すっごく長いけど(聖書の引用があるから)ここに貼り付けてみます。よろしかったら読んでみてね。</font>
★ ★ ★
ご無沙汰しております。土浦集会(茨城)の○○です。先週は、土曜の仕事が長引いて疲れきり、礼拝を休みました。しかし、木曜にベック兄メッセージの家庭集会があり、ちょうど定休で 集うことができ、感謝でした。今日の土浦集会メッセンジャーは、羽石兄でした。私が難しくて読むのを断念している 「ヨブ記」でした。
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ヨブの義 と 神の義
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< ヨブ記 33章 23節 >
もし彼のそばに、ひとりの御使い、
すなわち千人にひとりの代言者がおり、
それが人に代わって
その正しさを告げてくれるなら
ひとりの御使い、ひとりの代言者とは イエス様のこと。私たちは自分で訴えるのではない。
ヨブは自分が正しい人だと主張したが、確かにその心や生活は、矛盾していなかった。しかし悪魔は、ヨブの信仰は ご利益信仰ではないかと 神に訴えた。私たちの宗教観とは、自分が正しければ神が良くしてくださる、罪を犯せば、罰が下る、というものではないだろうか。しかし、ヨブに起こった事は、こういう宗教観を持つ私たちの 理解を超えている。自分の罪について、人は試練を通し知る事ができる。
< イザヤ 55章 6~13節 >
主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのように、
わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰ってはこない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちがどれほど自分を正しいと思っても……(?)。地上にて、主の御心を知る事はできない。
< イザヤ 64章 5・6節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、あなたは怒られました。
私たちは昔から罪を犯し続けています。
それでも私たちは救われるでしょうか。
私たちはみな、汚れた者のようになり、
私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは、自分の知恵で、主の御心を知る事はできない。
< ヨブ記 32章 8節 >
しかし、人の中には確かに霊がある。
全能者の息が人に悟りを与える。
< 創世記 2章 7節 >
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生き物となった。
< 第一コリント 2章 10~16節 >
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神の御心のことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを
受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。なぜなら、
御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが
自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことが
できたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
神の霊によって 神のことを悟る。
< マタイ 4章 1節 >
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
「御霊に導かれる」とは、平和・安全をイメージするが、悪魔の試みに会うことも意味する。イエス様のように、神のみことばに頼る(すべて聖書を引用された)ことで……(?)。
悪魔の試みは、私たちを滅ぼすためではなく、ますます私たちを砕き、ますます主に似た者に変えるため。
< ローマ 8章 1・2節 >
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の
原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
(?自分の正しさではなく?)、主の霊によって……(?)。
< ヨブ記 33章 > (エリフの言葉)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このことであなたは正しくない。
神は人よりも偉大だからである。
なぜあなたは神と言い争うのか。自分のことばに
神がいちいち答えてくださらないといって。
神はある方法で語られ、またほかの方法で
語られるが、人はそれに気づかない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神は人のたましいが、よみの穴にはいらないようにし、
そのいのちが槍で滅びないようにされる。
< 第一テモテ 2章 4~6節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キリストは、すべての人の贖いの代価として、
ご自分をお与えになりました。・・・・・・・・・・・・・
< ローマ 8章 27・33・34節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
キリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのために
とりなしていてくださるのです。
私たちは 自分の正しさで 神の前に出ることはできない。唯一 主の正しさによって、神の前に出ることができる。
< ヨブ記 33章 25・26節 >・・・・・・・
すべてはまずイエス様の十字架の御業(救い)があって、その後で 祝福が与えられる。
< ヨブ記 33章 27~30節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
見よ。神はこれらすべてのことを
二度も三度も人に行われた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二度も三度も…何度も悔い改めさせた。
主の導かれる 最終目的まで……(?)。救い、信仰の歩み。(←ちょっと意味不明のメモ。すみません。) (この歩みは、主の恵みで支えられている)
< 詩篇 23章 6節 >
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私たちが追うのではない!神様の方から追ってくださる。
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<font size=2 color=green>自己満足なメモUPでごめんなさい。とっても感謝だったので。
皆様に平安がありますように。
