまた、
我々が早急に身につけなければならない
「抗体」の一つです。
というわけで、経世史論では
「皇統論」に加え、
世界各国の歴史を(ランダムに)辿る
「歴史時事」と、
二つのコースがあるのです。
我々は歴史を学び、
グローバリズムという疫病に対する
「抗体」を身に着ける必要があるのです。
早急に。
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。