🔹🔸◆ ぽんぽん🐈⬛暮らし♦️🔸🔹
でも、じつは ぼくの たいちょうのことでシェルターのるるちゃんと でんわで そうだんしたりちりょうのことでなやんでいるみたい。

《写真 郷土館前庭》むかしのひとの いのりのきもちが
とってもわかるって いっているよ」ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ🙏•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•👤🗣️
まず、元町の志木街道沿いの石仏群へ。(各所にあった石仏が集められたもの?)[市史によると・・・🪨🪨🪨・・・昭和初期に作られた防火用水槽の移動、道路の改修・拡幅などによる、 ・・とある]*江戸時代頃まではここが街道の分岐点。志木街道:当時は東村山駅西側の青梅街道を通って青梅まで至る街道だった。(江戸時代に「引又道」と呼ばれ、ここで青梅と八王子へ道が分かれていた)

《「史跡を巡るのは🐈⬛おもしろいね」》 ・・・👟・・・
😅9基の石仏はすぐに見つからなかった。案内板もなく、周囲の家屋に溶け込んでいて、近所の人に聞いても知らない人が多かった。そして、、、、・😳やっと見つけたのだが、鎖に囲まれていて、彫り刻まれた字を読むことはできなかった。後日:郷土館資料やいろいろなブログで調べることができたのでここで紹介する。
★ 清瀬(元町)三叉路の石仏群九基*(石仏に彫ってある年代・・・江戸、大正、明治など)*9基➕1本 (庚申塔:1基🪨日本廻国の巡礼塔:1基 馬頭観世音の塔:7基🪨案内注:1本)

・・・東向きに並ぶ六基の石塔・・
①🐴「馬頭観世音(兼道標)」左面:?天明ニ壬寅年(1782)正面:(下部両脇に道標銘) 「右 所沢道 山口道」 「左 八王子 大山道」 四角い台の上に重厚な角柱型の石塔その上に蓮台に座る丸彫りの馬頭観音像 右手は宝剣・棒・与願印? 三面ともに精巧な見事な忿怒相「奉建立南無馬頭觀世音菩薩」 右面:無銘 左面:下部に武州多摩郡 上清戸邑 十二朔日台座正面:「供養塔」 右面に願主一名・世話人二名人名

🤔1782年は将軍吉宗の時代
🤓上清戸村の人々によって作られたもの「三面八臂」とは3つの顔と腕8本「臂」とは「ひじ」のこと。路傍の石仏が供養と道標を兼ねている?
②🐵「庚申供養塔(兼道標)」右面:享保十乙巳三月吉祥日(1725)正面:「右 青梅道」「左 八王子道」宝珠付きの唐破風笠を持つ角柱型の石塔正面を彫りくぼめた中に 日月雲 「青面金剛立像 」合掌型六臂

頭に蛇を乗せた青面金剛釣り目の忿怒相?(風化)持物は、斧・法輪・弓・矢足の両脇に二鶏を線刻足元に邪鬼を踏む(邪鬼の顔も風化)二鶏の両脇 縁の部分(左 八王子道、右 青梅道) 邪鬼の下に正面向きの三猿 (🙈🙉🙊)その下の右端に武刕多摩郡上清戸村 願主宗心一名 さらに七名の名前塔の両側面には蓮🪷の花が浮き彫り左面:「奉造立庚申供養講中八貟」

③🪨「日本廻国大乗妙典六十六部」
:享保十二丁未年(1727)《写真左》大乗妙典供養塔 上部丸角柱型の石塔正面中央:「日本廻國大乗妙典六十六部」上部両脇に造立年月日 3月5日 右下に武刕多摩郡清戸村 左下に願主 大眼休意 🤔吉宗時代*「廻国塔」とは?*法華経を66カ国の霊場に納めたことを記念して建てられた石塔。(国家安全、減罪作善、追善回向などを願った)・この修行者の略称:「六部」
・・・④⑤⑥は

