「救い」「救われる」 不思議な言葉ですね。
集会に集い始めた頃から この言葉に戸惑いを覚えました。
聖書入門COM/キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。
・・・・・・・・・・・「救われる」という言葉を物理的な意味で捉えれば、とりあえず健康で、経済的にも困っていなければ、自力で生きていけるわけですから、救いの必要性は感じないわけです。・・・・・・・・・・・・・・・・・ところで、冒頭の質問では、より根源的な意味で「救われる」という言葉を使っています。つまり、魂の救いに係る質問だということです。私は大学時代に教会に通い始めましたが、その理由は、人生に不安を感じていたからです。人は死んだらどうなるのか、その先に命はあるのか、罪に対する裁きはあるのか、天国や地獄はあるのか、などなど、頭の中には「根源的な問い」が一杯ありました。物理的には救いの必要性をさほど感じてはいませんでしたが、精神的には確固たる何かを求めていたのです。
聖書は、以上の2つの意味での「救い」について語っていますが、より頻繁に出てくるのは、後者の「根源的救い、永遠の救い、魂の救い」の方です。その場合の「救われる」とは、「神の怒り」から解放されることです。聖書を読まなくても、私たち人間の心には罪責感というものがあります。箴言28章1節に「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」とあります。実に興味深い言葉です。
①悪者は、本能的な恐れを感じて、いつも精神的には逃げ回っています。
②それに対して、正しい人は若獅子のように力に満ちています。この「正しい人」を「救われた人」と考えれば、この聖句の意味はよく理解できます。・・・・・・・・・・・・・・・・「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができています。罪は私たちに、「神との分離」と「死」をもたらしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
--------------------------------------------
上記の罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができていますという言葉で思い出すのは 初めてベック兄(宣教師)と1:1でお交わりをした時の話です。
ベック兄は 箱のような物?本?を テーブルに立てて 向こうからティッシュを丸めた物を投げました。しかし丸めたティッシュは箱にぶつかり 反対側には行けません。ベック兄は 箱のこちらが人間で あちらが神様だと。罪という壁があるので、人間は壁の向こうの神様に近づけないと。
その後で 「あなたの罪は許されています」とベック兄がおっしゃいました。特に人生での出来事を話した訳ではないし 私が何かに罪悪感を抱いていると話した訳ではありませんが…… その時 私の中に 思い出される苦しい事がありました。ベック兄とこのお話をする13~14年位前の事なのですが……。
私はほっとしました。私の目から大粒の涙がボロボロこぼれました。
-------------------------------------------
ベック兄ではない兄弟がメッセージされる家庭集会には 何度か集った事がありました。キリスト集会では 家庭集会では「今日 初めて集われた方」と聞いて 挙手すると一言挨拶を求められます。急に振られるので どきどきしますが。
ベック兄のメッセージを初めて聴いた家庭集会は 春日部の吉田兄姉宅、しかも改築される前のお宅でした。部屋だけでなく 廊下にも 階段にも 2階にも 人が溢れていてびっくりしました。私と連れて行ってくださった姉妹は キッチンに座りました。メッセージのお話は何も覚えていませんが…。
メッセージが終わると 初めて集った人とベック兄とのお交わりがあると言われましたが、初めて会った 大きな外国人男性と2人だけで2階にあがり 「お交わり?」という一般社会ではあまり良い意味ではない言葉に不安を覚えました。恐る恐るベックさんについて行きましたが……。
-------------------------------------------------------
メーリングリストの管理をして下さっている大阪のよっちゃん兄は
聖書マラソンを毎日投稿し 最後にお祈りをひとこと載せます。
何気ない言葉たちですが すっと入ってくることがあります。
同じ言葉なのに ある日はthrough ある日はぐっと…不思議ですね。
自分側の何かが そうさせるのですね。
ある日のよっちゃん兄のお祈り
きょうも、イエス様を見上げて
赦された喜びいっぱいに
歩ませてください。
集会に集い始めた頃から この言葉に戸惑いを覚えました。
聖書入門COM/キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。
・・・・・・・・・・・「救われる」という言葉を物理的な意味で捉えれば、とりあえず健康で、経済的にも困っていなければ、自力で生きていけるわけですから、救いの必要性は感じないわけです。・・・・・・・・・・・・・・・・・ところで、冒頭の質問では、より根源的な意味で「救われる」という言葉を使っています。つまり、魂の救いに係る質問だということです。私は大学時代に教会に通い始めましたが、その理由は、人生に不安を感じていたからです。人は死んだらどうなるのか、その先に命はあるのか、罪に対する裁きはあるのか、天国や地獄はあるのか、などなど、頭の中には「根源的な問い」が一杯ありました。物理的には救いの必要性をさほど感じてはいませんでしたが、精神的には確固たる何かを求めていたのです。
聖書は、以上の2つの意味での「救い」について語っていますが、より頻繁に出てくるのは、後者の「根源的救い、永遠の救い、魂の救い」の方です。その場合の「救われる」とは、「神の怒り」から解放されることです。聖書を読まなくても、私たち人間の心には罪責感というものがあります。箴言28章1節に「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」とあります。実に興味深い言葉です。
①悪者は、本能的な恐れを感じて、いつも精神的には逃げ回っています。
②それに対して、正しい人は若獅子のように力に満ちています。この「正しい人」を「救われた人」と考えれば、この聖句の意味はよく理解できます。・・・・・・・・・・・・・・・・「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができています。罪は私たちに、「神との分離」と「死」をもたらしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
--------------------------------------------
上記の罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができていますという言葉で思い出すのは 初めてベック兄(宣教師)と1:1でお交わりをした時の話です。
ベック兄は 箱のような物?本?を テーブルに立てて 向こうからティッシュを丸めた物を投げました。しかし丸めたティッシュは箱にぶつかり 反対側には行けません。ベック兄は 箱のこちらが人間で あちらが神様だと。罪という壁があるので、人間は壁の向こうの神様に近づけないと。
その後で 「あなたの罪は許されています」とベック兄がおっしゃいました。特に人生での出来事を話した訳ではないし 私が何かに罪悪感を抱いていると話した訳ではありませんが…… その時 私の中に 思い出される苦しい事がありました。ベック兄とこのお話をする13~14年位前の事なのですが……。
私はほっとしました。私の目から大粒の涙がボロボロこぼれました。
-------------------------------------------
ベック兄ではない兄弟がメッセージされる家庭集会には 何度か集った事がありました。キリスト集会では 家庭集会では「今日 初めて集われた方」と聞いて 挙手すると一言挨拶を求められます。急に振られるので どきどきしますが。
ベック兄のメッセージを初めて聴いた家庭集会は 春日部の吉田兄姉宅、しかも改築される前のお宅でした。部屋だけでなく 廊下にも 階段にも 2階にも 人が溢れていてびっくりしました。私と連れて行ってくださった姉妹は キッチンに座りました。メッセージのお話は何も覚えていませんが…。
メッセージが終わると 初めて集った人とベック兄とのお交わりがあると言われましたが、初めて会った 大きな外国人男性と2人だけで2階にあがり 「お交わり?」という一般社会ではあまり良い意味ではない言葉に不安を覚えました。恐る恐るベックさんについて行きましたが……。
-------------------------------------------------------
メーリングリストの管理をして下さっている大阪のよっちゃん兄は
聖書マラソンを毎日投稿し 最後にお祈りをひとこと載せます。
何気ない言葉たちですが すっと入ってくることがあります。
同じ言葉なのに ある日はthrough ある日はぐっと…不思議ですね。
自分側の何かが そうさせるのですね。
ある日のよっちゃん兄のお祈り
きょうも、イエス様を見上げて
赦された喜びいっぱいに
歩ませてください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます