あの夜みた夢はナカナカ良かったな、とか、
あの夢に居たあの人ともう一回会いたいな、とか、
想う。
けれど、二度同じ夢は現れない。
夢日記をつけていた時期がある。
最初は思いつきで、次第に毎日のように。
面白いというよりも、すぐに忘れてしまうのが惜しくて、だったのかもしれない。
1年あったかなかったか。
いつしかそれは、普段の覚え書きや何やらと一緒くたになって自然にやめたが、
なぜか、夢を忘れにくくなっていた。
昼間の生活に比べて、眠りのなかの生活は、とにかく、心の動きが鋭敏というか、強い気がする。
眠っているんだから、からだが止まっている、
だから、心がからだの分まで働くのかしら。
夢は淡く儚いけれども、夢のなかで体験した心の動きは、けっこう人生の時間を濃厚にしてくれる気がする。
つらつら書いているが、この数日、ずいぶん夢のことを想っていた。
夢の家、という美術作品と出会ったのがキッカケだと思う。
トリエンナーレでの本番を終えての作品めぐり。そのひとコマ。
作品に心が開かれた感。
それは山あいの村に静かに佇んでいる一軒の家。雪国らしい屋根の可愛い家だ。
昼間に訪れることも出来る、夕方から宿として一夜を過ごすことも出来る。
ここでみた夢を綴って帰る人も多いようだ。
綴られた夢の記録は「夢の本」として読むことが出来る。
文字通り、夢をみるための家。
内部は、独特の色彩によって、インスタレーションによって、空間そのものの味わいによって、少し刺激的だ。
それは誰のものでもなく、同時に、誰にも開かれた、イマジネーションの場所になっている。
しかし、生活臭も消されてはいない。
家は家のまま、温かさを保っている。
おかえりなさいという声が、聞こえるようだ。
ため息をつき、水を飲み、ごろりと体を横たえたくなる。
鑑賞するとか、体験するとか、そういう感じじゃなくて、包まれるような感じ。なのだった。
場所に迎えられ、包まれて、身を委ねてゆく。
ゆっくりと過ごしていると、違和感がゆるんでゆく。
時間を忘れたぶん、夢の時間が近づいてくるようだ。
人生がいつまでも続くように思っていた頃は、夢なんか、あまり気にしなかったのだけれど、いまは、夢も大切に思えて仕方ない。
現実の記憶と同じように、夢の記憶もまた、胸のどこかに積もってゆくのを、感じる。
目覚めている間の経験が「実」で、夢の中の経験が「虚ろ」、という区別も、あまり気にしないでいるほうが楽しい気がする。
夢も現も、
どちらも経験には違いなく、どちらも生活の一側面なのだから。
『夢の家』は越後妻有の恒久作品のひとつ。夢をみるために旅をするのも一興かもしれない。
制作者はマリア・アブラモヴィッチ。尊敬している。
あの夢に居たあの人ともう一回会いたいな、とか、
想う。
けれど、二度同じ夢は現れない。
夢日記をつけていた時期がある。
最初は思いつきで、次第に毎日のように。
面白いというよりも、すぐに忘れてしまうのが惜しくて、だったのかもしれない。
1年あったかなかったか。
いつしかそれは、普段の覚え書きや何やらと一緒くたになって自然にやめたが、
なぜか、夢を忘れにくくなっていた。
昼間の生活に比べて、眠りのなかの生活は、とにかく、心の動きが鋭敏というか、強い気がする。
眠っているんだから、からだが止まっている、
だから、心がからだの分まで働くのかしら。
夢は淡く儚いけれども、夢のなかで体験した心の動きは、けっこう人生の時間を濃厚にしてくれる気がする。
つらつら書いているが、この数日、ずいぶん夢のことを想っていた。
夢の家、という美術作品と出会ったのがキッカケだと思う。
トリエンナーレでの本番を終えての作品めぐり。そのひとコマ。
作品に心が開かれた感。
それは山あいの村に静かに佇んでいる一軒の家。雪国らしい屋根の可愛い家だ。
昼間に訪れることも出来る、夕方から宿として一夜を過ごすことも出来る。
ここでみた夢を綴って帰る人も多いようだ。
綴られた夢の記録は「夢の本」として読むことが出来る。
文字通り、夢をみるための家。
内部は、独特の色彩によって、インスタレーションによって、空間そのものの味わいによって、少し刺激的だ。
それは誰のものでもなく、同時に、誰にも開かれた、イマジネーションの場所になっている。
しかし、生活臭も消されてはいない。
家は家のまま、温かさを保っている。
おかえりなさいという声が、聞こえるようだ。
ため息をつき、水を飲み、ごろりと体を横たえたくなる。
鑑賞するとか、体験するとか、そういう感じじゃなくて、包まれるような感じ。なのだった。
場所に迎えられ、包まれて、身を委ねてゆく。
ゆっくりと過ごしていると、違和感がゆるんでゆく。
時間を忘れたぶん、夢の時間が近づいてくるようだ。
人生がいつまでも続くように思っていた頃は、夢なんか、あまり気にしなかったのだけれど、いまは、夢も大切に思えて仕方ない。
現実の記憶と同じように、夢の記憶もまた、胸のどこかに積もってゆくのを、感じる。
目覚めている間の経験が「実」で、夢の中の経験が「虚ろ」、という区別も、あまり気にしないでいるほうが楽しい気がする。
夢も現も、
どちらも経験には違いなく、どちらも生活の一側面なのだから。
『夢の家』は越後妻有の恒久作品のひとつ。夢をみるために旅をするのも一興かもしれない。
制作者はマリア・アブラモヴィッチ。尊敬している。