東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる

2019-12-16 20:26:00 | 書籍

今日、あなたの神への愛はどのくらい大きなものであろうか。また、神があなたの内に為したあらゆる事のうち、あなたはどのくらいの事を知っているであろうか。あなたは、これらの事を知らなければならない。神が地上に来る時、神が人の内に為した事のすべて、そして神が人に理解させた事のすべては、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛により、別の意味では神の救いによるのであり、さらには神が人の内に為した裁きと刑罰の働きによるのである。もしあなたがたが神の裁き、刑罰、試練を受けることがなければ、そして神があなたがたに苦しみを与えることがなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人の内に為された神の働きが大きいほど、そして人の苦しみが多いほど、神の働きがどれほど意義深いものかを示すことができ、同時に、その人の心はより真に神を愛することができる。人はどのように神の愛し方を学ぶのであろうか。苦痛や精錬なしに、また、つらい試練なしに──さらに、もし神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけであったなら──神への真の愛を全うすることはできるであろうか。神による試練にあって、人は自らの欠点を知るに至り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき、卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、神による試練にあって、神は、人が神の素晴らしさをより良く経験できるような新しい環境を作り出す。苦痛は非常に大きく、時として乗り越えられない──さらには、身も心も打ち砕くような悲しみにまで達することもある──しかし、それを経験することで、人はその内にある神の働きがいかに素晴らしいかを知り、その礎の上にのみ、人の内に神への真の愛が生まれるのである。今日、人は神の恵みと愛と慈悲だけでは、真に自分を知ることはできず、ましてや人の本質も知ることができないのを知っている。神の精錬と裁きによってのみ、また、そのような精錬の中にあってのみ、自分の欠点を知り、自分には何もないことを知るのである。このように、人の神への愛は神の精錬と裁きという礎の上に築かれる。もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。

神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか」と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。

神の語る言葉を通じて、神は既に人の肉を断罪したことが理解できる。それでは、その言葉は呪いの言葉なのであろうか。神により語られる言葉は人の本性を顕わにし、そのように顕わにされることにより裁かれる。そして、神の心を満足させられないと知った時、心の内に悲しみと悔恨を感じ、神に対し大きな恩があり、神の心に対し不十分であることを感じるのである。時として、聖霊は内からあなたを鍛錬することがあるが、この鍛錬は神の裁きから来るものである。時として神は、あなたを責め、あなたから顔を隠すことがある。また神は、あなたに注意を払わず、あなたの内で働くことなく、無言であなたを刑罰し、精錬することがある。人における神の働きは、主として義という神の性質を明らかにするためのものである。最終的に、人は神に対しどんな証しができるのか。神は義の神であり、その性質は義、怒り、刑罰、裁きであることを、人は証しするのである。人は、義という神の性質を証しするのである。神はその裁きをもって人を完全にし、愛し、救ってきたのである──しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのであろうか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に突き落としたわけではなく、そうした手段により人の信仰を精錬したのである。神は人を死に追いやったわけではなく、人を完全にするために行いを為したのである。肉の本質はサタンのものである──それは神が言った通りである──だが、神が為した事実はその言葉通りではなかった。神が呪うのはあなたが神を愛するようになるためであり、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを刑罰するのはあなたが目を覚ますためであり、内なる欠点を知らせ、人が全く価値のないことを知らせるためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りは、すべて人を完全にするためのものである。今日神が為すあらゆる事、あなたがたの内に神が顕かにする義なる性質──それは人を完全にするためのものである。神の愛はそのようなものである。

