櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

クリスト氏の訃報に、、、

2020-06-02 | アート・音楽・その他

クリスト氏が亡くなったことを知りました。心から尊敬している美術家の一人だったので、本当に残念でなりません。

1991年に日本とアメリカで同時に行われた『アンブレラプロジェクト』は、まさに感動的な出来事でした。日米の対照的な地域に高さ6メートル直径8.66メートルの巨大な傘を大量に設置し、同時にそれを開くのです。

アメリカではカリフォルニアの広大な放牧地に1760本の黄色い傘が、日本では茨城の常陸太田市から旧里美村へ至る広い人里に1,340本の青い傘が立てられました。田んぼや、川や、神社や、いろんな場所に大きな真っ青な傘が立てられ開かれたその光景は、まさに感動的だった。

他にもベルリン国会議事堂を梱包した『ライヒスターク』など、プロジェクトは常に巨大でしたが、つねに奥さまのジャンヌクロードさんと一緒に制作をし、スポンサーをつけたり助成金をとったりしないで自らのドローイングなどの作品を売ったお金だけでプロジェクトを進めていったときいています。

そして何よりも素晴らしいと思ったのは、クリストとジャンヌクロードの芸術が、常に「話しかける」ということから始まって「あきらめない」ことによって「時間をかけて」進行してゆくことでした。

先に書いた茨城のアンブレラプロジェクトでも、傘を立てる土地の地権者やそのご家族ひとりひとりに自分の言葉でお願いしてまわり、その熱意が信用となり、家を貸してくれる人さえもが出てきて、いつしか地域全体に話が広がり、プロジェクトが動き始めていったという記録を読みました。

夫婦が徹底的に力を合わせ、何年も何年も粘り強く交渉を重ねたり多数の困難を克服して共同作業を実現してゆくその姿に、僕は何度も何度も背を押されました。これからも、きっと背を押され続けるのだと思います。

フェイスブック5月30日付の声明文には、84歳で自然死だったと書かれていました。進行中だった最新プロジェクト"『 l ' arc de triomphe 』は、パリの凱旋門を梱包するもので、コロナ禍のせいで延期されていましたが、 2021年9月18日~ 10月3日に実行されるそうです。

 

※関連記事 クリストとジャンヌ=クロード夫妻の(2017)

 

 

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カロライン・カールソンのダンスを、、、

2020-04-15 | アート・音楽・その他

カールソンとエヴァ・イェルバブエナがデュエットを踊る映像を見た。

時を忘れた。

毅然としたコンテンポラリーダンスにスパニッシュの叫び。

シンプルなギターの音に寄り添うように、黒髪のイェルバブエナが踊り始め、いきなり泣ける。

踊りのなかで、優しさと痛みが絡まり、渾然となって乱れてゆく。

その踊りと距離を置いて、もうひとつの踊りがある。

金髪長身のカールソンだ。

かなり長い時間、後ろ姿のまま踊っている。息を殺して踊る。

そして、パっと振り向いた時、あらゆるものをつらぬく眼が刺さった。

たくましく、かつ、デリケートの極みと思えるような運動といっしょに、

彼女から、まっ赤に溢れ出てくるものが、迫ってくる。

僕には、本当の心の底からの声に感じられて仕方がない。

映像にのめり込み、見とれながら、現場はどんなかと想像する。

ナマの場に行くことが出来ない現在のことも当然思う。

踊る人と同じ場所に居たい。そして、たくさん拍手をしたい。

若いころ、パリの市立劇場でソロを観て彼女に惹かれた。

あれから20年以上たって、きょう、もっと好きになった。

そして、体の中がむずむずしてきた。

コロナをやっつけたら、思いっきりダンスをしよう。

きっとだ。

 

 

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さらば愛の言葉よ:ゴダール再見

2020-04-05 | アート・音楽・その他

 

 

 

どこへ、、、。

  行くべき所へ、、、。

 

 

「もうすぐ誰もが通訳を必要とする。自分の言葉を理解するために。

 

「人は生まれてすぐに他者になる。

 

「私は、ノン、というために居る。

 

「私たちは互いが夢見る人だ。

 

いづれも、『さらば愛の言葉よ』という映画の台詞。ゴダールの映画のなかで、僕が好きになれた一本。勝手にしやがれ。パッション。ドイツ零年。そしてこれ。

 

空の雲の陰影、川の流れ、男と女の居場所、それらに言葉が重なってゆく。これは言葉についての映画。つまり関係についての、愛についての映画だ。

 

ウイルスによって切断の危機にあるものについてのさまざまを、この映画から感じてならない。おもえば映画とは切断されたものの再構築でもある。

 

結末から逆算したような映画が多くていやになるが、この映画には結末がない。あらゆる会話にも結末がない。

 

会話は会話を生みつづけ、イメージはイメージを生みつづける。

それが僕らのいまの日々にダブる。

 

