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Caterina Michikoの備忘録

アパレシーダの聖母

2020-05-12 | 聖母月

聖母月12日目。 本日ご紹介する世界の聖母巡礼地は、南米ブラジルのアパレシーダの聖母です。



1717年、サンパウロとミナス・デ・オウロのカピタニアの領主が、出張の際にサンパウロ州のグアラチンゲタ市に立ち寄りました。
グアダチンゲタ市では、領主を歓迎するための宴が企画されました。
食事の準備として、3人の地元の漁師は、魚を獲ってくるように命じられました。
しかし、その時期は魚の獲れない時期だったので、宴に十分な量の魚を確保できるようにと、漁師たちは聖母マリアに助けを求める祈りをしました。
漁師たちはパライーバ川畔にあるイタグアス港で何度か漁を試みましたが、全く成果がありませんでした。
諦めかけていたとき、魚の代わりに聖母の胴体が網にかかりました。
再び漁師が川に網を投げると、聖母の頭部が引き上げられました。
三度漁師が川に網を投げると、カヌーが転覆しないかと心配になるほど大量の魚が獲れました。

聖母像を家に持ちかえった漁師の妻が、頭と胴体を接着し祭壇に祭ると、話を聞きつけた友人や近所の人々が漁師の家を訪問し、マリア像の前で祈るようになりました。多くの奇跡が伝えられるようになり、その評判はブラジル中に及びました。

聖母像は漁師の家で保管されていましたが、1734年、グアラチンゲタ市の司祭は、聖母像を奉るための礼拝所をココヤシ丘の上に建設しました。その後も巡礼者の数は増え続け、1834年にはより多くの巡礼者を収容できる現在「古いバジリカ」と呼ばれている聖堂が建設されました。聖堂がある周辺エリアは次第に栄えるようになってきたため、1928年、このエリアは北アパレシーダ市として独立しました。
1930年、教皇ピオ11世によって、アパレシーダの聖母を「ブラジルの保護者」と宣言されました。
巡礼者の増加は、とどまることを知らず、1955年には、より大きな大聖堂の建設が開始されました。高さ107メートルの塔を持ち、ドーム部分の高さが70メートル、建設面積は142,865㎡、収容人数4万5千人というバチカンのサンピエトロ大聖堂に次ぐ、世界で2番目に大きいと言われる巨大な大聖堂は、1980年に当時の教皇ヨハネ・パウロ二世によって聖別されました。
献堂式が行われた10月12日が正式にアパレシーダの聖母の記念日として宣言されました。
ブラジルでは、10月12日をアパレシーダの聖母に捧げる国民の祝日となっていて、ブラジルのカトリック教会には、たいていアパレシーダの聖母像が置かれているそうです。

2007年5月12日、教皇ベネディクト16世のブラジル司牧訪問の際に、アパレシーダに入られ、第5回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会の開会ミサを司式されました。

リオデジャネイロで催された「第 28 回世界青年の日大会(ワールドユースデー、WYD)」のためにブラジルを訪問された教皇フランシスコも、2013年7月24日、アパレシーダを訪問され、ブラジル国民と世界青年の日大会に参加する若者たちをアパレシーダの聖母の保護に委ねる祈りを唱えられました。

 
【YouTube】The Pope at Rio - Visit and Holy Mass at the Aparecida
https://youtu.be/tmIqaHVntlE

アパレシーダには、無数の巡礼者が訪れます。
その数は年間八百万にのぼり、特にアパレシーダの聖母の祝日である10月12日には巡礼者数は23万人を越えるそうです。
アパレシーダに来る巡礼者たちはそれぞれの苦しみ、希望、願い、約束を抱えてやって来ます。
ロザリオをつま繰るその手でろうそくや、写真や、花、旅路の帽子やサンダルを捧げます。
彼らはひざまずくか、或いは完全に自らを捧げきったことを示して腹ばいになって進みます。
足はくたびれて、傷ついています。 
富める者や貧しい者、教養のある人や文盲の人など全てを網羅し、ブラジルの豊かな文化的、社会的多様性を表わす巡礼者たちは、 アパレシーダの聖母 “Mãe Aparecida” を訪ねるという生涯の夢を実現するために、いつもとは違う条件に身を投じ、広いブラジルを何日もかけて旅するそうです。
 
アパレシーダ official site