年末になると必ず聞く「103万円の壁」。今年は、これの引上げが国政の目になっている。選挙で、野党に生きのいい政党が出来たから。103万円の壁は、基礎控除が48万円+給与所得控除が55万円=103万円以内なら税金がかからない。超えると所得税、社会保険料、夫の扶養から外れ、配偶者手当がなくなる。各家庭の事情により、税金、社会保険料と色々納めなければならない。だから超える事の出来ない大変な壁。
生きのいい政党は、最低賃金が30年前と比べると、1.73倍に賃上げされているのだから、103万円×1.73=178万円にするべきと、声を上げている。そして今は、「103万円からどのくらい引き上げようか」の相談になってきている。そこで、基礎控除と給与所得控除の2つの控除とは、なんの意味があるのか?今さらながら調べた。
基礎控除=最低限の生活保障額
給与所得控除=給与を稼ぐための経費(企業で言う必要経費)なのだそう。
最低限の生活保障48万円?1年間?エっ!低くないか。せめて「基礎年金額」ぐらいにはならないか?日本国憲法第25条1項(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)を実践して欲しい。
子供の頃、今度の日曜日に遊園地へ行こうと約束したのに、忘れら
れて寂しい思いをしたことがある。最初から行く気はなかったのに、せがまれてう
るさくて、返事をしただけだったと大人同士が話しているのを聞いた。悲しかっ
た。寂しかった。
こんな口約が、忘れられない思い出になっている事はありませんか。認知能力が低くなるという事は、この口約束に似ている。
今は元気で、休みを取って紅葉を見に行く事も、話題になっている催しに出向く事も、家族や友人と出かける事も気楽に計画を立てることが出来る。一人で動けないなら、連れて行ってほしいと頼み実行することが出来る。自分と関係にある人達に自分の意思を伝えられるので、口契約で十分なのだ。
しかし、自分の意思が、表現できない状態になったら、「約束をしていたのに約束が違う」と言えないのだ。子供の頃と同じ思いを繰り返すことになる。子供の頃なら、約束が破られた悲しさや寂しさを、大人となり生活してゆく何十年の時間の中で嬉しい出来事や楽しい思う出で覆いかぶせられるが、高齢者と呼ばれる今の自分は、あと何年の時間があるのだろう。最期をむかえるその時まで、ズッートと覆いかぶすことが出来ない思いでは無いのか。
任意後見契約は、自分の望む生活や最期の時の希望を具体的に書面にして、それを実行してくれる人を自分が選んで(親族や友人)その信頼できる人と、自分の思いを表現できなくなった自分の代わりに実行する約束を交わす契約である。約束は、公正証書にして登記する。口約束のとは違い、『忘れた』とか、『そんな約束守れない』とかは許されない。公正証書は、証拠となる。真剣に自分と寄り添う気持ちのある人でないといけないと約束相手の自覚が問われる。
この任意後見契約のユニークなところは、自分の認知能力が低下しない限り(認知症にならない限り)約束は実行されないことだ。生命保険のようなもの。
自分の思いを受け止めてくれる親族や友人を、自分は思い浮かべることが出来るか。
成年後見制度は、被後見人=後見人を付けられた人と後見人=被後見人の日常の生活に支障をきたさない様に財産管理や身上監護の事務行為を行う人の法律制度である。後見人には、法定後見人と任意後見人の区別がある。
➀法定後見人は、被後見人(認知能力が低下した例えば私)に『今日から、貴方の後見人です。』と『通帳は』『お金は何処に置いた』と『これからは、私が管理しますから安心して』と親切そうな笑顔でやってくる家庭裁判所から選任された人。被後見人(私)は、この人知らない『こうしなさい。こう決まったから』と指示してくる。でも、その時には被後見人(私)はこの知らない人に自分の意見や、言い返すこともできない程、認知能力がなくなっているかもしれない。訳の解らないうちに、住み慣れた家やご近所から遠く離れた見知らぬ人達の住む所へ連れていかれている。そしてその場所が被後見人(私)の終の棲家になるのだろう。親戚との付き合いがあまりない被後見人(私)の決まった老後の姿である。
②任意後見人は、まだまだハッキリ判断能力がある私が、私の認知能力が低下し自分の意思を表現できなくなった時の為に、信頼する親族または友人に、私の日常生活や財産の運用をする代理権を委任する契約を取り交わし、公的にも契約書を登記して私の認知能力が低下した時から、私が望んでいた日常生活や財産の管理を委任した親族や友人に実行してもらう人のことで、表現能力が衰え周りの人と意見が交わせなくなったとしても、医療行為や延命治療についても私の思いを理解して、私の望んだ最期をむかえられるように努力してくれる人である。
自分が死んだ後の事も、死後事務処理の契約を同じようにしておくことで、親戚や友人に自分の思いを伝えられ、安心して最期をむかえられる。
成年後見人として、後見人になった時の事ばかりを思い描く事が多いのではないか、自分に後見人が必要になった場合は、、、、。
被後見人となったら、、、、と
私は、何々です、と言えるように自分自身を振り返ってみようと思う。
ライフプランを書いてみようか。
ふと思った。自分が認知症だといつ気が付くのだろう。
・施設で働く職員さんのつぶやき
『入所者の男の人は、大きな声で「飯はまだか!」ばかり、聞いているのが嫌になる。』
『そうそう、やたらいばっている人多いね。』
『女の人は、にこにこ笑っているか、ブツブツ文句言っているか、、。』
高度成長期にガムシャラに働き、家庭の主で『俺に従え。俺が養っている。』そんな男が強い時代、女性は職場の花と若さに価値があった時代。そんな昭和を生きてきた人達。現場の職員には、扱い安いおばあちゃんと扱いにくいおじいちゃん。
▪ノーマライゼーション 自己決定の尊重
2000年に成年後見人制度が、明治時代に定められた禁治産者法を改正して施行された。それまでの家の財産を守るためのものから、個人の権利を尊重しその人らしい生き方を支援する法律になった。法律は、変わったが人間はそう簡単に変われない。上と下。今より人間関係が太く強かった時代にどれだけ周りに気を使い、勝ち組・負け組と戦った事か。そんな人達の思いを、『飯はまだか!』としか言えない人の思いを、今の職員は理解ができるのか。理解が出来たとしても心で受け止められるのか。扱いやすい年寄りには、やさしくする。取扱いにくい年寄りには、少し距離を置く。
・認知症を発症する前に 年寄りも自己防衛を
ただガムシャラにみんなより良い生活をする事、流れのままに働いてきたから、仕事以外の話が苦手な年よりだから、頭が、ハッキリしているうちに自分を振り返ってみると良い。そしてノートに書いておこう。そうしたら、『飯はまだか!』の言葉以外、沢山の言葉が認知力が劣ろいても口から出て来ると思う。