人の伝統的な概念において、神の愛は人の弱さに対する恵み、慈悲、憐みである。それらも神の愛であるが、それは余りに一方的であり、神が人を完全にするための主たる手段ではない。病気のせいで神を信じ始めた人がいるなら、その病気は神の恵みである。それなしでは、あなたは神を信じることはなかったからだ。そしてもし神を信じなかったら、ここまで到達しなかったであろう──そのような訳で、こうした病気による恵みでさえも神の愛なのである。イエスを信じる際においても、人々は真理を理解しなかったがために神に愛されないような事を多く行った。しかし、神には愛と慈悲があって人をここに至らせた。そして、人が何も理解しないにもかかわらず、神は人が神に従うのを許し、さらには人を今日にまで至らせたのである。これは神の愛ではないのか。神の性質に顕れるものは、神の愛である──これは全く正しい。教会建設がピークに達した時、神は効力者に対し一段階の働きをし、人を底なしの淵へと落とした。効力者の時代の言葉はすべてが呪いであった。肉に対する呪い、堕落したサタンのような性質に対する呪い、神の旨を満たさないあなたの行いに対する呪いであった。その段階で神が行った働きは威厳として顕れた。続いて間もなく神は刑罰という段階の働きを実行し、死の試練がもたらされた。そのような働きにあって、人は神の怒り、威厳、裁き、刑罰を知ったが、同時に神の恵み、神の愛と慈悲も知ったのである。神が為したすべての事、そして神の性質として顕れたすべては人への愛であり、神が為したすべての事は、人が必要とすることを満たすことであった。神がそれを為したのは人を完全にするためであり、人の霊的背丈に従って施したのである。神がそれを為さなかったならば、人は神の前に近づくことはできず、神の真の顔を知ることは全くできなかったであろう。人が最初に神を信じ始めた時から今日に至るまで、神は人の霊的背丈に沿って施し、人がその内にあって徐々に神を知るようにしたのである。今日に至って初めて人は神の裁きの素晴らしさに気づくのである。効力者に対する働きの段階は、創造の時から今日に至るまでで最初の呪いの働きの例であった。人は呪いにより底なしの淵に落とされた。もし神がそれを為さなかったらば、今日人は神に対する真の認識を得ていなかったであろう。神の呪いを通じてのみ、人は正式に神の性質に出会うのである。こうした経験は人に対し、人の忠心は受け入れ難いものであり、その霊的背丈は余りに小さく、神の旨を満足させられず、神を満足させると常に言っているその主張は言葉に過ぎないことを教えたのである。効力者に対する働きの段階において神は人を呪いはしたが、今日見てみると、神の働きのその段階は素晴らしいものであった。それは人にとって素晴らしい転機となり、いのちの性質を大きく変えたからである。効力者の時代[a]の前、人はいのちを追求することや神を信じること、神の働きにおける神の知恵といったものに関して何も知らず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代[b]から今日に至るまで、神の働きがいかに素晴らしいか、いかにそれが人知を超えているか、そして神がどのように働くか、人間の知能では想像できないことを知り、さらに自分の霊的背丈がいかに小さく、あまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段により人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は堅固で、平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか。今日、人の内にはまだ傲慢やうぬぼれが多くあるものの、その性質は以前よりずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際には苦痛を感じることはあっても、あなたの性質に変化が起こる日はやってくるのである。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明であるかを知る。その時にあなたは真に神の旨を理解できるのである。今日、ある人々は神の旨を理解していると言っている──しかし、それは全く現実的でなく、でたらめなことを言っているのである。なぜなら、神の旨が人を救うためのものか、それとも呪うためのものか、この時点でその人々はまだわかっていないからである。多分あなたがたは、今ははっきりとわからないだろう。しかし、神の栄光が現れる日が来たとわかり、神を愛することがいかに意義深いことであるかがわかり、それにより人生を知り、あなたの肉は神を愛する世界に生きる。あなたの霊は解放され、あなたの生活は歓びに溢れ、常に神のそば近くで神を見上げる、そういう日がやがて来るであろう。その時あなたは、今日の神の働きがいかに価値あるものかを真に理解するであろう。

