風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

メッセージ 「あなたは、どう読んでいますか?」

2009-02-12 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
MLに紹介されたメッセージ聞き取り(元旦礼拝 古田公人兄)
「あなたは、どう読んでいますか?」より 心に残った部分。


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 礼拝に対しての主の御心を二箇所、読んでみたいと思います。

 ひとつは、ヨハネ4章23節です。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 もう一箇所は、ローマ人の手紙 12章1節です。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。


 礼拝者の心構え、礼拝に出る私たちの姿勢について考えるとき、創世記の4章のあのカインとアベルの物語は、私たちにとっては、とても大切なみことばではないかと思います。

創世記・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・


4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。


 カインとアベルの違いは、なんでしょうか?礼拝者の心の違いを現しているのではないでしょうか。カインもアベルも、アダムとエバの子供であり、言うまでもなく、生まれながらの罪人でありました。にもかかわらず二人は、礼拝に招かれる恵みを頂きました。

 カインは、その恵みの大きさを十分に受け取る事ができず、あたりまえのような気持ちで、礼拝にでかけましたけれども、アベルは少し違いました。アベルは、自分の罪をよく知っていたのではないでしょうか。ですから、アベルは、礼拝に招かれている事が、測り知る事のできない恵みであると受け止め、できる限りの捧げ物、すなわち羊の初子の中の最良のものを自分自身で持って礼拝にでかけて参りました。


・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・

 ご存知のようにカインとアベルは、人間によって生まれた最初の人でした。そして、聖書によれば人間から生まれた最初に人に、最初に神様が求められたことは、礼拝であったとこの事は明らかにしています。ですから、私たちにとって、イエス様の交わりについて考えるとき、もっと礼拝の大切さを真剣に考えるべきではないかと思います。

 礼拝は、イエス様の御心にもとづいて十字架の贖いの上に、恵みとして与えられているものであると言う事をしっかりと心に留めたいと思います。そうだとすると、私たちには、礼拝に出たり、出なかったりする選択の余地はありません。

 同時にそれは強いられてではなくて、イエス様に自発的に感謝をもって捧げるものでなければ、ならないと言う事を意味しています。自分を喜ばす事の礼拝。あるいは、逆に劇場の観客のような気持ちでの礼拝、そうした礼拝には、イエス様は目を留める事がおできにならないと言う事を、カインとアベルの物語は、明らかにしています。

 わたしたちもアベルに習う礼拝者でありたいと思います。ありがとうございました。
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