東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

終わりの日のキリストの語られる言葉「神の働きは人間が想像するほど簡単か」

2019-12-21 11:40:27 | 朗読動画

終わりの日のキリストの語られる言葉「神の働きは人間が想像するほど簡単か」
全能神は言われた。「神の心と働きは、天地や万物創造のように簡単なものでないことを理解しなくてはならない。なぜなら今日その働きとは、堕落した人たちや極端に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに影響を受けてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる植物や動物を創造したりすることではない。神の働きは今やサタンによって堕落したすべてのものを清めて取り戻し、自分のものとし、自分の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地や万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪いながら底なしの淵へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることだ。」
『言葉は肉において現れる』より

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聖霊が諸教会に語られた御言葉「キリストと融和する道を探せ」

 

終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その2

2019-12-20 15:21:21 | 朗読動画

終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 3 神の権威(2)」 その2
出生:第1の節目
1.新たないのちは創造主の計画から生まれる
2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由
成長:第2の節目
1.人間の成長時の条件は創造主により決定される。
2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

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終わりの日のキリストの語られる言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」


教会音楽「実際の神への信仰から得られるものはすばらしい」

2019-12-19 16:02:13 | おすすめ音楽

 

教会音楽「実際の神への信仰から得られるものはすばらしい」

人の子は語り続けてゆくだろう
取るに足らない小さな人は
段階を通し神の業に導く
私たちは多くの試練 懲らしめ
死の試練も経験した
神の義と威厳を知り
慈しみと愛を享受する
神の知恵と力に感謝し
神がうるわしいお方であり
人の救いを願っていると
私たちは知る
この普通の人の言葉で
神の本質 意志 性質を知る
人の本性と本質も知り
救いと完成への道を見る

彼の言葉は人を死なせ甦らす
罪責感と負債を残すが
多くの慰めももたらしてくれる
大きな痛みをもたらすこともあるが
喜び 平安も与える
時には彼の怒りで
敵のように焼かれ灰となり
屠られる小羊であったり
神の瞳さながらのような
貴いものになったりする
貴いものに
私たちは彼が救う者
彼の目には蛆虫で
彼が探し求める失われた小羊
この普通の人の言葉で
神の本質・意志・性質を知る
人の本性と本質も知り
救いと完成への道を見る

彼は哀れみ 起こし 軽蔑し
慰め 諫め 導き 啓示を与え
懲らしめ 訓練し 呪い
日夜心配し 見守り 思いやる
いつも傍で全てを配慮し
全ての代価を払った
彼の言葉で全てを楽しみ
神が与えた終着点を見た
この普通の人の言葉で
救い 完成への道を見る
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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キリスト教賛美歌「このように神は全てを統べ治める」

 

天国への道を妨げるのは誰か

2019-12-18 22:22:48 | 信仰と生活

天国への道を妨げるのは誰か
 夫が亡くなった年、私は深い絶望の中にいて、そのうえ子どもたちを育てるという重荷も加わりました。私の生活は突如として苦境に陥りましたが、私にはずっと主への愛があり、兄弟姉妹に助けられてこの困難なときを乗り切りました。主の愛に報いるべく、私は献金と教会への奉仕を30年以上にわたって続けました。その間に教会の繁栄を経験し、主の福音が広まるという素晴らしい出来事を見てきました。その一方で教会の荒廃と無力も目の当たりにしました。聖霊が教会で最初にその偉大な働きを始められ、私たちが牧師の説教を楽しんで聞き、そこから多くのものを得ていたときのことを振り返ると、兄弟姉妹のあいだにはまるで一つの家族のような相互の愛があり、みな団結して福音を広め、主の証しをしていました。その後、何が起きたのかはわかりませんが、牧師が伝道することにもはや光はありませんでした。同じ古い話を何度も繰り返すばかりに思われ、信者は糧も施しもまったく得られなかったのです。彼らの信仰と愛は徐々にしぼんでいき、集会に来る人の数もどんどん減りました。奉仕に参加していた私たちもただ動作を繰り返すだけでした。みな聖職者の望み通りに振る舞い、神への奉仕をすることはまったくなく、それどころか他人の前で自分を誇示してその人たちを喜ばせようとするだけだったのです。このような奉仕が神の御心にかなっていないことはわかっていたので、私にとっては非常に苦痛でした。また、これから先の道をどう歩むべきか見当もつかず、無力感も覚えました。そのため主ができるだけ早くお戻りになり、それによってすべての問題が解決されることをますます強く願いました。

