風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

【彼に信頼する者は、失望させられることがない。】

2004-09-26 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
<font color=royalblue size=2> さきほどML広場の投稿を WEBまで読みに行きました。 このようなメッセージがUPされていました。 ベック兄の話し方そのままに聞き取ってくださってます。何度もお聞きしたベック兄のお声を想像しつつ、一気に読んでいたら、本当にベック兄がお話されてるのを聞いてるような錯覚を覚え、なんだか うるうるして来てしまいました。
 昨年春のワシントンDCキャンプ時、バスに酔いやすい私が席に悩んでいると、ベックさんは「一番前に乗りなさい。自分も酔いやすかったんだよ。」と。でもでも、一番前は ベックさんご夫妻や添乗員さんや現地の案内ご兄弟が座られている席。お断りしましたあ~。でも、ベック兄のお優しさに触れ、本当に嬉しくなりました。
 長いので、シリーズの最初の部分だけ、ご紹介します。まもなく「喜びのメッセージ集」に載せていただけると思います。時期をみて、是非続きをお読みください。または ここで続きをご紹介するかもしれませんが…。</font>



【彼に信頼する者は、失望させられることがない。】


2004.5.20/ 高知喜びの集い byベック兄

~~~~~~~~~~~~~~~引用聖句~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~
ローマ人への手紙10章8節から13節
8 では、どう言っていますか。
「みことばはあなたの近くにある。
 あなたの口にあり、あなたの心にある。」
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

9  なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと
信じるなら、あなたは救われるからです。

10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

11 聖書はこう言っています。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。
同じ主が、すべての人の主であり、
主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるらです。

13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

*********************


ちょっと五、六分前に玄関でひとりの姉妹は、親戚誘ったんですけど、断られた。キリスト教か。結局キリスト教と関係持ちたくない。まともな人間じゃないでしょうかね。

結局ね、キリスト教もほかの宗教とまったく同じように一つの宗教なんです。聖書の中で、‘宗教’ということばは一回も出てこない。聖書は宗教と関係のない書物です。けども悲劇的なのは、いわゆるキリスト教という宗教は、聖書を使うようになっちゃった。それだけだったらありがたいけど、キリスト教は聖書を使いながら違うこと教えてる。

これはずるい。正直じゃない。だから、今日来られた愛するみなさまに心から頼みたいことがある。キリスト教と関係もたないほうがいい。

けども、イエス・キリストを信じれば、絶対に後悔しない。ということです。

言いたいことは、十字架の上で犠牲になった、代わりに死なれたイエスさまは、宗教と関係のない方です。無宗教です。ですから、家内ミンヘンと一緒に、四十何年前にキリスト教をやめたんです。ドイツの国教会から出たんです。もう十分です。

結局人間はね、宗教によって束縛されます。不自由になります。結局騙されます。

東京のひとりの弁護士の事務所行ったとき、ちょっと驚いちゃったんです。大きなポスターがあって、何を書いていたかと言いますと、「人間は騙されやすい。」(笑)結局ね、宗教はどうして存在してるかと言いますと、人間は騙されやすいからです。今文部省で登録されてる宗教法人は、182223です。

そしてみんな、私たちの教えこそが本物だ。と言うでしょう。けども、すべての教え、勉強することができないでしょ?無理よ。したがって人間は、何が正しいか正しくないか分からないなのではないでしょうか。その意味で聖書はありがたい。聖書はなんと言ってるかと言いますと、安心して。分かるもんじゃないよ。分からなくてもいい。と分かれば正解。

結局ね、信ずるか信じないか、それだけなんです。今、ヒロミ兄弟のお読みになりました箇所の8節ですか?8 では、どう言っていますか。 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。結局、信仰がなければ、いくら聖書読んでも、勉強してもなんにもならない。

二千年前に、イエス・キリストを十字架につけた人々とは、聖書学者でした。無神論者たちではない。彼らは聖書の内容を徹底的に勉強して、疑わずに信じたんです。

けども彼らは聖書の中心なる救いの神を知らなかったのです。どうしてであるかと言いますと、正直になろうとしなかったからです。結局、宗教的な考え方は、勉強すれば分かる。違う。分かったから信ずる。という考え方は間違ってる。そしたらどうして信ずることができるか。十字架の上で犠牲になったイエス・キリストは、詐欺師でもないし嘘つきでもない。自分の約束を守
るお方です。

今の読んだ箇所の中で、‘聖書はこう言っています。’この文章は何回も出てくるんです。聖書はなんて言ってるか。聖書はこう言っています。結局ね、大切なのはわれわれ人間は何を考えてるか。思ってるか。なのではない。聖書はなんと言ってるか。

彼に信頼する者は、失望させられることがない。意味は、元気になる。喜びに満たされるようになる。前向き生活することができる。ということです。もちろんここで、彼に、すなわち救いの神に信ずる者は、と書いてないんです。信頼する者。

ね、信じます。と、多くの人が言います。けども、だいたいの人々はひとつの教えを信じてるなのではないでしょうか。この聖書の言ってることは、人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われない。

知識ではなく心の持ち方。すなわち、へりくだれば、OK。したがって人間にとって一番大切なことばは、「ごめんなさい。」ということばです。

救われるためのすばらしい祈りが聖書に出てくるのです。どういう祈りかと言いますと、一文章だけなんです。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」

ホントに心からそう思えば、OK。聖書の言わんとしてることはそれなんです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える。終わり。それだけ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく


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