僕らにとって、すべては始まりの連続なのだということを、この作品から確かめる。

これはダンス的な映画だと思う。冒頭5分そこそこで、そう感じる。

 

愛の問題と政治の問題、政治の問題と現在の問題が、混在する。

僕らの現在に関係している。

 

多くの映画が世界を解釈しようとするのに対して、この映画は解釈を捨てる。

 

これは、ひたすら世界を見て聴いている映画だと、僕は思う。

 

画面のどれもが、これみよがしでない。

すべては通過点、流れのなかにある。

そう感じ、そこに共感する。

 

ゴダールは、クリエイターではなく「引用者」であろうとする。

これが、すこぶる重要だと思う、連帯する。

世界を聴きたい、世界を見たい。

 

「おお言語よ」という台詞もあった。

心に焼き付く。

言葉について考える、ということは、革命者であろうとすることに近しいと僕は思う。

 

ふと思う。現代史は革命史なのかもしれない。

停滞や絶望もふくめて、どこかでなにかに抵抗するかぎり、革命は現在進行中なのではないか、、、。

そんな声が、画面から聴こえてくる。

 

ゴダールの映画の奥には、反抗がある。

尊敬する。

 

 

【追記】

トップダウンによる東京自粛に震えつつ、いくつもの映画やダンス映像を見まくり本を読みあさる、そのなかの一本が上記の映画だった。

ときめいたものについて順次書きたい。

 

 

 

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断片2/20 (あるダンスシーンから、、、)

2020-02-20 | アート・音楽・その他

リリアナ・カヴァーニ監督の映画に、ダンサーがナチスに無理矢理踊らされるシーンがあって衝撃を受けたことがあった。

ホロコーストの渦中、殺されたくなければ踊れ、ということでそれは始まるのだが、ダンサーは強いられた踊りにも関わらずダンスを踊るほどに強く光り、対するナチの将校は踊りを見つめながら時に歓喜し時に打ちのめされたように溜め息を漏らす。

そのシーンに眼を凝らしながら、この異常な官能と不穏は一体なんなのかと、心が壊れそうになった記憶がある。

ショックなのに、なぜか魅かれ、それで、機会あるたび何回も観るうち、あるときから、ふと、もしかするとこれは「自由」なるものについて突き詰めたシーンなのではないか、と思うようになった。この荒涼としたダンスシーンを思い出すときなぜか、自由、という言葉のとてつもない広さを、同時に思うようになった。

近松門左衛門の人形文楽の惨劇を観る感じにも近い。サドの文学を読むときの感覚にも近い。宿命や抑圧や怒りや無念が、ある瞬間に振り切って、闇が逆に光を発し始めたり、逆境の中で存在が輝き始めたりする瞬間を、まのあたりにする感覚にも近い。

不条理とヒューマニズムとエロチックと怒りと悲しみと無力感と絶望と渇仰と、、、書き出せば切りがなく、言葉に書けば書くほどに混乱が生まれるような、無数の感情と感覚とがひしめき合っているような、だからこそ、生理的とも言えるような反応が、からだにこころに、湧く。

このシーンは何度観ても心の根っこに揺さぶりをかけてくる。なんだろう、この感覚は。と思い感じるまま、ふとまた思い出す。

 

(追伸:「自由」という言葉に引っかかるのはダンス創作の現場でも頻繁。活き活きと踊る、のびのびと踊る、心底から踊る、、、色んな言い方はあれど、踊る、というのは「自由精神」と不可分なのではないかと僕は思えて仕方がない。自由精神、フライガイスト。その規範があるわけではない。しかし人間は、心のどこかに自由を衝動しているにちがいない。自由の問題は、芸術を通過して、やがては教育や経済におよぶ問題に近づいてゆくのではないか、と、漠然とだが最近そう思うことがふえている。)

 

 

 


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stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報  ▶次回公演は5/30〜31です。

 

 

 

 


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ジュノ監督の一撃〜『パラサイト 半地下の家族』

2020-01-18 | アート・音楽・その他

体には匂いがある。他人の匂いだ。それを受け容れることができるかどうかで、人と人には特別な好意や敵意が生まれてしまう。なぜだろう。理性の制御が、体の匂いには通用しないのだろうか。

体の匂いには、その人の生活の根っこが染み込んでいる。いろんな感覚があるなかで、嗅覚ほどごまかせないものが他にあるだろうか。匂い、嗅覚、これが映像にも言葉にも非常に強烈に描かれている映画を観て、やや、ひるんだ。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』のことだ。

悲喜劇、とはこれかと思った。希望をちらつかせるようなこともなく、脳髄に直接電気が走る。さすが。初めて見た『グエムル』以来、やられっぱなし。

昨秋に流行したアメリカ映画が絶望しつつもどこかで革命を信じている人の物語だとすれば、この『パラサイト』は革命など信じないけれど決して絶望もしない人の物語だと思った。それゆえ、ぬるさがなく、共感できた。

