雑談歴史と人物 (1976年)山崎 正和,丸谷 才一中央公論社このアイテムの詳細を見る |
本書は丸谷才一と山崎正和などとの対談集である。この中の「鴎外と山頭火のあいだ」にバロック的人間像についての話が出てくる。
山崎:平賀源内は世界の中心が見えないから、ひじょうに生き生きと関心が拡散してゆく。自然科学をやったり「神霊矢口渡」を書いたり、政治に興味を持って田沼意次に近づいたりするけれども、それを押しとおして行くだけの意欲はない。中心的なものがない。(略)
丸谷:平賀源内のほかにどういう人がいますか?
山崎:近代では、森鴎外もそういう人だったと思います。彼の有名な「なかじきり」という文章のなかで、自分は終生ディレッタントで、哲学をやって哲学者にならず、歴史をやって歴史家にならず、小説を書いて小説家にならず、すべて仕事との関わりは偶然である。自分はたまたま田園にあったが故に耕したにすぎない、と言っている。そう言っておいてあれだけ大量に仕事をするわけですよ。
近世では近松門左衛門がそうですね。あの人の遺言を見ると、鴎外の「なかじきり」と同じことを言っている。自分は武士の家に生まれて武士ではない。公卿の家に仕えたが公卿でもない。町人になって商売を知らず、隠遁者に似て隠遁者ではなく、東西古今のことに好奇心をもって、やたらに書き散らしたけれど、死に際に言うべき真の一大事は遂になし、というわけです。この意識は一種のニヒリズムなんですけれども、それでいて、実は健康に現実に好奇心を抱いて、どんどん仕事をすするわけです。
丸谷:お話をうかがっていて、折口信夫もそうだったんではないかと思ったんです。彼は学者と交わっては、おまえは文士であって学者ではないと言われ、歌人の群と交わっては学者と言われ、小説を書くと小説家ではないと言われ、国語学的な仕事も、あれは国語学ではないと言われる。それで、自分は何であるのかと言う疑惑がつきまとっておいたんじゃないかという感じがします。作品にしても未定稿で、完結した形のものではなく、弟子たちの整理に委ねるという形が多いですからね。
山崎:吉田兼好もそうですね。「徒然草」はなんのまとまりもない書きっぱなしだし、坊さんとしても偉くない。歌も大家になれなかったし、有職故事の専門家というけれども、これはいわば雑学ですからね。南北朝という旧時代と新時代の間にはさまったどっちつかずの時代で、そのなかでつまるところ王朝的な美の世界から、木登りの名人の話にまで拡散して、ついに「つれづれなつままに」物狂おしくなってくる。
丸谷:(略)林達夫さんの文章のなかに、しょっちゅう私は何であるかということが出てくる。私は批評家であるとか、私は歴史家であるとか、私は哲学者としては途中で失敗した男であるとか、私はアマチュアであるとか、そういう自己限定をしようとして、それをはぐらかすということが多い。ぼくはかつてそれの六つか七つ引用してから、林達夫論を始めたことがあるうんですけどね。そして林という批評家は自分のそういう自己疑惑をいつも刺激に使って仕事を進めてゆく。つまり、バロック的人間が生きるのに、いちばん適している商売はなにかというと批評家なんですね。
山崎:兼好も批評家だったし、ジャーナリストだった。
丸谷:そう。自分の関心の対象が広範囲に生きて拡散してゆくことを決して恥ずかしがらないで逆にそれを利用する型の人間なんですな。だから批評家は最高のジャーナリストでなければならないという意味で、バロック的人間は批評家的人間といえる。
これを読んで、我田引水的に言えば、私もバロック的人間に違いない。