2006年5/13 サントリーミュージアム天保山での「愛の旅人 シャガール展」開催を記念した講演会が海遊館ホールにて執り行われました。
当日は生憎のお天気でしたが、会場はほぼ満席の状態です。
この日の講師は神戸大学助教授の宮下規久朗先生でした。
まずは、一般の人から見たシャガールの印象について話されます。
彼の絵は、甘ったるい、ミーハー、軽く見られる傾向があります。
“シャガール”をグーグルで検索したところ、最初に出てくるのは“風俗店”ばかり。
これもシャガールが“愛の画家”と呼ばれている事に起因しているのかもしれません。
シャガールの美術史的な位置について考えたとき、一つでは表現出来ません。
まず、エコール・ド・パリの画家、それも重要な位置を占めていた人です。
また、キュビズム、シュルレアリズム、ドイツ表現主義の画家などとも呼ばれたりもします。
さらにロシア出身の画家であり、一時期ロシアで活動していた事もあるのでロシア・アバンギャルドの画家とも言われます。
シャガール芸術に影響を与えた芸術は何でしょうか?
まず、生まれ故郷ロシアの伝統芸術であるイコンやルボークが考えられます。
彼の絵に見られる、馬が空を飛んだりするといった独特のシャガール世界はルボークに由来すると言われています。
そして20世紀初頭パリでの前衛芸術活動、後半生ではレンブラントをはじめとする中世の巨匠達の作品に学んだと言われています。
シャガール芸術の主題とモチーフについて考えて見た場合、大きく5つの主題に分けられます。
「故郷」「愛」「音楽」「戦争」「宗教」です。
シャガールは初期から晩年までこれらの主題を繰り返し描いてきました。その為、彼の晩年の作品ははマンネリズムや通俗に堕ちているとの一部批判もあるようです。
ではまず「故郷」について。これを表現するモチーフとしてシャガールは生まれ故郷であるロシアの町ヴィテブスクの風景を自分の絵に取り込んでいます。
彼はロシア生まれのユダヤ人でした。本名は モイシェ・ザハロヴィッチ・シャガロフ です。
この町はロシアの寒村でユダヤ人ゲットーだったようです。その為ユダヤ風物詩的なものも多く見られ、馬。ロバ、牛、鳥など彼が作品に描く動物達も自然に見られる場所でした。
そして彼にとって第2の故郷である、パリの街。
この地でシャガールは多くの画家達と交友を深め、“キュビズム”の絵を発表していきました。
同時代の画家にパブロ・ピカソがいますが、ピカソの絵が“理知的な空間追求”だったのに対して、シャガールの絵はキュビズムに“ユーモアさ”を持たせました。
つぎに「愛」について。これを表現するモチーフとして最もふさわしいのが、シャガールの妻ベラです。
シャガールは1914年にロシアに帰郷し、翌1915年、生まれ故郷ヴィテブスクで、大金持ちの宝石商の娘であったベラと結婚、翌年には娘イダが誕生します。
このロシア時代に書かれた絵には傑作が多いとされています。
またこの頃から絵の中に天使がよく登場するようになって来ました。
その初期作品が<出現>で、画家のところに天使が寄ってくるという絵です。
これはエルグレコの書いた<受胎告知>からインスピレーションを得たのではないかと言われています。
ロシア時代にはもう一つ大きな出来事がありました。
それが1917年の《ロシア革命》です。シャガール自身、この革命により、それまで東欧世界においても虐げられていたユダヤ人の立場が改善される事を期待し、革命政府に積極的に協力するようになりました。
その一つが1919年、ヴィテブスクでの美術学校開校です。
この時期の作品として<前進>があります。
この当時の美術学校の生徒はシャガールについて「何をしても怒らない、いつもニコニコ笑っている人だった」とコメントしています。
シャガールはこの美術学校の講師として、当時、ロシアアバンギャルドのトップであったマレーヴィチを招聘します。
マレーヴィチはカンディンスキーと共にロシアの純粋抽象画家ですが、シャガール自身はそこまでの抽象にはなれませんでした。
そのため、意見対立が生じていきます。
また、革命政府幹部もシャガールの芸術を理解出来ませんでした。
革命にロバの絵は?人や動物が宙に浮き、飛んでいるのは?頭が反対を向いているのは?)
幹部にとっては奇妙で浮ついた印象に映る彼の絵は“ブルジョワ的”とみなされ革命ロシアでは受け入れられなくなって行きました。
シャガール自身も“実際に経験しないと描けない人”であったので、政府や幹部からの要請に基づいた絵を描く事は出来ませんでした。
彼の描く絵はどうしても“労働者の為”、“共産党の為”の絵にはならなかったのです。
その結果、1920年には美術学校を去り、モスクワでユダヤ芸術劇場の装飾に従事することとなりました。
そして1922年にはロシアを去ってベルリンへ移り住みます。
この時、シャガールは多くの作品をロシアに残して出てきましたので、その後、自らレプリカを描いています。
その中でも<家畜商人>の絵のレプリカはシャガール自身が生涯手元に置き飾っていたといわれています。
馬のお腹には子馬の姿が描かれ、後ろの牛はこれからと殺場へ向かうという生と死を表現した絵です。
一方、抽象画家であったマレーヴィチは政府の意向により農民の絵を描かされるようになってしまいました。
シャガールはこの他にも「愛」を表現するモチーフとして恋人、花束そして自画像を描いています。
中でも自画像の変遷は面白く、初期はより詳しく描いていましたが、晩年になるに従いその像は簡略化、イメージ化されていきました。
また、全ての作品を通じて言える事は、初期の作品はいずれも暗い色調でしたが、次第に明るく豊かな色彩に変化していきました。
後半生の作品に見られる色彩の豊かさはアンリ・マティスに並ぶとも言われています。
次に「音楽」について。これを表現するモチーフとして、楽器やそれを演奏する人物、踊り子やサーカスが採用されています。
しかしながらサーカスや旅芸人についてシャガールは『寂しい存在』とも言っており、彼らの「悲劇的な人間存在」の部分をシャガール自身の悲しみと重ね合わせた心象表現としても採用していました。
次に「戦争」について。これを表現するモチーフとして、ポグロム(東欧地域にあった旧来のユダヤ人差別や虐待習慣)、革命、磔刑を採用しています。
実際、ロシアを出た後、シャガールは再びフランスで暮らすようになり、1937年にはフランス国籍を取得するに至ります。
しかし、ナチスの影が忍び寄る1941年には妻ベラと共に迫害を逃れてアメリカに渡りました。
そこで、ロシア革命での体験に基づく教訓と理想を表現しようとした<革命>3連作や十字架をモチーフとした数多くの作品を描いて行きます。
十字架をモチーフとした作品では、戦争や革命で犠牲となった民衆や人類の苦悩を表現したばかりではなく、このアメリカ亡命中に、最愛の妻ベラを病気で失うという悲劇に見舞われたシャガール自身の内面(精神)を表現したものでもあったようです。
最後に「宗教」について。これを表現するモチーフとして旧約聖書や預言者を採用しています。
先の「戦争」とも関連するのですが、シャガールは、自身が戦争中に迫害を逃れる為に逃げ回った経験を旧約聖書の出エジプト記に重ね合わせて表現していると言われています。
第二次大戦後、フランスに戻ったシャガールは従来の絵画作品だけでなく、大型のステンドグラスや壁画などの作成にも携わるようになります。
この時期から、絵画においては先述した通り、従来から描いてきたモチーフを反復する作品ばかりを製作するようになります。画面の雰囲気もかつてと比べると緩やかなもの(ぼんやりしたもの)となり、一部の美術鹿や評論家から“大衆芸術化した”と揶揄される事となるのです。
しかしながら、シャガールのみならず、彼が師事したモネ、ルノアール、レンブラント、ティティアーノといった巨匠達の作風も、その晩年にはぼんやりした感じの絵になっています。
シャガールはあくまでも自己の内面世界、内なる自然に忠実であろうとする態度を貫き通し、そこに時には哀愁を帯びながら、私的感情を超えた“普遍的な人間愛”を志向していく画家だったのです。
だからこそ、「愛の旅人、愛の画家」と称されるのでしょう。
講演ではスライドを使用し、彼の多くの作品やシャガール美術館などを紹介されておられました。
シャガールの作品以外については殆ど知らなかったので、大変勉強になる講演でした。
掲載写真はサントリーミュージアムHPのものをお借りしました。
当日は生憎のお天気でしたが、会場はほぼ満席の状態です。
この日の講師は神戸大学助教授の宮下規久朗先生でした。
まずは、一般の人から見たシャガールの印象について話されます。
彼の絵は、甘ったるい、ミーハー、軽く見られる傾向があります。
“シャガール”をグーグルで検索したところ、最初に出てくるのは“風俗店”ばかり。
これもシャガールが“愛の画家”と呼ばれている事に起因しているのかもしれません。
シャガールの美術史的な位置について考えたとき、一つでは表現出来ません。
まず、エコール・ド・パリの画家、それも重要な位置を占めていた人です。
また、キュビズム、シュルレアリズム、ドイツ表現主義の画家などとも呼ばれたりもします。
さらにロシア出身の画家であり、一時期ロシアで活動していた事もあるのでロシア・アバンギャルドの画家とも言われます。
シャガール芸術に影響を与えた芸術は何でしょうか?
まず、生まれ故郷ロシアの伝統芸術であるイコンやルボークが考えられます。
彼の絵に見られる、馬が空を飛んだりするといった独特のシャガール世界はルボークに由来すると言われています。
そして20世紀初頭パリでの前衛芸術活動、後半生ではレンブラントをはじめとする中世の巨匠達の作品に学んだと言われています。
シャガール芸術の主題とモチーフについて考えて見た場合、大きく5つの主題に分けられます。
「故郷」「愛」「音楽」「戦争」「宗教」です。
シャガールは初期から晩年までこれらの主題を繰り返し描いてきました。その為、彼の晩年の作品ははマンネリズムや通俗に堕ちているとの一部批判もあるようです。
ではまず「故郷」について。これを表現するモチーフとしてシャガールは生まれ故郷であるロシアの町ヴィテブスクの風景を自分の絵に取り込んでいます。
彼はロシア生まれのユダヤ人でした。本名は モイシェ・ザハロヴィッチ・シャガロフ です。
この町はロシアの寒村でユダヤ人ゲットーだったようです。その為ユダヤ風物詩的なものも多く見られ、馬。ロバ、牛、鳥など彼が作品に描く動物達も自然に見られる場所でした。
そして彼にとって第2の故郷である、パリの街。
この地でシャガールは多くの画家達と交友を深め、“キュビズム”の絵を発表していきました。
同時代の画家にパブロ・ピカソがいますが、ピカソの絵が“理知的な空間追求”だったのに対して、シャガールの絵はキュビズムに“ユーモアさ”を持たせました。
つぎに「愛」について。これを表現するモチーフとして最もふさわしいのが、シャガールの妻ベラです。
シャガールは1914年にロシアに帰郷し、翌1915年、生まれ故郷ヴィテブスクで、大金持ちの宝石商の娘であったベラと結婚、翌年には娘イダが誕生します。
このロシア時代に書かれた絵には傑作が多いとされています。
またこの頃から絵の中に天使がよく登場するようになって来ました。
その初期作品が<出現>で、画家のところに天使が寄ってくるという絵です。
これはエルグレコの書いた<受胎告知>からインスピレーションを得たのではないかと言われています。
ロシア時代にはもう一つ大きな出来事がありました。
それが1917年の《ロシア革命》です。シャガール自身、この革命により、それまで東欧世界においても虐げられていたユダヤ人の立場が改善される事を期待し、革命政府に積極的に協力するようになりました。
その一つが1919年、ヴィテブスクでの美術学校開校です。
この時期の作品として<前進>があります。
この当時の美術学校の生徒はシャガールについて「何をしても怒らない、いつもニコニコ笑っている人だった」とコメントしています。
シャガールはこの美術学校の講師として、当時、ロシアアバンギャルドのトップであったマレーヴィチを招聘します。
マレーヴィチはカンディンスキーと共にロシアの純粋抽象画家ですが、シャガール自身はそこまでの抽象にはなれませんでした。
そのため、意見対立が生じていきます。
また、革命政府幹部もシャガールの芸術を理解出来ませんでした。
革命にロバの絵は?人や動物が宙に浮き、飛んでいるのは?頭が反対を向いているのは?)