今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、神に愛されておらず、将来は暗いと考えている。一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難いと感じ、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬されるであろう。さらに、あなたは神を満足させることができず、神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあるといつも感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。サタンの誘惑を受けたら、「私の心は神のものであり、神は既に私を得た。私はあなたを満足させることはできない──私のすべてをもって神が満足されるようにしなければならない」と言うべきである。神を満足させるほど、神はあなたに祝福を与え、神へのあなたの愛は強くなる。そして、信仰と決意を持ち、神を愛して生きることほど価値や意義があるものはないと思うであろう。神を愛すれば、悲しみがなくなるとも言える。肉が弱く、多くの深刻な問題に悩む時があっても、その間あなたは真に神に頼り、霊の内に慰めを得、確信を持ち、頼るものがあると感じるであろう。このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ、降りかかる苦しみのために神に対し不平を言うことはないであろう。あなたは歌い、踊り、祈り、集って交わり、神のことを考えたいと思うであろう。そして、あなたの周囲にある、神によって整えられたすべての人々や物事はふさわしいものと感じるであろう。もしあなたが神を愛さないならば、見るものすべては退屈で、何も目を楽しませるものはない。霊にあっては自由がなく虐げられており、心では常に神に不平を言い、また、あまりにも悩みが大きく、あまりにも不当だと常に感じるであろう。幸福のために追求するのではなく、神を満足させ、サタンにそしられないために追求するのであれば、そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる。人は神によって語られたすべてを為すことができ、人が為すすべての事は神を満足させることができる──これが現実性を持つということである。神を満足させることを追求するのは、神への愛をもって神の言葉を実践することである。いかなる時も──他者に力がない時でも──あなたの内にはまだ神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心がある。これが現実の霊的身丈である。霊的身丈は、神への愛がいかに強いか、試練を受けたときにいかに堅固に立ち続けられるか、ある状況に陥った時に弱いかどうか、兄弟姉妹に受け入れられない時にも自分の立場を守れるかどうかにより決まる。現れる事実により、あなたの神への愛が実際どういうものであるかがわかるであろう。神の働きの多くから、神が本当に人を愛していることが理解できるが、人の霊の目は未だ完全には開いておらず、神の働きの多く、神の旨、そして神についての多くの素晴らしい事が見えないのである。神に対する人の真の愛はあまりにも小さい。あなたはずっと神を信じてきて、今日神は逃れる手段をすべて取り除いてしまった。現実的に言うと、あなたには正しい道を進むしか選択肢はない。その正しい道とは、神の厳しい裁きと最高の救いによりあなたが導かれてきた道である。苦難と精錬を経験して初めて、人は神の素晴らしさを知るのである。今日までの経験により、人は神の素晴らしさの一部を知るようになったと言える──しかし、人はあまりに不完全であるため、それでもまだ不十分である。神の素晴らしい働きと神がもたらすあらゆる苦しみの精錬を、人はさらに経験しなければならない。そうして初めて、人のいのちの性質を変えることができるのである。

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宗教界の人々の大半は、聖書がキリスト教の聖典であり、聖書を手離さずに大切に扱い、主についての自身の信仰をすべて聖書のみに基づけ、また聖書から離れてしまえば信者とは言えないことを信じています。それでは、主への信仰と聖書への信仰は全く同一なものでしょうか?聖書と主の関係とは一体何でしょうか?「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書5章39-40節)という言葉をもって、ある時に主イエスはパリサイ人たちを諫められました。聖書はあくまで神についての証であり、永遠の命を含んではいません。神だけが真理であり、道でありまた命なのです。ではどうすれば、主の御心に叶った方法で聖書を見ることができるでしょうか?

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恵みの時代に、受肉した主イエスは一見どこにでもいる普通の人間のように見えましたが、主イエスは「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って悔い改めの道をもたらし、 十字架に磔されることで人類の罪を贖うという働きを行いました。主イエスが受肉した神であったことを証明するにはこれで十分です。終りの日のキリストである全能神は主イエスのように外見は普通の人間のように見えますが、真理を表して、人類を清めて救うという働きを行うことができます。これが全能神が受肉した神である証明になります。ところが中国共産党はキリストは普通の人間であると言い、躍起になってキリストを否定、非難しています。なぜ中国共産党はここまでばかげていて理不尽なのでしょうか。

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質問8.この2千年間、宗教界は聖書は神様の御言葉、神様の霊感を受けて書かれたと言ってきました。⋯⋯

2019-12-13 21:18:43 | 信仰と生活

解答: 聖書はすべて神様の霊感を受けて書かれた、神様の御言葉であると宗教界では信じられています、これは明らかに、間違った思い込みです。聖書に収録された書簡や、使徒たちの経験や証言は、すべて誰が書いたものなのか、分かっています。聖書を記したのは、さまざまな時代の人々です。その人たちの経験や証言を、なぜ神の御言葉だと?宗教界の意見に従えば、聖書の著者はすべて人間だというのに、その言葉が神様の御言葉として扱われる、理屈に合いますか?神様と人の本質は根本から異なり、神様のみが御言葉を語れます。人が話すのは人の言葉です。もし人の言葉を、神様の御言葉と言うなら、おかしいですね、聖書の著者は全員、神様なんですか?著者たちがそう言いましたか?どの言葉も神様の霊感を受けて書いたと言いましたか?この問いに、どのように答えますか?もし彼らが神様だというなら、事実に反します。神様はお一人だからです。聖書の著者は全員が人なのに、神様だとおっしゃる、神様に対する冒涜、許されざる罪です。著者が人であると認めても、その言葉は神のものであると主張し続けるなら、事実をゆがめ虚偽を吹聴すること、神様への反抗と冒涜になります。モーセや預言者は別として聖書の著者は誰一人、御言葉を伝えるように神様から指示されたわけではありません。その著書の中でも、神様の霊感を受けたとは言っていません。確かな証拠もないのに、著者たちが神様の御言葉を語っていると主張するなら、恥知らずなたわ言と言わざるを得ません。旧約・新約の著者は、神様に用いられた人たち、当時神様の働きを体験した人たちで、神様についての知識があり、心に重荷を負っていた、彼らは経験と証言を書き記し、教会の聖徒たちに伝えた、それが事実です。彼らの経験と証言を、普通の人たちの経験や証言よりはるかに、崇高であると考える人もいました、そしてそれを、盲目的に崇め始めたんです。一般人が書ける内容ではないので、それを神様の御言葉と思い込み──不適切で誤った観念がまかり通るようになりました。このような誤った観念は、多くの人に受け入れられ、広く普及して、やがて宗教的な人たちの、通念として定着したんです。その悪影響は計り知れません。全能神が来られなかったら、一体誰が、このことに気づいたでしょうか?ものごとは聖書や神様の御言葉に一致しなきゃいけないと、多くの人は言いながら、御言葉に従って真偽を見分けようとしたり、真理を追求し、この問題の事実関係を詳しく調べようとする人はだれもいません。

 全能神の御言葉を読みましょう。全能神は言われます。「今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。……もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」「聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい解釈が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい解釈である。しかし、すべてが真理を正確に表現しているとは言えない。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3」より)

 全能神の御言葉でもうお分かりでしょう。聖書はすべて神の霊感によるのではなく──御言葉だけでもない。聖書のうち、どれが神様の御言葉で、どれが人の言葉か、眼識があれば分かります、著者の名前は、聖書の各書に明記されています。さらに、どの箇所が神様の御言葉かも示されています。なぜ人々は平然として、人やサタンの言葉を、神様の御言葉だと言い続けるんでしょう?それは不当な言い分なのでは?もし主の信者が、聖書に書かれた人間の言葉を、御言葉だと言ったら、神様はどう思われるでしょうか?不当と思われるのでは?神様を貶め冒涜することじゃないですか?神様には、人の言葉の重みはどのくらいでしょうか?皆さんちょっと考えてみてください、人の言葉を神様の御言葉と比較できますか?神様と人の本質は全く異なり、人の言葉と神様の御言葉はもっと違います。もし人が聖霊の啓示によって、真理に沿う話ができればすばらしいことです。聖霊の導きがないと、人間の言葉など、間違いと嘘だらけでしょう。もし信者が、これを理解しないなら、あまりに無知で愚かです。今では、宗教界全体が、聖書に書かれた人間の言葉を、御言葉と受け取っています、宗教界では、誰も真に神様を知らない証拠でしょう。宗教界の指導者は、ほとんどが偽善的なパリサイ人です。本当に神を知る者なら、聖書の全文が、霊感を受けて書かれた御言葉だとは信じません、ましてやみくもに聖書を崇め、神と敬うなどありえないことです。宗教界の通念では、聖書は、霊感を受けて記された、神様の御言葉であり、神様の代弁とされています、これは宗教界の最も愚かな、まやかしの観念なんです。

『私の主は誰か』の映画台本から

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質問3.神の言葉も働きも、全て聖書に記録され、聖書の外にそれは存在しないのです。信仰は、聖書があるからこそ成り立つのです。

 

朗読 神の言葉 「神と人は共に安息に入る 」 パート2

2019-12-12 15:04:48 | 朗読動画

 

朗読 神の言葉 「神と人は共に安息に入る 」 パート2
全能神は言われた。「終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。」
                                                                                                                                   『言葉は肉において現れる』より

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