 喪失感のまっただ中にいた2016年、私は終わりの日における全能神の働きを調べました。全能神の御言葉をたくさん読み、全能神教会の兄弟姉妹による交わりと証しに耳を傾けたことで、主イエスがはるか以前に受肉され、この世へおいでになって御言葉を表わされるとともに、神の家から始まる終わりの日の裁きの働きをなさってきたこと、そして主がそれをなさっているのは、ひとえに人類を完全に清めて救い、天国へと連れて行くためだということをついに理解しました。それまで何年間も考え続けてきた主の再臨の奥義が、全能神の御言葉によって明らかになったのです。主の再臨が2つの形態、すなわち密かな到来と公然たる到来に分かれることもわかりました。まず最初に、主は人の子として受肉されて密かにいらっしゃり、御言葉を表わされ、人を清めてお救いになり、災害に先立ち勝利者の集団をお作りになります。大災害が降りかかると、主は善に報いて悪を懲罰なさり、公然とおいでになって万国万民の前に姿を現わされます。そのとき、受肉されて密かにおいでになった神の働きはすでに終わっており、終わりの日における神の働きに抵抗してそれを断罪する人はみな、泣きわめいて歯ぎしりしがら大災害を迎えることになります。また兄弟姉妹は、人類をお救いになる神の働きの3段階、神の受肉の意義、および神は終わりの日における裁きの働きをどのようになさるかといった真理についても交わってくれました。そのとき、以前教会で奉仕していた際に神のお導きがなかった理由と、聖書を読むこと、祈ること、そして聖書を学ぶことの中に、前進する道がなかった理由がわかりました。また聖霊の働きを感じられなかった理由もわかりました。神はすでに新しい働きをなさっており、恵みの時代を終わらせて神の国の時代を始められたのです。聖霊はもはや恵みの時代の教会で働かれてはいないので、人々の霊はしおれて暗くなり、何の喜びも満足感もなく、霊のいのちに何の糧も得られません。神のお導きと指し示しのおかげで、私は全能神の御言葉の中に神のお声を認識することができ、終わりの日における神の働きを喜んで受け入れました。その後、兄弟姉妹は全能神の御言葉をオンライン経由で頻繁に分かち合ってくれました。全能神教会が制作した映画、歌と踊りの動画、音楽動画を視聴することで大きな糧がもたらされ、御座の前に導いてくださった神に心の底から感謝しました。神の御言葉による牧養と糧を享受し、神と向かい合って生きるという至福の生活に入ったのです。

ある日、教会の牧師の奥さんから突然メッセージが届きました。「どうして東方閃電の投稿に『いいね』を押したのですか。あなたはご自分のタイムラインに彼らが投稿するのも許していますが、それは主の御心に反することです。私たちの教会の人々が東方閃電による投稿を目にして全能神の言葉に興味をもてば、みな東方閃電に取り込まれてしまいます。そうなったらどうするつもりですか。二度と東方閃電の人たちと関わってはいけません。すぐに彼らの連絡先を消去すべきです……」 私はこう返信しました。「全能神教会の福音映画や賛美歌や音楽動画はどれも素晴らしく、私はそこから多くのものを得ました。だから『いいね』を押したんです!」 私はその牧師の奥さんにもっとメッセージを送ろうとしましたが、それを打ち終えるより早く、彼女は全能神を攻撃して断罪し、全能神教会を誹謗することを山ほど言ってきました。彼女には主の再臨というこの大事件を調べる気などさらさらなく、自分の好きなように判断し、断罪する言葉を送っているだけだとわかったのです。私はこの件についてこれ以上話す気になれず、話題を変えました。

