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立正安国論16

2025-02-24 09:36:00 | 日記
最近の正嘉の大地震以来
の災難を、先年、法然が念仏を
弘めたゆえだとすることを聞いて、旅客はこれを暴言だと恐れているが、それでは若干の洗礼を引いて汝の迷いを悟そうと思う。
史観の第二に史記を引いていわく「周の末に髪を乱し裸で礼儀を守らない者がいた」と。妙楽はこの史観の文を釈するとき、左伝を引いて次のようにいっている。「周の国家は礼儀を本として建てられたが第十三代の平王が犬戎の侵略を避けて、都を東方の洛邑に遷すとき、伊川で髪を被ろにして大地の神を祭っている者があった。このように礼儀を守らない者がでてきたので識者は後百年で
亡びるであろうと予言した。」と。この事実でわかるごとく、災難の徴がまず顕れて後に
災難が起こるのである。
また阮籍という逸才が世にいた。彼は頭髪を乱し着物をだらしなくして、礼儀をまったく意に介しなかった。後には公卿の青年たちまでみな阮籍にならって礼儀を乱し「キャツ」とか「アイツ」などと
呼び合い、互いに辱め合う者を
ほんとうに修養の積んだ「自然」に達した人だというようになり、礼儀の正しい者を
田舎者と呼んで卑下した。これを周王、司馬氏の滅亡すら相となした。
また慈覚大師の「入唐巡礼記」には次のようにある。「唐の武宗皇帝は、会昌元年に勅して章敬寺の鏡霜法師をして寺々に阿弥陀仏の数を
弘めさせた。そのため寺ごとに絶えず三日ごと巡輪していたが
翌年、回こつ国の軍兵が唐の境を侵略してきた。同三年、河北に派遣されていた節度使が反乱を起こした。その後、大番国はまた唐朝の命を拒否し、回こつ国は重ねて国内に侵略してきた。そのために兵乱は秦の始皇、楚の項羽の時代に同じく町も村もみな災火に巻き込まれて
しまった。
まして武宗は大いに
仏法を破り、出家の僧尼を還俗させ、寺院を毀ち、大謗法をあえてしたので、乱を平定することもできず、ついにその罪によって病となり狂死してしまった」
唐の武宗が念仏を弘めて滅亡したことをもって考え合わせると、法然は、後鳥羽院の御時代で建仁年中の者である。後鳥羽院が承久の乱に滅びたことは
眼前の事実である。しかればすなわち、中国においては
唐の滅亡するという先例があり、わが国では朝廷が臣下に攻め滅ぼされるという証拠を顕した。汝は疑ってはならない、怪しむこともない。すべからく念仏の凶を捨てて法華の善に帰依し、災難の源を塞ぎその根をさい断すべきである。

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