増田カイロプラクティック【読書三昧】

増田カイロプラクティックセンターのスタッフ全員による読書三昧。
ダントツで院長増田裕DCの読書量が多いです…。

短詩形文学はなぜ日本文学の中心なのか

2008-04-16 19:00:21 | 増田裕 DC
日本史七つの謎 (講談社文庫)
松本 清張,佐原 真,大岡 信,門脇 禎二,丸谷 才一
講談社

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本書の第2章で、「短詩形文学はなぜ日本文学の中心なのか―」をめぐり、丸谷才一(作家)、大岡信(詩人)、山崎正和(劇作家)の三氏の鼎談が行なわれている(初出1992年)。
主な点を整理してみよう。
―日本において、短歌、俳句、川柳などの短詩の占める特別な位置を物語る2つの例がある。第1に、新聞、雑誌などの大衆的メディアへの投稿欄の隆盛がある。第2は、新年の歌会始。天皇という国家の象徴が半ば公的な行事として国民から詩を募集する。
―一般の庶民が近しい人に子供が生まれたと聞いて、お祝いに俳句を添えたり、死ぬときに辞世の歌を詠んだりする。辞世は元々中国から来たものだが、中国では廃れたが、日本では社会的に定着した。滑稽な俳諧や川柳には死ぬと思って辞世の句をつくったら、生き返ってしまった類もある。朝日新聞の「折々のうた」も好評である。それに百人一首。これは古典鑑賞とスポーツを兼ねている。文学では、石川啄木、斉藤茂吉、高浜虚子の位置は高い。最近では、俵万智といった女流歌人も生まれている。
―日本の文学は万葉の時代から短詩形文学であった。柿本人麻呂がこの文学形式を一新する。従来の歌われる時代から文字で書かれる時代への大転換を行なう。人麻呂は短歌の名人だった。長歌の後に短歌を付けて、その短歌により長歌の内容を抒情的に統一する形式を採用した。結果的に、長歌と短歌の両方の名人が、長歌を亡ぼす形となった。
―短歌は文学であると同時に、恋愛の必需品だった。とくに、女は男の拒否する口実の理由にも使われた。男を見極める手段でもあった。宮廷生活を送る上で自分の才能を示す場でもある。お祝い事のときに当意即妙に歌を作る。この能力のことは大和魂と呼ばれた。機転を利かす意味である。平安時代の初めから応仁の乱まで、21の勅撰集が編纂された。少なくとも最初の8の勅撰集は日本全体の美意識や生活規範となった。勅撰集は歴史的には中国が最初であるが、中国では廃れたが、日本で息長く続いた。安部貞任が反乱を起こすが、歌を知っていたので、源義家は貞任の命を救う。細川幽斎も古今伝授を知っていたので、命が助かる。これは歌の魔力である。
―鎌倉、室町の頃は貴族も武士も連歌をして遊んだ。江戸になると、俳諧の連句と発句が武士、庶民の教養、遊戯として広がる。芭蕉、蕪村などの名作集が生まれた。和歌が鎌倉時代に行き詰まりに来ていたので、連歌はそれを打開したものだった。時代が乱世になると、それに応じて、連歌が興隆した。
―ドイツの20世紀の文芸者、エミール・シュタイガーは人間の生きる姿勢を抒情的、叙事的、劇的の3つに分けた。抒情的とは世界を過去の思い出として感受する態度。叙事的とは現在の展望。過去は自分の内部に凝縮していて、広がりはない。一瞬の記憶の蘇りである。とくに、日本の俳諧は一瞬が永遠という考え方をとる。そのために、助詞、助動詞の働きが大切である。それに七五調の形式がある。この七五調のせいで短詩形文学が成立している。日本語は全部2音節ごとにまとまる性癖がある(たとえば、本書ではガラス戸の場合、「ガラス・戸」とは言わないで、「ガラ・ス戸」と発音する。また、「しらぬ・い」(不知火)ではなく、「しら・ぬい」と発音する。私の経験では、「ドン・キホーテ」ではなく、「ドンキ・ホーテ」となる)。そこで2組の2音を1音で止める。これで5音になる。2音を3回繰り返すと1音で止めれば7音になる。詩は口で唱えるので、息を継ぐ必要がある。一息ですーっと言って、1拍2拍置いて次にすーっといって一息で言えて終わる。これに七五調が合う。七五調は奇数の詩形である。奇数は安定している。というのは、その後に沈黙があるためだ。それを入れると偶数になる。偶数は音楽として非常に座りがよい。
―俳句は、人生論はやらない。人生の断片をさっと捉える。後は周りも暗示する空間を残す。それに対し、長歌は論を立てる。死んだ人に捧げる挽歌が典型だが、その人の生前の業績をずっと連ねる。その讃辞が終わった後、おもむろに短歌形式で「何という悲しいことだろう!」と言う。前半の散文の精神と後半の抒情精神とが合体して見事な空間ができる。長歌の伝統が続いておれば、日本にも長編小説がもっと生まれただろう。能理論を樹立した世阿弥は人生のリズムは序破急であると述べた。この急に当たるのが短詩形である。
―短詩形文学は生活の記録の性格が強い。日記代わり。生活と芸術が未分化な状態である。勅撰集の歌の様式では、こうした自分の喜びや悲しみを歌えない。そこに、正岡子規の短歌の改革があった。その理論は「写生」であった。俳諧の発生過程は和歌に対する一種の反逆であった。
―生活と芸術の未分化な状態とは社交の領域である。短歌や俳句には贈答歌が多い。辞世の歌も一種の贈答歌である。歌には呪術性があるが、これは社交的な呪術性である。日本の神様は社交の対象である。社交だから供えたり機嫌をとったりする。社交では粋が好ましく、場違い(野暮)が嫌われる。融通や機転が賞揚された。男女の関係も男神と女神とのやり取りとなり、その表現は神の言葉、和歌になった。
―日本の近代文学は伝統的な短歌形文学の特質を生かして、長編小説の分野でも、その気分を繋げることができる。非合理的な運びであるものの、そうした可能性がある。

本書はこのほか、「大化の改新は本当にあったのか」、「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」、「織田、豊臣、徳川がなぜ天下をとれたのか」、「薩長はなぜ徳川幕府を倒せたか」、「太平洋戦争はなぜ始まったのか」、「高度成長はなぜ可能だったか」が別の論者による鼎談形式で論じられている。

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