子供の頃、今度の日曜日に遊園地へ行こうと約束したのに、忘れら
れて寂しい思いをしたことがある。最初から行く気はなかったのに、せがまれてう
るさくて、返事をしただけだったと大人同士が話しているのを聞いた。悲しかっ
た。寂しかった。
こんな口約が、忘れられない思い出になっている事はありませんか。認知能力が低くなるという事は、この口約束に似ている。
今は元気で、休みを取って紅葉を見に行く事も、話題になっている催しに出向く事も、家族や友人と出かける事も気楽に計画を立てることが出来る。一人で動けないなら、連れて行ってほしいと頼み実行することが出来る。自分と関係にある人達に自分の意思を伝えられるので、口契約で十分なのだ。
しかし、自分の意思が、表現できない状態になったら、「約束をしていたのに約束が違う」と言えないのだ。子供の頃と同じ思いを繰り返すことになる。子供の頃なら、約束が破られた悲しさや寂しさを、大人となり生活してゆく何十年の時間の中で嬉しい出来事や楽しい思う出で覆いかぶせられるが、高齢者と呼ばれる今の自分は、あと何年の時間があるのだろう。最期をむかえるその時まで、ズッートと覆いかぶすことが出来ない思いでは無いのか。
任意後見契約は、自分の望む生活や最期の時の希望を具体的に書面にして、それを実行してくれる人を自分が選んで(親族や友人)その信頼できる人と、自分の思いを表現できなくなった自分の代わりに実行する約束を交わす契約である。約束は、公正証書にして登記する。口約束のとは違い、『忘れた』とか、『そんな約束守れない』とかは許されない。公正証書は、証拠となる。真剣に自分と寄り添う気持ちのある人でないといけないと約束相手の自覚が問われる。
この任意後見契約のユニークなところは、自分の認知能力が低下しない限り(認知症にならない限り)約束は実行されないことだ。生命保険のようなもの。
自分の思いを受け止めてくれる親族や友人を、自分は思い浮かべることが出来るか。