2020年5月18日は、『空飛ぶ教皇』とも呼ばれた聖ヨハネ・パウロⅡ世教皇様の生誕100周年です。
聖ヨハネ・パウロⅡのご出身地であるポーランドの在日ポーランド広報文化センターでは、ワルシャワの聖ヨハネ・パウロⅡ世思想センター制作のパネル展示「生誕100周年記念-ヨハネ・パウロ二世の生涯」(原題「カロル・ヴォイティワ――誕生」)の日本語版を制作し、企画展が予定されていました。
しかし、コロナ渦の非常事態宣言の影響を受け、延期となりました。
本日ご紹介するマリア様は、聖ヨハネ・パウロⅡも信心を持っていたポーランドの守護者「ヤスナ・グラの聖母(黒い聖母)」です。
ヤスナ・グラの聖母(チェンストホヴァの聖母)は、ポーランドの古都クラクフ近郊の聖地チェンストホヴァにある聖母マリアに捧げられたヤスナ・グラ修道院で最も貴重な宝とされる幼子イエス・キリストを抱いた聖母マリアの御絵(イコン)です。
マリア様と幼子イエス様の肌の黒さから、「黒い聖母」とも呼ばれています。
肌が黒いのは、『糸杉という黒っぽい木の板に描かれた』『コンスタンティノープルに置かれていた時に火災があって煤で黒くなった』『マリア様はもともと有色人種で、西洋絵画に表れるように白い肌に描かれる以前のものだから』等々の諸説があります。
また、マリア様の右頬に残る2本の無残な傷跡は1430年、フス戦争後期にフス派に傷付けられたためと伝えられています。
1380年、オポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクに招かれてハンガリーからやってきたカトリックの司教団によって、チェンストホヴァに聖パウロ修道会の修道院が建設されました。
2年後の1382年、このイコンはオポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクによってエルサレムからチェンストホヴァに運ばれ、修道院に安置されました。
1655年の大洪水時代、スウェーデン軍がポーランドを侵略しました。
ワルシャワやクラクフまでもが占領され、ヤスナ・グラの修道院も包囲されましたが、スウェーデン軍の攻勢に屈せず奇跡的に残ったのは、「黒い聖母」が守った奇跡とされています。
その直後の1656年4月1日、ポーランド王ヤン2世はリヴィウの大聖堂で、神の母の庇護の下に国を捧げることを誓い、彼女を彼の王国の守護者にして女王とすることを宣言しました。
1939年9月3日には、ナチスがチェンストホヴァへ進軍し、1945年1月の解放まで、ドイツ軍によるユダヤ人虐殺とポーランド人の悲劇が続きましたが、このときも、「黒い聖母」がポーランドを国難から守ったと言われています。
ポーランドはカトリック信徒が大多数を占め、「黒い聖母」のイコンもカトリック教会で有名でですが、同イコンはポーランド正し教会でも崇敬されています。
尚、ヤスナ・グラの聖母(黒い聖母)の記念日は、8月26日です。
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パウロ神父様によると、マリア様の右頬の2本の傷は、過去に何度も修復が試みられたそうですが、修復では傷を消すことができなかったそうです。
2本の傷には、何らかの意味があるのだろうとポーランドの人たちは理解しているということでした。
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