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ご無沙汰しております。土浦集会(茨城)の○○です。先週は、土曜の仕事が長引いて疲れきり、礼拝を休みました。しかし、木曜にベック兄メッセージの家庭集会があり、ちょうど定休で 集うことができ、感謝でした。今日の土浦集会メッセンジャーは、羽石兄でした。私が難しくて読むのを断念している 「ヨブ記」でした。
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ヨブの義 と 神の義
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< ヨブ記 33章 23節 >
もし彼のそばに、ひとりの御使い、
すなわち千人にひとりの代言者がおり、
それが人に代わって
その正しさを告げてくれるなら
ひとりの御使い、ひとりの代言者とは イエス様のこと。私たちは自分で訴えるのではない。
ヨブは自分が正しい人だと主張したが、確かにその心や生活は、矛盾していなかった。しかし悪魔は、ヨブの信仰は ご利益信仰ではないかと 神に訴えた。私たちの宗教観とは、自分が正しければ神が良くしてくださる、罪を犯せば、罰が下る、というものではないだろうか。しかし、ヨブに起こった事は、こういう宗教観を持つ私たちの 理解を超えている。自分の罪について、人は試練を通し知る事ができる。
< イザヤ 55章 6~13節 >
主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのように、
わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰ってはこない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちがどれほど自分を正しいと思っても……(?)。地上にて、主の御心を知る事はできない。
< イザヤ 64章 5・6節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、あなたは怒られました。
私たちは昔から罪を犯し続けています。
それでも私たちは救われるでしょうか。
私たちはみな、汚れた者のようになり、
私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは、自分の知恵で、主の御心を知る事はできない。
< ヨブ記 32章 8節 >
しかし、人の中には確かに霊がある。
全能者の息が人に悟りを与える。
< 創世記 2章 7節 >
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生き物となった。
< 第一コリント 2章 10~16節 >
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。
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神の御心のことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
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生まれながらの人間は、神の御霊に属することを
受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。なぜなら、
御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが
自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことが
できたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
神の霊によって 神のことを悟る。
< マタイ 4章 1節 >
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
「御霊に導かれる」とは、平和・安全をイメージするが、悪魔の試みに会うことも意味する。イエス様のように、神のみことばに頼る(すべて聖書を引用された)ことで……(?)。
悪魔の試みは、私たちを滅ぼすためではなく、ますます私たちを砕き、ますます主に似た者に変えるため。
< ローマ 8章 1・2節 >
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の
原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
(?自分の正しさではなく?)、主の霊によって……(?)。
< ヨブ記 33章 > (エリフの言葉)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このことであなたは正しくない。
神は人よりも偉大だからである。
なぜあなたは神と言い争うのか。自分のことばに
神がいちいち答えてくださらないといって。
神はある方法で語られ、またほかの方法で
語られるが、人はそれに気づかない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神は人のたましいが、よみの穴にはいらないようにし、
そのいのちが槍で滅びないようにされる。
< 第一テモテ 2章 4~6節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キリストは、すべての人の贖いの代価として、
ご自分をお与えになりました。・・・・・・・・・・・・・
< ローマ 8章 27・33・34節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
キリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのために
とりなしていてくださるのです。
私たちは 自分の正しさで 神の前に出ることはできない。唯一 主の正しさによって、神の前に出ることができる。
< ヨブ記 33章 25・26節 >・・・・・・・
すべてはまずイエス様の十字架の御業(救い)があって、その後で 祝福が与えられる。
< ヨブ記 33章 27~30節 >
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
見よ。神はこれらすべてのことを
二度も三度も人に行われた。
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二度も三度も…何度も悔い改めさせた。
主の導かれる 最終目的まで……(?)。救い、信仰の歩み。(←ちょっと意味不明のメモ。すみません。) (この歩みは、主の恵みで支えられている)
< 詩篇 23章 6節 >
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私たちが追うのではない!神様の方から追ってくださる。
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皆様に平安がありますように。
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