さて時代は移って末代になると、人は凡愚で聖人のごとく
邪正をわきまえることができない。ゆえに僧も俗もそれぞれ迷いの道に入って、ともに成仏の直道を忘れている。悲しむべきことには、この謗法を責める者もない。痛ましいことには、いたずらに邪心を増すばかりである。ゆえに上は国王から下は土民にいたるまで、みな浄土の三部経のほかに経はなく、阿弥陀三尊の外には仏はないと思っている。
しかし、一方、伝教、義真、慈覚、智証等が
あるいは万里の波濤を渡って、中国から数多くの聖教を伝来し
当時、全国民をあげてこれを崇重した。また同じく信仰の厚い仏像を、比叡山の頂に、あるいは谷の底に僧坊を建てて安置し、崇重したのであった。ゆえに山頂の釈迦、薬師はいよいよの威光を増し谷底の虚空、地蔵の二菩薩はますます御利益を倍増してともに現当二世にわたって崇拝するところであった。
ゆえに国主は一郡、一郷を寄進して御燈明料に代え、地頭は田畠荘園を寄進して御供養申し上げた。このように比叡山の法華を中心とする天台宗は隆盛を極めたのであった。
しかるに法然の選択によって情勢は一変した。すなわち教主釈尊を忘れて西方の阿弥陀を尊びの、釈迦の付嘱を受けて天台、伝教の建立した東方の薬師如来を閣き、ただ四巻三部の浄土宗の依経をもっぱら信仰して釈迦一代の聖教を空しくなげうってしまった。このゆえに阿弥陀の堂でなければ仏を供養しようとの志を捨て、念仏の僧でなければ布施を一切施さなくなった。ゆえに仏閣は落ちぶれて、松のごとき眺めの瓦屋根も立ちのぼる煙とともに老い廃れて、僧坊は、荒廃して生い茂る庭草の
露がが深い。
このような状態になっても人々は護り惜しむの心を捨てて建立の思いもなくなった。
このゆえに住持の聖僧は去って帰らず、守護の善神は去って再び帰ることがない。これもひとえに法然の選択によって起きた禍いである。悲しいことには数十年のあいだ百千万の人が魔縁に蕩かされて多く仏教に迷ってしまったことよ。
傍偏の念仏を好み正円の法華を捨てるならば、どうして善神が怒らないでいようか、どうして
鬼が便りを得ないでいようか。
じつに彼の千万の祈りを修するよりは、この一凶たる法然の謗法を禁じなければならないのである。
続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます