ごろにゃん御殿からの便り。

猫と写真と映画と読書とハンドメイドのある暮らし。

ふーちゃん。

2010-02-08 | 


ふーちゃん

うちのテレビは、アナログの四角い箱テレビ。
ふーちゃんは、いつも上にのっかって、つめとぎしてた。
金属(?)の枠なのに、ふーちゃんの、つめあとで、でこぼこ。
すごいな。猫のつめとよく思ってたが、もうあの上でゴリゴリする姿はない。
ふーちゃんのこと大好きだったの、いなくなってから知った。

写真、あましとってなかったなあ。

長毛猫さまの災難

2010-02-06 | 


ふわふわの長い毛のこの子は、美しいのだが、毛玉が、ごろごろできるのが、悲劇。

性格やさしく静かでおとなしいよい子なのだが、毛をとかされるのが、大嫌い。
んでついつい億劫で、放置していると、自家製作毛玉アクセサリーをぶらさげて歩く。

表は目につくけど、腹部がめだたず、時々さわるとガッチリ毛玉で、かためている。

これは始末わるい。
ハサミできりたくても、どこまで肉かわかりかねないので、うかつに切れないし、当人いやがってバタバタあばれるし。

おなかの毛は、背中の毛より、さらにふわふわやわらか。

長毛猫は、気の毒で、かわいそう。




猫さまとは、なんのゆかりもない、銀座の街。



銀座。



風邪を引き、毎日ねむたい。
風邪でなくても眠たいけど。

広角レンズ欲しくて、15ミリの短小点レンズ購入。
なかなか外で写せないのだけど、広角は難しいや。
つまんない写真しかとれん。

望遠マクロが欲しいけどな。
重たいのは、ダメなので、軽く小型のやつ。
そして安価で・・・。
ないか。そんなレンズ。


っていくらレンズよくても、写真には、センスと感性と腕が問題だな。とほほ。

「虹の橋」伝説(?)

2010-01-27 | 


「虹の橋」
検索するといろいろ出てくるが、

虹の橋(リンク先なくしてしまった)

内容的には、同じだけど、これがよかったかな。
ひとさまの記事なので引用は、さしひかえるが(といいつつ引用している。)、原詩は、外国語のようで、ネットで世界中に、動物愛護者に語りつがれているようである。

ペットロスの人々の気持ちを穏やかにするために、どこかの誰かがつくったものらしい。

いやー、ほんとにこういう橋がある世界あるとよいねえ。

ふーちゃんなくしたあと、こんなの読むと涙とまらん。

なんとか二郎(ぽっぽやの作家)のなんとかいう小説に、人間世界のこーいうのがあったなあと思いだした。(なんとかでは、わからんがな。←みなさま。)

ペットの「虹の橋」は、みなしなわせに、主人を待って過ごすのだが、二郎の小説では、天国(地獄もか)へいく前に、集合場所があり、下界で思い残したひとが、姿かえてもどり、思いを決着するというはなしだ。
映画になったのをみたのだが。

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「虹の橋」と「雨ふり地区」

天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
この地上にいる誰かと愛しあっていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。
そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
食べ物も水もたっぷりあって、お日さまはふりそそぎ、
みんな暖かくて幸せなのです。

病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、
傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、
元のからだを取り戻すのです。
…まるで過ぎた日の夢のように。

みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんが
ここにいない寂しさのこと…。

動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
でも、ある日・・その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに震えはじめます。

突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。
速く、それは速く、飛ぶように。
あなたを見つけたのです。
あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。
そしてもう二度と離れたりはしないのです。

幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、
あなたの両手は愛する友を優しく愛撫します。
そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
あなたの人生から長い間失われていたけれど、
その心からは一日も消えたことのなかったその瞳を。

それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです…。

けれど、動物たちの中には、様子の違う子もいます。
打ちのめされ、飢え、苦しみ、
誰にも愛されることのなかった子たちです。
仲間たちが1匹また1匹と、それぞれの特別な誰かさんと再会し、
橋を渡っていくのを、うらやましげに眺めているのです。
この子たちには、特別な誰かさんなどいないのです。
地上にある間、そんな人は現れなかったのです。

でもある日、彼らが遊んでいると、橋へと続く道の傍らに、
誰かが立っているのに気づきます。
その人は、そこに繰り広げられる再会を、
うらやましげに眺めているのです。
生きている間、彼は動物と暮したことがありませんでした。
そして彼は、打ちのめされ、飢え、苦しみ、
誰にも愛されなかったのです。

ぽつんとたたずむ彼に、愛されたことのない動物が近づいていきます。
どうして彼はひとりぼっちなんだろうと、不思議に思って。

そうして、愛されたことのない者同士が近づくと、
そこに奇跡が生まれるのです。
そう、彼らは一緒になるべくして生まれたのでした。
地上では巡りあうことができなかった、
特別な誰かさんと、その愛する友として。

今ついに、この「虹の橋」のたもとで、ふたつの魂は出会い、
苦痛も悲しみも消えて、友は一緒になるのです。

彼らは共に「虹の橋」を渡って行き、二度と別れることはないのです。


こんな風に、幸せと愛の奇跡に満ちている、「虹の橋」の入り口に、
「雨降り地区」と呼ばれる場所があります。
そこではいつもシトシトと冷たい雨が降り、動物達は寒さに震え、
悲しみに打ちひしがれています。
そう、ここに降る雨は、残して来てしまった誰かさん、
特別な誰かさんの流す涙なのです。

大抵の子は半年もしないうちに、暖かい日差しの中に駆け出して、
仲間と戯れ、遊び、楽しく暮らす事ができます。
ほんの少しの寂しさと、物足りなさを感じながらも…。

でも、1年経っても2年経っても、ずっと「雨降り地区」から、
出て行かない子達もいるのです。

地上に残して来てしまった、特別な誰かさんがずっと悲しんでいるので、
とてもじゃないけれど、みんなと楽しく遊ぶ気になれないのです。
地上に残して来た誰かさんと同じ辛い想いをして、
同じ悲しみに凍えているのです。

死は全てを奪い去ってしまうものではありません。
同じ時を過ごし、同じ楽しみを分かち合い、愛し合った記憶は、
あなたの心から、永遠に消え去る事はないのです。
地上にいる特別な誰かさん達の、幸せと愛に満ちた想い出こそが、
「虹の橋」を創りあげているのです。

ですからどうか、別れの悲しみにだけ囚われないでください。
彼らはあなたを幸せにする為に、神様からつかわされたのです。
そして、何よりも大事な事を、伝えにやって来たのです。

命の儚さと愛しさを。
束の間の温もりに感じる、慈悲の心の尊さを。

その短い生涯の全てを以って、教えてくれるのです。
癒える事のない悲しみだけを、残しに来るのではありません。

思い出してください。

動物達が残して行ってくれた、形にも、言葉にもできない、様々な宝物を。

それでも悲しくなったら、目を閉じてみてください。
「虹の橋」にいる、彼らの姿が見えるはずです。

信じる心のその中に、必ずその場所はあるのですから…。


(作者不詳)

開業獣医の独り言 より転載させていただきました


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どこかのblogから、引用。
りんく先、みつからないので、全文引用。


猫介護の日々

2010-01-21 | 

銀座
ブランド店のショーウインド(店名は記憶なし)



ふーちゃん
ほんの1カ月くらい前か。このあと、足もたたなくなるなんて予感もなかった。



豪華にゃんこお好みボックス


先週の土曜退院してきたフーチャン。
入院した頃は、足腰はたっていたが、入院中、立たなくなる。
13日ほど病院のケージ部屋にいたのが、かわいそうだったなあと自宅ベットにねかせながら思う。

ごはん食べないので、無理に口をあけて投入するのが大変で、なかなか沢山食べさせられず苦労。
でも、少しながらうんちはする。
おしっこは、ペットシーツに。
動けないので、ずれることもなく処理は楽だが。

褥瘡防止に、ちょくちょく寝返りさせる。
手足の筋肉おちないように、ひっぱったり。
やせて、いたいたしい。

このままの状態では、いずれ天国への階段のぼりそう。
原因不明といわれ、回復はできないと言われたので、あきらめかけたが、
別の病院へつれていってみようかとネットでみてた。
タクシーで数分(?)のところに、見つけたので、明日にでもつれていこうかと思う。

そこは祭日もやっていた。
残念!!
年末年始につれていけたのに。
なんで探さなかったのだろう?

ふーの看護で、父の見舞いにもいけず、そっちもきになる。

しかし、ふー再入院になるとかわいそうだなあ。
病院のケージ部屋は、なんといってもかわいそう。





徳川家の墓地

2010-01-17 | 


ほんの少し前まで、どっしり構えていたふーちゃんなのに。
死んだらやだなあ。

本日退院。
予後わるし。

ちょっとしか食べないので、かんづめあけて、ちょこちょこあげてる。
あまりは、みんなにまわるので、よいのだが。






ふーちゃんとは、なんら関係ない、徳川家の墓地のへいの入り口。
ふだん中は、はいれない。
期間つきではいれる時期もあるが、はいったことはない。




もんについてる紋どころのようだ。
知らないけど。

墓にまで門をつけるとは、ふざけてる。
敷地もかなり広い予感。
いつか入ってみたいが・・・・。

※わくつけるとはみだすな。

昨年10月のふーちゃん

2010-01-14 | 


様子みにいきたいが、何やかやヤブ用で、なかなかいけない。
またこんな日きてほしい。



ごはんあまり食べないようだ。

父も嘔吐がつづいているようで、そろそろ危ないのか?などといやな予感が。
葬式は、もう嫌だなあ。
明日、両方まわれればよいが。

猫と父。

寒すぎる。

2010-01-13 | 



世界で一番うつくし美猫美談猫プリテイ猫ビューテイ猫チャーム猫(←くどい!!)シリーズ


都内どっかで雪ふってるらしい。
大都会一党地 (嘘つけ)のここは、振ってねい。
でも寒い。
外猫さまがた、寒いだろうなー。
ほーむれすの方々も寒いだろーな。
うちの中にいても寒いのだから。

★本日のシネマ
「ファーストフード ネーション」

これは、ファーストフードの材料の牛肉にフンが混ざっているというので、視察にいく話からはじまり、巨大牛肉工場へ視察にいき、工場内部もでてくるが、前にみた「命をたべること」にも、一部でていた牛を殺害して肉にするシーンが、にたよーな様子ででてきて、残忍。

視察にいく社員(?)が、くわしく実態をみるわけではなく、内部は、それとは無関係(?)に、描写されているのだが、牛がかわいく、無邪気な顔をしているだけに、いくら仕事とはいえ、金のためとはいえ、あんなことよくできる・・・・。

仕事がなく貧しいメキシコの人々をやとっているようなのだが、弱みにつけこんで、残忍な仕事をさせて、ボロもうけしてるのだ。


喜んでたべる人間もわるい。
あんなものはたべるべきではない。
狂牛病がでるのも、当たり前だ。

人間は、牛から恵みのお肉をいただくのなら、せめて生きているときは、大自然の中で、のびのび幸せにすごさせてやるべき。
そのため、牛肉が高くなっても仕方ない。
牛は、皮革にもされるし、人間にとっては、すばらしいが、気の毒な生物。

「いのちを食べること」のシネマでは、雄牛は、メスに妊娠させるためにだけ、ならばせられて人工的に、むりやり交尾させてた。










こんなかわいい子はいない。

2009-11-15 | 


美味豪華高給ごちそうに目をつけたかわいい子。
さすがみる目があるね。



スープ系は、砂かけして去る。

なによ。
しとのご馳走、ゴミ扱いかよ?


もう日曜日が、とっとと逃げていくとこ。

午後おきたら、元相撲取り「子に敷き」のドキュメンタリーをやってた。
現役時代から、あまりの肥満に、気の毒な姿だったが、退役軍人 ちゃう相撲とり後は、減量したらしい。
でも皮膚は、肥満時代のまま、減らないので、垂れ下がり重たそうで苦しそうなのは、相変わらず。

それをカットする手術をするまでのドキュメンタリー。

相撲取りって、人間をブタのように食わせて太らせて、戦わすというくだらない協議(相撲ファンには、反感くうセリフだが)だが、私はつねづね、ひとに対する憎しみと反感と蔑みと嫉妬と侮蔑と復習と虐待の心理がそこにある気がしている。←考えすぎ。

肥満は、健康に悪いと今では常識になってることを、相撲とりは、課せられている。

闘牛、闘犬、闘鳥(にわとりを戦わすやつは何て?)に、そっくり。←どこが?

スポーツは、大体において肉体の限界挑戦みたいな酷使をせねばならないフシがあるが。フシではなく、現実か。

小錦は言う。

「ずっと自分のためではなく、家族(故郷の親兄弟一族のようだ)を養うために、相撲をしてきて、太らねばならなかったが、今回は、家族のためでなく、自分の健康のために、手術をしたい。」

いくら太っても、その道の才能や能力がないと、意味ないのではあるが。

しかし、美人の奥さんだな。

猫です。

2009-11-09 | 


ゴージャスな猫ボックス(ふとんから剥がした布が敷きつめられてる。)でくつろぐ幸せで恵まれたうちの猫たち。猫たちの顔が、幸せに満ちあふれてるね。←顔みえないけどね。←みなさま。

今日は、酒井法子の裁判判決をみようと、朝から行列の方々を、テレビで写してる。
よく朝から、そんなものみるため、並ぶなあ。

しかも、クジなので当たるかどうか、わからない。
自分も野次馬だが、並んで待ってまで、みる気は一切おきない。



何もネタがないので書いてみた。