□本日落語一席。
◆桂雀々「遺言」※作:小佐田定雄(衛星劇場『衛星落語招待席』)。
東京日本橋公会堂(日本橋劇場)、令和2(2020)年9月6日(「型破り落語会 落語まちね」)。
この落語の主人公吉松は、東京でくらしていて、父親の体調が悪いということを家主から手紙で連絡をもらったと言う。そして、帰って来たら、すでに父親は死んでいた……と、どうやらそういうことらしい。「らしい」というのは、手紙をもらったことと、父親が死ぬまでの経緯があまりていねいに語られていなかったので、若干想像で埋めるしかない。つまり、吉松は父親の死に目に会えなかったということだけはわかる。
このあたり、時代はいつなのだろうと考えさせられてしまう。こういった、いささか緊急を要する連絡でも手紙を使うしかなかったという時代のようである。電報という手段さえもなかった時代の噺なのか、それとも、家主は、吉松の父親の容態が、死に至るほどのものではなかったから、手紙だけですませたのか。
しかし、容態が急変したときはどうだったのか、もう吉松が東京を発ってしまったあとで、電報という手段がかりにあったとしても、それを使うことができなかった情況だったのか。
吉松は吉松で、父親から生前手紙をもらっていて、そこに「伝えたいことがある」と書いていたので、それがこの落語の演題「遺言」ということになっている。
その父親の「遺言」を聞き出すべく、吉松は、親類まわりをする。玉造の叔(伯)母、川口の叔(伯)父、住吉の叔(伯)父と、吉松は大阪中を駆けまわる。
ここも、時代ということなのだろう、吉松は何も乗物といったものを使わずに、自分の足で玉造~川口~住吉と移動している。あいだの川口は、大阪にもう四十二年住んでいるが、あまりなじみがない。西区にある地名のようだ。西区あたりはそもそもほとんど行くことがない。
でも、玉造と住吉ならよくわかるから、直線的な移動で、玉造から住吉まで徒歩で行くとしてもそうとうなものだというのはよくわかる。そこに川口を経由するわけだから、吉松は健脚だ。というか、時代がわからないけれど、その時代の人がみな健脚だったということなのか。
てなことで、時代背景がよくわからぬまま聞き終えた一席であった。まあ、落語の筋としては、どこであったのかなどあまり関係ないとは言えるけど。
実のところ、この落語は2018年に一度聞いている。ちょっと調べてみると、2001年にはすでにこれが演じられているようだから、そうとう昔に小佐田定雄が作った落語のようである。
◆桂雀々「遺言」※作:小佐田定雄(衛星劇場『衛星落語招待席』)。
東京日本橋公会堂(日本橋劇場)、令和2(2020)年9月6日(「型破り落語会 落語まちね」)。
この落語の主人公吉松は、東京でくらしていて、父親の体調が悪いということを家主から手紙で連絡をもらったと言う。そして、帰って来たら、すでに父親は死んでいた……と、どうやらそういうことらしい。「らしい」というのは、手紙をもらったことと、父親が死ぬまでの経緯があまりていねいに語られていなかったので、若干想像で埋めるしかない。つまり、吉松は父親の死に目に会えなかったということだけはわかる。
このあたり、時代はいつなのだろうと考えさせられてしまう。こういった、いささか緊急を要する連絡でも手紙を使うしかなかったという時代のようである。電報という手段さえもなかった時代の噺なのか、それとも、家主は、吉松の父親の容態が、死に至るほどのものではなかったから、手紙だけですませたのか。
しかし、容態が急変したときはどうだったのか、もう吉松が東京を発ってしまったあとで、電報という手段がかりにあったとしても、それを使うことができなかった情況だったのか。
吉松は吉松で、父親から生前手紙をもらっていて、そこに「伝えたいことがある」と書いていたので、それがこの落語の演題「遺言」ということになっている。
その父親の「遺言」を聞き出すべく、吉松は、親類まわりをする。玉造の叔(伯)母、川口の叔(伯)父、住吉の叔(伯)父と、吉松は大阪中を駆けまわる。
ここも、時代ということなのだろう、吉松は何も乗物といったものを使わずに、自分の足で玉造~川口~住吉と移動している。あいだの川口は、大阪にもう四十二年住んでいるが、あまりなじみがない。西区にある地名のようだ。西区あたりはそもそもほとんど行くことがない。
でも、玉造と住吉ならよくわかるから、直線的な移動で、玉造から住吉まで徒歩で行くとしてもそうとうなものだというのはよくわかる。そこに川口を経由するわけだから、吉松は健脚だ。というか、時代がわからないけれど、その時代の人がみな健脚だったということなのか。
てなことで、時代背景がよくわからぬまま聞き終えた一席であった。まあ、落語の筋としては、どこであったのかなどあまり関係ないとは言えるけど。
実のところ、この落語は2018年に一度聞いている。ちょっと調べてみると、2001年にはすでにこれが演じられているようだから、そうとう昔に小佐田定雄が作った落語のようである。