個人名が刻まれた🐴馬頭観音文字塔・・ 《写真右から④⑤⑥》 ・・・・・・・④🐴「馬頭観世音(兼道標)」 角柱型
嘉永七寅年(1854)十月十七日 右面「のじう ところ沢 道」 左面「八王子 大山道」 野塩(のしお)のことだろうか。塔の左側面:上清戸村 願主個人の名前剥落上部に「左り」下部に八王子 大山 道
⑤🐴「馬頭観世音」・・・馬(以下 剥落) :明治四十二年五月建立(1909)
(その32 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•>🔻「歩き🚶♀️➡️のお勉強」🔻
🟫🟤 👟🟤🥾 🟤🟫ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•🐈⬛ポン太郎🐈「おかあさんは おべんきょうばかり。むずかしいかんじばかりだね。たのしいの?😊たのしいんだね。でも、じつは ぼくの たいちょうのことでシェルターのるるちゃんと でんわで そうだんしたりちりょうのことでなやんでいるみたい。

とってもわかるって いっているよ」ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ🙏•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•👤🗣️
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
《歴史に詳しい先輩やG氏の助言有り》 (その2)憧れ💕の「石仏たちに会いに行こう!」 スタート/北口からの🚶歩きまず、元町の志木街道沿いの石仏群へ。(各所にあった石仏が集められたもの?)[市史によると・・・🪨🪨🪨・・・昭和初期に作られた防火用水槽の移動、道路の改修・拡幅などによる、 ・・とある]*江戸時代頃まではここが街道の分岐点。志木街道:当時は東村山駅西側の青梅街道を通って青梅まで至る街道だった。(江戸時代に「引又道」と呼ばれ、ここで青梅と八王子へ道が分かれていた)

😅9基の石仏はすぐに見つからなかった。案内板もなく、周囲の家屋に溶け込んでいて、近所の人に聞いても知らない人が多かった。そして、、、、・😳やっと見つけたのだが、鎖に囲まれていて、彫り刻まれた字を読むことはできなかった。後日:郷土館資料やいろいろなブログで調べることができたのでここで紹介する。
★ 清瀬(元町)三叉路の石仏群九基*(石仏に彫ってある年代・・・江戸、大正、明治など)*9基➕1本 (庚申塔:1基🪨日本廻国の巡礼塔:1基 馬頭観世音の塔:7基🪨案内注:1本)

①🐴「馬頭観世音(兼道標)」左面:?天明ニ壬寅年(1782)正面:(下部両脇に道標銘) 「右 所沢道 山口道」 「左 八王子 大山道」 四角い台の上に重厚な角柱型の石塔その上に蓮台に座る丸彫りの馬頭観音像 右手は宝剣・棒・与願印? 三面ともに精巧な見事な忿怒相「奉建立南無馬頭觀世音菩薩」 右面:無銘 左面:下部に武州多摩郡 上清戸邑 十二朔日台座正面:「供養塔」 右面に願主一名・世話人二名人名

🤓上清戸村の人々によって作られたもの「三面八臂」とは3つの顔と腕8本「臂」とは「ひじ」のこと。路傍の石仏が供養と道標を兼ねている?
②🐵「庚申供養塔(兼道標)」右面:享保十乙巳三月吉祥日(1725)正面:「右 青梅道」「左 八王子道」宝珠付きの唐破風笠を持つ角柱型の石塔正面を彫りくぼめた中に 日月雲 「青面金剛立像 」合掌型六臂


:享保十二丁未年(1727)《写真左》大乗妙典供養塔 上部丸角柱型の石塔正面中央:「日本廻國大乗妙典六十六部」上部両脇に造立年月日 3月5日 右下に武刕多摩郡清戸村 左下に願主 大眼休意 🤔吉宗時代*「廻国塔」とは?*法華経を66カ国の霊場に納めたことを記念して建てられた石塔。(国家安全、減罪作善、追善回向などを願った)・この修行者の略称:「六部」
・・・④⑤⑥は

嘉永七寅年(1854)十月十七日 右面「のじう ところ沢 道」 左面「八王子 大山道」 野塩(のしお)のことだろうか。塔の左側面:上清戸村 願主個人の名前剥落上部に「左り」下部に八王子 大山 道
⑤🐴「馬頭観世音」・・・馬(以下 剥落) :明治四十二年五月建立(1909)
願主名駒型⑥🐴「馬頭観世音 櫛型:大正四年九月癸(1915) 願主名 ・・・・・・・・