 この出来事から数日後、楊牧師が私と話をしに来ました。しばらく世間話をしたあと、楊牧師は「オンラインで他の宗教集団を調べたのか」と訊きました。楊牧師がどうしてそんな質問をするのかわからず、私はこう答えました。「フェイスブックの友達はいろんな教派に所属しています。投稿した記事が正しくていいものだと判断したら、それを理解しようと努めて、そこに新しい光があるかどうかを確かめます。そうするのは間違いだとおっしゃるんですか」 すると楊牧師はさらに質問しました。「君は2年前に東方閃電に転向したのか。それに、頻繁にあんなことやこんなこと(終わりの日における全能神の働きを受け入れた姉妹のことや、彼女がもともと所属していた教会の牧師によって、誰の写真が投稿されたか、誰が断罪されて捨てられたかといったことです)を検索しているのかね……」 楊牧師による矢のような質問を耳にして、私は苛立ちを感じ始めてこう言いました。「全能神教会はいいところですし、そこには真理と聖霊の働きがあります。真理と聖霊の働きがあるところならどこでも、私はそれに従いますし、それだけが正しいことです。私たちの教会には新たな光がなく、私の霊は暗くなってそこで糧を見つけることができません。私は聖霊の働きがある教会、自分のいのちが真理の糧を得られる教会を見つけたいんです。東方閃電の教えは私の心を動かしていますし、全能神の御言葉はすべて真理です。私はそれによって糧を得られています。東方閃電を調べたのは間違いじゃありませんし、そうする自由があるんです」 すると楊牧師はこう言いました。「東方閃電の連中が宣べ伝えていることは聖書から外れている。聖書に記されている以外に神の御言葉はないんだ。連中の宣べ伝えていることが聖書から逸脱しているなら、それは間違いなんだよ」 私はこう返しました。「説教師が同じことを言うのを聞いたことがあります。だから私もそれと同じ見方をしていました。でも全能神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹が交わってくれることを聞いたあと、その見方は自分の観念と想像に過ぎないことがわかるようになったんです。それは真理とまったく一致しておらず、事実とも合致していません。神はすべてを包含なさり、知恵に満ちていらっしゃいます。どうして神の御言葉と働きを聖書の中に閉じ込められるのですか。聖書にはこう記されています。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書21:25) ここから、聖書に記録された神の御言葉と働きはあまりに範囲が限られていることがわかります。主イエスが当時おっしゃったことのすべてが聖書に書きつけられたわけではなく、まして再臨された主の御言葉などは記されていません。さらに全能神の働きは、主イエスが敷かれた基礎のうえに築かれています。全能神の働きと主イエスの働きは、1つの神の働きなのです……」 楊牧師は私の言葉に耳を傾けておらず、探し求めて調べることに一切興味を抱いていませんでした。全能神と全能神教会に抵抗し、それらを断罪することを言い続けるばかりで、私にこう尋ねたのです。「どのようにして全能神教会のウェブサイトを知ったんだ。他の誰かに全能神の働きを伝道したのか。君のお子さんにも伝道したのか。全能神教会に所属する人たちの名前を言いなさい……」 楊牧師はさらに、全能神教会の人たちとの集会に二度と参加しないよう求めました。自分の言うことを聞かずに全能神教会との接触を続ければ、教会から追放して他のどの教会にも行けないようにし、私の評判を徹底的に落とすというのです。私は目の前にいる楊牧師にショックを受けました。いつも親切で謙虚で、優しい言葉を語っていた楊牧師が、どうしてこんなに野蛮で理知のない人に変わってしまったのでしょう。私はこう言いました。「真理を調べるのは私の権利ですし、それを止める権利は誰にもありません。東方閃電の教えが真の道かどうかについては、まず何よりそれを無闇に裁いて断罪してはいけません。ご自分で全能神教会のウェブサイトを開いて調べたらどうですか。そこにはたくさんのコンテンツがあって、ありとあらゆる神の御言葉の本が掲載されているんです。全能神の御言葉が再臨された主イエスのお声かどうか、ご自分の目で確かめてください……」 楊牧師は私の言うことに決して耳を傾けず、抵抗と断罪を続けるばかりでした。そして全能神教会を去らなければならないと言って私を脅したのです。話せば話すほど、楊牧師はさらに一線を越えてきました。私はこの上なく腹が立って次のように言いました。「主イエスは『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。』(マタイによる福音書7:1-2)とおっしゃいました。全能神の御言葉と働きを調べたことがないのに、どうして自分の好きなように裁いて断罪できるんですか。そのように振る舞うのが主を敬うことなんですか」 私が自分の言うことに耳を傾けず、それどころか反論してきたのを目の当たりにして、楊牧師はそれ以上何も言いませんでした。