幹部にとっては奇妙で浮ついた印象に映る彼の絵は“ブルジョワ的”とみなされ革命ロシアでは受け入れられなくなって行きました。
シャガール自身も“実際に経験しないと描けない人”であったので、政府や幹部からの要請に基づいた絵を描く事は出来ませんでした。
彼の描く絵はどうしても“労働者の為”、“共産党の為”の絵にはならなかったのです。
その結果、1920年には美術学校を去り、モスクワでユダヤ芸術劇場の装飾に従事することとなりました。
そして1922年にはロシアを去ってベルリンへ移り住みます。
この時、シャガールは多くの作品をロシアに残して出てきましたので、その後、自らレプリカを描いています。
その中でも<家畜商人>の絵のレプリカはシャガール自身が生涯手元に置き飾っていたといわれています。
馬のお腹には子馬の姿が描かれ、後ろの牛はこれからと殺場へ向かうという生と死を表現した絵です。
一方、抽象画家であったマレーヴィチは政府の意向により農民の絵を描かされるようになってしまいました。
シャガールはこの他にも「愛」を表現するモチーフとして恋人、花束そして自画像を描いています。
中でも自画像の変遷は面白く、初期はより詳しく描いていましたが、晩年になるに従いその像は簡略化、イメージ化されていきました。
また、全ての作品を通じて言える事は、初期の作品はいずれも暗い色調でしたが、次第に明るく豊かな色彩に変化していきました。
後半生の作品に見られる色彩の豊かさはアンリ・マティスに並ぶとも言われています。
次に「音楽」について。これを表現するモチーフとして、楽器やそれを演奏する人物、踊り子やサーカスが採用されています。
しかしながらサーカスや旅芸人についてシャガールは『寂しい存在』とも言っており、彼らの「悲劇的な人間存在」の部分をシャガール自身の悲しみと重ね合わせた心象表現としても採用していました。
次に「戦争」について。これを表現するモチーフとして、ポグロム(東欧地域にあった旧来のユダヤ人差別や虐待習慣)、革命、磔刑を採用しています。
実際、ロシアを出た後、シャガールは再びフランスで暮らすようになり、1937年にはフランス国籍を取得するに至ります。
しかし、ナチスの影が忍び寄る1941年には妻ベラと共に迫害を逃れてアメリカに渡りました。
そこで、ロシア革命での体験に基づく教訓と理想を表現しようとした<革命>3連作や十字架をモチーフとした数多くの作品を描いて行きます。
十字架をモチーフとした作品では、戦争や革命で犠牲となった民衆や人類の苦悩を表現したばかりではなく、このアメリカ亡命中に、最愛の妻ベラを病気で失うという悲劇に見舞われたシャガール自身の内面(精神)を表現したものでもあったようです。
最後に「宗教」について。これを表現するモチーフとして旧約聖書や預言者を採用しています。
先の「戦争」とも関連するのですが、シャガールは、自身が戦争中に迫害を逃れる為に逃げ回った経験を旧約聖書の出エジプト記に重ね合わせて表現していると言われています。
第二次大戦後、フランスに戻ったシャガールは従来の絵画作品だけでなく、大型のステンドグラスや壁画などの作成にも携わるようになります。
この時期から、絵画においては先述した通り、従来から描いてきたモチーフを反復する作品ばかりを製作するようになります。画面の雰囲気もかつてと比べると緩やかなもの(ぼんやりしたもの)となり、一部の美術鹿や評論家から“大衆芸術化した”と揶揄される事となるのです。
しかしながら、シャガールのみならず、彼が師事したモネ、ルノアール、レンブラント、ティティアーノといった巨匠達の作風も、その晩年にはぼんやりした感じの絵になっています。
シャガールはあくまでも自己の内面世界、内なる自然に忠実であろうとする態度を貫き通し、そこに時には哀愁を帯びながら、私的感情を超えた“普遍的な人間愛”を志向していく画家だったのです。
だからこそ、「愛の旅人、愛の画家」と称されるのでしょう。
講演ではスライドを使用し、彼の多くの作品やシャガール美術館などを紹介されておられました。
シャガールの作品以外については殆ど知らなかったので、大変勉強になる講演でした。
掲載写真はサントリーミュージアムHPのものをお借りしました。
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