:明治二十三年 (1890) 願主名右面「向テ 右 くめ川ミチ」左面「向テ 左ふちゅう 大山ミチ」⑨🐴「馬頭観世音」:大正六年(1917)

奥から⑦⑧⑨・・南向き3基の石塔・
⑦🐴「馬頭観世音」:大正五年(1916)
⑧🐴「馬頭観世音(兼道標)」:明治二十三年 (1890) 願主名右面「向テ 右 くめ川ミチ」左面「向テ 左ふちゅう 大山ミチ」⑨🐴「馬頭観世音」:大正六年(1917)
願主名


⑩🪨コンクリート製の道路案内柱
「上清戸村分団」《写真 左端》上清戸村 昭和十五年清瀬村青年団の各分団が建てたもので唯一残る。(左?)久留米村(ヲ)経テ小金井町府(中)・・・・この辺りに「十玉坊」という修験の寺が建っていたと言われているそうだが不明のことが多いそうだ。 《多摩の歴史2 より》
・・・・・・・《①~⑩の石仏に関する参考資料》・清瀬郷土館作成資料「史跡をあるく」など・清瀬郷土館「学芸員室へようこそ」・「市史研究きよせ第5号」・ブログ「さいたまの石仏」私家版・ブログ「百街道一歩の道中記」 など ・・・・・・

⇨🤓 感想「風化がもったいない」
と思った。これだけ集めているのだから、簡単でもお堂のような屋根や壁をつけるなどの保護を検討できないものか。そして、なぜ、説明文を立てていない?私のような者には、刻まれた文字はほとんど読めない❗️もったいない‼️🫡と思っていたら、市史(令和2年3月)にも「地域の貴重な文化財として、今後長く保存するために 応分の対策が必要と思われる」と執筆者も書いておられた。市はいつになったら取り組むのかな???🧐史跡・石碑の勉強が面白いのは当時の人々の産業、生活や願いが、想像できるからだ。

登山や観光地でもそうだが、道標は歩く人にとってもとてもありがたく必要なものだ。🐾ウオーキングをしていて、古い道標や石碑を見かけると、嬉しくなる。🤔「馬頭観音」については動物との関係
や感謝の思い 🐴愛情を感じる。 〈馬🫏と馬子🧑🧑🧒🧒は仕事仲間!〉😊知識があれば、見方も変わる。造った人の想いや願いの受け止めも変わる。街道を歩いて知っている地名や人名が出てくるとワクワク😀"これまでのウオーキング🐾で、幾つか見てきていたのに見過ごしてきたことを残念に思う。また、📷写真を撮るポイントも知らなかった。庚申塚や青面金剛、馬との暮らしについては、面白いので今後また、勉強していく予定だ。 ・・・、👋次号へʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•😼ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ

と思った。これだけ集めているのだから、簡単でもお堂のような屋根や壁をつけるなどの保護を検討できないものか。そして、なぜ、説明文を立てていない?私のような者には、刻まれた文字はほとんど読めない❗️もったいない‼️🫡と思っていたら、市史(令和2年3月)にも「地域の貴重な文化財として、今後長く保存するために 応分の対策が必要と思われる」と執筆者も書いておられた。市はいつになったら取り組むのかな???🧐史跡・石碑の勉強が面白いのは当時の人々の産業、生活や願いが、想像できるからだ。

や感謝の思い 🐴愛情を感じる。 〈馬🫏と馬子🧑🧑🧒🧒は仕事仲間!〉😊知識があれば、見方も変わる。造った人の想いや願いの受け止めも変わる。街道を歩いて知っている地名や人名が出てくるとワクワク😀"これまでのウオーキング🐾で、幾つか見てきていたのに見過ごしてきたことを残念に思う。また、📷写真を撮るポイントも知らなかった。庚申塚や青面金剛、馬との暮らしについては、面白いので今後また、勉強していく予定だ。 ・・・、👋次号へʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•😼ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