 それからの日々、楊牧師は私の監視を始めました。それは私を大いに悩ませ、信仰の自由も奪いました。教会では、楊牧師の部屋と私の部屋は廊下を隔てているだけです。私がどうしているかを確かめようと、いきなり部屋に飛び込んでくることも度々あり、トイレに行くと言って廊下から私を見張ることもありました。ある日、全能神教会の姉妹2人がおしゃべりしようと私の部屋を訪れました。その姉妹が帰ると、楊牧師は私の助手を探しに行きました。その後、あの2人は誰だ、どうして来たんだなどと楊牧師から訊かれたことを、助手は私に教えてくれました。犯罪者を監視しているかのように、楊牧師は一日中私を見張りました。私はそのせいでひどい圧迫感を覚え、完全に自由を失いました。ある日、私は教会に行かず、兄弟姉妹とオンラインで行なう集会に参加しました。まさにそのとき、自宅の居間で真剣に集会のメモをとっていたところ、楊牧師が突然背後に現われ(ドアが開いていて誰でも部屋に入れたのです)、「何をしている。何を書いているんだ」と言いました。私は予期せぬ声を突然聞いて驚きのあまり飛び上がり、このような形で邪魔されたことに不快を感じて、何をしても落ち着きを取り戻すことができませんでした。そしてひどく腹が立って、「神への信仰の中で真の道を調べるのは正しくまっとうなことであり、クリスチャンがもつべき権利なのよ」と考えました。聖霊はもはや私たちの教会で働きをなさっておらず、信者はみな否定的になり、弱り、霊がしおれていました。闇に沈んでしまった環境の中で生きており、私は聖霊が働きをなさっている教会を探していたのです。神の足跡を探すのがどうして間違いなのでしょう。どうして楊牧師は私に目を光らせようとしているのでしょう。どうして私を自由にさせないのでしょう。

 楊牧師が私を監視して邪魔しただけでなく、長老の1人が私に電話をかけて嫌がらせをすることもありました。その長老はこう言いました。「全能神教会の連中が宣べ伝えていることは聖書からはみ出している。君が主を信じているなら、これほど多くの慈しみを与えてこられた主を裏切ることはできないはずだ。良心を失うことはできないんだぞ……」 私はこう言って反論しました。「全能神と主イエスは同じ1つの神でいらっしゃいます。私は子羊の足跡に歩調を合わせているだけです……」 しかしどれほど言葉を尽くして説明しても、長老は楊牧師と同じでした。断罪と冒涜の言葉を吐き、私が終わりの日における全能神の働きを受け入れるのを妨げたうえ、私の交わりや忠告の言葉にも一切耳を貸しません。私はこの長老とこれ以上話す気になれなかったので、口実を見つけて電話を切ろうとしました。しかし長老は電話を切らせようとせず、通話を続けて私に嫌がらせをしました。そして、全能神への信仰によって、君は主のお恵みを忘れて主を裏切ったとまで言ったのです。私は黙示録にある「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録14:4)という聖句を思い出しました。全能神は主イエスによる贖いの働きを基礎として、御言葉を通じて人を裁いて清める段階の働きをなさっており、私が終わりの日における全能神の働きを受け入れたことは、自分が子羊の足跡に歩調を合わせていることをはっきり示しています。私が主イエスを裏切っているなどとどうして言えるのでしょう。当初、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ヤーウェを信じる人たちは律法を捨て、主イエスが宣べ伝える天国の福音を受け入れました。彼らは主イエスに従ったわけですが、ヤーウェの救いを忘れたのでしょうか。それはヤーウェに対する裏切りだったでしょうか。誤った考えではないのでしょうか。この出来事のあと、楊牧師は再び私に何度かメッセージを送信して、その中で全能神を冒涜し、抵抗し、断罪しました。このような忌々しい言葉を読んだ私はまたもや嫌悪を覚えて激怒しました。このような冒涜を口にできるのはサタンだけであり、彼らには教会の指導者になるだけの力量があるというのに、神をまったく畏れず、ありとあらゆる冒涜の言葉を吐いたりするとはどういうことでしょう。そのことは主イエスによる次の御言葉を私に思い出させました。「また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:32) 神への冒涜は恐るべき重罪なのです。私は彼らの行ないを恐ろしく感じる気持ちが消えませんでした。しかし私がなんと言おうと、彼らは耳を塞ぐだけで何一つ聞こうとせず、ひたすら断罪と抵抗と冒涜を続けるだけなのです。私にはそれがまったく理解できませんでした。長老も牧師も聖書の知識があって神学を勉強しているし、全能神の御言葉はこれほど明確に語られているのに、どうして彼らはその御言葉を求めも調べもしないのでしょう。全能神の断罪と抵抗にひたすらこだわるのはどういうわけでしょう。

