よっちゃん兄の聖書通読マラソンより拝借…
-------------------------------------
<font color=royalblue>うなじのこわい を
google したら、わかりやすい説明がありました。
↓
*******************************************************<font color=DODGERBLUE>
肉を満たそうとするイスラエルの民を見て、神様は「うなじのこわい民」
だと判断されました。「うなじがこわい」とは英語では「首が固い」という
意味を使っています。それは心の頑固さを表してします。これは、肉の
欲求を満たしたいという欲求の強さのゆえにできてしまいます。イスラ
エルの民は、神様がどんな気持ちで助け救い出したくさんの恵みを与
えてくださったのかを考えられない頑固な状態になりました。
肉が優先している考え方だと、恵みが与えられなくなり忍耐が必要
になった時に、その状態が長引けば長引くほど感情が害され、怒りや
憎しみ不信仰がでてきて感謝できなくなります。
私たちも、神様に認めてもらおうと建前や口先だけでいい事を言って、
本音の部分では自分の欲求を満たしたいという気持ちが隠れていない
か心を吟味する必要があります。はっきりと自分の心を見分けずにその
まま続けていけば、私たちもイスラエルの民と同じような裁きを受ける
結果になるのではないかと恐れなければなりません。<font color=royalblue>
******************************************************
<font color=black>これに対し、個人メールさせて戴きました。
<font color=violet>『自分の本音に気づいた時って、とっても苦しくないですか?
そういう思いを持っていること自体も罪なのでしょうか?
罪だけれど、仕方がないのでしょうか?
避けえないのでしょうか?
肉の思いからは、一生解放されないのでしょうか?
自分の思いが主に喜ばれるものでない事を知るとき
苦しい戦いが、心の中でおこります。
「ローマ書」 の中の パウロさんのようです。』
<font color=black>よっちゃん兄からのお返事。
<font color=deeppink>『 ベック兄もよく引用される ルターの 言葉で
「主なる神様が、悔い改めなさいとおっしゃるとき、キリスト
者の全人生が悔い改めである。」 というのがありますが、
どこまで行っても、この地上にいる限り、わたしたちは
罪の性質を宿しています。そして、日々、失敗と、悔い改め
の連続であると思います。
ローマ書7章の なんとみじめな者でしょう の叫びは
キリスト者の全人生通して、日々、叫ばされるように思います。
自分を見れば、いつも ぺっちゃんこですが、
その自分が、同時に、主イエスさまによって、すでに赦されている
自分であるのも感謝です。
開き直りではりませんが、なにか、すでに赦されてあると言う
所に立つと、なにかしら 勇気が湧くように思います。ます。
○
悔い改めに導かれるように罪に気が付くのは感謝ですが
そこでイエス様を見つめないと、サタンは、いっつも、
そんなお前はほんとうにキリスト者かとか、そんなお前は
救われてるのかとか、どんどん責めてきます。
そのときは、十字架をサタンに示して、サタンよ出て行け
と言いましょう。あれ。
ほんとうに、日々 へりくだりでしゅね。
そして、イエス様の十字架の血潮の効力がどんなに大きいか
いつも知ってると、サタンが責めてきた時、対抗できるので
しょうね。しょうね。』
-------------------------------------
<font color=royalblue>うなじのこわい を
google したら、わかりやすい説明がありました。
↓
*******************************************************<font color=DODGERBLUE>
肉を満たそうとするイスラエルの民を見て、神様は「うなじのこわい民」
だと判断されました。「うなじがこわい」とは英語では「首が固い」という
意味を使っています。それは心の頑固さを表してします。これは、肉の
欲求を満たしたいという欲求の強さのゆえにできてしまいます。イスラ
エルの民は、神様がどんな気持ちで助け救い出したくさんの恵みを与
えてくださったのかを考えられない頑固な状態になりました。
肉が優先している考え方だと、恵みが与えられなくなり忍耐が必要
になった時に、その状態が長引けば長引くほど感情が害され、怒りや
憎しみ不信仰がでてきて感謝できなくなります。
私たちも、神様に認めてもらおうと建前や口先だけでいい事を言って、
本音の部分では自分の欲求を満たしたいという気持ちが隠れていない
か心を吟味する必要があります。はっきりと自分の心を見分けずにその
まま続けていけば、私たちもイスラエルの民と同じような裁きを受ける
結果になるのではないかと恐れなければなりません。<font color=royalblue>
******************************************************
<font color=black>これに対し、個人メールさせて戴きました。
<font color=violet>『自分の本音に気づいた時って、とっても苦しくないですか?
そういう思いを持っていること自体も罪なのでしょうか?
罪だけれど、仕方がないのでしょうか?
避けえないのでしょうか?
肉の思いからは、一生解放されないのでしょうか?
自分の思いが主に喜ばれるものでない事を知るとき
苦しい戦いが、心の中でおこります。
「ローマ書」 の中の パウロさんのようです。』
<font color=black>よっちゃん兄からのお返事。
<font color=deeppink>『 ベック兄もよく引用される ルターの 言葉で
「主なる神様が、悔い改めなさいとおっしゃるとき、キリスト
者の全人生が悔い改めである。」 というのがありますが、
どこまで行っても、この地上にいる限り、わたしたちは
罪の性質を宿しています。そして、日々、失敗と、悔い改め
の連続であると思います。
ローマ書7章の なんとみじめな者でしょう の叫びは
キリスト者の全人生通して、日々、叫ばされるように思います。
自分を見れば、いつも ぺっちゃんこですが、
その自分が、同時に、主イエスさまによって、すでに赦されている
自分であるのも感謝です。
開き直りではりませんが、なにか、すでに赦されてあると言う
所に立つと、なにかしら 勇気が湧くように思います。ます。
○
悔い改めに導かれるように罪に気が付くのは感謝ですが
そこでイエス様を見つめないと、サタンは、いっつも、
そんなお前はほんとうにキリスト者かとか、そんなお前は
救われてるのかとか、どんどん責めてきます。
そのときは、十字架をサタンに示して、サタンよ出て行け
と言いましょう。あれ。
ほんとうに、日々 へりくだりでしゅね。
そして、イエス様の十字架の血潮の効力がどんなに大きいか
いつも知ってると、サタンが責めてきた時、対抗できるので
しょうね。しょうね。』
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます