celtis

日々思うことを

書く

2022-06-30 10:20:00 | 日記
文章を書く時に
頭に置いてある、という程大袈裟ではないけれど
気にかけている明治の作家がいる

「Kさんは勢よく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛つた。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた」
志賀直哉「焚火」




文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。
漱石「草枕」

谷崎のような美文、芥川のような緊張感のある文章には馴染めないけれど
志賀直哉の簡潔で目の前に絵が描かれていくような美しさ
夏目漱石の文章は
戦地に赴く知人を見送る停車場で動き始める機関車の表現からの展開

小説の神様と文豪には
遠く及ばないけれど
簡潔で思いが届けられる美しい文章を書いてみたいものです

デンデラ野

2022-06-27 22:36:00 | 日記
何度か家を移るたびに
本も自然淘汰してきたけれど
いつでも書架に残っているのが
平谷美樹さんの「でんでら国」

60歳を越える人々が
姥捨山の奥に作ったでんでら国
老人たちのカツカツだけれど
自由な生活が行われている村
代官たちが
そこに隠し田があると疑い
老人たちと代官側との
駆け引きが始まる というストーリー

結末が爽やかで
好感がもてる本です

一時は
迫り来る超高齢化社会への
ひとつの模索のあり方などと
持て囃されてもいたけれど
それは置いておいて

そう言えば
棄老は
楢山節考もあったけれど
その原点に
遠野物語のダンノハナという話があります

山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。

ここにある「連台野」が変化して「デンデラ野」
昔、遠野物語を追って歩いた頃
川を挟んであちら側という場所が
開けて明るい場所で妙な違和感を感じたものでした
(あの時は五百羅漢の並ぶ様に却って畏怖感を強く持った)
それでも
何年も続いた飢饉で口べらしが行われていたというから
単なる伝承だけではないのでしょう


ところで
最近読んだ「アルツ村」(南杏子)は
現代版姥捨山の話で
全国の認知症患者が北海道の広大な敷地を持つ村で
自由である意味主体的な尊厳のある暮らしを営んでいる
電流の通った鉄条網の内側でだけれど

その裏にある真実
死後、患者の脳は認知症解明のために摘出されるということを
患者自身は知らされていない

60歳になると社会のルールとして赴くデンデラ野とは異なり
家族の選択


それに対する答えは書かれていない
読者一人ひとりの人生観死生感によって
さまざまな答えが出てくるのでしょう

Quality ob life はQuality of Deathでもあるのです







Curiosity killed the cat.

2022-06-23 07:37:00 | 日記

好奇心は猫をも殺す、という西洋の諺
興味本位で何にでも首をつっこむと
九つの命を持つ猫でさえ死に至る、という戒め
でも
それが猫じゃない!と思うのですが


何日か前の天声人語に
赤坂から書店がなくなる
という記事がありました

それは赤坂だけの話ではなく
僕のランドマークでもあった
神保町の三省堂も然り
町の本屋さんはとうの昔に淘汰されている

古書店も含め
並んだ書棚の向こうから
おいでおいでと呼ぶ声がして
背表紙を眺めていると
ふと出会ってしまう本たち

この嬉しさは
ネット通販では得られないものでしょう
膨大な知識の海に漂って
いつかは役に立つやもしれぬ知的好奇心を満たし
ーーいや、そんな大袈裟なものではなくとも

なんだろうどうなんだろうという
好奇心がなくなったら、、、

今風に言うと
No Curiosity , No Life
ではないでしょうか



Tide Pool

2022-06-20 21:34:00 | 日記
20代の頃に
高田敏子さんの講演を聞いたことがある
詩と生活のようなテーマだったと思うけれど
少しは詩心があるとチヤホヤされていた頃だったので
随分高い位置からものを言う人だと感じたものでした

それから数十年して
再び出会った詩を読んで
あれは強くて脆い彼女の鎧だったのか
と思うようになり
そのきっかけかな?
高田さんの言葉に

私たちの毎日は、心配ごとや疲れること、悲しい思い

をすることがずいぶん多い。でもなお生きつづけていられるのは何かしら、と思うのだ。それは日常の草むらにかくれている小さな歓び、自然の優しさ、そして、ひそやかな愛の息づきなのではないだろうか。私はそれらをテーマにしたいと思った
とあり


タイドプールを見ていて
(いくら見ていても飽きない)
ふと思ったのです
ここにも
小さな歓び、自然の優しさが
あるのだろう
満潮になれば隠れてしまうタイドプールは
やがて潮が引けば
また新たな営みが始まる
去るものもあれば
訪れるものもある
小さな宇宙
そこにはたしかにひそかな愛の息づかいがあります








ともに歩む

2022-06-14 11:14:00 | 日記
奥日光を久しぶりに歩いた


東北道から日光街道、いろは坂を経て
赤沼の駐車場でクルマを降り
低公害バスに乗り換えて
千手ケ浜へ

車窓から見える景色に
ふたりは静かに興奮する

川の流れは澄んで
光沢のある透明感

お目当てのクリンソウが見えはじめ
車内に思わず声があがる

バスを降りて
空気が変わったのを知る
ふたり同時に
心の中で頷く



なにものにも犯されない
純粋さ












無口になって
ただ歩く
時に手を取りあって



あやうい天気予想を覆し
初夏の日差しに恵まれて
豊かな時間を過ごした

昼食をとり
今度は戦場ヶ原から龍頭の滝




こういう時間を
もう何十年も過ごしてきたかのような
ふたり歩いた


今日の宿は
休暇村日光湯元

硫黄泉に癒されて
くつろいで

翌日は
湯の湖を散策




歩みを進める度に
何かに出会い
それを二人の心が共鳴する



ズミ(小梨)を知り

シウリ桜を知った




あぁ
この人と旅ができてよかった


2022/06/09〜10