 私はこの疑問を胸に、全能神教会の兄弟姉妹のもとに出向きました。すると林姉妹がこう教えを説いてくれました。「長老や牧師が終わりに日における全能神の働きを求めも調べもせず、それどころか狂ったように全能神を断罪し、抵抗する理由について、全能神ははるか以前にその問題の本質と根源を明らかになさいました。全能神はこうおっしゃっています。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)「各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、聖書を背景から切り離し、自分自身の想像によって解釈します。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らが何も説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはりいくらか知識があるにはあるので、何らかの教義を説くことができたり、人を味方に引き入れたり策略を用いたりする方法を知っていします。彼らは人々を自分たちの前に連れてきて騙すためにそれらを利用します。名目上、人々は神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。彼らの信仰は人間を通さなければならないのです。これは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。」(『キリストの言葉の記録』の「真理の追求だけが神への真の信仰である」より) 主イエスは最初においでになって働きをなさったとき、ユダヤの指導者たち、すなわち祭司長、律法学者、パリサイ人による狂ったような断罪と抵抗に見舞われました。彼らは最後に主イエスを十字架につけたのです。パリサイ人の祖先は神を信じ、律法に精通していました。では、彼らが主に抵抗して断罪し、主を十字架につけたのはなぜでしょう。神の御言葉から、それは傲慢で、自惚れていて、真理に服従しないという、彼らのサタン的本性によって引き起こされたことがわかります。主イエスはかくも多くの真理を表わされましたが、彼らはそれを探し求めも調べもせず、むしろ自分の見方に固執したのです。神に対する彼らの信仰はひとえに自分の観念と想像に頼っており、聖句を文脈から切り離すことで聖書を解釈しました。それによって彼らは盲目になり、神から啓きを得られなかったのです。彼らは聖霊の働きを知らず、真理を理解せず、神のお声を聞き分けることもできませんでした。それはまさに、次の聖書の聖句を成就したのです。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。」(マタイによる福音書13:14-15) 終わりの日における宗教界の牧師や長老たちは、聖書と神学理論に重きを置いている点で当時のパリサイ人と同じです。自分の思考と想像に頼って主の御言葉を解釈し、主がお戻りになる方法を規定しています。頑固なまでに自分の観念と想像にしがみつき、真理を一切探し求めません。終わりの日における神の働きを調べないだけでなく、無闇に神に抵抗して断罪し、それによって自分の頑固さと、傲慢で真理に敵対するサタン的本性とをさらけ出します。神学を研究して聖書の知識を身につけていますが、だからといって少しでも真理を愛しているとか、真理を受け入れてそれに従えるというわけではありません。聖書の知識や神学理論を解説しても、その目的は自分の名声と評判を高めることだけです。自分の地位を守り、信者が尊敬のまなざしで自分たちを見上げ、崇め、自分たちに従うようにするため、そうしているのです。全能神の表わされる御言葉が真理であり、人を征服して救えること、真理を愛して神の出現を切望する多くの人が全能神の御言葉を読んで全能神に立ち返ったことを、彼らは知っています。そして全能神の御言葉は自分たちの地位と生計を脅かすものだと思い込み、狂ったように反撃し、全力を尽くして全能神を断罪し、抵抗しているのです。神の選民をいつまでも支配すべく、信者が全能神に立ち返るのをありとあらゆる手段で妨げ、妨害します。これが、長老や牧師たちが全能神の働きを求めも調べもせず、狂ったように全能神に抵抗し、断罪することの根源なのです。牧師や長老たちが現代におけるパリサイ人であり、信者が真の道を受け入れて天国に引き上げられるのを妨げるつまずきの石であることは、神に抵抗する彼らの悪行に見てとることができます。彼らは神に抵抗して敵対し、終わりの日における神の働きによって暴かれた反キリストなのです」