ここには階級や格差がモチーフとして登場するのだけれど、怒りをバネにした階級闘争の果てに何があるのかを、人物はとっくに見透かしているように見えるのだった。38度線がすべてを傷つけているのだろうか。

これはヒエラルキーの物語ではなく、人と人のあいだに生まれる「裂け目」についての物語だと思った。同時に、シェルターつまり「逃げ場」をめぐる物語なのかしら、とも感じた。

半地下の家、高級住宅街の邸宅、その地下に造られた核シェルター、洪水の緊急避難所。あらゆる場所が、どこかしら逃げ場のように見えたし、同時に、それら全てが閉ざされた牢屋のようにも見えた。逃げ場に辿り着いた人は、そこで、避けがたいもの、つまり、人の本性に出会ってしまうのだろうか。

安部公房のさくら丸、J.G.バラードの高層マンション、大江健三郎の燃えあがる緑の木の教会、ドストエフスキーの、ソルジェニーツィンの、さまざまな場を思い出した。

まず金を稼ぐのだ、と主人公が言うそのカットは、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』のあのラストにもどこか重なるような重さが来て、こたえた。

 

 

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明るみをくれた人(ペーター・シュライヤーさん逝去)

2019-12-30 | アート・音楽・その他

名テノールのペーター・シュライヤーが亡くなったことを知った。12月25日ドレスデン、84歳。

芸術は人間を励ますための仕事だと思ってきたが、そう思わせてくれた人のひとりだ。

声というものが心を震わせる凄いものなのだということを教えられた。リートと言えばこの人と言いたくなるほど、ほとんどの名歌を、僕はシュライヤーのレコーディングによって知った。

オペラでも『魔笛』をはじめて全曲きいたスウィトナー盤でのタミーノ役なんかきら星だったし、第九ならブロムシュテット/ドレスデン歌劇場と組んだやつは半端なかった。そして、リヒターのオルガン伴奏にあわせて歌われたバッハを言葉にする力は僕には未だまったくない。

すこし前に亡くなったフィッシャー・ディースカウがいなかったらマーラーを好きになれたかと思うことがあるが、シュライヤーの場合、この人なしには知ることさえなかった音楽も多い。

来日時に歌ったベートーヴェンの歌曲なども極みだったのではないかと思うけれど、この人の歌は何よりも心を明るくしてくれた。

この人の歌を聴いていると、心の固くなってしまった部分がほどかれていったり、消えかかっていた希望や情熱がもういちど蘇ってきたりすることが、多々あった。

僕にとってペーター・シュライヤーは、明るみをくれた人、とも言える。たとえば月光のような力を、この人の歌は持っているのだと思う。

丁寧に、丹念に、歌う。自分を表現するための音楽ではなく、音楽というものそのものを寿ぎ伝える音楽だった。歌ってすごい、聴くたびそう思った。音楽というものがこの世にある素晴らしさを、この人の歌を聴くたびに感じてきた。ダンスでもこういう仕事ができないものかと、よく思う。

この人の歌を通じて、声を通じて、音楽を通じて、すごく助けられ多くを教わったように思えて仕方がない。淋しいが、おなじ時代に生きることができた幸運にも、感謝したいと思う。

 

 

 

 

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手をかけて何かをつくる(藤井健仁展:日本橋高島屋)

2019-12-29 | アート・音楽・その他

 

 

 

ハンマーヘッドが裸の人だ。この鉄槌で何を叩くか。どついてやる、と思っていた奴に振り下ろすとき、この裸の人もまた悲鳴をあげるか。いや、だけどこれは凶器でなく彫刻なのだと思い直すのだった。

 

「アルティザンって何だよ?」ときくと「まあ、職人だけどね」と答えた。その眼つきがキていた。話しがひろがり、時間を忘れた。日本橋の高島屋本店で開催されている藤井健仁展「アブジェクションX」(写真上は展示作品のひとつ)でのこと。タイトル案出に関わらせてもらったが、ハズレなし。

 

彫刻家の藤井は旧友だが創作面でも何度か組み過ごしてきた。いらだちと怒りの領域で、どこか近しさを感じてきた。昨秋の彫刻展では超久しぶりに共同作業をやろうダンスか何かをということになり、京都公演「絶句スル物質」(京都場アート講座)を行なった。

 

展覧会のオープン祝儀の踊りとかではなく本格的な公演のかたちでやるべきとなって時間も労力もかけ、全てを京都場ディレクターの仲野氏が受けとめてくださって実現に至った。藤井との仕事には本当は「こらぼ」などという平べったい言葉よりも「共犯」とか「共謀」のほうが良かったのかもしれないと今おもう。

 

あのとき話した膨大な言葉のカオスを思い出しながら銀座をふらつき日本橋に着いたが、その入口の紹介文に出てきた一言が、文頭のアルティザンだった。artisan。技術偏向への批判にも使われたというその言葉を、わざと入口に提示するとは挑発的ともお洒落とも思ったから、それで、アルティザンって何だよ?ときくと、職人だけどね、と答えた。昔の言葉ですけどね。このごろは「チ」なんですかね。だくだく矢継ぎ早に話すなかに、手仕事への、もしかすると手そのものへの偏愛が感じとれた。

 

手をかけて何かをつくる。欧州などに比べ日本の美術教育では技術が重視されるという。それを「古い」ととる人もいる。僕は身体的なものへの信頼と感じている。グローバリズムや資本主義が見捨てようとするものが、技術には、身体性には、習熟性には、修行的行為には、つまり個的な空間には、あるように感じてならない。

 

素材の一貫性と作業痕跡の生々しさこそが藤井の良さだと僕は感じてきた。モチーフや雰囲気や仕上がりの感じとは別に、そこには何か大事なものを感じる。藤井における素材の一貫性とは鉄である。作業痕跡の生々しさとは手の仕事の痕跡である。鉄は意味の金属だ。それを語る言葉は山ほどある。手仕事について語る人も多数あるだろう。しかしそれらの素晴らしさと個(ワタクシあるいは謎)の関わりを表現することができるのは作品、それも特定の作品だけかもしれない。

 

これは僕が気に入った藤井の作品のひとつ。コトバ化しやすいコードが無く、作業仕事の原因と痕跡だけを感じる。下は昨年ともにした公演のなかでこの作品に関連したシーン。

 

 

 

たやすく他者と共有できないものへの、解釈が困難な何かへの、生理的な執着や失念や嫌悪や絶望や愛情や枯渇が持続と継続を生むことを、僕の場合は「ダンス」から学んだ。その感触にどこか通じるものを、藤井の作品群、いや、作業群から、僕は感じ勝手に共感している。

 

展示や作品の印象は書かないままにしたい。まず言葉なしに見てほしい。年明け6日まで。

 

展示情報 

 

 

 

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断片12/18:アンナ・カリーナの眼差し(追悼)

2019-12-18 | アート・音楽・その他

 

 

アンナ・カリーナ。

『気狂いピエロ』を何回も観たのは彼女の眼差しのせいだった。

質問者の眼差しだった。言葉をしっかりたずさえた眼差しだった。あんたは誰?あんたは何者?と問う眼差しだった。ぼさっと映画を観ていたのに、どきっとした。

あの眼差しが映し出される一瞬をもう一度だけ見たくて、有楽町に何回も行った。覚えている。美しい瞳、というよりも、美しい眼差し、と言いたい。

瞳の美しい人はたくさんいるけれど、眼差しが美しい人は、そんなにいない。眼差しが美しい人というのは、その眼の瞳の奥に、何かとてもしっかりした芯があるのだと思う。

ゴダールの映画を好きになる理由はいくらでもあるが、その最大の魅力の一つが出演者。そして彼女や彼のまとう雰囲気だった。モンタージュのことについて語られることが多いが、うつされている人物がいつも特徴的で、僕にはいつもいつも魅力的に思えた。

存在の仕方が、魅力につながる。ゴダールの映画に出てくる人物は、存在の仕方がクッキリとした主体があって、悩んでいる様子にさえどこか明るさがあった。その代表とも言える人がアンナ・カリーナだった。彼女の連れがゴダールになったのも、えらく似合っていて格好が良かった。

ゴダールの初期作品の中心には、いつも彼女がいた。彼女はゴダールのスクリーンの向こうから、こちらをちらちらと見ていた。あんたは誰?あんたは何者?、、、。

見つめられる瞳と見つめてくる瞳がある、とすれば、彼女の瞳は後者だったと思う。見つめられる身体と見つめてくる身体がある、とすれば、彼女の身体もまた後者だったと思う。

存在の仕方が、魅力につながる。さっきもそう書いたけれど、そう思わせてくれた一人が、アンナ・カリーナだった。

亡くなったことを知った。

永遠、という、あまりにも平凡な言葉を、なぜか思っている。たまに太陽を見て思う言葉だ。

 

 


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ゴダールと青い空

2019-11-20 | アート・音楽・その他



真っ青な空に、

ゆっくりと一本の白線が描かれてゆく。

飛行機雲だとわかっているのだが、

空が裂けてゆくように、思える。

まぶしい。


ある映画の始まりを思い出した。画面いっぱいの青空に飛行機雲がずっとのびてゆく。流れる音楽は左手のためのコンチェルトだ。低い持続音の高まりをピアニストが左手でキャッチすることから壮大なリズムが沸き起こる。ゴダールの『パッション』という映画の最初だ。

