風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

聖書より イエス様のたとえ話 『放蕩息子』

2005-09-01 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
いよいよ9月に入りましたね。
先日のバレエ演目の主題であった『放蕩息子』の元話をご紹介いたします。
聖書 「ルカによる福音書 15章11~32節」からです。



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 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』 と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。

 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、わたしは天に対しても、
 またお父さんに対しても罪を犯しました。
 もう息子と呼ばれる資格はありません。
 雇い人の一人にしてください」と。』

 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。
『お父さん、わたしは天に対しても、
 またお父さんに対しても罪を犯しました。
 もう息子と呼ばれる資格はありません。』

 しかし、父親は僕たちに言った。
『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、
 手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。
 食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、
 いなくなっていたのに見つかったからだ。』
そして、祝宴を始めた。

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。  僕は言った。 『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

 しかし、兄は父親に言った。
『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。
 言いつけに背いたことは一度もありません。
 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、
 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に
 あなたの身上を食いつぶして帰って来ると、
 肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 すると、父親は言った。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。
 わたしのものは全部お前のものだ。
 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
 いなくなっていたのに見つかったのだ。
 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



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聖書にはこのように よく意味のわからない例えの話が出てきます。
一人で学んで(読んで)いると ちっとも理解できません。
だって、どう考えって、お兄さんの言い分は正当ですよね!?
私だって不公平のえこひいきだって 怒っちゃう。
でも 教えて戴いて、この箇所が何を言おうとしているのかわかると
神様の深い深い大きな愛に触れ その愛の中に自分も入れられて
いるのだという事に 感謝せずにいられません。
(実際自分は実はお兄さんの立場ではなく、
 我侭な弟の立場だったと気付くし!)

これとある意味よく似たたとえ話がありますが、
それはまた後日。。。



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