 全能神の御言葉と姉妹の交わりの言葉を聞いた私は、それを牧師や長老によるそれまでの言動と比べました。すると、全能神の御言葉がとても実践的に語られたこと、また牧師や長老が聖書に精通してそれを解説できるとしても、彼らに神の知識があるわけではないということがわかりました。彼らは働きの中で天分と知識に頼り、それによって自分を高め、他人が崇めて従うようにしています。表面上は神に仕えているように見えますが、実際には自分の観念と想像、地位と生計に仕えているのです。牧師と長老が私に嫌がらせと妨害を繰り返したことを通じ、私は彼らの正体を見抜くことができました。彼らは神を信じながら真理を求めず、神に仕えながら抵抗する反キリストだったのです。牧師も長老も今日に至るまで私への嫌がらせをやめていませんが、真理に敵対して神に抵抗する彼らの反キリスト的な本質を私はすでにはっきり目にしました。これ以上、彼らに嫌がらせされたり操られたりすることを許すつもりはありません。また終わりの日における全能神の働きが真実であることを完全に確信しています。最後まで全能神に従い、決してあきらめません。アーメン。

蒙愛 マレーシア

 

その他の内容:

霧を突っ切って光を見る


終わりの日における神の裁きと刑罰だけが人類を救うための神の重要で決定的な働きである

2019-12-17 16:10:28 | 文章

終わりの日における神の裁きと刑罰だけが人類を救うための神の重要で決定的な働きである
参考聖書箇所

 「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。……』」(ヨハネの黙示録 14章7節)

 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4章17節)

 「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のため仲裁に立たれる。」(イザヤ書 2章4節)

 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12章 47〜48節)

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16章12〜13節)

 

関連する神の言葉

 イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

 終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

 人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画が完了する。神の国の時代を通じて神は言葉を用いて働き、仕事を成し遂げる。神は不思議を行ったり奇跡を起こしたりはしない。神はただ言葉によって業を行う。言葉のおかげで人間は養われ、施される。言葉により、人間は認識と真の経験を得る。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

 実際、今なされている働きは人々にサタンを捨てさせ、先祖を捨てさせることである。言葉による裁きのすべては人間の堕落した性質を暴露し、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きは全て、人々の心を刺し通す。ひとつひとつの裁きは人々の運命に直接影響を与え、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らがこれらすべてのものを手離し、それによって、人生を知り、この汚れた世界を知り、また神の知恵と全能を知り、このサタンが堕落させた人類を知ることができるからである。この種の刑罰や裁きがあればあるほど、人の心は傷つき、人の霊はもっと目覚めることができる。これらの極端に堕落し、その欺きが最も深い人々の霊を目覚めさせることが、この種のさばきの目標である。人には霊がなく、つまり人の霊はとうの昔に死んでしまっている。そして、人は天が存在し、神が存在するということを知らないし、確かに人は死の奥底で葛藤していることも知らない。人は地球上でこの邪悪な地獄に生きているということをどのようにして知ることが可能だろうか。彼は自分の腐った死体が、サタンの堕落を通して、死のハデスに落ちたのをどのように知ることができるだろうか。彼は地上にあるものはすべて人類によって修復ができないほど長い間堕落されてしまったことをどのように知ることができるだろうか。そして今日、創造主が地に来て堕落した人々の集まりを救おうと探していることを、どのように知ることができるだろうか。人はあり得る限りの精錬と裁きを体験した後でさえ、彼の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上反応しない。人間は本当に堕落している!この種の裁きは空から降って来る残酷なひょうのようだけれど、それは人にとって多大な利益がある。もしこのように人々をさばかないなら、何の結果もなく、苦悩の地獄から人々を救うのは全く不可能であろう。もしこの働きのためでないなら、人々がハデスから出てくるのは非常に難しいだろう。なぜなら、彼らの心はずいぶん前に死んでおり、彼らの霊はずいぶん前にサタンによって踏みにじられたからである。堕落の深淵に沈んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたを呼んだり、裁いたりすることが必要で、その時初めて氷のように冷たいあなたがたの心が呼び起こされるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を送ることができる」より

 時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より

 過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙遜であることを要求された。現在、人間は神の采配の全てに従い、神への至高の愛を備えることを要求されており、最終的には患難のただ中でも神を愛することが要求されている。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神によって要求される基準に常に近づいてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、その時初めて、神の働きが完了し、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の働きは終局に達し、人間の性質の変化を達成するための神への人間の協力が終わり、全人類が神の光の中で生活し、それ以後は神への反抗や反逆は無くなる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

 これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを汚れた霊の中に放り込む。その結果、彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

 国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

 わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは「聖なる方が白い雲の上に乗って」降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

 終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

その他の内容:

真の携挙とは何か。