ゴダール作品のなかでも特に鮮明におぼえている一本で、目を奪われたシーンが多い。10回以上は観たと思う。観るたび、映画の内容とはまるで無関係に、そしてランダムに、僕は、さまざまなことを思い考える楽しみを感じた。好きなダンサーのダンスを見つめる時と、どこか似た時間の感覚なのだ。物語よりも映像を、映像そのものよりも映し出されたコップや人の肌や髪が、台詞の意味よりもそれを発音しようとする人の息音が、つよく感覚に働きかけてくるように、僕には思えた。

ゴダールの作品は、わかるようでわからない。わからないがなにかを感じる。つまり生身の人間にちょっと近いのかしら。だから何回も観たくなるのかもしれない。

海が嫌なら、

山が嫌なら、

勝手にしやがれ。

だっけ、、、。初めて見たのはそんな台詞に始まる白黒映画だった。物語というよりは、出来事のリズムを視ているようだった。

すこし前に観た最近作『イメージの本』はすべてが始まりのような映画だった。断片がおびただしく繰り出され続けた。見終わってもまだ自分が何を見ているのか、見ていたのか、釈然としなかった。これは何だろう。そう問いつづける。想像しつづける。見終わっても想起し続けようとしている。何を見ているのか。何がそこに起こりつつあるのか。つまり見終わってなお映画は始まり続けているのだった。

ゴダールの映画群は一種のルネッサンスだったのでは、とこのごろ思う。沢山の感動を僕は映画からもらったが、ゴダールの映画には感動というようなものが沸き起こった記憶はない。光の波が、影の呼吸が、網膜を激しく叩いた。そして、ある種の思考が、映画の中で、あるいは明滅するスクリーンの光と影のリズムとともに、ドキドキと脈を打ち始めるのだった。視ることから始まる思考がある。その味を知った。他の映画に、その経験はなかった。

ゴダールの映画はいつも断片で出来ている。スクリーンに時間の破片が散りばめられている。あらゆるストーリーは夢のようにバラバラになって並行している。辻褄合わせは困難で馬鹿馬鹿しいことにさえ思えてくる。何も分からなくたって、沢山のことを感じているからだ。つまりすべては「今」ということなのだと思う。

じっさい、僕らの現在には連続と非連続が混在していて、さまざまな出来事が繋がらない断片のまま並行している。僕たちも、僕たちの周囲の出来事も、バラバラだから繋がりたがっているのだろう。世界はひとつではない。とても沢山の世界が、生まれては消えている。この世界の隣には、別の世界が、きっとある。そんなことを想像しながら、僕は生きているし、そんなことを想像しながら、僕は踊ったり書いたりしている。

 
 

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デビル・マンから想像すること

2019-10-13 | アート・音楽・その他

 

巨大台風のせいで都内はニュースなどでご存知の状況。レッスンもリハーサルも全て休みとなり、家から一歩も出れない。雨風ききつつ、えらく古い漫画を読んだ。

 

 

永井豪の「デビルマン」。(上は最終巻表紙)

子どものころ流行っていたが、まともに読まぬままだった。いまふと読み、古さを感じなかった。私たちの現在に重なる状況が散りばめられている、とも感じた。読みながら、予言かと思った。

悪魔と人間の出会いが格闘となり全面戦争となり、やがて戦争から生み出される不安が人間の心を疑心暗鬼に陥れて、人間と人間が限りない暴力の連鎖を生み出して自滅してゆく。

私たちの日常に溶け込んでさえいる非対称の戦争状態を思わせられて、ぞっとした。

敵がハッキリとしない、それゆえに収束するところも曖昧な、いま現在あちこちで進行しつつある新しい戦争。対テロ戦争というような言葉が示す日常的な戦争。いや、戦争状態の日常化だ。

テロリズムや日常に潜伏する凶悪犯罪が絶え間ない緊張と危機感の連続を生み出して長い。国家と国家の戦争というビジョンはぼやけて、力の対立が単純に捉えがたい。より複雑かつ細かくなった。イデオロギーの輪郭が拡散してぼやける一方だが、集団エゴはむしろむき出しとなって競争を加速し、暴力性をともなってゆく。

戦争は日常にも侵入して、いじめ、ブラック、忖度、空気、などなどといったものに姿を変えた。

関係性が生み出す圧力は、集団意思への共感を煽りつつ、生活に緊張を生み出して個を萎縮させ、社会全体に緊張状態を蔓延させる。

いつしか戦争と平和の境目が無くなった。

慢性的な戦争前夜、とでも言いたくなるような社会状態に陥っている。僕には、そう感じられる。

原発事故による放射能問題が解決しないまま通奏低音を奏でつづけている。未来の彼方まで解決しないことを、すでに私たちは知らされている。存在にかかわる問題でもある。

慢性的な不安と、潜在的な反感に囲まれている。

反感の蔓延する世界では、同時に自分も誰かにとっての潜在的な敵になりかねない。いつしか社会は互いの監視体制を拡大し、監視者自身が監視されているような、広大な檻を構築してしまっている。その中に居る。

いま僕らは、まるで中世のペスト禍のような、神経質な、疫病のなかに呑み込まれているのではないか。妄想なら良いが、、、。

そんなふうに思うイマ現在を、昭和に描かれた悪魔と官能と活劇の漫画は、強烈に予感させ輪郭づけていたと思った。全4巻いっきに読めるが、かなりの密度だった。

 

 

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公演情報

櫻井郁也ダンスソロ公式webサイト

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO 2019 :9th-10th Nov.

(detail and ticket information)

 

 

 

 

 

 


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タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

2019-10-05 | アート・音楽・その他

疲れが出たからスカッとする映画でもと「Ones upon a time in Hollyhood 」を観た。ブラピとデカプリオのあれだが、勘違いだった。えらく味わい深い作品だった。それは、欲望と悪についての、それゆえそれは友情についての映画に思えた。

スカッとなんかしなかったし、面白いとも言えない、傑作を観たというのとも、なんだか違う。けれど、もういちど、いや、ときどき観たいと欲求している。生理的にだ。

うそとほんと、こことむこう、つまり境目の世界に迷い込んだ気分だった。ばかでかいスクリーンに映し出されるその映像のすべてがキメあらく乾いている、おもしろい、眼もざらつく。

この映画のなかでは、笑いの正体が暴露されているし、凶悪と狂気と快楽の接近が、それとなく臭う。ぼくは、いろいろな立派なお説教よりも、夜明け前の街の汚れや白々とした気温に神聖さを感じてしまう。だから、こういう映画が好きなのかもしれない。

タランティーノ監督の映画から、これほど深い味わいを感じたのは初めてだった。

じつはキル・ビルのあと、なぜか見てなかった。だから、ずいぶん長い間あの印象のまま僕のタランティーノ観は停止していた。でも、これからは全部、観るかもしれない。最初からエンドロールの最後の一瞬まで、感心しっぱなしだった。感動じゃなくて感心ってこの心地だ、と思った。おおげさに言えばサドを読んだあとみたいだ。

音も画も編集もパルプフィクションからずっと継続的に探求されているのだろう。息をのむ、膝を打つ、そんな瞬間が2時間以上つづく。そして映っているもの全てが、えげつなく強い。力に満たされた映画だと思った。そして、芝居に心おどった。デカプリオもブラピも激しくいい芝居をしつづけるが、チャールズ・マンソン一味のひとりを演じた俳優たちが、ダコタ・ファニングをはじめ、神がかり的。半端ではない。

物語の展開も、シャロン・テート事件を扱っているというから、どうなるのかとは思っていたが、あんなふうに来るとは思いがけなかった。最後のほうのメチャクチャのめちゃくちゃさに、とんでもなく無関係なんだろうけれど、僕は勝手に沖縄やベトナムの映像を重ねてしまった。アメリカ、、、。

物語も映像も、すさまじい展開だが、レクイエムを感じた。タランティーノの眼差しに才気を感じた。深い深い痛みが、軽やかさや洒落っ気を生み出すのだろうか。現実に対する絶望の深さが、光を生み出そうとするのだろうか。だから、ああいうふうになるしかないんだなと、思った。ひどく共感してしまう。

憂さ晴らしに映画でも、と思ったが、奇妙な刺激を受けて脳ミソの中枢に何かが入り込んでしまった。これを観たせいで、なんだか眠れない。 

 

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OPEN !!

櫻井郁也ダンスソロ2019秋・公演webサイト

11/9〜10 plan-B(くわしいご案内・チケット情報など、上記LINKよりご閲覧ください)

 

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO 2019 :9th-10th Nov.

(detail and ticket information)

 

 

 

 

 


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旅、、、(塩田千春展にて)

2019-08-13 | アート・音楽・その他

七夕のあくる日だったから、ひと月ちかく前になるが、六本木でひらかれている塩田千春さんの展覧会に行った。力をもらった。

この人の作品にはじめて出会ったのはドイツのアーヘンという街だった。僕は振付家の仲野恵子さんに誘われて、その街のルードヴィヒフォーラムという劇場で行なわれるダンス公演に出演していた。2000年のことだった。

アーヘンは世界遺産の絢爛たる教会や温泉がある華やかな街で、デュッセルドルフからも近い。すこし電車に乗るとベルギーだ。稽古や舞台設営を含めけっこうな日数をそこで過ごしたが、とても良い環境だった。ルードヴィヒフォーラムは、地下に僕らを受け入れてくれた劇場があって、地上は美術館になっていた。リハーサルの合間に劇場から抜け出して、美術館をのぞきにいった。

二階建ての家ほどもあるような巨大なドレスが高い天井から吊るされていて、そこから水が滴り落ちて雨のような音をたてていた。息をのんで立ち尽くした。しかし観たことも感想も誰にも言いたくない、と何故か思った。見るべきものが、いま目の前にある。と思った。しかし反面、見てはならないものを見ているのではないか、そんな気持ちも湧いた。ぐらついた。あの心の揺れを、とてもよくおぼえている。この作品の作者が塩田千春さんだった。

19年たって東京で観た今回の展示は、大規模なものだった。スケールの大きいインスタレーションが大半だったが、それらはいくら大きくても繊細で密度と熱があふれていて、血の通った作品だと思った。ひりひりした感覚におそわれた。心臓に近づいてゆくような錯覚を得た。

旅、という言葉がキャプションのどこかにあった。その言葉がこの人の作品と僕をすこし近づけてくれたように感じた。

旅行が好きなわけではない。だけど、いつも旅の途中に居る感覚がある。僕は18から東京に居る。この街が好きで長く暮してきた。だが、実は旅の途中なのかもしれない、そう思うことが正直たまにある。

ここはどこか、わたしはどこからここにきて、どこにいくのか。時折そんなことを思う。旅。わたしは旅をしている。

踊りをしてきたなかで、トルコの旋回舞踊セマーをほんのすこし学んだ時に、旅、という言葉を教えられた。そんな記憶もある。彼らによると、踊りの追求は魂の旅だというのだ。身体を音と運動に委ねきって行くところまで行けば、カラダはこの世この場に在ったままでも心は別世界への旅に出るという。不思議なことではないと思う。ココと彼方は僕らの身体で接している、僕はそう思う。

ダンスの練習をしているとき旅のような気分を体験することがある。普段とは別の感覚世界に居る気分である。塩田さんの作品の前にいるとなぜかその感じを思い出してしまう。理由はわからない。だが、おもえば、この人の作品から僕はとても大切な旅をもらっている。旅するなかで味わう切なさに限りなく近い感覚を、僕はこの人の美術からなぜか感じる。この日も感じた。

 

 

 

 写真は同展にて撮影。

 

 

 

 

 

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stage info. 櫻井郁也ダンスソロ公演情報(公式webサイト)

11/9(土)〜10(日)新作公演決定

近日くわしいご案内の発表をいたします。

これまでの公演写真・記録

リハーサルなどの写真

 

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス 参加要項 

(からだづくり、コンテンポラリー、舞踏、オイリュトミー)

※8/25単発ワークショップあり(ご案内)

 

 

 

 

 


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映画あるいはダンス(トリュフォーを見つめながら思う)

2019-07-30 | アート・音楽・その他

嘘つき、、、

という言葉に興味がある。なぜか、面白い言葉と思う。

「ほんとうのことを知りたければ劇場へ行け」という一言がアポクリファ(聖書の外典)にあって、とおい昔から「ほんとうのこと」を探している人が劇場には集まっていたのだとわかる。

劇場とは、嘘ばかりつきながら実のところ本当の本当を探している場所なのだと僕は思っている。だからテロリストは劇場を攻撃するのかもしれず、だからファシストは劇場を占有しようとしたのかもしれないとも思う。(そして多くの反抗もまた、劇場で続けられてきた。)

トリュフォーの『終電車』はまさにそのような〈劇場〉をえがく映画で、僕はそれを何回も観ている。きょうまた観たが、おそろしく素敵でこまった。シャンソン、つづく最初の台詞のやり取り数秒で、とりこになった。男と女の歌、そして、男と女の会話。いきなりドパルデューだ。テンポ、言葉選び、つまり呼吸の音楽に胸がいっぱいになってしまった。

あらゆることが言葉にされてゆくがそれは説明のための言葉ではなく、ともにあるための言葉にきこえる。ともにあるための、というのは呼び交すことだったり、互いを感じ合ったりすることだったりする。それゆえ、あらゆる言葉がエロチックになってゆく。息が聴こえる。そうすると、演劇もやはりダンスなのでは、と勝手にひきよせてしまう。逆さでも良いにちがいない。つまりダンスもまた演劇つまり関係なのかもしれない。関係し、からまり、むすぼれ、ときほぐされ、、、。そんなことを思う間にあのカトリーヌ・ド・ヌーヴの登場をみる。セリフが、仕草が、そして、ためいきが始まる。

いつしか、すべての言葉がリズムで、すべての仕草が流動で、すべての物語が劇場を生成する。呼吸の映画だと感じながら観ている。観ながら歴史の物語だということを僕は忘れている。ナチ占領下のパリ、パリの劇場の葛藤と誇りの物語なのだが、それをこえて男や女の魅力に酔っている。言葉と、光と闇と、モンタージュの呼吸とともに、いつしか心踊っている。ダンスシーンはないけれど、この映画には誰かとダンスするときのような心地が、すこし漂っている。なにもわからなくていい、と思い始める。この時間がもっと続けば、とも思っている。解釈や批評はだれかに委ねて、じっとじっとただ見つめていたくなる。それもダンスに似ている。

ダンスの舞台は一回性が強い。ダンスは生きた肉体の踊りと生きた観客の眼差しと生きたスタッフの呼吸で出来ている。ダンスは二度おなじものを観ることが出来ない。記録を視ることはできても全身で感じているわけではない。肉体に封印された無数の何かが舞台でどっと露出する。作品が引き金になって意図されたものも無意識も何もかもが解放され照らし出され響き出る。それらを肌が感じる。映画は何回も見ることができて何回見ても新たな発見がある。映画には沢山の何かが光と闇に封印されている。映画には生命の軌跡が光と闇によって刻印されてゆく。

映画は世界を世界に語ろうとするのだろうか。ダンスは存在と存在を関係しようとするのだろうか。この似て非なる力学はとても面白いと思う。そんなことを、思いながらトリュフォーの終電車をみつめる。みつめながら思う。芝居のことを、踊りのことを、劇場のことを、嘘のことを、本当というもののことを、、、。

 

 

 

  

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映画「Girl」を、、、

2019-07-15 | アート・音楽・その他

 

「Girl」 という映画を観た。ベルギーの映画だ。ポスターが気になって行ったのだけど長く残ると思える感動をもらった。物語も映像も深くそれでいて鮮やかで、映画そのものが珍しいほどに素晴らしかった。バレエ学校が物語の舞台だが、その稽古風景や発表はじめ、画面に映し出される沢山のうごきとからだに見惚れた。何も知らずに観たのだったが、エンドロールを眺めていて振付がシェルカウィだったことに気付いた。ノーム・チョムスキーの言葉から発想したというダンス作品「フラクタルV」をみたあと僕はそれまで以上にこの人の仕事に敬意を感じていた。振付もさすがだったが、それに取組む出演者たちのうごきへの関わり方がとても爽やかで強く胸を射た。主人公はトランスジェンダーの少女だったがこの人は透き通るようなダンスをすごくするのだった。しかもそれらを捉える撮影の仕方が何とも映画的だと思った。せっかくだからといって振付や踊りをまるまる見せるのではなく、完全に演出意図の視線に徹底して切り取られていた。これは当たり前なのだろうけれど、あれもこれも見せようとして踊りをまるごと映している割に結局たいして何も見えて来ないというダンス映画(ダンスの出てくる映画?)を何本も観たおぼえがある。踊りをナマで観るときに感じられるものが、映像にきれいに納めてもなぜか感じられなくなってしまうことがあって不思議だ。それは、人間の脳の仕組みに関係あるのだと人から教わったが、そのことを思えば、これくらいバッサリと切り取ったほうが大事なエネルギーが写っているのだなあ、なんて素人考えをした。映像をささえる光も切ない。街の光、稽古場の光、水のなかの光、夜の光、窓外にちらつく雪の光、あらゆる光がやわらかい。光がやわらかいぶん人の痛みがつよく眼にとどくかもしれない。僕は何度かスクリーンから眼を伏せた。監督はこの作品でカンヌのカメラドールを獲得している。 トレーラー (上の写真は同作のチラシ、ちょっとシワになってしまいましたが、、、)


 

stage 櫻井郁也ダンス公演情報

 2019年11月9(土)〜10(日):ソロ新作公演決定

 

 

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photo (岡本太郎記念館で)

2019-07-14 | アート・音楽・その他

 

 

青山ですこし時間があいた日があり、そばを通った。何度この辺を歩いたかわからないのに、初めて中に入った。アトリエの隅のピアノがちょっと素敵な佇まいだった。いつの頃だったか忘れたが、岡本太郎がグランドピアノを弾いてパッとこちらを見つめて何か叫ぶ、そんなコマーシャルを見た憶えがある。そう言えば岡本太郎の絵はどこか音楽のようでもあると僕は思う。空間や精神の内部で鳴り響いている音楽が色彩やフォルムになってこの世に飛び出てきているようだと思うことがある。この人の絵の前でいつか一度ダンスを踊ってみたいとも思う。そういえば、なんという文章だっただろうか、ああ、見事に忘れているけれど、岡本太郎の書いた文章の何かのどこかの部分に、つみへらす(積み減らす)、という言葉を見つけてストンときた憶えもある。積み重ねる、という言葉を彼なりに変化させて錬金術のように生み出したのだと思う。何かをやればやるほど経験が新しくなる、というようにもきこえる。いい言葉だと思う。本当は、岡本太郎についてはたくさんいろいろな憶えがある。書きたいこともいっぱいある。けれど、まるでまとまらないまま時が過ぎている。彼の絵を見るたび、彼の文章を読むたび、新しく思うことが出てきてしまうからかもしれない。

 

 



stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス

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